君は君であって 壱




茹だる様な暑さが連日続いている。
猛暑と書かれた注意喚起の赤いアイコンは、最早天気予報で見かけない日が無い程に日常的なものとなっていた。

神社の境内まではまだ少し距離があった。
長い石段の先に待つ目的地は逃げはしないが、向こうから親切に近寄って来てくれる筈も無い。

自販機から出てきたばかりの小さなペットボトルを頬に当て、は何とも言えない冷感に目を細めてからキャップを開けた。
外にいる限り強烈な暑さから逃れることは出来ないが、木陰は刺す様な直射日光から身を守ってくれる心強い味方だ。ジャスミン茶が喉を通る心地にすらホッと息をついてしまう昼過ぎの炎天下、石段中腹に設けられたベンチに座ったは正面に立つ妓夫太郎を見上げ眉を下げた。

「・・・ごめんね」
「何謝ってんだぁ?」

眉を顰める気怠い表情はいつものこと。その青い瞳は本人が装おうとしている程険しくはないことを、は知っている。
しかし流石に今日の暑さには誰もが苦しめられており、額に汗を浮かべた彼も例外では無い。なかなかに辛い思いをさせてしまっている状況に、は申し訳無さから苦笑を浮かべた。

「出かけたいって言い出したの、私だから。確かに最近ずっと暑いけど、今日は特別すごい気がするし・・・これなら、おうちでのんびりしてる方が良かったかもしれないのに」

二人が住まう街から電車で約四十分、更にバスを乗継ぎ十五分。海からほど近い立地に、その神社はあった。
少々辺鄙な場所ではあるが、長い石段の上に待つ神社境内は厳かな雰囲気に包まれており、四季を通して違う表情を見せる有名なパワースポットである。

本人の申告通り、休みの日にここへ行ってみたいと言い出したのはだ。特別な理由があった訳では無かったが、行きたい所はあるかと聞かれた際に不思議と此処が浮かんだ為だった。
話を近くで聞いていた彼の妹にも当然誘いをかけたであったが、信じられないといった顔をして梅が首を横に振った理由が今ならばはっきりとわかる。
連日猛暑日を記録し続けているこの夏、長い石段は眺めている分には良くとも実際に上がることは苦行以外の何物でも無い。わざわざ中腹のスペースにベンチと自動販売機が用意されているのは、どう考えてもこの最も辛いシーズンの為としか思えなかった。

「夏だからなぁ、暑ぃのはしょうがねぇだろ」

立ったまま同じサイズのペットボトルを煽る妓夫太郎は、の方を見ずにそう告げた。
夏は暑い。確かにそれは、その通りだけれど。

「ありがと、優しいね」
「別に。事実だろうが」

こんな日は家で涼んで過ごすのが正解だったのではという謝罪への答えにしては、優し過ぎるフォローだ。は思わず目を細めて笑い、彼に倣ってペットボトルの残りを喉へ流し込んだ。

彼は優しい。他者を寄せ付けない様な雰囲気は心を許した相手に対してのみ形を潜め、その中心である彼の妹とに向けられる優しさは最たるものだ。

「折角ここまで来たから、目的地まであとちょっと、付き合ってくれる?」

彼の優しさに報いる為にも、せめてこの汗は無駄にすることなく、目的地を拝んで帰りたい。そうして微笑むを見下ろし、妓夫太郎が空いたペットボトルに手を伸ばした。

「ここまで来て断るかよ。ほら、空いたの寄越せよなぁ」
「うん、ありがとう」

妓夫太郎が正面から退いた途端、足元が日差しにじんわりと熱せられる様な感覚に、はっとする。休憩の間灼けつく光から守ってくれていたのは木陰だけではなかった様だ。
二本のペットボトルを手にゴミ箱へ向かう彼の背を見ていると堪らない気持ちになり、小走りに後を追うなりは一時閉じていた日傘を差し出した。
ゴミを捨て空いた手で、当然の様に日傘を持つ役割を代わってくれる妓夫太郎を見上げて思う。

幸せだ。

「もうひとつ、謝っとくね」
「あぁ?」

怪訝そうな顔をする妓夫太郎の、日傘を持つその腕に、はぴったりと寄り添った。

「物凄く暑いけど、くっついて歩いちゃうこと」
「・・・勝手にしろよなぁ、ばぁか」



* * *




気が遠くなりそうな長い石段は、日傘の下で無心に足を動かし続けることで覚悟していたより早い時間で最後の一段を迎えた。
途端に開けた光景はまさしくガイドブックやネットに載っている有名な景色そのもので、二人は瞬間暑さを忘れてその場に立ち尽くす。

晴れ渡った夏の空。
鳴り響くセミの大合唱以外、異様に静まり返る空気。

「誰もいないね」

はじめの一歩を踏み出すことに若干躊躇してしまう理由がそこにあった。休日の有名な神社にも関わらず、参拝客が一人も見当たらない。

只でさえ厳かな空気が濃縮した様な雰囲気に飲まれそうなを横目に、妓夫太郎が普段通りの声色を心掛けて口を開いた。

「良いんじゃねぇかぁ。混んでたって鬱陶しいだけだからなぁ」
「た、確かに。混雑してたら余計に暑く感じちゃうかも・・・」

背を押される様にして漸く一歩を踏み出したに、妓夫太郎はただただ付き従い歩いた。何しろ参拝の作法とやらはさっぱりだと事前に彼女に告げたところ、自分もあまり詳しくは無いが同じ様に真似てくれれば大丈夫と緩く微笑まれたものだから、その通りにしている。
そもそもの頼みで無ければ参拝など来る筈も無ければ、作法など更に知ったことではないのだけれど、惚れた弱みとやらはこの仏頂面の男にも例外なく適応した。
面倒だという表情は一応浮かべながらも、鳥居で一礼、手水社では見よう見真似で手と口を清め、参道は端を歩きながら日傘でを守る。
慣れない挙動と容赦の無い暑さに疲れを感じつつも賽銭箱の前に辿り着いた頃、妓夫太郎は彼女の本題に近付いたことを今更の様に思い返した。

「で、何を願いに来たって?」

神社に行きたいと言うからには何か願いがあるのだろう。
至って単純な疑問であったが、その問いを受けたの反応は予想に反した。

「それは・・・その・・・」

言い淀む口元。しかし、緩んでいる頬。
困っている様でいて確かな期待に輝く黒い瞳と目が合った瞬間、妓夫太郎は多くを察した。

「・・・いや、良い。黙ってろ」
「ふふ・・・うん」

止めなければ正直に告げられたであろう願いの内容は、見当がついている。
元々同じことを願うつもりでいたとは、明かさない。察せられている気もするが、自ら口に出来はしない。

賽銭を準備しながら眉間の皺を深める妓夫太郎の隣に、は小さく笑ったまま佇んでいる。
互いに汗ばみながらも、日傘を中心に触れ合った手は未だ離れていなかった。



* * *




賽銭をそれぞれに投げ込み、鈴を鳴らしてから二拝二拍手の末目を閉じる。
強めの風が吹き抜けたのか、合掌の間閉じての腕に掛けた日傘が揺れた気がした。

ほんの瞬間、セミの合唱が鳴り止み神社は静寂に満たされる。
汗が服の下で背中を伝う感覚、それすら随分ゆっくりと感じられた。
まるで弱まる気配の無い暑さの中、遠くから少しずつセミ達の鳴き声が戻って来る。

「・・・?」

それは何とも形容し難い違和感だった。
隣での名を呼ぶ人物は妓夫太郎に違いない。
違いない筈だった。






声に導かれて目を開けた先、隣に佇む彼の変貌には言葉を失ってしまう。






服装が違う。

髪形が違う。

顔付きが若干違う。






「・・・、だよなぁ?」






セミの声が一段と大きく鳴り響く。






明確に“大人”の妓夫太郎が、そこにいた。






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