君は君であって 参





長い石段を下った先、行きはでこぼことして大変に歩きにくかった道なりが、見事に整備されている。
遊歩道は景観を損ねることなく石段へ自然と繋がり、歩き易く整えられた石畳は真っ直ぐに浜辺へと続いている様だった。
ミストが屋根に取り付けられた東屋の近く、子供たちが集って白い冷気に歓声を上げている。夏の炎天下自体は変わらずとも、目の前の光景は往路とはまるで違って見えた。

唖然と瞬くことしか出来ないの前に、プラカップのアイスティーが差し出される。
遊歩道沿いの小さなカフェ、冷房の効いた窓際のカウンター席。少し待つ様言い残し早々に戻ってきた相手もまた、の知る彼とは少し違う。
添えられたポーションはミルクのみ。ふとした日常的な一面を把握して貰えていることは、に安堵と動揺を半々に齎した。

「・・・ありがとう」
「おぉ」

の右隣へ、アイスコーヒーを手に妓夫太郎が掛けた。暫し二人して無言のまま、ガラス越しに外を眺める。
今こうして起きている異常事態が嘘の様に、平穏な午後がそこにあった。

「・・・すごく綺麗に整備されたんだね」
「完成したのはここ一,二年だけどなぁ。随分と、歩き易くなっただろ」
「うん・・・びっくりしちゃった」

二人して小さく笑い合い、視線が絡まる。
お互いに知り尽くした目と目が合ったことで、一瞬時が止まった様な錯覚を覚えた。

何が起きているのか、の中で答えは出ている。
どれほど非科学的なことだとしても、これは現実だ。

「先に言っとくぞ」

ただ、どうすれば元に戻れるのか。
一人置いてきてしまった同い年の彼が、今どうしているのか。

彼女の強い不安を見透かした様に、妓夫太郎は比較的分かり易く表情を緩めて見せた。

「お前は多分、あと二、三時間後には帰れる。で、この記憶を無くす」
「え・・・?」
「何でわかるかって顔だが、まぁ、聞けよなぁ」

不安を解消する様な言葉は有難かったが、何分突然のことで理解が追い付かない。
戸惑いを隠せないの方に椅子ごと身体を向けて、妓夫太郎が静かに口を開いた。

「俺は高三の夏、此処に来た時に未来のお前と会ってる」

その瞬間覚えた気持ちを、正しく言い表せる言葉は無かっただろう。
過ぎた衝撃に硬直するの反応に、無理も無いと妓夫太郎は苦笑を浮かべている。
その余裕も、この異常事態に必要以上に動揺しないことも、彼が大人であることだけでは理由が不十分だ。

「年齢の違う、二人のお前が身体ごと入れ替わったって言やぁ少しは想像し易いか?」
「・・・」
「時間を置いて、神社で手ぇ合わせたタイミングであいつは元のに戻った。ただなぁ、も俺も入れ替わってる間の記憶が飛んで、ついさっきまで本当に思い出せなかったんだよなぁ。まぁ、都合の良い話と思ってくれて一向に構わねぇが・・・」

彼自身が実際に経験したことだからこそ、こうして冷静に諭す側に回れるのだ。
妓夫太郎の言葉に従うならば、数時間後には何もかもが元に戻る。そして、先の未来で同じことを経験するその時までこの奇妙な記憶を無くす。
動揺と混乱で乱れる鼓動を米神に感じながらも、は懸命に頭を働かせた。
不安は消えない、未だに夢ではないかと思ってしまうことも嘘ではない、けれど。

「・・・信じる」

ポツリとそう呟き、改めて顔を上げる。
気遣わし気な青い瞳は、変わらず注意深くを見ていた。

「無理、してねぇか?」
「びっくりはしてるけど・・・ありがとう、大丈夫」

大丈夫。それは自分自身に言い聞かせる意味も込めた言葉だったが、は頷きながら僅かに口元を緩めて見せた。

「その・・・今目の前にいるのは、間違いなく妓夫太郎くんだっていうのは、私もわかるから」

どんな不安な状況であれ、傍にいると心のどこかで覚えてしまう安堵は、彼が彼である証だ。
年齢が離れるという普通では考えられない事態にあっても、それは変わらない。

「妓夫太郎くんの言うことなら、信じたい」
「・・・そうかぁ」

眉を下げて頬を緩めるその表情は、間違い無く二人きりの時に見せてくれるもの。
ただ外見が大人になった為か、見覚えのあるそれが酷く眩しく見える様な気がして、は思わず目を逸らしてしまった。
心臓は必要以上に高鳴り続けており、未だ鎮まる気配が無い。アイスティーをじっと見つめたまま、は口を開いた。

「あの・・・じゃあ、今頃もとの妓夫太郎くんの所には・・・」
「多分なぁ、が行ってる」

。彼が今そう呼ぶのは、自分ではないことを悟る。
身体ごと入れ替わる。つまり未来の自分が、入れ違いに過去へ行っているということだ。
改めて考えても非科学的な話だが、不可思議なことが現実に起きている事態に細い息が漏れた。
何故こんなことが起こり得るのか。記憶を失うとはどういうことなのか。今考えてもどうしようも無いことに頭を巡らせてしまうを見据え、妓夫太郎が告げる。

「戻った時、記憶を手放すのは恐らくの話だ」

冷静でありながらも、彼の声色は優しい。
負担をなるべくかけまいと言葉を選ぶその気遣いに、は顔を上げた。

「万一を考えて、お前は出来るだけこっちの情報を入れない方が良いんじゃねぇかと俺は思うんだが。お前はどう思う?」

強要はしない。そう言っている様に思えたが、これにはも同意見だと首を縦に振る。
先のこと。更に言うなら自身の先に関わることだ。リスクを考えるなら、なるべく知らずにいた方が良いに決まっている。

「・・・私も、そう思う。未来に変な影響が出たら、大変だし」
「偉いぞ、察しが良くて助かるなぁ」

不意に、大きな手に頭を撫でられる感覚にはっとした。
それ以上何をする訳でもなく、ひと撫でのみで退いた手にドギマギしてしまいそうになる気持ちに、唾を飲んで気付かぬ振りをする。
大人であっても彼は妓夫太郎だ。恋人の未来の姿は、どうしたって意識してしまう程に引力が強い。

「あの・・・じゃあ私たち、時間が来るまで一緒にいない方が良いんじゃ・・・」
「おい、本気で言ってんのかぁ?」

余計な情報を入れない為には、物理的に距離を置くことが一番なのではないか。
気持ちを落ち着けるための逃げ道は、他でもない彼によって呆気無く却下されてしまった。

「俺がこの状況でお前を放り出せるかよ、ばぁか」

薄く笑うその目が、優しく揶揄う様なその声が、心臓に悪い。

「話せねぇこともあるが、話せることもある」

見ないようにと意識すればするほどに。
彼の左手が、気になってしまって仕方が無いのだ。

「まぁお前のことだからなぁ。色々察して貰えると、こっちも助かるが」
「・・・」
「帰るまでのガードくらいはさせろよなぁ」
「・・・うん」

カウンターの上に置かれた左手、その薬指。

「とりあえず、飲んだらどうだ」
「あっ・・・うん、ありがとう」

銀色の輝きから必死に目を逸らしながら、が慌ててストローに口を付ける。
大変に分かり易い視線と反応に、妓夫太郎は声を殺して小さく笑った。




* * *




神社から最寄りの涼しい喫茶処は、バス停正面にあるファミリーレストランしか無かった。
ただでさえ眩暈を起こしかねない異常な状況に加え、炎天下の中の歩きにくい道のりは往路より余程距離を感じたものだ。
見た目の違う彼女が歩きにくい道なりに転びやしないかと注意を払いつつも、いざ危なくなった時その腕を掴める自信が無い。
微妙な距離を空けて歩くことしか出来ない妓夫太郎が暑さに限界を感じ始めた頃、二人は漸く目的地へと到着した。

「はぁー、ようやく着いたね。結構距離あるの忘れてたよ。はい、好きなの頼んでね」

お互い向かい合って座り、出てきた水を飲み干した。
そこまでは良いとして、メニューを開いて妓夫太郎の方へと押す彼女の、呑気なことと言ったら。
どんなに努力しても混乱が収まり切らない自身が劣っている様に思えてしまい、妓夫太郎が眉を顰めて腕を組んだ。

「どう考えても注文してる場合じゃねぇんだよなぁ・・・」
「あっ。ごめん、そうだよね。まずそこから説明しなきゃいけないよね。私ったら色々頭回ってないなぁ・・・」

慌ててメニューを閉じるなり、申し訳無さそうに眉を下げて彼女は詫びた。
何が最善か懸命に言葉を選ぶその素振りも、目の泳がせ方も、困ったことに以外の何者でも無いと妓夫太郎自身が認めてしまっている。
一体何が起きているのか、何故こんな事態に陥ったのか。疑問符に圧し潰されそうになる妓夫太郎を正面に、が決意を固めたようにひと呼吸を置いた。

「実は私、高校三年の夏にさっきの神社で妓夫太郎くんとお参りをした時、未来の妓夫太郎くんと会ってて・・・」
「・・・はぁ?」
「そ、そうだよね・・・当然の反応だよね」

思わず間の抜けた声が出てしまう程に、唐突な話だった。
目の前のは妓夫太郎を落ち着かせようと、更には納得させようと懸命になっており、眉を寄せて宙を見上げる仕草は彼女の困った時のそれに違いない。
この異常事態そのものを、見た目が変わったは既に経験したことだと告げているのだ。

「タイムスリップ?っていうのかな・・・高校生と大人の私が身体ごと入れ替わって、もう一度神社で手を合わせたら元に戻ったの。夕方より前だったと思う。入れ替わってる間の記憶は、私も妓夫太郎くんもすっかり無くなってた。その・・・都合の良い話だけど、今の今まで」

妓夫太郎は考える。
目の前の彼女はに違いない。根拠と呼べるものは薄いが、見れば見る程に、話せば話す程に、彼女はだと思い知らされる。
そして彼女は妓夫太郎の動揺を鎮めようと頭を悩ませてはいるが、この状況そのものにはそれほど困惑の色を見せない。
タイムスリップなどどう考えても現実的ではない話だが、それでも彼女はに違いない上、既に経験したことならばこの落ち着き加減も説明がつく。
未来の。目の前にいる大人の彼女を困らせているであろう、理解の及ばない高校生の自分。
深い溜息と共に目を伏せる妓夫太郎を目にし、がますます困った様に身を乗り出した。

「やっぱりそう簡単には信じられないよね。どうしよう、何をしたら安心して貰えるかな」
「俺のことはどうだって良い。つまり、今は・・・」

身体ごと入れ替わったと彼女は告げた。
先ほどまで隣にいたは、目の前にいると入れ替わり先の時にいるということではないのか。
と呼ばれたのが自分でないことを理解しているのだろう、彼女はすんなりと一度頷いて見せた。

「えっと・・・今はあっちの妓夫太郎くんと一緒にいると思う」
「・・・」

答えは出た。今のは未来におり、未来のが今ここにいる。一度経験している彼女によればこの奇妙な入れ替わりは数時間後には解除され、この間の記憶も失う。恐らくは、同じことを経験するであろう先のその日まで。
眉間の皺を強引に解く様に手を翳したタイミングで、が小さく俯いた。言い淀んだ末、下唇を僅かに噛みしめ頭を下げる。

「ごめんなさい、多分私のせい」
「あぁ?」
「昔のことだけど覚えてる。あの時、ずっと一緒にいられますようにってお祈りしながら考えたの、未来の妓夫太郎くんはどんな大人のひとかなって」

思いもよらぬ告白に、瞬間妓夫太郎の時が止まる。
あの時二人で並んで手を合わせ、願ったこと。考えたこと。それは―――。

「少しだけ叶えてしんぜよう、て神様のお計らいだとしたら、妓夫太郎くんを巻き込むことになっちゃった。驚かせて本当にごめんなさい」

心底申し訳無いといった様子で俯く彼女を前にして思う。

―――言えない。同じことを考えていたなどとは、決して言えない。

「・・・起きちまったことを今更言ったところで、しょうがねぇだろうが」

格好悪くて仕方が無い、しかし正直になることも出来ない自分が嫌になる。
顔ごと背けていた状況から、恐る恐る正面へと目を向ける。の黒い瞳が、真っ直ぐに妓夫太郎を見ていた。
妓夫太郎本人の自己肯定感の低さまでもカバーするかの如く全てを認め包み込む、その目は時を経ても何ひとつ変わっていない。
一挙一動を見守られている様な、それでいて何もかも見抜かれている様な、何とも言えず気恥ずかしい感覚。
耐え切れず先に目を逸らしたのは、やはり妓夫太郎の方だった。

「あいつが戻って来るなら、俺はそれで良い」
「ありがとう・・・きっとそうなるよ。大丈夫」

目を見ずとも、彼女がふわりと笑った雰囲気を感じた。
見た目が違う、年齢も恐らく違う。しかしが笑えば心の奥底が緩んでしまうことは条件反射の様なもので今更どうにも出来ず、妓夫太郎は険しい表情を崩すまいとテーブルの下の拳を握り締めた。

「ということで何か頼んだ方が良いよ。外本当に暑かったし、水分ちゃんと摂らなきゃ。あ。お腹すいてない?食事、頼もうか?」

しかし、そんな複雑な胸中を知ってか知らずか、は穏やかに笑うばかりだ。
再度仕切り直しと言わんばかりにメニューを開いてこちらへ押しやる。
彼女のペースに巻き込まれてなるものかと、妓夫太郎は懸命に抵抗を試みた。

「・・・お前は、何でそう呑気な顔をしてやがんだぁ?」

はきょとんと目を丸くした末、小首を傾げながら緩く笑っている。
短くなった毛先が揺れて、何故だか余計に落ち着かない気持ちにさせられた。

「えっと、帰れることは多分わかってるし」
「大の大人が数時間突然消えて、不都合は無ぇのかって聞いてんだ」
「ふふ、心配してくれてありがとう。でも大丈夫。私の旦那さんはすごく頼りになるから、私がいなくて困ることはすぐに手を打ってくれてると思う」

衝撃のあまり、誰が心配をするかという強がりは言葉にならなかった。
気を抜けばテーブルに頭を打ち付ける勢いで伏せてしまいたくなる衝動を懸命に耐える。
勘弁しろと小さく口の開閉を繰り返すしかない妓夫太郎を前に、は相変わらず呑気な顔をして口端を上げたままだ。
自分が何を言ったかわかっていない訳ではあるまいと、妓夫太郎は奥歯を噛み締める。

「・・・こういう時、余計な情報は俺の耳に入れない方が良いんじゃねぇのかぁ?」
「ちらちらこれ見てるのに?」

その切り返しは実に的確で、思わず妓夫太郎はぎくりと肩を揺らしてしまった。
彼女が堂々とテーブルの上に出している左手。その薬指に光る指輪の存在に、気付かない筈が無い。
見て見ぬ振りをしていたもの。状況的にそんな場合ではないと、目を逸らしていたもの。
これまでの会話の流れからして、未来の彼女の隣にいるであろう人物は恐らく一人しかいない。いない、けれど。
手放す予定の記憶とはいえ、必要以上に知るべきではないと自ら線を引く妓夫太郎の葛藤を、は穏やかに讃える様に微笑んだ。

「確かにその通り。元に戻った時忘れちゃうのも確実じゃないし、先のことに変な影響が出たら大変だよね。でも、これくらいは大丈夫じゃないかなって思ったの」
「・・・」
「だって、ふたりは多分そうなるって・・・妓夫太郎くんはわかってるよね?」

彼女はだ。
真っ直ぐな好意を隠そうとしない、今のままのだ。
多少年齢が離れたところで彼女を相手に立ち回れない様でどうすると、妓夫太郎は自身を奮い立たせる様に溜息を吐いた末顔を上げる。

「・・・多分じゃねぇ」

一瞬の間を置いて、が目を細めて笑う。
胸の奥を緩く解されていく感覚に、妓夫太郎は眉間の皺を深めることで抗った。





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