重なる花束



随分と、懐かしい夢を見ている。
夢を夢と自覚するのは珍しいことだったが、煉獄は不思議とその意識を持ち自宅の稽古場に佇んでいた。

時期としては現在より七、八年前といったところだろうか。どう見ても小学生のが、こちらに背を向けて座り込んでいた。
両足を投げ出したり大の字に横になっても咎める者はいないだろうに、足を崩す程度で済ませるあたりが小さくともらしい。
こちらに気付いていないその後ろ姿は疲労感に満ちていて、煉獄は暫し呆然と今より更に小さな背中を見つめてしまう。

これは夢だ。そして、過去の記憶でもある。
身体はある程度の自由が利く様であるが、恐らくは記憶の通りに物事は進むだろう。

「大丈夫か、立花少女」
「煉獄さん!」

呼びかけに振り返った彼女は、瞬間驚いた末に明るい笑みを浮かべて見せた。
煉獄さん、と呼ぶその声もやはり今より幼く響き、これが夢だということを一層実感させる。
十歳前後の幼い彼女が崩した姿勢を正そうとするのを制し、煉獄はのすぐ隣へと腰を下ろした。

「すみません、ちょっとだけ休憩中です」
「何を謝ることがある、休息は必要だ」

少し困ったように笑いながら頭を掻く仕草は、この頃から変わっていない様だった。
前髪が汗で額に貼り付き頬が少し赤いのは、彼女が稽古に全力を挙げている証だ。
今の彼女を知っている分余計に小さく見える身体で、は精一杯の力を振るっている。
煉獄は一層小さなその身体を励ます様に、明るく笑いかけた。

「随分熱が入っているようだな!感心感心!」
「まだまだです。出来ることが増えるのは嬉しいから、もっと稽古します」

向上心の高さもこの頃から変わらずか、と煉獄は内心で思わず笑ってしまう。大人顔負けの意欲で稽古事に励むから、弱音を聞いたことは無い様に思う。いくら褒めてもまだまだ、いくら認めてももっと出来ると、この小さな少女は先のことばかりを目指している。昔の記憶を辿る夢というのは不思議なもので、煉獄は目の前の少女と今のとを比較して色々なことを考えてしまう。
稽古場の入口に控えめな戸を叩く音が響いたのは、丁度そんな時のことだった。

「失礼します」
「千寿郎くん!」

が嬉しそうな声を上げる。まだ小さい頃の千寿郎がそこにいた。
実年齢よりもかなりしっかりした言葉遣いをしているが、そこが見た目の幼さと相まって絶妙に可愛らしい。我が弟ながらそんなことを考えてしまい、煉獄は目を細めて笑う。
千寿郎は小さなトレイに麦茶を一杯持たされており、一礼をした後にの目の前へそれを差し出した。

「父上からです。お茶を飲んだら今日の稽古はおしまいにして、母上のところへ行くようにと」
「え?どうして・・・」
さんの手を、気にされていましたが・・・」
「手?」

瞬間、の丸く握られた手が強張ったような雰囲気を察知し、煉獄はおやと瞬く。
稽古の中断、母のもとへ行けという指示、自然を装い隠された手のひら。
そうだった、こんなこともあったと頭の中では冷静に記憶を思い起こす。

「失礼するぞ」
「えっ、あの・・・」

乱暴にならない程度の力で細い手首を掴み、上向かせる。観念したように開いた小さな手のひらは、見る側も思わず顔を顰めるような有様になっていた。

「これは・・・なかなかだな」

子どもの手のひらには似つかわしくない様な血豆が潰れている。それも、一カ所ではない。これには傍らにいた千寿郎がか細い呻き声を上げた。

「うう・・・痛そうです、大丈夫ですか?」
「んー・・・大丈夫だと思ったんだけどなぁ」
「ひとまず水分を摂ると良い。話はそれからだ」

勧められた麦茶を大人しく飲み干し、は若干気まずそうな顔をして細い息を吐き出した。これを見られればどう思われるか、わかっていたのならば無理を押していたということだ。兄弟からの無言の圧に弱ったような顔をしたは、詫びるように小さく頭を下げた末に顔を上げる。

「・・・心配かけちゃって、すみません。でも大丈夫」

大丈夫。そう小さく繰り返しては苦笑を浮かべた。

「こういうことを繰り返して、多分強くなれると思うので」
「でも・・・」
「ありがとう、千寿郎君。気持ちは嬉しいよ」

案じることを止められない弟に感謝を告げつつも、は笑う。その横顔を見下ろし、煉獄はふと覚えた既視感に目を見張った。
彼女がまだ中学生だった頃、天神杯最初の優勝を遂げた後のことだ。忙しいくらいが丁度良いのだと。王座を手にして尚、まだまだ課題は山積みだと前のめりな姿勢を見せるに対して覚えた気持ち。

「もっと強くなって、もっともっと有名になりたいから。まだまだ、沢山頑張らなくちゃ」

一切脇目も振らず、この道の勝敗に全てを懸ける様な生き様に覚えた危うさ。それと寸分違わぬ不安を小さな少女に感じた、次の瞬間。
煉獄の耳は、この時の記憶には無かった微かな囁きを拾い上げた。

「・・・はやく、見つけて貰えるように」

特別意識していなければ聞き逃していただろう。
それは、独り言とも到底呼べない様な音量の囁きだった。
しかし今、夢の中で昔の記憶を辿る奇妙な体験の中、煉獄は少女の独白をはっきりと聞き取ることに成功する。

が何故幼い頃からこんなにも懸命になっていたのか、煉獄はその理由を具体的には知らない。
もっと、有名になれる様に。
はやく、見つけて貰える様に。

不意に脳裏に浮かんだのは、高校に入学して以来彼女の隣に現れた少年の姿。
彼の隣に寄り添うことでようやく危うさが薄らいだ、穏やかなの笑顔。
根拠も無く点と点が線に繋がっていく様な、不思議な感覚。

「大丈夫だ、立花少女」
「煉獄さん?」

記憶が正しければこの時小さな少女に対し、無理をするなとしか言えなかった自分がいた筈だった。しかしこの夢の中で、煉獄は初めて記憶と違う言葉を発することが叶うことに気付く。

今更記憶と違うことをしたところで、ここは煉獄の夢の中だ。現実のには何の影響も無い。だからと言ってこの思い詰めた様な少女を放っておくことは、出来なかった。
小さな両肩に手を置き、力強い笑みを浮かべて言い聞かせる様にこう告げる。

「焦りは禁物だ!立花少女の頑張りは、必ず実る!」
「・・・」
「必ずだ!こんなに努力していることが実らない筈が無い!俺が保証する!」

暗闇の中で藻掻く様な今は、さぞかし苦しいだろう。だからこそ、こんなにも懸命になって前へ前へと進もうとしているのだろう。
しかし、煉獄はこの先のを知っている。この世界での名声を順調に上げ、そして同時に穏やかな幸せを得た彼女の姿を知っている。
今は辛くとも、大丈夫だ。未来のは報われ、年相応の笑顔が似合う十八歳に成長している。それを知っているからこそ、力強く保証することが出来る。大丈夫だと、何度でもはっきりと言える。
の大きな黒い瞳が丸く見開かれ、薄い涙の膜に覆われる瞬間を、煉獄はしっかりと見届けた。

「・・・ありがとう、ございます」

震える唇を噛み締め、その目元をぐっと腕で擦り、少女は顔を上げる。

「私、頑張ります!」

涙を堪えたその笑顔が、ほんの僅かでも安堵を覚えていてくれたなら良い。
煉獄は優しい笑みを携え、大きく頷き返した。



* * *



その日の夕方、記憶の通りの母が車を出して彼女を迎えに来た。手当てを受けたことを、本人がすぐに電話で知らせていた様だった。門から少し離れた位置に止まった車から荷物を受け取り、が小走りに門まで戻って来る。
見送りに出ていた煉獄は、夕日の逆光で眩しいその姿に手を翳した。駆け戻ってきたは紙袋を手にしており、小さく頭を下げた末にそれを煉獄へと差し出す。
その手元は、しっかりと清潔な包帯で覆われていた。

「あの、母からです。瑠火先生に、今日の手当てのお礼で渡してください」
「それは・・・逆に気を遣わせてしまってすまないな。必ず渡すので、御母上によろしく伝えてくれ」
「はい。あと、これを・・・」

正直、この日の夕方の記憶は曖昧だった。
随分と昔の記憶ということもあるが、の血豆事件が強烈過ぎて、見送りに出た時受け取ったものが果たして菓子折りだけだったのかどうか、自信が無い。
けれど今、目の前のの手には小さな花束が握られていた。

「・・・」
「煉獄さん、今日お誕生日ですよね?」

夕焼けに染まる幼い少女は、笑顔で煉獄を見上げている。

「お誕生日おめでとうございます!いつも見守って下さって、ありがとうございます!」

煉獄は暫し呆然としてしまう。
もう随分と長いこと知っている妹の様な存在の、懐かしい姿が眩しい。
幼い笑顔に見上げられて覚える気持ちは、やはり家族の様な温かなものだった。
夢か現かは問題ではない。ただ、この少女にはいつだって幸多き道を歩んで欲しいと、心の底から願う。

「・・・ありがとう!」

小さな花束を受け取り、その頭に手を伸ばし少し強めに撫でる。
わ、と小さく声を上げつつも照れ臭そうに笑って貰える、この距離感が嬉しい。

「立花少女の成長を見守れることが、俺の喜びだ」

これが本当に昔あった出来事なのか、記憶と違う行動を取った故の差異なのかはわからない。
しかし煉獄は、小さな少女から贈られた花束を大切に受け取った。

夢は、そこで覚めた。


* * *



何故、今日に限ってあの様な夢を見たのか。
夢でありながら夢の自覚があり、昔の記憶を辿る様で完全な再現という訳でもない、不思議な体験だった。
誕生日を家族で祝って貰えることを話すなり、ならば今日くらいは早めに帰れと同僚に背を押され夕暮れの帰路を辿る道なり、煉獄はぼんやりとそんなことを考える。

夢に出て来た幼い少女は今や高等部で最後の一年を過ごす学生であり、書道の世界においては将来を約束されている様な期待の星だ。
今も華奢な体格自体は変わらないが、それでも十歳の小さな少女からは大きく成長して今の彼女がある。夢の中とはいえ、懐かしく不思議な体験をしたものだ。
自宅の門の前に立つ影が目に入ったのは、そんな時のことだった。

「・・・謝花?」

まさしく今考えていた少女にとって、大切な存在がそこにいる。
小さくその名を呟くと、門に寄りかかる様に立っていた妓夫太郎は気怠げな視線を寄越した末、背後を振り返った。

「・・・おい、帰って来たぞぉ」

いつぞやの様にの稽古が終わるのを一人待っているのかと思いきや、そうでは無い様だった。
煉獄の位置からは死角だった門の内側から、妓夫太郎を挟む様にして見知った顔が覗き込んで来る。
幼い少女の面影が残るその笑顔が、煉獄の姿を認めてぱっと花開いた。夕焼けに染まるその光景は、否応なしに夢の体験と被る。

「煉獄先生、お仕事お疲れ様でした!」
「あぁ。稽古終わりか、そちらもお疲れ様だな!」
「はい!」

妓夫太郎はの稽古終わりの迎えを欠かしたことが無い。今日も並んで帰るのであろう二人の姿は、やはりしっくりと来るものだった。
しかし、帰って来たと告げた妓夫太郎の台詞が気にかかる。もまた門の前にいたのならば、すぐに帰らない理由として考えられることはひとつだ。

「・・・二人で俺を待ってくれていたのか?」
「えっと・・・はい」

はほんの少し照れた様な笑みを浮かべ、後ろ手に隠していたものを差し出した。

「今日は多分、学校でも沢山お祝いされたとは思うんですけど・・・」

思わずはっとして、目を見張る。
見覚えのある小さな花束を手に、が微笑んでいた。

「お誕生日おめでとうございます」

夢に見たばかりの光景が脳裏に甦る。

「いつも見守って下さって、感謝してます」

幼い少女は十八歳の立派な姿に成長を遂げた。
そして、何物にも代え難い幸福を得た。
その笑顔は昔から変わっていない様でいて、大きく違う。斜め後ろに佇む大切な存在を得て、彼女の気持ちは今穏やかに満たされている。それが明確に現れた笑顔が、動かぬ証として目の前にある。

この光景こそが見たかったものなのだと、漸く煉獄は理解した。あの日思い詰めていた少女は、今全てを報われてここに立っている。

「・・・立花少女の幸せを見守れることが、俺の喜びだ」

煉獄は小さな花束を大切に受け取り、目を細めて笑った。

いつまでも妹の様な存在は今、温かな幸せを手にして生きている。夢の中で望んだ通りの未来を目の当たりにして、嬉しくない筈が無い。

「二人とも、ありがとう!」
「う、わぁ!」
「おい、よせよなぁ・・・」

順番ではあったが少々強めに頭を撫でられ、二人はそれぞれ違った反応を返してくる。
煉獄の明るい笑い声が夕暮れ時に響いた。


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