縁を繋いでくれたひと 参







来たる休日の昼前に、たちは鱗滝に連れられ目的地へと降り立った。電車を乗り継ぎ片道およそ三時間。山々に近く長閑な街だ。
もうじき、待ち望んだ有墨の絵と対面出来る。高鳴る胸の内はそう誤魔化すことは出来ず、電車に乗っている間ですら口数が極端に減ってしまったであったが、今日ばかりは周囲からの理解に甘えて今ここに立っている。

古美術茅花堂。
店の古い看板には、そう記されていた。

店先まで浮世絵が溢れかえる壮観さに口を噤んだのは誰もが同じだったが、最初に興奮が最高潮へ達したのは梅だった。一歩二歩と前進するなり、鱗滝を追い越して新たな世界へと軽々飛び込んでしまう。前世ですらあまり興味の持てなかった浮世絵の海に、兄譲りの青い瞳は珍しさから夢中になって光り輝いていた。

「えっ・・・すごい、これ全部浮世絵なの・・・?!えぇっ?想像してたより全然すごい!お店も大きいじゃない!」
「待って下さい梅殿、まずはご挨拶を・・・」

苦笑すら混じっていた幸太郎の言葉が、不意に途切れる。沈黙が戸惑いに揺れることは容易く双子の間で伝わりあった。
街の雑踏すら鳴り止む錯覚の中を縫う様に、その人物は店の奥から姿を現す。燦々と晴れ渡る天候下、店の中に立つ老人の姿は少々暗く陰るが、それでも確かな存在感での心を揺り動かした。

「いらっしゃい」

静かな語り口、穏やかでいて頼もしい顔付き。
かつて親しんだ薬屋の店主、その人だと理屈抜きにわかる。

突然の動揺に息を呑むの顔を認めるなり、彼は呆気に取られた末鱗滝を見遣った。

「おい、左近次。まさか連れて来たい生徒さんってのは・・・」
「立花、本人だ」
「まったく・・・それならそうと言わんかお前は」

もどかしさはほんの一瞬のこと。老いと力強さを両立した様な男は、遂に軒先から陽の下へと歩出た。

「遥々よく来てくれた。店主の茅花だ」
「立花、です・・・こんにちは」

初めましてと挨拶すべきところを、どうしても言葉が出て来ず差し替えてしまう。未だ色濃い動揺と焦りに身を硬くするを前に、しかし店主は朗らかに笑って見せた。

「はは、よぉく知ってるさ。同じ絵師を贔屓にする同志だからな。違うか?」
「あっ・・・はい!それは勿論です!」

差し出された握手に遅れて応じることで、は漸く僅かなゆとりを得た。こちらがどうあれ向こう側に記憶は無い。初めて訪問を許された学生として、目上の相手に失礼無きようにと培われた背筋が伸びた。

「あの、大勢で押し掛けてすみません。こちらは兄の幸太郎で、彼は・・・」

右側の兄を紹介した手を、左側に翳す。ほんの一瞬絡まった視線から、妓夫太郎もまたこの再会に戸惑っていることが窺えた。
が茅川町へ出る際には必ず同行してくれたのだ。仕事中は決して店へ踏み込まないという掟は遂に取り下げなかったが、馴染みの深い薬屋の店主を彼も覚えていたのだろう。この戸惑いひとつ、兄と共に共有出来ていることがの胸中をじわりと温めた。
妓夫太郎もまた頭の回転は早い。表に出すべきでない動揺を引き下げ、一見して素っ気ない態度で自ら名乗る。

「・・・謝花、妓夫太郎」
「そうか、お若いのがよく来てくれた。歓迎するよ。すると、あの好奇心の塊みたいな嬢ちゃんもお仲間かい」
「あっ。はい、妓夫太郎くんの妹さんで、謝花梅ちゃんです」

所狭しと並ぶ浮世絵の数々に、ひとり興味津々の梅を指してが告げる。
その時だった。

「・・・へぇ、そりゃあまた。花の縁か」
「え?」

今彼は何と言っただろうか。
ぽつりと呟かれた馴染みの薄い単語にが小首を傾げたが、疑問が口をつくより先に茅花が苦笑を浮かべる。

「いいや、すまないな。長く生きていると、古い考えが抜けなくて参る。時代遅れの戯言さ、忘れてくれ。それよりも、だ」

遥か目上の男の切り替えに、たちでは口出しが出来ない。茅花の浮かべたしみじみとした喜びの前に、彼らの些細な疑問は洗い流されていく。

「お前さんが有墨の名を出してくれて以来、本当に素晴らしいこと続きでな・・・いや、わかっていればもっと盛大にもてなす準備をしたんだが」
「・・・すまん」
「まったくだ。困った奴め」

鱗滝は茅花を、兄貴分と表現した。天狗面の下で少々気まずそうな声や、困った奴と言いながら親しみの溢れる遣り取りがまさにその通りであろう関係性を物語る。
と妓夫太郎、そして幸太郎が小さく笑い合う余裕を手繰り寄せたその刹那。

「まぁまぁ、忙しいでしょうによくおいで下さったこと」

は再び、言葉を失うこととなった。

小さな老婦人。朗らかで、笑った顔が少女の様で、ついつい甘えたくなってしまう丸い雰囲気も何ひとつ変わらない。ちゃん、とかつて優しく呼んでくれた声が耳に馴染む。

「お兄さんやお友達も連れて来てくれて。賑やかになって嬉しいわ、ありがとうねぇ」
「家内だ」

夫婦は二世。
思わず込み上げかけた何かを懸命に封じ、は彼女にーーーかつての薬屋の老婦人へ、頭を下げた。

「こ、こんにちは」
「ふふ、こんにちは。テレビを通して迫力のある姿を見ていたから、もっと大柄な方を想像していたけれど。実物はこんなに華奢で可愛いお嬢さんでいらっしゃるのねぇ。お会いできてとても嬉しいわ」
「・・・こちらこそ」

にっこりと微笑まれた時の安堵。そっと腕に触れる優しい手。店の奥へとよく招かれ、薬草談義に花を咲かせた懐かしさが、今こんなにも胸に迫る。

「お茶を淹れましょうね、美味しいお菓子もあるのよ。皆さんと左近次ちゃんの分、すぐに用意するからお待ちになってね」
「えっ?あのっ・・・お構いなく・・・!」

聞き覚えの無い単語に虚を突かれ、気付けば老婦人は店の奥だ。申し訳無さに狼狽えるの肩に手を置いたのは鱗滝だった。

「止めても聞かないおひとだ。気にするな」
「はは。お前はあいつの聞かなさをよく知ってるだろうな。何しろこの歳でも“ 左近次ちゃん”を卒業出来んからな」
「む・・・生徒の前で揶揄うのはよしてくれ」
「すまんすまん。つい、な」

日頃静かに見守ってくれる校務員が、面の下で部の悪そうな顔をしているであろうことが窺える。鱗滝と夫婦の近しい距離感が僅かな遣り取りから伝わる穏やかな波に乗り、茅花がの方へと向き直った。

「恐らくお前さんにも話が行く企画だとは思いが・・・近々、展覧会が開かれるぞ」

展覧会。
その単語が、かつての記憶で揺れ動くの心を、本題へと一息に引き戻す。

「えっ・・・それ、は」
「当然、有墨の展覧会だ。場所は近くの市民館で、立派な美術館には程遠いが・・・」
「っ素晴らしいです!!!」

茅花の苦笑など物ともせず、の声が店中に響き渡る。

「あっ・・・」

あらゆる視線を一心に集めたその時になり、は我に返り羞恥で縮こまった。
有墨の展覧会。夢の様なその単語に、心のまま叫び出してしまったのだ。頬を熱くしては詫びる。

「・・・すみません、大きな声出したりして。あまりに嬉しくて、つい」
「いいや。お前さんなら、そんな風に喜んでくれるんじゃないかと期待してたさ」

店主は温かく、力強く、硬くなった身を解す様にの肩を一度摩って見せた。今の茅花とは、同じ絵師を慕う者同士だ。そう励まされる様な心地で、の頬が高揚で上向いた。

「本当に、彼の方の作品だけの展覧会を・・・あっ、お店にある浮世絵を、貸し出されるんですか?」
「そうさ。今は企画側の連中と一緒になって、作品を選ぶのに大忙しだ。ああでもないこうでもないと話し合うだけでも楽しくてなぁ。うんと若返った様に時間が経つのが早いよ」
「すごい・・・!始まったら是非行きたいです・・・!」
「勿論だ。一番の客はお前さんを置いて他にいないだろう。遠いところ申し訳無いが、必ず招待する」
「ありがとうございます・・・!必ず伺います!!」

数多く存在する江戸時代の浮世絵の中から、大恩ある有墨の名を少しでも広めたい。ひとりでも多く、彼の絵を知って欲しい。展覧会は規模など関係無く、にとって絶好の機会だった。
そして叶うなら、自分もその中のひとりとして作品を見上げたい。前世では叶わなかった願いが形を成す音が聞こえて来る様で、は嬉しさの処理が追い付かず両隣に立つ兄と妓夫太郎を交互に見遣る。どちらからも等しく頷きを返されることで、夢の様な出来事は現実味を増した。

「さあさ、皆さん外にいないで奥へどうぞ。ゆっくり過ごして下さいな」
「確かに。客人を屋根の下にも入れずに失礼した。こりゃあ随分と浮かれてるな」

老婦人の朗らかな声に導かれ、彼らは漸く店の中へと踏み込んだ。一面に飾られる浮世絵は魅惑的で、すぐにでも梅と同じく飛びつきたくなる欲をは寸前で堪え切る。向かう先は盆を手にした小さな婦人の元だった。

「あの、持ちます」
「まぁありがとう。でも良いのよ、お客様なんだから」
「いいえ、お手伝いしたいんです」

茶飲みを手に、幾度も話をした。いつしか台所事情を共有出来るほどに、可愛がって貰った。一方的なことを承知の上で食い下がるに根負けした婦人は小さく肩を竦め、盆を手渡しながら優しく眦を下げた。

「ふふ。お若い有名人を前にした年寄の独り言と思って頂戴ね」
「え?」
「実はね、私、貴女と初めて会った気がしないのよ」

瞬きの一瞬を、特別長く感じる。
それはだけでなく、背後に佇む妓夫太郎と幸太郎にも同じことが言えた。

「主人と初めて会った時もそうだったわ。実際には初めて会う筈なのに、もう知っている間柄のような・・・そんな不思議な気持ち。私ね、昔から時々あるのよ」
「おい、よさないか」

時を置き、心臓の鼓動が戻ってきた。
初めて会ったように思えない。婦人の感覚に間違いは無かったが、その意識はたちとは異なるものだ。記憶は受け継がれてはいない。

「・・・私もです」

それでも、は黙っていられない。
時を経て彼らはあの町の記憶を手放したが、再度隣合うふたりの姿に、どれほど温かな思いを覚えたことか。全ては語れずとも、今伝えずにはいられない。

「お二人にずっとお会いしたかった様な・・・そんな気がしてます」
「まぁ、嬉しい。苗字だけじゃなく、これも何かのご縁かしらね」
「苗字?」

目を丸くするに対し、婦人は悪戯な少女の様に肩を揺らして笑った。

「ふふ。皆さんの紹介も奥で聞かせて貰っていたのよ。貴女たちは立花さん、そちらの貴方たちは謝花さん、そして私たちは茅花。ね、花の文字が一緒。それも一度に三組も」

立花。
謝花。
そして、茅花。

特に考えもしなかった共通項は、不思議と強くの胸に波紋を広げた。

「ひとつでも同じ字を背負うことは、ご縁があるわ。このあたりでは、昔からそんな伝承があるのよ」

花の縁、と。
茅花がしみじみと呟いた、その意味を理解する。

「貴女たちも、私たちも。きっと何かのお導きで今日お会い出来たのね。ぱっと花が咲いて心が和む様な、そんなご縁」
「まったく。お若いのを相手にあまり古い話を持ち出すもんじゃないぞ。困らせてしまうだろうに」






『おはな?』






何故だろう。
ほんの幼い梅の声が、脳裏に木霊する。
いつかの昼下がり、強く撃たれた頬が今は喜びで熱い。は込み上げる思いをそのままに微笑んだ。

「あの・・・とても、嬉しいです」

花が咲き、心が和む様な縁。
その糸に繋がれているのなら、それは紛れもなく幸福な縁だ。

「素敵な伝承を教えていただいて、ありがとうございます。私も花の縁のお話、信じます」
「ふふ、ありがとう。あら左近次ちゃん、寂しそうなお顔をしないで頂戴な。大丈夫よ、お菓子を一緒に食べましょ」
「・・・はあ。敵わんな」

鱗滝の溜息に茅花が声を上げて笑い、和やかな空気が円を成す。

「折角来てくれたんだ。奥で寛いだ後に、ゆっくり見て行ってくれ。お前さんがこの時代の下に蘇らせた、名作の数々を」

大事なふたりと、大事な兄と、そして懐かしい夫婦と縁が花開き今がある。
は茅花からの誘いに、あらゆる尊さを噛み締めながら強く頷いたのだった。



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