君は君であって 肆





「・・・三十歳?」
「おぉ」

同じ日傘の下、浜辺を並んで歩く道すがら。具体的な数字に驚愕するあまりの足が瞬間止まりかけた。動揺を鎮めようと懸命に足を動かす。砂が少々舞ったが気にしない。
謝花妓夫太郎、三十歳。
脳内に踊る文字は、十八歳のにとって思いの外強烈な衝撃を伴った。

「そ、そっか・・・」

遊歩道を抜けた先の海は、海水浴場としては開かれていないために人気も疎らだった。神社に戻るにしても恐らくは未だ早い。折角なのでと散策の提案に頷いた結果、二人はこうして浜辺を並んで歩いている。
沈黙を波の音に埋めて貰いながらポツリポツリと当たり障りのない会話を続ける中で、思い切って聞いた年齢に対する答えが三十だった。
見事にきっちりと一回りである。まるで別次元の如き数字の筈が、隣を歩く彼の年齢だと思うと非常に気になる数字になってしまった。
ここは十二年後の未来と考えると、改めて夢でも見ている様な心持ちだ。

「その、言える範囲で良いんだけど・・・三十歳の私は、どんな感じ?」
「今のお前からすると、年はひと回り違ぇ筈なんだがなぁ。不思議と、顔はそう変わってねぇ気がするなぁ。髪が短くなったくらいじゃねぇかぁ?」

へぇと曖昧な声が漏れると同時に、彼が前を向いたまま小さく笑う気配がして、は釣られる様に隣を見上げる。
その横顔は、とても穏やかだった。

「昔のお前も今のも、変わらねぇよ。俺の自慢だからなぁ」

これには思わず、完全にの足が止まった。
傘を持って歩く彼が数歩先を行くが、すぐに気付き振り返る。
直射日光の強い熱に曝されて尚、気にならないほどの動揺の波が押し寄せた。
非現実的な入れ替わりが起きて以降、細々と気になっていたこと。
元々と梅には優しかった彼ではあるが、目の前にいる三十歳の妓夫太郎は更に優しい。と言うよりも。

「どしたぁ?」
「妓夫太郎くん・・・言い方が、すごくストレートになった・・・」

腕を伸ばして傘から先に迎え入れる様に数歩戻った妓夫太郎は、その言葉を受けて目を丸くする。
十八歳と三十歳の違いは年齢差だけにあらず、外見の変化でも足らず、最大の変化は感情表現の分かり易さだ。
勿論同い年の妓夫太郎の性格をはよく理解しているし、不愛想を装いながらも垣間見える優しさや、甘やかしてくれる時の困った様な笑顔も知っている。
しかしこの様に隠すことの無い愛情表現は、が知る限り彼の苦手分野である筈で。今更彼が妓夫太郎であることを疑いはしないものの、想定外の変化には戸惑いが大きい。
そうして目を泳がせるを見下ろすこと数秒、彼の肩が僅かに揺れた。
その笑い方が、あまりに柔らかく穏やかなものだから。波の音すら若干遠くなる様な錯覚に、は暫し目を瞬くこと以外出来なくなってしまう。

「生憎、直球過ぎる奴と随分長いこと一緒にいるからなぁ。移っちまったらしい」
「そ・・・そっか」

直球。確かに彼は時折のことをそう表現するし、自身も常日頃から愛情表現を隠していない自覚があった。
まさかそれが年月を積み重ねることで、この様な化学変化を齎すとは想像もしていなかったことだけれど。
直接は聞かずとも、その言動と左手薬指の指輪が二人の特別な関係性を伝えてくれる。未来の自分は間違いなく幸せだろう。
しかし十八歳の心は実に正直で、安堵と同時に複雑な気持ちを抱いてしまう。
外見からして格好良く年を重ね、更には分かり易く優しくなった彼。これは、どうにも不安になってしまうものではないか、と。
思いの外ドロリとした黒い感情に慌てて蓋をしようとしたその時だった。

「・・・一応、言っとくが」

まるで、心を読んでいるかの様に。
自己嫌悪に陥りそうになったことを、見抜いているかの様に。

「誰にでもって訳じゃねぇからなぁ」

青い瞳は、だけを映して優しく笑いかけてくる。
強過ぎる陽光を遮る同じ影を分け合い、波の音を背景に正面から見上げたその瞳が特別な色をしていることを、わからないでは無い。

未来の自分は、このひとに大切に愛されている。

安堵したのか動揺したのか相変わらず不鮮明な胸中で呆然としていると、若干揶揄う様な声が降ってきた。

「安心したかぁ?」
「・・・えっ、えっと・・・うん・・・?」
「っは、疑問形かよ。行くぞ」

空いた方の手で軽く背を押されて歩き出す。やはり瞬間触れただけですんなりと退いた手に落ち着かない気持ちを覚えつつも、は大人しく彼について歩いた。
日傘を持ってくれる彼の腕には、やはり指先ひとつ触れることが出来ない。
けれどこの機会を貴重と思い始めた為か、は思い切って一歩踏み込むことを決めた。

「神社で手を合わせた時に、ずっと一緒にいられますようにってお祈りしながら、妓夫太郎くんは将来、どんな大人のひとになるんだろうって考えたの」

あの時、手を合わせた際に願ったこと。考えたこと。
ずっと一緒にいたい。ずっと一緒に年を重ねていきたい。
大人になった彼は、どんな姿だろうか、と。
それなりに逞しい想像力をしているつもりでいたものだが、いざ張本人を前にしては平凡以下の妄想だったとしか言いようが無い。
完璧過ぎて、正直お手上げだ。は全面敗北を受け入れ苦笑を浮かべた。

「・・・こんなに格好いいひとの隣にいて平気な顔してるなんて、未来の私はなかなかハートが強いね」
「褒めても何も出ねぇからなぁ」

年を重ねたこと、彼自身の言う様に長年の影響を受けたこと。様々な要因のもと、隣に立つ未来の妓夫太郎はこんなにも眩しい。
十二年後の自分は、臆さず隣に寄り添えているのだろうか。戸惑うことなく、この腕に触れることが出来るのだろうか。
が胸の奥のくすぐったさに目を細めると同時に、妓夫太郎が口を開いた。

「ついでに言っとくと、昔の俺もまったく同じことを考えてたんだよなぁ」
「え・・・?」

何のことかと目を丸くするを横目に見下ろし、緩く笑っている。
遠い夏を回想する彼の横顔は、やはり優しい。

「神頼みなんざ柄じゃねぇって顔を装ってたと思うが、実際はみっともねぇくらい大真面目に手ぇ合わせてたっけか」
「・・・」
「二度と離れねぇようにってのは当然として、未来のはどんな姿かって考えた。まさか、実物が突然現れるとは思ってなかったけどなぁ」

思いもよらない告白だった。
何を願うのかという問いに、より先に答えを察し黙っていろと告げた、十八歳の気恥ずかしそうな横顔。
ずっと一緒にいたいと、同じことを願ってくれたら嬉しいと考えていた。思い上がりでなければ、彼はきっとそう祈ってくれる様な気さえしていた。
実際にはそれ以上の、互いの未来の姿を二人して同じ様に思い描いていただなんて。

「二人して願いが奇跡的に聞き届けられたとしか、言い様が無ぇよなぁ」

驚きよりも嬉しさが勝るふわふわとした感覚は、身体の最奥に熱さをくれる。
午後の暑さは変わらず容赦が無い。けれどこの熱は、無条件に心地が良い。

「教えてくれて嬉しいけど・・・内緒のお願いごとだった筈なのに。もし記憶が残っちゃったら妓夫太郎くんが怒りそう」
「違ぇねぇ。まぁ、俺が許すけどなぁ」
「ふふっ・・・絶対納得しないと思うけど」

波音にかき消されない程度の音量で、が細い笑い声を上げる。
多少は緊張が解れてきたであろう、最愛のひとの昔の姿を視界の端に捉える妓夫太郎の表情は優しかった。




* * *




入れ替わりが戻るとされている時刻までは少々時間があった。
バス停と神社を繋ぐ道なりには見事に何も無く、逆側まで足を伸ばせば海があることもわかってはいたが、この炎天下の下浜辺を散策という気分でも無い。
さて、それではこのまま時間を潰すことが自然な流れとなった訳であるが、でありながら良く知る彼女とは少し違う相手を前に、会話で時間を潰そうなどということは妓夫太郎にとって少々ハードルが高かった。
指輪についてはあっさりと打ち明けられてしまったものの、核心的なことに触れるべきではないという根本自体は変わらないのだから、話す時間が長いことは余計に厳しい。

そこで見出した思わぬ抜け道が食事だった。男子高校生に食事を奢る機会が珍しいのか、彼女は喜々として妓夫太郎に食事を勧めた。
食べている様子を観察されることはあまり落ち着きはしなかったが、それでも会話で場を繋ぐよりは余程楽な方法だ。
時折美味しいかと問われ、正直な感想を返せばそれだけでは満足そうににこにこと笑う。
そもそも顔はあまり変わっていない上、笑った顔は今のそのままと言っても過言では無い為、妓夫太郎は安堵か戸惑いか区別のつかない思いに振り回されながらも食事を続けていた。
決して大食らいの部類ではないが、それでも彼は現役の高校三年生だ。中途半端な時間の余分な一食は容易く平らげてしまえる上、成人女性と比べれば気持ちの良い食べっぷりなのだろう。の笑みが絶えることは無かった。
味の感想から一言二言踏み出し、少しずつではあるが他愛のない会話が成立し始めた頃のことだ。

「うん。今年で三十歳」
「・・・」

危うく、米がおかしな方向へ入ってしまうところだった。
寸前で堪えたため咽るには至らず、しかし妓夫太郎は箸を取り落としそうになるやら目を見開くやら大変に忙しい。
話題はずばり、彼女の年齢についてだった。

「その驚き方は、予想より上か下か・・・ふふ。どっちでも良いや、貴重な表情が見れたから」

正面で楽し気に笑っている彼女が、十二歳年上であること。
つまり彼女が十二年後のであるということは、それなりに重い打撃として妓夫太郎の胸中をかき乱した。
十八歳からすれば、一回りの年の差はなかなかに大きい。正直なところそこまで離れているとは思いもしなかったが、それを上手く伝える言葉が見つからない。

「・・・気の利いたコメントはしてやれねぇからなぁ」
「良いの良いの。私は妓夫太郎くんにこうやって食事をご馳走できて、しかもびっくりした顔まで見ることが出来て、今最高に気持ちが満たされてるから」

結局のところ目を逸らすことしか出来ない妓夫太郎であったが、はそれでも惜しみない好意を乗せて笑う。
こちらまで気が緩んでしまう様な笑顔も、耳に心地良い笑い声も。十二年も先の彼女のものであるだなんて、冗談ではないかと疑ってしまう程に変わらない。
頭の混乱ごと強引に飲み込むべく咀嚼を続ける妓夫太郎を正面から見つめていたが、改めて目を細め感嘆の息をついたのはそんな時のことだった。

「高校生の妓夫太郎くんかぁ・・・懐かしいなぁ」

懐かしい。それは現在の二人の年の差を考えれば妥当な表現に違いなかったが、その声の甘やかさに逸らした視線を引き戻されてしまう。
彼女の笑みは変わることなく柔らかい。恐らくは今、自分の隣に未来のもうひとりを見ているであろう慈しむ様な眼差しを受け、妓夫太郎は押し黙った。
彼女はであって、妓夫太郎の良く知るではない。しかし彼女が十年以上先の未来で尚自分を大切に思ってくれているという現実は、彼の胸の内に例えようも無い温かさを齎した。

「昔から今まで、ずっと私の自慢のひとだよ」
「はぁ?」

突然のことに思わず怪訝な声を漏らしてしまう妓夫太郎を前にしても、彼女はまるで怯まない。
その反応すら懐かしんでいるかの様な穏やかな黒い瞳が物語る。その言葉に何ひとつ誇張や偽りが無いことを。

「多分昔の私もちょこちょこ伝えてるとは思うんだけど、本当に妓夫太郎くんには感謝してるの」
「・・・」
「何でも無いことでも、妓夫太郎くんが傍にいてくれると全然景色が違うの。嬉しさも楽しさも、明るい気持ちは冗談じゃなくて本当に三倍くらいになっちゃう」

それはこちらの台詞だとは、言えない。

「こういう気持ちはいつか落ち着く日が来るのかなぁなんて考えてた頃もあったけど・・・未だに全然衰えてないんだよね」

まさか十二年も経って尚、が同じ気持ちでいてくれているだなんて。

「ありがとうね、私は素敵なひとの隣にいられて幸せ者だよ」

目を細めて満たされた様に笑うを前に、密かに下唇を噛む。
幸せ者はこちらの方だとは、言えない。
であるとわかっていても、大人の彼女を前にしては―――どうしても、言えない。

「・・・勝手に言ってろよなぁ」
「ふふ。可愛い」
「ったく・・・十年以上経っても直球かよ」

強過ぎる引力から強引に顔ごと引き剥がし、妓夫太郎は照れ隠しの悪態をつく。
何度視線を背けてもが怯まないものだから、彼はその時油断をしていた。

「・・・変わらねぇもんだな」

その一言に負の意図はまるで無かった。
が十年以上経っても尚変わらずにいてくれていることは、口には出せないがむしろ感謝したい程の喜びだ。
しかしこの時この一言に限っては細く小さな落とし穴が潜んでいた様で、の声色が明確に一トーン下がった。

「・・・がっかりした?」
「あぁ?」
「その・・・妓夫太郎くんが思う大人の私は、もっと落ち着いてる感じが良かった?」

ほんの一瞬で、満開の花が萎む。
不安気にこちらを探る黒い瞳に、今度は別の意味で落ち着きを根本から奪い取られてしまい、妓夫太郎は異様な動揺を強いられた。
困る。焦る。何とかしなければと、思わされる。
彼女のそうした顔は、見たくない。妓夫太郎は重苦しい溜息を零し、ぐっと眉間の皺を寄せた。

「・・・そうは言ってねぇだろうが」

の笑顔が花開けば心が緩む。
の笑顔が曇れば焦ってしまう。
どんなに彼女が大人であっても、こうして一喜一憂に振り回されてしまうことは彼女がである証だ。
どうすると焦り、ろくに考えも纏まらないままではあったが、妓夫太郎の手が手前に置かれていたガラスの器に伸び、それはぐいと正面へ押し出された。

「・・・ん」
「え?」

食事のセットに自動的に付いてきた、小さなデザート。
元より彼女に渡すつもりであった一皿なのだから、早かろうが遅かろうが変わりは無い筈だ。
目を丸くしているに対し、白玉あんみつの器を更に彼女の近くへともうひと押しする。

「お前のそういう顔は調子が狂うんだよなぁ」

がっかりなど、する筈が無い。
頼むから、笑っていて欲しい。
仏頂面の裏側で縋る様に念じた、その刹那。
妓夫太郎の瞳は、の表情が再度花開く瞬間を捉えた。

「ありがとう。突然弱気なこと言って困らせちゃったね」

彼女が笑う。それだけで、途方もない安堵の気持ちに満たされた。
咄嗟に険しい表情を装うことも忘れてしまう程、無くてはならない優しい笑みが目の前で綻んでいる。
達成感に内心脱力していた為か、不意にがこちらへ身を乗り出してきたことに対し、瞬間反応が遅れてしまった。

「やっぱり妓夫太郎くんは優しいなぁ」
「・・・っおい、頭撫でんな。ガキ扱いすんじゃねぇ」
「ふふ。だって可愛いからつい・・・」
「うるせぇ、黙って食えよなぁ」

はぁいと間延びした声で、が笑いながら返事をした。
あんみつを一口食べて美味しいと呟く満面の笑みは、やはり十二年の時を感じさせない程に彼女そのもので。
少しずつ大人の彼女に慣れていく一方、同い年のに遭いたい思いが募る感覚を、妓夫太郎ははっきりと感じ取った。




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