縁を繋いでくれたひと 弐







「立花先輩!新しいトーナメント戦、頑張ってくださいね!」
「応援してます先輩!」
「ありがとう。頑張ります」

何人目かも知れない声援をひとつひとつ受け止め、は優しい笑顔で最後の二人を見送った。
会見が終わってからは袴姿と写真を撮りたいと揉みくちゃにされ、制服に着替え終えてからも先輩後輩から握手を求められ更に引っ張りだこ。幸太郎の懸命な列整備と二度目の並びを断固阻止する兄妹によって何とかの身体が空いたのは、日が傾き始めた頃だった。

「驚かせちゃって、ごめんなさい」

漸く四人だけになった教室でカーテンを後ろ手に閉ざし、が眉を下げて微笑んだ。目の前には妓夫太郎と梅もいたが、それが双子の兄へと向けられた言葉だとわからない二人では無い。
有墨。
それはかつて、幸太郎の弟であった春男が、浮世絵師として名乗っていた号だった。
突然のことで当然驚いたであろう双子の兄を見据え、が申し訳無さそうに苦笑を浮かべる。

「大旦那様のお名前を出させていただくのに・・・お兄ちゃんにだけは、相談した方が良いのかもって悩んだけど、」
「・・・いいえ」

幸太郎はゆっくりと首を横に振った。
懐かしさと切なさの境界を曖昧にして、その瞳が穏やかに細められる。

「確かに驚きましたが・・・とても、嬉しかったです」
「お兄ちゃん」
「春男は、家族に迷惑ばかりかけていた私には勿体ない程・・・自慢の弟でしたから」

不可解な惨劇によって友人達を突如失った幸太郎が、その後どんな人生を送ったか。それを弟である春男がどんな思いで見守り、そして見送ったのか。
奥田屋で珠姫が絵に描き起こされたあの日、彼らはそれを聞いていた。だからこそ、幸太郎が胸に抱く複雑に絡んだ悔恨も理解出来る。
出来る、けれど。

「勿体ないなんてこと、無いわ」
「・・・梅殿」

一歩退いた位置にいた梅が、堪らずと言った様子で進み出るなり後ろから幸太郎の腕を掴んだ。
梅はあの日聞いた話から、兄を憂いた春男の気持ちを知っている。しかし、それほどまでに自分たちを大切に思ってくれていた幸太郎の苦悩も理解出来る。四人揃った幸福な今、もしも自分ひとりがある日突然取り残されたならば。それは考えただけで、耐え難い痛みだ。

「先生は、今も昔も私の大事な先生よ」
「・・・ありがとうございます」

梅の手には無意識に力が入る。ブレザーに寄った皺すら慈しむ様に、幸太郎が優しく小首を傾げて笑った。

そうして過去を振り返る兄を正面に、小さく俯くに影が差す。大きな手が頭に乗せられる感覚は、いつだってこの上なく優しいものだ。

「今度は春男の名前を、広めたかったんだなぁ」
「・・・うん」

妓夫太郎と梅に逢いたい。その一心で進んだ結果、の名は十分過ぎる程に広まった。今ならばきっと、恩人の名を世に伝えることも叶うかもしれない。天神杯の改名はまたとないチャンスだ。願いを汲んでくれる青い瞳を見上げ、は安堵した様に眦を下げた。
有墨杯。その名を掲げた際の騒めきが、ほとんど疑問に満ちていたことくらいはわかる。数多く存在していた江戸時代の浮世絵師の中にあって、有墨はほぼ無名。これが現実だ。しかし、今は無名であっても、いつかは。

「春男くんが・・・大旦那様が、素晴らしい浮世絵師だったって。一人でも多く、知って欲しい」
「・・・ありがとうございます、

尊さを噛み締めるかの様な幸太郎の言葉に、はゆっくりと首を横に振る。礼を告げたいのは、こちらの方だと。込み上げる想いをひと呼吸に乗せて、は目を閉じる。

「どんなお礼をしても足りないくらい・・・大切なひとだから」

暗闇の中でも、生きることは出来ると。大事なことを、教えてくれたひと。

髪を柔らかく撫でられる、くすぐったくも嬉しい感覚に、はそっと口の端を上げた。




* * *




天神杯が有墨杯と名を改め、半月が経過した。
の日々は稽古で忙しなくも充実しており、この冬も瞬く間に過ぎ去るのだろうと予感させた。

とある休日。招かれた先で炬燵を囲む四人の中で、一番先に勧められたものに手を付けた梅が目を丸くする。

「・・・!このみかん美味しい!甘い!」
「そうか」

静かに返事をしたのは此処の家主である鱗滝だ。遡ること二年半、度々柊組が通った稽古場併設のこの家に、今日たち四人は招かれていた。
出された蜜柑の甘みに目を輝かせる妹を見遣り、兄の手が当然の様に己へ出された分を押しやった。スライドされた蜜柑を見下ろし、ぱっと明るい表情で梅が笑う。言葉は無くとも十分過ぎる程眩しい光景に、妓夫太郎は穏やかに笑い梅の頭を撫でた。
そんな遣り取りに思わずと幸太郎もほっこりと目を細める中、鱗滝の手が大ぶりの蜜柑を掴み妓夫太郎の前へ着地する。怪訝な顔をする妓夫太郎に対し、天狗面の下からは変わらず落ち着いた声が漏れた。

「兄として妹に譲る姿勢は立派だが、子どもが遠慮をするな」
「・・・子どもじゃねぇんだよなぁ」
「儂からすれば、いつまで経ってもお前たちは子どもだ」
「・・・」

十七歳、高校二年生を子どもと呼ぶか否か。彼らにとって絶妙なラインは圧倒的な年長者の言い分によって、乱暴ではなくとも穏やかに押し流されてしまう。
梅と同列に子ども扱いされること。忌避されることなく、妹と同じ輪に引き込まれること。と幸太郎以外の、云わば繋がりの無い間柄に於いて、当然の様に“普通”の扱いを受けることに戸惑いながらも、彼は年月をかけて少しずつ溶け込もうとしていた。

「数は十分ある。貰い物だが、儂ひとりでは食べきれんのでな。ひとつでも多く助けて貰えると有難い」
「美味しいよ、妓夫太郎くんもいただこう」
「・・・おぉ」

横からに背を押されることで蜜柑に手を付け始めた妓夫太郎を見遣り、天狗面の下で鱗滝が優しく微笑んだ。美味しいねと綻ぶ笑顔に取り囲まれ、無言で目を逸らしながらも頷く表情は、本人がどう言おうとも鱗滝にとっては幼く映る。

「ありがとうございます。私たちまでお邪魔してしまって・・・」
「気にするな、活気があって良い」

幸太郎の礼を受け、鱗滝は穏やかに笑った。若者を四人も招き同じ炬燵を囲む。何とも温かな団欒に心を緩ませつつも、大事なことを忘れまいと天狗の面がに向き直った。
蜜柑の甘さにはしゃぐ年相応の顔とは別に、半紙と墨に向かい合う若き書道家の表情を間近で目にしたばかりなのだ。特別に仕上げて貰った掛け軸を思い起こし、背筋を伸ばした末に鱗滝は心からの礼を口にした。

「良いものを見せて貰った。やはりお前の字は素晴らしい。忙しいだろうに、年寄の我儘に付き合わせてすまなかったな」
「いえいえそんな・・・こちらこそ。鱗滝さん、本当に手放しに褒めて下さるから・・・私も嬉しいんです」

褒められることが、嬉しいとは。書道の世界で最も有名な若手とは結び付き辛い表現に小首を傾げる鱗滝に対して、が苦笑交じりに額を掻いた。

「有難いことに応援のお声も多いんですけど・・・ある程度お年を召した方には、やっぱり母の名が先行する様で。まだまだ、お叱りのお声も多いです」
「俄かには信じ難いが・・・」
「本当よ」

言葉の通り戸惑う老人に対し、眉を顰めながらも後押したのは梅だった。甘い蜜柑を頬張りながらも、苦いことを思い返しているのか、これでもかと言わんばかりに眉間に皺が寄る。

転居転校を経て本格的に四人で過ごす時間が増え、丸二年が経とうとしている。書道の世界が考えていたより広く多様な目がある中、へ向けられるものが決して賞賛だけではないという現実を兄妹は理解していた。とはいえ、主に年配者の凝り固まった価値観には辟易する。
が少しでも目立つパフォーマンスに重きを置くことに、どんな思いを込めていたのか。知りもしない一部の者から慎みだの品性だのちくりと刺す様な心無い小言も受け止めなくてはならないとは。長い歴史を築いた先達の話は聞くべきと黙って飲み込む忍耐強さは、妓夫太郎と梅には真似出来そうも無い。思い返すだけでむかむかと込み上げる怒りを甘い蜜柑で塞ぎながら、梅が顔を背ける。

「お年寄りって意地悪で厳しいひとばっかり。ほんとヤになっちゃう」
「まったくだなぁ・・・」
「まぁまぁ、梅ちゃん。妓夫太郎くんも・・・。あの、だから本当に、鱗滝さんに褒めていただけると私も嬉しいんです。自信がつきます、ありがとうございます」

を未だ二世としか見ようとしない頑なな年配者は底意地が悪い。そう考えているからこそ、を正面から褒め称える鱗滝は梅にとっても特別好感の持てる存在だった。天狗の面に向かい、常であれば四人の中でしか見せない様な美少女の笑顔が満開に咲き誇る。

「だからアタシも、お姉ちゃんを褒めてくれるおじさん、好きよ」

炬燵を囲む五人の頭上に、空白の点が三つ並んだ。
おじさん。気に入らない者は大抵ブサイクか呼び捨て、酷い呼称を通例とする梅にしてみれば随分と愛のある呼び方に違い無い。
しかし、それが果たしてこの校務員に通用するものだろうか。流石に妓夫太郎も若干汗をかく緊張感が梅以外の三人を取り巻いた。

「・・・う、梅殿、その呼び方は・・・」

そっとフォローを入れようと幸太郎が眉を下げた、次の瞬間。
天狗の面の下から僅かな忍び笑いが零れ、緊張が溶ける感覚で三人の目を丸くさせる。

「・・・はは、そうか」
「そ!もっともっとお姉ちゃんを応援してよね!みかんもっと食べて良い?」
「好きなだけ食べると良い。ほら、お前もだ」
「・・・」

まるで親戚の子どもを相手にするが如く、鱗滝の声は優しい。
礼儀がなっていないと喝を入れられるかと恐れた展開は回避出来た様で、新たな蜜柑を出された妓夫太郎を始め、と幸太郎もまた目を見交わし力の抜けた笑みを浮かべる。
梅の悪意無き、それでいて人を選ぶ特殊な懐き加減を、鱗滝は広く理解し受け入れてくれた様だった。

「・・・すみません、鱗滝さん」
「構わん。校務員もおじさんも大差無いだろう。おじいさんの方が正しい様な気もするが」
「えー?だっておじさん全然元気でしょ。まだおじいちゃんには早いんじゃない」
「・・・そう言われては、少しでも丈夫でいなければという気になるな」

和室の空気が丸く和む。梅の可愛さには誰も敵わないと愛おしく彼女の白髪を撫でるを暫し見遣り、鱗滝が瞬間俯いた末に顔を上げた。

「今日お前を呼んだのは・・・実のところ、話がある為だ」
「あっ・・・はい」
「畏まる必要は無い。気を楽に、聞くと良い」

反射的に背筋を伸ばすを制し、天狗面の下の表情が緩む。
若者四人からの視線が集まる中、穏やかな声が紡ぐその話題は。

「儂の生家近く、馴染みの古美術屋がある」

の胸の内に、はっきりとした波紋を齎す力を持っていた。
古美術。その単語から見る見るうちに姿を現す期待を堪え切れず、握った拳が丸くなる。

「―――有墨。その店で度々目にした名だ」

願った未来そのものが、突如として近付いてくる。その感覚には言葉を失った。

が新たな命名をして以来、有墨とは何者かと注目が集まった。
江戸時代の浮世絵師のひとり。現代に於いても有名とされる絵師ではなく、しかし変わった風貌から“鬼の浮世絵師”と呼ばれていた、と。
彼女が演技序盤に必ず身に付ける鬼の面、その起源が有墨に繋がると知ったファン達の反応は嬉しいものに違いなかったが、無名さが邪魔をしてか作品そのものの発掘にはなかなか結び付かず今に至っていたのだ。学生の身では伝手にも調べ方にも限界がある。どこかで何かが芽吹いていることを祈っていた矢先の、朗報などという言葉では表現の追い付かない驚きに、の胸が熱くなる。

「あまり広くは知られていない江戸の浮世絵師のひとりだと理解していたが、長いこと店主が贔屓にしていてなぁ。付き合いの長い店だったこともあり、儂も自然と名を覚えてしまった。まさか、お前が新たな冠としてその名を出すとは・・・いや、鬼の面を使うと知った時から、予感めいたものはあったのかもしれんが」

が発信するよりずっと前から、彼の絵に魅入られていた人物がいた。加えて、身近な存在と縁が繋がっていた。
心臓が強く脈打つ。喉が酷く乾く様な感覚に瞬きを繰り返しながら、はゆっくりと口を開いた。

「・・・そのお店には、彼の方の作品が・・・」
「溢れ返っている。一体どこから調達したのかと呆れる程にな」

心の底から切望していたもの。
今度こそこの目で見たいと、願ってやまなかったもの。

「あの、そのお店はまだ・・・店主さんは、今も・・・?」
「ああ、続けている。この長い手紙が息災な証だ。儂にとっては、そうだな・・・若干年上の、兄貴分といったところか」

用意していたであろう手紙を差し出され、信じ難い奇跡により現実味が増す。

「お前のお陰で、ほぼ無名だった贔屓絵師の作品が日の目を見たと。有墨の名への注目度が上がり、それはもう喜んでいる様だ」

願った以上の、夢の様な光景がきっとそこにある。
差出人の住所は近所とは呼べないが、叶わない遠さでは無い。
希望がありありと浮かぶ黒い瞳を受け止め、鱗滝が一度深く頷いた。

「日帰りで往復出来る距離だ。興味があるなら、一度見に行ってみるか」
「・・・っはい!是非、お願いします!!!」

感極まった様に弾む声、そしてその周囲からにじり寄る様な視線に、天狗の面の下が苦笑に緩む。

「お前達も一緒に来るんだろう。最初からそのつもりだ」
「やった!おじさんありがと!」

梅が勢いに任せ鱗滝に飛びついた。
幸太郎と互いに揺れる目を見交わし、隣にいた妓夫太郎から炬燵の下でそっと手を握られる。
強くその手を握り返しながら、は様々な感情が混ざった笑みを浮かべた。


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