近くて遠い



梅雨入りの発表後にも関わらず、その日は見事な晴天に恵まれていた。

本格的な夏の到来を控える日差しの下、都会の高速を貸切バスが走る。
高等部二年の校外学習当日。一台に二クラスを乗せたバスの車内は、どの車両も賑やかな声に溢れていた。このバスも例外ではない筈が、妓夫太郎は窓際に肘をついて外の眩しさに目を細める。

行先は都心の二大タワーと呼ばれる内のひとつで、学外で過ごせることを楽しむ学生も多い。も例外では無かったために晴れたこと自体は喜ばしいが、妓夫太郎としては面倒極まりない一日である。確かに教室で受ける授業よりかは自由度は格段に高いものの、定められた自由時間以外は全てクラス単位で動くことを強制される上、バスの座席まで名前順で固められる始末だ。

「ほい、謝花ポッキー食う?」
「いらねぇ」
「えー?じゃあガムは?」
「いらねぇ」

佐伯によって横から差し出される菓子を断るのも何度目か。
徹底されたつれない素振りにめげない隣人であったが、不意に何かを思いついたかの様に通路を挟んだ斜め後ろを振り返る。このバスは二クラスの貸切であり、相乗りしているのはお馴染みの、つれない男の恋人がいるクラスである。

「・・・あ。立花妹が、」

その言葉に妓夫太郎が見せた反応速度は凄まじく、即座に腰を浮かせて同じく後ろを振り返った。
斜め後方の通路側の席で、は熱心にガイドブックを読み込んでいる。
まるで何事も無い様子に妓夫太郎は隣人を冷たく見下ろした。背景に黒い靄が見えそうな怒りのオーラを感じながらも、佐伯は頬を引き攣らせて笑って見せる。
しまった。気を引きたいが為にの名前を出したまでは良かったが、その先を一切考えていなかった。

「・・・きょ、今日も、可愛いな」
「てめぇ・・・」
「メンゴメンゴ許して謝花に構って欲しい俺の気持ちを許してお願いだから!」

そして今日も強烈なヘッドロックが決められ、佐伯が涙目になりながら助けを求めている。そんな二人の様子に、ひとつ前の座席のしのぶがにこやかな笑みを浮かべて振り返ってきた。この穏やかではないやり取りも、見慣れてしまえば最早朝の挨拶と同義である。

「ふふふ。お二人とも朝から元気いっぱいですねぇ」
「だとよ、元気に見えるならまだ耐えられるんだよなぁ?」
「どう考えてもギブだから煽るのやめて胡蝶・・・!」
「あらあら。謝花君は今すぐ手を緩めて振り返った方が良いと思いますよ?」

そう告げながら、しのぶが後方を見つめて手を振っている。つられる様に振り返った先、今後こそこちらを見ているの姿が目に入った。
元々しのぶとは目が合っていたのだろう、その黒い瞳は妓夫太郎と目が合ったことで一層嬉しそうに細められている。

満面の笑みで手を振られてしまえば何も返さない訳にもいかず、妓夫太郎は小さく片手を上げた。今日もは特別に可愛いし、その笑顔を見るだけで憂鬱な気分が薄らいでいくのを感じる。

さんは今日も大変可愛らしいですね」
「・・・当たり前だろうが」
「えっ俺の時とえらい違わない?」



* * *



にとって、今日は楽しみな一日の筈だった。
校外学習で都心の二大タワーのひとつに行けるだなんて、言い方を変えれば楽しい遠足の様なものである。
学校行事とはいえ、普段教室で受ける授業とは違うのだから、妓夫太郎とも顔を合わせる機会が多いだろう。そうした期待が、何か違う方向に作用してもどかしさを生んだ。

確かに顔を合わせる機会は多かった。全体の集合場所であったり、すれ違いざまであったり、時にはガラス張りエレベーターの壁越しであったりと色々だ。
顔を合わす機会がありながらもクラス単位の行動を強制されることは、思いの外傍に行けないことへのストレスへと変わる。
小さく手を振るだけでは圧倒的に足りないのだ。すぐ傍に行きたい、手を繋ぎたい、あわよくばもっと傍に寄り添えたなら。

そんな自身の欲深さに思わず小さく笑ってしまった時のことだった。大きく開けた一面ガラス張りの一角に、付き合いの長いクラスメイトの姿を見つける。一人腕を組んで真っ直ぐに立つ姿は、いつものことながら既に武闘家の風貌である。
はそっと近付き、一人分の空間を空けた隣に立った。

「素山くん、今恋雪ちゃんのこと考えてるね」
「・・・まぁな」

今更何を隠す間柄でもなく、狛治は素直にその胸中を認めた。
二人して目を見かわす訳でもなく、隣同士に立って正面の光景を見下ろす。天候に恵まれたことが奇跡に思えるかの様な、広大なパノラマが眼下に展開していた。多少の高層ビルもここと比べれば霞んでしまうだろう、まさに絶景だ。

「恋雪ちゃんはこういう高いところ大丈夫なの?」
「問題無い。綺麗な景色を見ると足を止めるくらいだから、ここは喜ぶだろうな」
「ふふ。じゃあ今度はデートで来なきゃだね」
「まぁ、梅雨が明けてからだな。今日は運良く晴天だが、いつもこうとは限らないだろう」

確かに、これは天候次第では靄がかかって素晴らしさも半減してしまう可能性が高い。梅雨時期にしては今日は奇跡的な晴れなのだ。今日この時に来れたことは運が良い。
今隣にいる友人を軽んじている訳では決して無いが、だからこそ、本当は彼と一緒に並んで見たかったのだけれど。

「・・・そういうお前はどうなんだ?」

心を読まれたかと思う様なタイミングだった。
相変わらず目は合わず、お互いに絶景を見下ろしながらの問答であったが、は小さく苦笑を漏らしてしまう。
学年の違う婚約者を持つ彼にこれを言うことは贅沢な気もしたが、何故か狛治ならすんなりと受け止めてくれる気がした。

「学年は一緒でもクラスが違うと、こういう時ちょっと残念だなぁって。時々顔が見れるのは嬉しいんだけど、傍には行けないから余計にもどかしくなっちゃう」
「それは向こうも同じだと思うがな」
「・・・ふふ、だったら嬉しいなぁ」

本音に対して返ってきたのは、相手も同じであろうという優しい回答だった。
思わずが小さく頬を緩めた、その時。エレベーターが開き、時間差で別のクラスが展望エリアへと入ってくる気配がした。固まって動く一団の中から、窓際に立つ二人を見つけ声を上げた影がひとつ。

「あっ・・・!狛治殿!」
「お兄ちゃん?」

幸太郎はクラスメイトに一言二言告げるなり、と狛治の元へと小走りで駆けてきた。兄にしては珍しい行動に目を丸くするだったが、幸太郎は素早く妹の手へと或るものを握らせる。

にこれを。内密にお願いします」

それは、二枚のチケットだった。
このタワーの最上階で開催されているプラネタリウム、更には自由席ではなく別フロアにあるグレードの高いシートのチケットである。
“天により近くから星に願いを”と謳われたこのプラネタリウムは大変評判が良く、特に高グレードのシートは当日では入手困難とされる代物だった。
それを何故兄が持っているのか。目を白黒させて動揺するのはだけでなく、隣にいた狛治も思わずといった様子で幸太郎を見遣る。

「・・・え?お兄ちゃん、なんで、」
「幸太郎お前、これをどうやって・・・」

これには確かに理由があったが、如何せん今は説明している時間が無い。教員に見つかる前にクラスに戻らなくてはならない手前、幸太郎は曖昧に微笑んで見せた。

引率の教員を代表して団体受付を済ませた伊黒が抽選の結果偶然引き当てたものであったが、当日しか使えないカップル向けの代物を手にしてしまったがために宇髄から盛大に揶揄われ、怒りの形相で呼びつけられた幸太郎へとそれが押し付けられたのは、また別の話だ。
俺の難問に付いて来れるのは貴様だけだからという理由にはいまいち納得しかねたものの、正しく有効に使えということであれば渡す相手は決まっていた、それだけの話なのだ。

「ふふ。時間が無いのでそれはまた後ほど。この後の自由時間で妓夫太郎殿を誘ってみて下さい。では!」
「ちょ、お兄ちゃん・・・ありがと!」

慌ただしく踵を返した兄に対し、は慌てて礼の言葉を述べた。軽く手を振ることで応えた幸太郎は無事に自身のクラスへと戻った様で、は安堵と感心の混ざり合った溜息と共に改めて握り締めたチケットを見下ろした。
事情はわからず仕舞いだが、滅多に無い機会を手にしたことには変わりない。入れ替え制で何度も上映している為、丁度自由時間の間に楽しめるイベントだ。

「・・・良かったな」
「うん・・・来てくれるかなぁ」
「安心して良いんじゃないか、何を放ってでもお前のためなら駆け付けそうだからな」

狛治の後押しが頼もしく、は少々気恥ずかしそうに笑いながら手元のスマホで目的の人物へとメッセージを発信した。
ほんの数秒で返ってきた即答は当然友人にも知られることとなり、これには二人して顔を見合わせて笑い合ってしまった。



* * *



待ち合わせの末専用のエレベータを使って入ったフロアはまさしく別世界で、一階層下の自由席とは別格の空間が広がっていた。

元々販売数を相当に絞っているのだろう、広々とした中のリクライニングに掛けている客数は少なく、思い思いに会話を楽しんでいる。館内に響く特有のBGMとナレーションの影響、そして十分な距離もあり、確かに他の客の会話は気にならない状況である。
座り心地の良いペアシートに身を沈め、美しい星空を見上げる状況は非日常感が満載ではあるが、校外学習の日に突如として渡されたものなのでいまひとつ実感が湧き辛い。恐らくは学生服でこのフロアにいるのは自分たちだけであろう状況に顔を見合わせ、と妓夫太郎は小さく笑い合った。

「・・・立花の奴、一体何したんだぁ?」
「さぁ・・・時間が無いから説明は後って言われたけど」

何にしても、後で改めて礼を言わなくてはならないだろう。はようやく隣合うことの叶った恋人の傍へと、身体ごと一歩近付いた。境界の無いペアシートは今のには強い味方であり、もどかしい思いをした分を埋めるようにぴったりと寄り添うことが出来た。

「でも・・・嬉しい。今日はなんか、近くて遠いっていうか・・・顔は見れるけど傍に行けなくて、不思議な感じだったから」

当然の様に受け入れられ、肩へと回される腕が優しい。甘えるように頭を預けながら見上げる人工の星空は美しかった。
近いのに遠い。自分で言っておきながら贅沢な悩みだとは苦笑してしまう。十五の秋を迎えるまでは、彼らの存在すら確信が持てない様な状況だったというのに。記憶を持った状態で再び隣にいられる今、たった一日でも堂々と傍に行けないことをもどかしく思うだなんて。

「いつも一緒にいるのに・・・変かな」

こんな時、心の中で蜜璃の声が響くのは都合の良い考えだろうか。大好きなひとがいるのなら、女の子はいくらでも欲張るものだと優しく言い切ってくれる先輩の言葉が優しく沁みるのだ。
妓夫太郎の頬が頭へ押し当てられる感覚に、は一瞬目を瞬く。肩を抱いてくれる手の力が、瞬間強まった様な気がした。

「・・・良いんじゃねぇのか。俺も似たようなもんだしなぁ」
「そっか・・・ありがとう」
「何に対しての礼だよ、ばぁか」

妓夫太郎はの全てを肯定してくれる。贅沢な思いも、欲張ってしまう気持ちも、全て受け止めた上で自分も同じだと伝えてくれる。
堪らなく温かな腕に抱かれて、大好きなひとに認めて貰えることは紛れも無く幸せなことだ。彼の匂い、彼の温もり、すべてを余さず体感したいような思いで見上げた視界の中。

「・・・あ」

一筋の光が流れた。

「妓夫太郎くん、見た?」
「おぉ」

予告の無い流れ星については、パンフレットにも記載があった。天により近くから星に願いを。まさにこの瞬間のための謳い文句でもある。

「願い事は、間に合ったのかよ」
「・・・お星さまには願ってないの」

意外な答えに妓夫太郎が目を丸くする気配がして、は小さく笑った。頭を預け合っていた姿勢からほんの少しの距離を置いて、やはり意外そうな顔をしている恋人に向けて柔らかく笑いかける。
空に近いプラネタリウムで流れ星に願いをかけることは確かに素敵だけれど、にはその必要が無い。

「私の夢を叶えてくれるのは、いつも妓夫太郎くんだから」

一拍の間を置いて、彼の表情が緩む瞬間が堪らなく好きだ。
困った様に眉を下げながらも、青い瞳を優しげに細めて見つめてくれる妓夫太郎が好きだ。

「・・・しょうがねぇなぁ」

慈しむように伸ばされた、その大きな手に包まれた頬が熱い。待ち望んでいた様な感覚に、思わずの方からもその手を握ってしまう。放されることを拒むような反応に、妓夫太郎の顔がゆっくりと近付いた。

「聞いてやるから、言ってみろよなぁ」
「これが終わっても、自由時間いっぱい、一緒にいて?」

薄暗い非日常の空間が、二人の警戒心を薄くする。
普段なら抑えの利く部分が、抑圧された気持ちの反動で緩くなる。

「それから・・・少しで良いから、ぎゅってして」

真っ直ぐな黒い瞳に込められているのは、堪え切れない熱だ。それを受け止めた青い瞳が、不意に悪戯に細められる。
の頬を包む手はそのままに、彼の親指が焦らすように唇の端をなぞった。

「・・・本当にそれだけかぁ?」
「もう・・・わかってて言ってるでしょ、」

意地悪、と続く筈だった言葉は、優しく遮られた。


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