良き友人
横に並んだ六本の試験管は、それぞれ正しい化学反応のもと違う発色を見せていた。
「・・・ほう」
伊黒が腕を組んで見下ろす先にあるワークシートには、当然すべての項目に正解が記されている。
筆跡からして記入者は書の道を進む女子生徒の様であるが、隣に座る男子生徒もまた優秀なことを知っている伊黒は、導き出された功績が等しく二人のものであることを即座に見抜いた。
「この短時間で全問正解か、大したものだな」
有機化学実験は原則四人一組で行われるところ、欠席者が出た場合は変則的に二人や三人の組み合わせも発生する。
最少人数で始めた実験を最速で正しく終えるとは流石であると、伊黒は正面の席に掛ける二人の生徒を―――
と狛治を、感心した様な面持ちで見下ろした。
なかなかに厳しい化学教師たる彼がここまで素直に褒めることは珍しい。ざわめく実験室の隅で、
が実験の相方を手で指し示した。
「素山くんが色々先回りして準備してくれていたので」
「・・・いえ、立花の測定が速くて正確でした」
「成程、両者共に友を立てるか。その姿勢も評価しておこう」
今の伊黒は相当に機嫌が良いのではないか、適度にやり過ごしても今日ならば見逃して貰えるのではないか。
そうして期待に騒がしくなる生徒たちを振り返る化学教師の視線は、普段にも増して厳しいものだった。体感温度がぐっと下がる様な恐怖に、実験室の空気は凍り付く。
「倍の人数がいながら無駄口ばかりで結果が出せない奴らは一体何をしている・・・?」
静寂と硬直は一瞬で、生徒たちは慌てて各々の実験を再開する。
何とも言えず苦笑を浮かべる
を見下ろした伊黒は、眉間を揉むことで強引に表情を切り替えた様だった。
「・・・時に、立花妹。意見を聞きたい」
「はい?」
「お前の兄のクラスは同じ実験を明日に控えているのだが、どうも手先が器用でない生徒が多い。立花兄であれば一人でも即終わらせると踏んでいるが、その後指南役として教室を回らせても問題無いだろうか。無論俺も回るが、正直明日のクラスは若干手を焼きそうでな」
目を丸くして聞き入った内容はことの他切実で、同時に伊黒が彼女の兄を全面的に信頼していることの証でもあり、
は数秒の間を置いた末に柔らかく表情を緩めた。
「人に教えることは得意な筈なので、大丈夫だと思います。それに、伊黒先生の助手役なら兄も喜ぶと思いますよ」
「・・・そうか」
中学二年時に担任を受け持って以来、彼は幸太郎に対して特別大きな信頼を寄せている様で、双子の兄と仲の良い
はそれが嬉しいという気持ちを隠すことなく伊黒に頭を下げる。
彼は雰囲気自体は独特であるが、教育熱心な良い教師であるということを
は兄伝いに知っていた。妹である
に事前に相談を持ちかけて貰えたこともまた、嬉しさの上乗せとなる。
「兄のことを評価して下さって、ありがとうございます」
「いや、立花兄は逸材中の逸材だ。あれほどの生徒は見たことが無い」
幸太郎がいかに優秀か。どんな難問を出しても正確に返し切る生徒との、言わば対決に近いやり取りにどれほど心躍ったことか。思わず熱弁しそうになった伊黒は、寸前でその口を閉ざす。
数拍の沈黙を挟み、彼は咳払いをして目の前の二人を見遣った。
「・・・お前達も優秀だが」
教師として、大人として、公平に。しかし訂正の言葉は、あまりに取ってつけた様な出来で。
伊黒自身が頭痛を覚えるほどの格好つかなさである。
が堪え切れない笑い声を漏らすまでに、そう時間はかからなかった。
「・・・ふふっ」
勿論、嫌な意図は一切含まれない笑い声だ。伊黒が幸太郎を評価してくれていることも、兄がその評価に値する優秀な生徒であることも、
はよくわかっている。
それにしても漏れ出す本音の強さに笑いを抑え切れない彼女に代わり、狛治が小さな苦笑を携え伊黒を見上げた。
「大丈夫です。頭脳で幸太郎に敵わないことは俺も立花もわかってます」
伊黒は居心地悪そうに再度咳払いをしたが、その照れ臭そうな表情は隠した口元からも筒抜けで、ますます
は嬉しそうに笑った。
* * *
話が済むなり、レポートをまとめて後は好きに過ごせと伊黒は他のテーブルを見回り始めた。この二人であれば騒がしくする筈も無しと、私語厳禁も言い渡されはしない。
と狛治は伊黒の信頼通りに静かにまとめを書き始めた。時折片方がこれはどうだったかと静かに問えば、即座にもう片方から正確な回答が返って来るため、レポート完成までにかかった時間は実験と同じくものの数分で済んだ。片付けまで互いに分担が行き届いた協力体制により、二人は残りの時間を大幅に残して再度椅子に掛けることとなる。
長いことクラスメイトの関係が続く二人であるが、適度な距離感は最初から今に至るまで変わってはいなかった。異性の友人として、そして互いに決まった相手のいる者同士として。近過ぎず遠過ぎず、実に適切で接し易い。それはお互いに共通する相手の良さだ。
不意に
の目が、サラサラとペンを走らせる狛治の手元を捉えた。瞬間瞬いた末、小首を傾げて頬杖をつく。
「恋雪ちゃんって、センスあるよねぇ・・・」
騒めく実験室の中、ぽつりと呟いた音量は些細なものだったが、隣の席までは容易に届く。
狛治は瞬間手を止めるなり、
の視線を辿ってペンをひと回しした。
白地に一本のラインが煌めくシンプルなボールペンだったが、小さな雪の結晶がチャームとして揺れている。確認するまでもなく恋雪が選んだものだと
は言い当て、狛治もまた隠すことはしなかった。
「これか」
「うん、綺麗。恋雪ちゃんっぽくもあるんだけど、素山くんが持ってても全然違和感無いね」
興味深そうに見つめては来るものの、貸してくれと言う訳でもなく、必要以上に近付いて来ることも無い。感心した様な視線を受け、狛治は僅かに表情を緩めて肩をすくめる。
今褒められている恋人が如何にこの友人に憧れているか、知り合ってから時間が経ってもその一点は決して薄れることがない。
「本人に直接伝えてやってくれ、立花から言われれば間違いなく喜ぶ」
「そうかな?だったら私も嬉しいけど・・・」
さん。呼び名の語尾が彼女の瞳と同じくキラキラと輝き、左右に揺れる尻尾が見えそうな程に喜びと憧れを表現する恋雪を思い浮かべ、
と狛治は同時に緩い笑みを浮かべる。
その刹那、
の瞳が閃きに色を変える瞬間を、狛治ははっきりと目撃した。件のペンを食い入る様に見つめ、二、三度小さくひとり頷き、そしてしみじみと呟く。
「・・・そっか、そういう手があったかぁ」
その、あまりに感心しきった声色は。閃きと期待に満ちた、その表情は。どう考えても仏頂面の恋人のことを考えているであろうことが、筒抜けになっていて。
狛治は思わず、小さく肩を揺らし吹き出してしまった。
「わ、笑うところ?」
「いや・・・お前は相変わらずだなと思って、つい。悪い意味じゃないぞ」
すぐにわかる。
同じ学年であってもクラスの違う妓夫太郎と、ほんの少しでも多く接点を持とうと
が望んでいること。
どうあっても誰ひとり割り込む余地の無い間柄だとわかっていそうなものだが、それでも尚彼女が一分一秒を惜しんで彼と繋がる時間を求めていること。
「極論だが、妓夫太郎は立花から渡された物なら、マスコットのついたペンでも持つんじゃないか」
「んんん・・・流石にそれは選ばないよ」
「極論と言っただろう、何でも喜ぶって意味だ」
恋雪を真似てペンを贈れば、授業中も傍にいられる様な気がしていること。
相変わらずな全力投球は悪いことではないと、狛治は分かり易いクラスメイトに向けて苦笑を向けて見せた。
「良いんじゃないか。使う度に、貰ったひとの顔は思い浮かぶものだ」
実体験を踏まえ、正直にそう告げる。
誕生日でも記念日でも何でも無い日に渡された贈り物は単純に嬉しく、毎日顔を見ている婚約者を更に近くに感じる様になったことも嘘では無い。
適切な距離感の異性の友人。彼女を相手に、何故かこうした誰にでも明かせる訳ではない話もすんなりと出来てしまう不思議。
目と目が合うと、
が少し遠い目をして笑う。
「・・・そっか」
胸の内がくすぐられる様な、幸せを噛み締める様なその笑顔は、ようやく求めた相手の傍にいることの叶った奇跡に明るく照らされている。
約束された縁を手繰り寄せる前から、狛治は
の友人だ。時に不安に涙した顔も知っている手前、こうした
を見ていると素直に嬉しく感じる。
良き友人であり、恋人の憧れ。そして、偶然から随分長いこと近くにいる存在。傍にいなければ知り得なかった現実離れした話も含め、狛治は良き縁に感謝した。
がまた新たに思いついたとばかりに小さく手を鳴らす。楽し気な笑顔はわくわくとして、狛治に伺いを立てた。
「今度買いに行く時、恋雪ちゃんにも選ぶの手伝って貰おうかなぁ。お借りしても良い?」
「俺に断るな。それより、その時は謝花も忘れずに連れて行ってくれ」
「梅ちゃん?」
「お前と二人で出掛けたと知られたら、恋雪さんが噛みつかれる」
を巡り何かと恋雪に対してライバル意識を燃やす美少女の名前を出せば、当の本人はぽかんとした様な顔をして。頭の中でその様子を思い描いたのだろう、ゆっくりと狛治と目を合わせた末に彼女は破顔した。
「・・・ふふっ」
「おい、笑いごとじゃないぞ」
「ごめんごめん。それじゃあお言葉に甘えて、近々女子3人で楽しくお買い物の計画立てようっと」
気の抜けた笑顔でそう告げる
を横目に、形ではまったくと腕を組む狛治の表情は穏やかだった。
彼の世界の中心は恋人であり婚約者に違いないが、
を含めた友人たちと織り成すこの関係も決して悪くはない。
「良い物が見つかると良いな」
それは本心に違いなかった。
懸命に良いものを選ぶ
の姿も、それを受け取るであろう妓夫太郎の姿も、狛治にとってはどちらも想像に容易い。
「まぁ、立花がそうして計画を立てていること自体、あいつにとっては特別嬉しいことだと思うが」
繰り返す様だが、これは単なる本心に過ぎない。
けれどそれを受けた
は、不意にその黒い瞳を丸くして。
「・・・素山くん」
「ん?」
何かに感じ入った様な表情は、ほんの一瞬。穏やかな笑顔が、狛治に真っ直ぐ向けられた。
「私は心の底から、素山くんと恋雪ちゃんの末永い幸せを願うよ」
「突然何だ・・・」
狛治の戸惑った様な目は、数秒もしない内に緩く解ける。
「・・・まぁ、それはお互いにな」
言い出した側にも関わらず、その返答を受けた
は酷く照れ臭そうに笑った。