数少ない弱点



碓氷所有のマンションは、なかなかに良い物件である。
部屋数もある、広さもある。
そして、無駄に巨大なテレビがある。

これを活かして皆で映画を見ようと最初に言い出したのは梅であったが、好評のため定期的に開催されて今日に至る。
メンバーは基本的に妓夫太郎と梅、幸太郎と、そして時には狛治と恋雪も遊びに来たりと賑やかな集いである。スナック菓子や飲み物を持ち寄り、全員で観るものを決めてリビングで過ごす金曜の夜はこれまで通り楽しいひとときになる―――筈だった。

「・・・っうあああ!!!もう嫌ぁ!!!」

何度目かわからない梅の悲鳴が、広いリビングに木霊した。大きな画面には、不気味な無数の手形に怯える主人公の様子が映し出されている。

これを今日の一本に選んだのは一体誰だ。
妓夫太郎は眉を顰めながらも画面から目が離せず、なかなかの見応えに思わず腕を組んだ。洋画と違い派手な演出は無い分、どこから何が飛び出すかわからない静かな恐怖が這い寄ってくる。ジャパニーズホラー恐るべし。

今夜この場にいるのは六人、全員がカーペットの上に横並びで直接座り込んでおり、並びは端から狛治・恋雪・・梅・妓夫太郎・幸太郎である。もう嫌と言いつつも梅は顔を覆った指の隙間から画面を見ているし、ぴちゃりと水音が鳴る度に幸太郎が震えながら妓夫太郎の服を掴んでくる。
ホラー映画の楽しみ方としては間違っていないのかもしれないが、妓夫太郎には心配事がひとつあった。壁を引っ掻くような音と共に緊張感が高まり、いつの間にか主人公の背後に立っていた女の姿が映りこんだその刹那。

「きゃあああ!!!!!」
「っ・・・!!!」

梅が力いっぱいに抱き着き、逆隣の恋雪もまた声なき悲鳴と共にの腕にしがみ付く。
妻が夫ではなくに助けを求めている状況はどうなのだと妓夫太郎が狛治を見遣るも、本人は至って真剣に映画に見入っており耐性がついている様子である。和製ホラーが好みとは意外だった友人のことは置いておくとして、問題は両側の女子から一心に頼られ固められているだ。

「・・・」

先ほどから一切の言葉も反応もなく、ただ梅と恋雪が縋り付く柱の役割に徹している様に見えた。横並びのため位置的に表情が読めないものの、あまり顔色は良くないであろうことが窺える。
画面の暗転、衣擦れの音、古いドアの開閉音、そして遠くで鳴り続く僅かな水音。

「ぎ、妓夫太郎殿ぉ・・・」
「おい・・・離れろよなぁ・・・」

妓夫太郎は溜息と共に幸太郎の手を引き剥がした。



* * *



休日前の夜遅くなった日には、こちらのマンションに泊まって帰ることがいつからか増えた。
例によって碓氷が上手に立ち回ったのかはたちには明かされなかったが、母からは“先方の迷惑にだけはならない様に”と言い含められるのみで、二つの家を行き来するような生活は容認されている。

客間も来客用の寝具もしっかり準備されている中、は今梅の部屋に布団を敷いて横になっている。幸太郎も同じく妓夫太郎の部屋に入れて貰うと言っていたし、一人では寝るのを躊躇する程に強烈な恐怖映画だったのだ。
ふとつい先ほど、と妓夫太郎の二人で狛治と恋雪をエントランスまで見送った時のことを思い起こす。

さん、あの、たくさん頼ってしまってすみませんでした・・・』
『良いの良いの、恋雪ちゃんは気にしないで』

恐怖に震え上がりながらも、恋雪はの腕にしがみ付いたまま最後まで映画を見届けた。そのためすっかり皺の寄った服を指して申し訳なさそうに俯く恋雪に、は笑いかける。頼って貰えることは嬉しいし、何なら逆側の梅は更に強く抱き着いていたのだから気にすることは一切無い。
恋雪の憧れの人の顔をして問題無いと笑うに対し、狛治が小さく呟いた。

『・・・悪かったな』

それは、どういった意味の謝罪だったのか。
恋雪を任せきりにしたことか。の思いの外深刻な苦手分野を見破った上でのことか。
それは、咄嗟には判断出来なかったのだけれど。

『・・・ん。大丈夫』

は笑って長年の級友にそう告げた。
隣に佇む妓夫太郎は何も言わなかったけれど、何かを察せられているような雰囲気を感じた。

そして現在、何度目か数えることすら放棄した寝返りに、ゆっくりと上半身を起こして時間を確認する。
0時45分の表示に眉を下げ、は傍に眠る梅の寝顔を覗き見た。あれだけ本編途中でも怖いと騒ぎ、夜中にトイレに行く時は絶対ついてきて!と強く求めていたにも関わらず、梅はどこからどう見ても朝まで熟睡といった雰囲気で寝息を立てている。可愛らしい梅の寝顔にはつい頬が緩んでしまうし、いつまででも見ていたい気持ちも嘘ではないけれど。現実問題、自分が催したその時になり、はひとりきりの恐怖に怯えることとなってしまった。

高校三年にもなってそんな馬鹿なと冷静になろうとするも、脳裏に過ぎるのは劇中で惨劇が起きた夜中のマンションの一室である。正直なところ一人で部屋を出たくはなく、しかし意識すればする程に尿意が近くなってしまう。
仕方なしに小さく眉間に皺を寄せ、覚悟を決めたようには立ち上がった。



* * *



夜中のトイレひとつでここまで緊張した経験は、一体いつ以来だろうか。
勝手知ったるマンションの廊下も、恐怖の記憶と先入観により初めての場所の様に心細かった。他の三人が寝ている手前、廊下の電気を点けずに前進したことも悪い方向へ作用した様な気がする。

ともあれは無事用を足した末にキッチンへ立ち寄り、小さな安心感に浸った。随分と前から置かせて貰っている自分用のマグカップに浅く水を注ぎ、喉を潤す。余計な水分でこれ以上催す機会は作りたくはないが、緊張と疲労により喉が渇いて仕方が無い。
一口の水で盛大な溜息をついた、次の瞬間。
キィ、という音を立てて開いた扉に、は文字通り飛び上がって驚いてしまった。

「っ・・・!!」

次いで遠慮の結果最小限だった灯りが、パチンという音とともに全灯される。
衝撃に高鳴る鼓動を胸ごと押さえ付けるは、思いもよらぬ恋人の登場に目を瞬いた。と同じく薄い寝巻一枚、しかし片腕に何かを抱えた妓夫太郎が目の前にいる。

「妓夫太郎、くん・・・?」
「・・・こんな事だろうとは思ったんだよなぁ」

突然のことに目を丸くすることしか出来ないと違い、妓夫太郎は何もかも心得ているような顔をしていた。
近付いてくるなり彼女の手からマグカップを攫い、逆に持参した薄手のブランケットを押し付ける。困惑するばかりのの横で小鍋を準備し、攫ったマグカップを一度軽く洗った。

「座って待ってろ」
「え・・・?」

冷蔵庫から牛乳を、戸棚からは蜂蜜を取り出しながらそう告げる。こちらは見ずに手早く準備をする妓夫太郎が、一体何をしに来たのか。それが理解出来た途端に、ゆっくりと胸の内が熱くなる。渡されたブランケットを片手に掴んだまま、は思わず妓夫太郎の背中に飛びついた。

「おい、だからあっちで座って待ってろって、」
「妓夫太郎くん、だいすき」
「・・・」

これには妓夫太郎も口を閉ざした様だったが、は頬の緩みが止まらない。大好きなひとにこんなにも大切に気遣われて、嬉しくない筈が無い。

「来てくれたんだね」

眠れぬ夜に怯えていることを察して、来てくれた。何もかもを理解して、温めようとしてくれている。それだけで恐怖など抜け落ちて、抱えきれないほどの幸福に満たされてしまう。このひとが自分の幸せそのものだと、はうっとりと目を閉じて妓夫太郎の背中に抱き着いた。

さてこの状況自体は、彼にとっても勿論嬉しいのだけれど。何分、二人とも寝巻一枚の薄着である。背後からぴったりと抱き着かれてしまえば健全な男子は頭が痛くなるもので、それは妓夫太郎も例外では無かったが、彼は細く息をついた末に上半身を捩る様にしてを振り返った。
まったく人の気も知らずにと呆れた顔をしつつも、嬉しそうな顔を見てしまってはどうしようも無い。何のために夜中にキッチンへ立っているのか。それを忘れる妓夫太郎ではなく、の額に小さく口付けた末に軽く頭を撫でるまでに留めた。

「頼むから、あっちで大人しくしてろよなぁ。すぐ持っていってやるから」
「・・・うん。ありがとう」

一人分の牛乳はすぐに温まるだろう、蜂蜜は少し多めに入れることを決めた。



* * *



「これだけ一緒にいても、滅多に見つからないもんだよなぁ」

温かい蜂蜜ミルクを堪能し、ソファの上で妓夫太郎の胡坐を枕に横になるという特別な甘やかしを受けながら、は今の言葉に疑問符を浮かべる。

一体何の話なのかと胡坐の主を見上げると、小さな苦笑を浮かべる青い瞳と目が合った。彼の手が少しずれたブランケットの位置を正してくれる、その感覚すら嬉しい。

「何が・・・?」
「お前の弱点の話」

妓夫太郎にしてみれば、は長い付き合いの中でもほぼ欠点の無い存在だ。
以前からずば抜けて頭が良く、今回は更に文武両道ときている。周りの人間からは好かれているし、前回は上手くいかなかった親との関係も良好の様だ。強いて言うならば本当に集中した時の視野の狭まりくらいだが、果たしてそれが弱点と言えるかどうかは際どい。

苦手なものなど何も無いと思われていたの明かす“初めて”がホラー映画とは、少々笑い話の様な気もするけれど。
彼女があまり本格的には思い出さない様、妓夫太郎は滑らかな頬をそっと撫でた。くすぐったそうに微笑みながら、膝を枕に寝転ぶが頬を手に寄せてくる。甘えてくる犬か猫を思わせるこの仕草は、口にはしないが実のところ妓夫太郎のお気に入りだったりもする。

「んんん・・・洋画のホラーなら全然大丈夫なんだけど、邦画だとどうしても寝れなくなっちゃうんだよね・・・。日本の静かな表現力は凄いよ、ほんと」
「ま、それは違い無ぇよなぁ」

派手な血しぶきや狂気の大量殺人鬼よりも、音も無く忍び寄る怨念の類の方が得てして恐ろしい時もある。帰り際の台詞から察するに狛治が選んだであろう今日の作品は、なかなかに強烈な呪いの物語だった。
今この瞬間、優しく甘やかされていなければ思い返すことも厳しかったであろう話題に、は苦笑を交えて妓夫太郎を見上げる。

「はぁ。梅ちゃんあれだけ怖がってたのにぐっすり寝てるの、羨ましい・・・」
「案外なぁ、ぎゃーぎゃー騒げる奴の方が引き摺らねぇんじゃねぇか。立花もあっさり寝てたからなぁ」
「ふふ、そっかぁ・・・妓夫太郎くんは?ホラー、得意?苦手?」

何気なく投げた質問だった。
妓夫太郎もまた観ている間に特別大きな反応が無かった様なので、一度聞いておこうと思っただけのことだった。
しかし何を勘違いしたのか、妓夫太郎は少々悪い顔をして片方の口端を上げる。

「期待してるところ悪ぃが、俺はお前の様子が気になって起きてただけだからなぁ。和だろうが洋だろうが、残念ながらホラーは大得意なんだよなぁ」

結論、妓夫太郎はホラー映画が得意であるということだった。
しかし、の耳に優先されるのは“お前の様子が気になって起きていた”という嬉しい部分である。妓夫太郎の思惑には沿わず、は口元が緩んで仕方がない。

こんなにも喜ばせて、一体どうするつもりなのだろうか。

「・・・ある意味、期待通りだけど」
「あぁ?」
「ふふ、何でも無い」
「ったく・・・さっさと寝ちまえよ、責任もって梅の部屋まで運んでやるから」
「ん・・・ありがとう・・・」

妓夫太郎の大きな手に視界を覆われ、その程良い重みと温かさに目を閉じていると、穏やかに夢の世界へと入っていける様な気がした。
そもそも夜中の今、を寝かしつけるためだけに彼は起きているのだ。なるべく負担にならない様、早く眠りに就かなければ。
そうして心を落ち着ける、その最中。
不意に生じた思いを、は自然と口にした。

「・・・考えてみたら、妓夫太郎くんの弱点・・・私知らないや」
「・・・」
「今回はすごく勉強出来るし・・・運動神経、抜群だし・・・優しいし、格好良いし・・・。あ、やっぱり梅ちゃん?」

妓夫太郎はの弱点が滅多に見つからないと言うが、逆の立場からすれば滅多にどころか梅以外にはひとつも見つからない。本心からの言葉だったが、妓夫太郎は押し黙ってしまう。

暗い視界の中、彼が浅く溜息を吐く音が聞こえた。

「ばぁか・・・最大の弱点が目の前にいるだろうが」

数秒の沈黙の末、の目が開く。
思わず視界を塞ぐ彼の手を動かそうと試みるが、表情を見られたくないためかびくともしなかった。
仕方なしに視界は諦めることとする。暗闇の中での会話も、考えてみれば懐かしい。

「・・・本当?」
「おい、勘弁しろよなぁ・・・わかってんだろ?」

最愛の妹である梅を差し置いて、最大の弱点が自分だなんて、こんなにも嬉しい言葉は無いだろう。
幸せを噛み締めながらも、の中でひとつの欲が顔を出す。

「・・・じゃあ、寝る前に、弱点の私からひとつお願い」
「何だぁ?」

優しい彼を困らせたくはない。
けれど優しくされる度に、もっと欲しくなってしまう。
これは最早、病だろうか。
探り探り伸ばした手で妓夫太郎の顔を探し当て、甘えるように囁いた。

「・・・額だけじゃ、寂しい、な」

数秒の間を空けて、困った様に眉を顰めながらも、妓夫太郎が折れてくれることを知っている。
閉ざされた視界の中彼の顔が近付いてくる気配を、は大きな喜びと共に受け入れた。


 Top