たったひとつの裏側で






二人分の足音が階下から近づいてきた。角を曲がれば出会ってしまう手前まで接近し、こちらの気配を察知し引き返していく。苛立ちまではいかずとも、なんだここもダメか、と肩を落とした様な囁きが漏れ聞こえ、幸太郎は昼休み中何度目かの苦笑を溢した。
中等部校舎の屋上へ繋がる階段は二箇所。内、たてつき不備によって一時封鎖された扉側、最上段の踊場はちょっとした独立スペースだ。二人きりになりたい男女にとっては最適な空間だろうが、先客として四人もの気配があれば誰もが引き下がらずを得ないというところだろう。

さん、無事に渡せたでしょうか・・・」

恋雪の声は心からの憂いに染まっていた。丸い額の下で眉を下げ、膝上の空になった小さな弁当箱を見下ろす切ない横顔を見遣り、幸太郎は明るい声を心掛ける。

「ありがとうございます恋雪殿。本番には強い妹なので、きっと大丈夫だと思います」

本番に強い。ファンであれば当然知っているだろう妹の側面に、恋雪は数秒遅れた笑みを溢した。婚約者の細やかで可憐な笑い声に、傍で見守っていた狛治も安堵しつつ幸太郎に意図的な笑みを送る。

「幸太郎がらしくもなく強行手段に出たんだ、うまく行って貰わないとな」
「狛治殿、それを言われてしまうと・・・」
「褒めてるんだ。確実に二人に出来る場所となると限られてくるからな。部室の鍵を借りる手筈を整えたのは正解だ」
「いいえ、私ひとりでは立案できませんでした。お二人が知恵を貸して下さったお陰です、ありがとうございました」

二月十四日、どうしてもと妓夫太郎を二人にしたい。良い場所の争奪戦となるバレンタインデー、なんとか良い策は無いものか。幸太郎は妹本人には伏せたままで、この友人達へ事前の相談をしていた。絞り出した案のひとつは鍵付きの部室。妹が敬愛する蜜璃と報道同好会の名が出た瞬間、直接の依頼に走ったのは兄の真心に他ならない。無事に快諾を得て今頃と妓夫太郎は二人きりの筈だ。勿論今の二人が既に固く結ばれた恋人同士であることに間違いは無いが、今日という日の特別さを知らぬ幸太郎ではない。
長年の不安に抗う、妹の健気な決意。それが報われたことに兄として息を溢すと同時に、恋雪の白い頬が柔らかく緩んだ。のバレンタイン事情については、信頼の置ける彼らに対してのみ相談をするにあたり開示していたことでもある。

「それにしても、さんとっても素敵です。いつか会えるその日の為に、初めてのバレンタインを取っておくだなんて。私、ますます憧れてしまって・・・」
「恋雪さん」

恋雪のに対する憧れは未だ衰え知らずである。瞳の中の星を煌めかせ熱く語る彼女を止めたのは、相思相愛の強き婚約者であり。

「そろそろ、移動しませんか?」
「・・・はい、狛治さん」

真っ直ぐな誘いに、恋雪は嬉しそうに微笑み頷いた。今日は四人でこの場を貸し切り昼食としたが、小さな紙袋は未だ恋雪の手元にそっと置かれている。昼休みが明けるまで時間は充分残されていた。二人ずつに分かれない理由が見当たらない。

「じゃあな、幸太郎」
「はい、狛治殿、恋雪殿も」
「失礼します。梅ちゃんも、またね」
「・・・」

ここに来て尚、一言も声を発さない梅は恋雪に対しても言葉を返さない。幸太郎は苦笑混じりに二人を見送った。
さて、どうしたものか。膝を抱える梅の隣に掛け、幸太郎は優しく微笑みかけた。

「・・・梅殿。のことを黙っていて、怒っていますか?」
「違うわ。怒ってない」

相談先は、狛治と恋雪の二人のみ。今日になり全てを知らされた梅の胸中を、考えなかった訳ではない。しかし幸太郎は、敢えて梅に事前開示をすることを避けた。

「アタシがもっと頭が良ければ・・・お姉ちゃんを一年待たせることも、無かったのかなって」

彼女がこの思いに苛まれることを、ほんの少しでも遅らせる為だった。
にとって今日が初めての二月十四日となる理由。それは昨年の冬、二月下旬までの全てを費やした梅の受験だ。秋の最後を彩るハロウィン、クリスマス、正月、そしてバレンタイン。季節を楽しむ為のイベント、その悉くとの大会出場までもを投げ打ち四人は梅の学力向上に尽くした。
全ては、梅がこの学園への編入を希望した為。学力的に、当初は無理だろうと妓夫太郎が難色を示したほどの荊道を貫いた為だ。梅にもっと学力があれば、は待ち焦がれた思いを一年前に遂げていた。それこそ余裕で高校受験を成し遂げた兄の様に、もっと頭が良かったなら、或いは。そうして抱えた膝を睨む梅を覗き込み、幸太郎がそっと囁いた。

「梅殿は、去年の冬を後悔していますか?」
「する筈無いじゃない!」
「良かった。私もです」

弾かれた様に声を荒げる梅と漸く目が合い、幸太郎は力の抜ける笑みを浮かべる。必要以上に滅入りそうになる梅を引き止める為でもあり、同時に優しい回想を思えば自然と出てしまう表情でもあった。

「確かに忙しかったですが、毎日が充実していて、私はとても楽しかったんですよ」
「・・・先生」
「色々な書店を巡っての参考書選び、梅殿に分かり易くどう落とし込むか、と毎日試行錯誤に明け暮れて・・・」

梅の為ならば。三人の内誰にとっても心から大切な、彼女の願いを叶える為ならば。どんなことも苦難には感じられなかった。

「長年のサポートしか出来なかった私が、初めて主体になれた様な気がしました。そうして平日は準備を重ねて、週末に梅殿と妓夫太郎殿とお会いして、四人で受験に備えたあの冬は・・・漸く、梅殿と一緒に様々なことを学べた時間は、今でも私の中で特別な思い出です」

名前くらいは書ける様になりたいという梅の願いに喜んで応じ、手製の練習帳を介した遣り取りをしていた、あの頃。いずれ跡取りを務める寺子屋で共に学べるのだと、幸福な未来を信じていた、あの頃。
希望は予期せぬ事態に阻まれ無情に砕かれたが、同じ目標を掲げて集う様になった時間が、まるで絶たれた道の続きを繋ぎ直せた様な気さえした、そんな冬に思えたのだ。そしてその満たされた思いは決して自分ひとりのものではないとも、幸太郎は信じている。

にとっても、妓夫太郎殿にとっても、きっと同じだと思います。梅殿は私たちを再び団結させるきっかけを下さったのですよ。長く離れていた我々にとっては、必要な期間だったと私は感じています」

だから、どうか。
どうか笑って欲しい。
誰の中にも昔から尊く愛すべき存在、その隣を許された奇跡の様な身として、心から願う。

と双子の血を分けた幸太郎の瞳が、深い慈しみを乗せて穏やかに細められた。

「大丈夫です。誰にとっても特別だったあの冬を、が“待った”と感じている筈が無いですから」

美しく、気難しく、しかし時に酷く心を揺さぶる青い瞳が丸く輝く。ぐっと下唇を噛む仕草と共に逸らされた視線、赤みが差した頬。張り詰めた自戒の糸が緩んだ気配を察知し、幸太郎がこっそりと安堵の息を吐いた。

「・・・ありがと」
「いいえ、こちらこそ」

次の春から同じ学校へ通いたいと言って貰えた時の喜びを、忘れない。何より期待に応えてくれた梅の努力があってこそ今がある。ありがとうはどちらの台詞か。柔く口端を上げる幸太郎を横目に伺った末に声を上げた梅は、すっかりいつもの調子を取り戻した様に見えた。

「ね。今日の帰り、お姉ちゃんにアタシからチョコ渡しても平気だと思う?用意してあるんだけど」
「勿論、きっと喜びます。今日は妓夫太郎殿の分しか準備していない筈なので、ホワイトデーのお返しは梅殿の為に張り切って考えると思いますよ」

のバレンタイン絶ちはあくまで自分発信のものに限る。女友達から貰ったものに関しては全て翌月返していたのだから、相手が梅ならばとびきりの趣向を凝らして返礼を考えるだろう。そうして穏やかに微笑む幸太郎に対し、梅が一瞬息を止める。

「じゃあ、先生も負けずに頑張ってよ、ホワイトデー」

若干ボリュームの低い声。逸らされた瞳。そして、片手で差し出された小さな紙袋。
ひとつの瞬きに遅れ、跳ねた心臓。

幸太郎は両手でそれを丁重に貰い受け、決して重くはない筈の紙袋に詰まった気持ちを思い、眦を下げた。クリスマスに思いが通じて、初めての二月十四日だ。期待していなかったと言えば、嘘になる。

「・・・ありがとうございます。とても、嬉しいです」

二人だけの空間に、シンプルな礼の言葉がしみじみと響いた。開けて良いかとも、今食べて良いかとも、幸太郎は相応しい言葉を探すこともせずにこやかに紙袋の中を覗き込んでいる。照れ隠しか、沈黙に耐え切れなくなったのか、懸命に目を逸らしていた梅が意を決して顔を上げた。

「いっ・・・言っとくけど、お兄ちゃんとお姉ちゃんの分とは違うんだから!」
「は、はい」
「特別中の特別よ!このアタシが、お兄ちゃん以外の男のひとの為にわざわざバレンタインのチョコを完璧に仕上げるなんて・・・!」

事実だ。事実を言ったまでのこと。
梅が妓夫太郎以外の男性の為にバレンタインのチョコを用意したことがない、嘘偽りの無い事実。

「・・・これまで、一回だって、無い・・・んだ、から」

しかし、それは口に出した途端にたちまち熱の津波となり、本人を襲う。
口を半開きにしたまま固まる梅の頬が、時を置くごとに赤くなっていくこと。青い瞳が、これ以上無いほどの動揺に揺れていること。その全てが、自分に向けられていることの幸福を理解出来ない幸太郎ではない。

幸太郎は自分の平凡さを理解している。にとっての妓夫太郎の様な、どんな理も超えて頼りにして貰える様な男ではないことも、重々承知している。
そんな自分に対し、傍にいたいと思えるたったひとりに選んで欲しいと言ってくれた大切な一番星は、こんなにも眩しい。

「・・・身に余る、光栄です」

梅の頭に幸太郎の手がそっと乗り、空気を含ませる様に優しく撫でる。
目と目があう。日常的なことが、今日この瞬間は特別に嬉しい。

「こんなに嬉しいバレンタインデーは、生まれて初めてです」
「あっ・・・当たり前のこと言わないで!」
「ふふ、すみません。嬉しすぎて、つい」

赤い顔で眉をつりあげた梅は、頭を押し付ける様に幸太郎へ抱きついたのだった。



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