君は君であって 弐





「急で悪ぃんだが、帰りが遅くなる」

スマホにしては薄過ぎる端末で恐らく電話をしている男性を、は未だに信じられない様な心地で呆然と見つめ続けていた。

境内の日陰に誘導された末少し待っていろと告げられた声も、今端末の向こうに話しかける声も、のよく知る妓夫太郎の声に間違い無かった。
しかし、どう見ても十八歳の彼ではない。
今より若干長い髪はハーフアップではなく後ろで一纏めに括られて、Tシャツとカーゴパンツだった筈の服装はストライプのシャツと細く黒いジーンズに変わった。背筋はそれほど猫背ではなくなっており、口元に薄い髭を生やした顔付きは完璧に大人のものだ。

「日が暮れる前にはそっちに戻れるとは思うが・・・おぉ、も一緒だ」

。幾度も呼ばれている名前が彼の口から紡がれるだけで、動揺が全身を駆け巡る。

何が起きているのか、何を見ているのか。

「あぁ・・・頼めるかぁ?三時前には迎えに行ってやらねぇと・・・突然悪ぃなぁ。帰ったら何でも聞いてやるからなぁ」

彼は今、何の話をしているのか。

不安と好奇心の波に押し寄せられ、一歩でもふらつけば取り返しのつかない場所まで流されてしまいそうな気さえする。
無意識に唾を飲んだその刹那、穴があくほどに見つめ続けた相手からの視線を返され、は慌てて俯くことでよく知る筈の青い瞳から逃げた。

「大丈夫だ、心配すんな・・・おぉ、それじゃあな」

電話を切ったのだろう。砂利の音と共に彼が近付いてくる気配に、覚悟を決めろと自身を鼓舞し恐る恐るは視線を上げる。
こちらを見下ろす彼の瞳は、考えていたよりもずっと配慮に満ちた色をしていた。

「まぁ、落ち着けってのも無理な相談だとは思うが・・・」

何から話すべきかと頭を掻く、困った時の仕草は今の妓夫太郎と変わらない。
それが小さな安心に繋がったのか、は漸く口を開く勇気を得た。

「今の電話の相手は・・・梅ちゃん?」
「・・・おぉ」

汗が首筋を伝う感触を、妙にはっきりと感じる。
唾を飲む音すら響いてしまうのではないかと思える程の緊張。
目の前の彼が変貌を遂げたと共に、自身がどこかに取り残された様な違和感。

答えは、恐らく既に出ている。

「・・・今は、西暦何年なの?」

決死の覚悟で発したその問いを、彼がどう受け止めるのか。
どんな些細なことも見逃すまいと下唇を噛み締めるの目の前で、その表情は僅かに緩んだ。

「察しが良いなぁ」

眉の下がり方、目の細まり方、口元の僅かな緩み方。どれひとつ取っても、甘やかしてくれる時の妓夫太郎に違いない。
緊張と動揺と心の奥底に根付いた安堵の気持ちが複雑に混ざり合い、頭の整理がつかずに固まるの拳を、大人の手が解きほぐした。

「けどなぁ、とりあえず力抜け」
「あっ・・・」

爪痕がくっきりと残る白い手のひらに、血色が戻るさまは異様な光景で。拳を解いた時点ですんなりと引いた彼の手の感触が、に新たな動揺を齎した。この手を知っている。

彼は妓夫太郎だ。
の推理が正しく非科学的な話が通用するならば、少し先の妓夫太郎だ。

「その質問に答える前に、移動すんぞ。ここは長話には向かねぇからなぁ」

場所を変えると宣言した彼は、踵を返す寸前にの腕を指差した。正しくは、の腕に掛かったままになっていた日傘である。

「それ、ちゃんと差して付いて来いよなぁ」

先を歩き始めた彼の背中が、空のペットボトルを捨てに遠ざかる猫背と重なる。目の前がチカチカと眩く光る様な錯覚を振り払い、は日傘を差しながら小走りに彼を追った。
一緒に日光から遮るべく差し出された日除けに、妓夫太郎は目を丸くして立ち止まる。

「・・・何だ、俺も入って良いのかぁ?」

見下ろしてくる青い瞳は、優しい。

「あ・・・暑い、から」
「おぉ、助かる」

当然の様に持ち手を攫われ、はさっと手を離した。砂利道で急ぐ必要が無い様、彼の歩調は緩やかで、同じ日傘の下の距離感はじりじりとした熱さを意識してしまう程に近い。
しかし、これまでの様にその腕を支えに歩くことは、どうしても出来なかった。




* * *





「・・・」
「あっ・・・あの、びっくりするよね。でも、落ち着いて聞いて欲しいというか、あのね・・・?」

目を開けた途端、突如として隣に立つ恋人の容姿が変わったのだ。
驚くなという方が無茶な注文だったが、この顔はどう見ても他人と切捨てられず、妓夫太郎は半歩後退りそうになる足を寸前で抑え切った。

夢か幻か、一度強く目を瞑り再度開く。
目の前でおろおろと両手を彷徨わせている彼女の姿は元に戻らない。
受け入れ難いが現実だ。頭痛を覚えつつも、妓夫太郎はよく知る筈の彼女へ向け口を開いた。

「・・・、なのかぁ?」
「うん・・・」

胸元まで届く筈の黒髪は肩に当たらない長さまで切り揃えられ、服装は膝丈のワンピースから半袖のブラウスとスラックスに変わっている。ごく薄い化粧の乗った顔自体はあまり変わりなくとも、彼女の纏う雰囲気は先ほどまで隣にいたと同じ様で確実に何かが違う。
一体何が起きているのか。何もかも暑さによる幻覚だと言い切れたらどんなに良いだろう。到底理解の及ばない現実に思わず目元を覆う妓夫太郎を前に、はますます困った顔をして狼狽えた。

「だ、大丈夫?どこか座った方が・・・あっ、でもここじゃ無理か・・・」
「・・・良い、気にすんな」

目眩でも覚えたのではないかと、心配をした彼女の手が肩に触れる。困ったことに、雰囲気が多少変わっていようともこの距離感で触れられた感覚はのものに違いなく、妓夫太郎はますます眉間の皺を深める羽目となった。

心配無用の一言は鵜呑みにはされなかったが、彼女は妓夫太郎を気にしつつも自身の荷物を漁り出した。携帯端末を操作しようと試みては電源が入らず肩を落とし、次に開けた財布の中身を覗き込んだ際には多少明るい表情を見せる。高校の頃からお札も硬貨も変わって無い筈。小さな呟きがその口元から溢れると同時に、目と目が合った。

参った。どう考えてもこの目はだ。
妓夫太郎が困惑に眉を顰めると同時に、彼女は遠慮がちに微笑んだ。

「ひとまずここ出て、どこかでお茶でもどうかな?」
「・・・はぁ?」
「ご、ごめん。ナンパみたいなこと言って・・・でも本当に暑いから、妓夫太郎くんさえ良ければ、どうかな」
「・・・」

どんなに不自然な状況だとしても、彼女がである以上は決して突き放せない。
奥深くに染み込んだ本能にも似た感覚は、遂に妓夫太郎を一度頷かせるに至ったのだった。





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