生きている音が聞こえる





手の中から、指と指の隙間から。
命が零れていく様な、そんな音がした。

自分の命より大事な存在を喪う思いは、もう二度と繰り返したくないものだというのに。
こんなにも鮮明に、身体と心は恐怖を記憶している。





「っ・・・!!!」

息苦しさから突如解放された様な心地で、夢から醒めた。
自身の部屋、普段通りの光景、時計の針は未だ午前六時に到達していない。妓夫太郎は深い溜息を長い時間かけて吐き切ると頭を抱え込んだ。
夢だ。ただの夢、悪夢の様な記憶とも呼べるかもしれないが、今となっては関係の無い夢の筈だ。
心配はいらない。大事なものは傍にある。
薄らとかいた汗を拭いながらそこまで考え、妓夫太郎は不意に昨晩の出来事を思い出した。

とその兄、そして梅を交えた四人で例によって週末の映画鑑賞を遅くまでしていた為、彼女は今朝二つ隣の部屋で眠っている筈だ。
休日の朝六時前なのだから、当然寝ているだろうとは思う。頭ではわかっていることが、今朝に限ってはどうも落ち着かない。眉間に皺を寄せて悩んだのはほんの数秒、妓夫太郎は静かに起き上がり部屋を出るなり目的の扉の前に立った。

寝顔を確認するだけだと、自身に言い聞かせる様にしてやっとの思いで開いたドアの向こう。
ベッドがもぬけの殻であることは、妓夫太郎の心臓に酷く負担をかけた。

否応なしに蘇る不安、嫌な加速を続ける心音、喉の奥がひりつく様な感覚。
そのままではマンション中の扉を開け放ちかねない勢いだったところ、最初に向かった先でを見つけられたことは幸いだったのだろう。

「・・・っ・・・びっくりしたぁ」

尤も、キッチンカウンターの前でぼんやりとしていた彼女にしてみれば、突然物凄い勢いで開いた扉に肩を震わせてしまうことも無理無い状況であったのだけれど。は目を丸くして驚きを表現したものだが、すぐに普段通りの笑みを浮かべて妓夫太郎を迎え入れた。

「おはよう。早いね」

半袖のパジャマ一枚、まさしく起きたばかりといった様子のがそこにいた。妓夫太郎と時計を見比べ、まだ六時前なんだねと小さく呟き笑っている。

「えっと。朝ご飯まだ準備出来てないから、もっと寝てても全然平気だけどどうする?昨日遅かったからまだ眠いでしょ。あ。何か飲むなら座っててくれれば・・・」

が傍にいる。兄妹揃って週末に泊まることが時折あるため、普段より嬉しい土曜の朝だ。勝手知ったるといった様子で彼女がキッチンに立つのはいつものこと。妓夫太郎のマグカップの位置を当然把握しているのもいつものこと。

ただ、その普段通りが今朝はやけに沁みる。

無言で駆け寄るなり、妓夫太郎は冷蔵庫に手を伸ばしかけたの身を横から抱き寄せた。
ぴたりと隙間の無い距離感はお互いに馴染んだものだ、突然の抱擁を受けても驚きや硬直の反応は無い。けれど、妓夫太郎の違和感に気付けないでは無かった。

「どうしたの?」
「何でも無ぇ」

何も無くは無いだろう。誤魔化し方ひとつまるで様にならないが、ともかく今朝の妓夫太郎には余裕が無かった。嫌な夢を見たことが引き金であることは間違いなかったが、口にすることすら恐ろしくて仕方が無い。
横から閉じ込める頑なな腕に大人しく抱かれ、は暫くの間黙って様子を見ていたが、妓夫太郎からそれ以上の言葉が無いことを察すると身を捩りその手を握った。

早朝とはいえ夏もかなり本番に近い。触れ合った分だけ暑さは増すものだが、お互いそれを不快にはまるで感じない。

「妓夫太郎くん、こっち」

優しく手を引かれ諭されてしまえば、最早逆らうことなど出来はしない。
妓夫太郎は彼女の言うままにダイニングの椅子に座った。隣に座って飲み物でも促すかと思われたは傍に立ったままである。
単純な疑問から見上げた先にいたは、少々緊張した様な面持ちで妓夫太郎と時計とを見比べた。

「梅ちゃんもお兄ちゃんも、まだ暫くは起きて来ない筈だから」

それはまるで、自身と妓夫太郎にそう言い聞かせている様な。それでいて、弁解の様な声色も含まれたもので。
ますます怪訝そうな顔をした妓夫太郎の視界が―――塞がれた。
正確に言うならば覆われたといった方が正しい。傍らに立つが、横から覆い被さる様に妓夫太郎の頭を包み込んでいた。
繰り返す様だが互いに起きたての格好をしている。どう考えても、頬から耳にかけて感じる柔らかさは、男子高校生にとってはよろしくない。

「・・・おい、、」
「わ・・・私も恥ずかしい、けど」

相手がゆえに振り払うつもりは無いが、苦言は呈す。しかし彼女は口調こそ照れたものでも退く気配が無い。身動きが取れないなりに懸命に腕を組んで耐えるところにますます押し当てられる柔い感触に、勘弁してくれと眉を顰めたその時だった。

妓夫太郎の耳が、一定のリズムを刻む低い音を拾う。

「・・・心臓の音、聞こえる?」

血を巡らせ、彼女の身体を機能させる音。が確かに生きている証。
トクントクンと脈打つその音を、彼女は聞かせようとしている。
それが理解出来た途端、妓夫太郎の肩の力が抜けた。
意図が伝わったことで安堵したの吐息すら、直接身体に流れ込んで来る様な一体感だ。

「私ね、妓夫太郎くんとくっついてる時、時々この音を聞かせて貰ってるの」

悪夢の内容は話していない、話すつもりも無い。
けれどは何らかの不安を察し、こうして最も的確な解決策で妓夫太郎を包み込む。

「妓夫太郎くんの体温とか、匂いとか、触れてる感覚とか・・・特に心臓の音を聞いてると、安心するんだよね」

彼女の熱と今も耳元に刻まれる心音によって、漠然とした不安の棘が溶かされていく。
妓夫太郎のすべてに触れて安心すると告げるの表情が、不思議なことに見えなくとも読める気さえした。

「この音を聞いてると、傍にいられて幸せだなぁとか、大好きだなぁって、改めて思うの」

甘やかな声は、多少の気恥ずかしさもあれど圧倒的にの本音が勝っている。
傍にいられて幸せだと、大好きだと告げる彼女の声は淀み無い。よく知っているからこそ信頼出来る思いが、じんわりと身体の芯へと染み入った。

「生きてる音って、不思議だけど凄いパワーだよねぇ。いつもは私が安心を貰ってばっかりだから、少しでもお返しが出来たら嬉しいなぁって思ったんだけど・・・」

そこで一旦、の言葉が途切れる。突然思い切ったことをした自覚はあったのだろう。頭を抱いたままの腕が若干緩み、その指先が妓夫太郎の髪を戸惑いがちに撫でた。

「その・・・迷惑だった?」
「・・・いや」

それまでなされるがままだった妓夫太郎の腕が、の腰を掴む。再度ぴたりと耳を左胸に押し当てられる感覚に、今度はの方が目を瞬いた。
今までもそれなりに速いペースで脈打っていた音が、更に一段階速度を上げる。妓夫太郎は思わず口の端を上げた。何ひとつ語っていないにも関わらず、すべてを覆い尽くしてくれたのだ。迷惑である筈が無い。

「速ぇなぁ」
「うっ・・・どうしてもドキドキはしちゃうから・・・落ち着く音じゃなかったらごめん」
「そうは言ってねぇんだよなぁ」

両腕で細い腰を抱き寄せる様にして深く息を吸う。
の言う通りだった。体温も匂いも感触も、何よりこの心音が安心感を齎す。

「お前が生きてる音なんだろ」
「・・・うん」
「だったら、それで良いだろうが」

鼓動が速くとも落ち着いていようとも、の音には変わりない。彼女が命の音を意図的に聞いていたとは初耳だったが、逆の立場で今日耳を当てて覚えた気持ちは穏やかなものだ。

「・・・悪くねぇ」
「ほ、ほんと?」

安堵と若干の戸惑いの混ざった声が、耳をくすぐる。
ふと視線を落とすと、実のところ片足を上げてしまいそうになる程ぎこちない彼女の様子が目に入った。

「・・・でもなぁ」

思わず頬が緩んでしまうが、それを悟られるより早く立ち上がり、妓夫太郎は正面から華奢な身体を抱き締める。

「やっぱり俺は、こっち側なんだよなぁ」

特別な温かさを両腕に収めた時の、実にしっくりと来る感覚に苦笑が零れる。滅多に無いであろう先程の体験が気に入らなかったと言えばそれは嘘になるが、やはり閉じ込められる側は性に合わない様だった。

「無理してない?もう大丈夫?」
「おぉ、お前のお陰でなぁ」

何も言わずとも、不安を察知してくれる。その黒い瞳が一心に心配してくれる。
もう十分に落ち着いたことを告げれば、ようやく腕の中のが安堵に和らぐ気配がした。

「私も、こっち側が落ち着くなぁ」

細い腕が背中に回り、頬を摺り寄せる様にしてが小さく笑う声がする。
鼻からいっぱいに空気を吸い込むその様子は、恐らく心音に耳を傾けているであろうその表情は。例え目は合わずとも、疑う余地の無い程に幸せに満ちていることがわかる。

「だいすき」

彼女は唄う様に、それでいて大切にその言葉を口にする。


「なぁに?」

呼びかけに応じて顔を上げた黒い瞳と、近い距離で真っ直ぐに目が合った。

数多くの奇跡が絡み合って今がある。何かひとつでも違えば、この期待と幸福を詰め込んだ様な瞳と見つめ合うことは叶わなかっただろう。
信じ難い程眩しい光が今手の中にあると思うと、堪らない気持ちになってしまう。
そっとその頬に触れて、思うこと。それは。

「・・・何でも無ぇ」

どれほど感謝しているか、どれほど大切に思っているか。

ただ、相応しい言葉が見つからない。
困った様に眉を下げてしまう妓夫太郎に対して、は可笑しそうに目を細めて笑った。

「ふふ。そうなの?」

何も言わずとも、大切な何かは見抜かれている様な気がして。
それでも何も言わずに寄り添ってくれるが、いかに大切か。

お互いに薄く汗ばむ様な暑さもまるで気にならず、額に口付けると幸せそうに笑うの声が朝のダイニングに響いた。




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