たったひとつの初めてを






時刻は二十一時を過ぎた。やけに静かなキッチンが気掛かりで仕方なく、妓夫太郎はそっと様子を覗き見る。ボウルを手にしたエプロン姿の梅と、すんなり目が合った。

「お兄ちゃん。どうしたの?」

不思議そうな顔でそう問われてしまうと、返す言葉に困ってしまう。
年に一度、キッチンを満たすカカオの香り。それは兄に手作りチョコを贈るのだと豪語する妹の微笑ましい年課であったが、同時に大抵途中で何らかのトラブルに見舞われ、結論として助けを求められた妓夫太郎本人が自分宛のチョコを仕上げるという流れがお決まりとなっていた。
どうしたの。その問いに対して何と答えることが正解か。妓夫太郎は難しい顔でああでもないこうでもないと思案した末、細かいことを放棄した。

「いや・・・大丈夫かぁ?」
「大丈夫よ!アタシ、お姉ちゃんと料理する様になってから上達したんだから」
「・・・そうだよなぁ。お前は頑張ってるもんなぁ」

二年前までキッチンに立つ際長い髪を束ねることも、袖を捲り手を洗うこともまともに習慣付いていなかった妹は、今きっちりと髪をまとめ両腕を捲った状態でエプロンを装着している。得意げに胸を張る本人の申告通り、と並んで料理をする日々の中で基礎が身に付いたということだろう。言われてみれば最近は昔程の失敗は減った様にも思える上、今甘い香りで満たされたキッチンに危うい気配は見当たらない。今回ばかりは心配が過ぎた様だと、妓夫太郎は大人しく引き下がった。
顔を出したついでにと、洗浄済の食器を片す。二人分の皿は瞬く間に棚へと片付いたが、やけに甲高い音が響いた。

「なんか、今夜は静かね」

時間の問題ではない。食卓を囲む人数、洗い物の数、何もかも普段の半数であることを、兄妹は改めて実感した。
バレンタインデー、その前日なのだ。色々と準備がある為、今日は下校後それぞれの家に直帰して備えたいと言い出したのはだったのか、それとも梅だったのか、男性陣には正確なところが明かされていない。

「・・・二人だからなぁ」
「変なの。こっちに越してくるまではほとんど二人だったのに」

梅が可笑しそうに笑う。
秋の文化祭から間近の冬に迫った受験に全てを注ぎ、春には無事に二人揃って希望通りの新生活を始めることが出来た。
互いの家に保護者がほぼ不在であることを理由に、四人で夜の食卓を囲むことが常となりもうじき一年が近付く。下校時は待ち合わせ買い出しへ行き、どちらかの家で食事を摂り、そしてまた明日と手を振って帰宅する。と幸太郎のいない夜に違和感を感じてしまう程、二人が今の生活に馴染んだということなのだろう。

「お兄ちゃん。アタシね、今毎日楽しいの」
「・・・おぉ」
「お兄ちゃんと二人で、たまにムカつく碓氷が帰ってきて、そういう生活も嫌いじゃなかったけどね。でも、今が良いの。四人一緒が良い」
「・・・わかってる」

あの秋の日までは考えもしなかった、何もかもを取り戻した暮らし。一年をかけて意識はすっかり置き換わり、大切なことを忘れていた頃に今更戻れはしない。

「心配しなくて大丈夫!去年は受験で見送ったけど、今年は初めてのバレンタインだもん」

梅の笑顔の明るさにつられ、妓夫太郎の表情が緩む。クリスマス、正月、そしてバレンタイン。受験の為に根刮ぎ費やされた昨年の冬を取り返すが如く妹が張り切ろうと言うのなら、兄として水を差す理由などありはしない。

「完璧な状態で、お兄ちゃんとお姉ちゃんと・・・先生の分、きっちり仕上げるんだから」
「おぉ・・・身体冷やすんじゃねぇぞ。あと、あんま遅くまで気負うなよなぁ」
「ん!ありがと!おやすみ、お兄ちゃん」

背を向けた途端、手際の良い音がする。成長の理由はだけか、それとも温和に微笑む双子の兄か。妓夫太郎は微かな苦笑を浮かべてキッチンを後にした。




* * *




外見を恐れられることには、慣れている。見知らぬ輩から遠巻きにされたところで、痛くも痒くも無い。
しかしながら、これほどまでに羨望の眼差しを一身に集めてしまうことは完全に計算外だ。

「良いなぁ謝花良いなぁ。俺も可愛い彼女のいるバレンタインを迎えてぇよぉ」
「・・・」

午前中だけで何度目か知れない台詞が前の席の佐伯から投げかけられ、妓夫太郎は忌々し気な舌打ちを返す。赤の他人を羨み妬むことならば身に覚えがあるものを、立場が逆転するとは何事か。また新たな視線を感じ反射的に睨み返せば、教室の外からこちらを覗いていた名も知らぬ学生が逃げ去っていく。一瞬交差したのは悪意ではなく、興味関心と羨望が混ざり合った視線だった。それがわかってしまうだけに、余計に体力を削られる。

二月十四日、バレンタインデー。
が如何に人気ある有名人かということを、そしてそんな彼女との交際を隠さないことでの影響を、妓夫太郎は身をもって思い知る。見知らぬ者からは明確な羨望を、見知った者からは妙に温かな眼差しを向けられてしまい酷く落ち着かない。佐伯のひとつ前の席に掛けるしのぶが振り返り微笑んだ。

「ふふ。今日一日はこういった視線からは逃げられませんね、謝花くん」
「鬱陶しいんだよなぁ・・・」
「立花妹、有名人だかんねー。最近女子人気もじわじわ来てるらしいよ?貴重なチョコ確定なのに澄ました顔しちゃってさぁ!くらえ、必殺嫉妬爆弾・男女乱れうちィ!」
「誰が喰らうかってんだ雑魚が」

戯れに手裏剣の真似事をした指先は、一度捕まれば容赦なく捻られることを見越してか手を引く佐伯の行動は素早い。空振った手で苛立ちの舌打ちを重ね、妓夫太郎は乱暴に頭を掻いた。
貴重とは何だ。確かにから所謂本命とやらを貰えるのは妓夫太郎ひとりであろうが、何しろ今日という日は校内中、更に言うなら町中にチョコが溢れている。

「あいつのことだからなぁ、どうせ日頃の感謝だなんだって配る分も用意してんじゃねぇのかぁ?」

あの梅ですら、積極的にばら撒きはしないが、群がられて面倒な時用にと適当な余り物を渋々持参して登校したくらいだ。何かと周りとの調和に長けたが無難な配り物を用意していない筈が無い。尤も今日に限っては昼まで会う予定が無く朝から顔も見ていない為、確かめる術が無いけれど。義理が欲しくば直接を尋ねれば良い話で、自分一人が羨ましがられる理由が無い。そうして悪態をつきながら、この調子の悪さはいつに無く長時間と離れているせいではないかと妓夫太郎が頭のどこかで自嘲した、その時だった。
佐伯が意外そうな顔で、こてんと首を傾げる。

「あれ、謝花知らねぇの?立花妹ってさぁ、義理チョコ配ったりしねぇよ、多分」
「・・・あぁ?」
「俺中三もそうだったけど中一の時も立花妹と同じクラスでさぁ、バレンタイン近くなったタイミングでクラス中の女の子に義理配ってーってお願いして回ったワケ」

明かされたのは、未だ触れたことの無いの過去。同時に、眉を顰めたくなる様な目の前の男の過去。

「おい。に下らねぇ頼み事すんなよなぁてめぇ・・・」
「手当たり次第は流石にどうかと思いますね」
「そこまでしねぇと手ぶらで帰るとこだったの!中学最初のバレンタインにそれは悲しかったの!わかってくれよ俺の淋しい立場!」

前後から引き気味の視線を向けられ、佐伯が慌ただしく首を振りながら叫ぶ。言いたいことはそこではないと、懸命に軌道を修正した。

「それに何人かはくれたよ?義理で全員に配ってるやつ。でもなぁ、立花妹からは頼んだ時点で断られちった」

不意に、聴覚が膜に包まれた様に一段階遠くなった。
妓夫太郎の頭の中で、今より三年分幼いが佐伯と向かい合う。再現される台詞に合わせ、その口元が開かれる。

「ごめん、出来ない。て、大真面目に」

調子の良い笑みを浮かべるクラスメイトに対し、真剣に断りを入れる姿が、はっきりと脳裏に浮かぶ。それは本質的に酷く彼女らしくもあり、同時に人当たりの良いならば選びにくい回答にも思え、妓夫太郎は小さく混乱を覚えた。

「クラス全員に義理チョコねだって回る俺なんか、適当にあしらってくれて全然良かったのにさぁ」

そんな妓夫太郎を置き去りに、佐伯はあっけらかんと笑う。周囲の音がゆっくりと戻ってくる様な感覚に、妓夫太郎はひとつ瞬き手先の感覚を取り戻す。予告無しに知らないの一面を明かされると、思いのほか弱くなってしまうのは考えものだ。

「真っ直ぐな良い奴なんだなぁって思ったよ」
「流石さん、相手の為にもはっきりと振ることは大事ですよね」
「俺別に振られたとかそういう話してないからね?謝花の目が怖くなるからやめようね?」

感心しているのか、面白がっているのか。判断の難しい切り口で微笑んでいたしのぶが、何か思うところがあるかの様に頬に手を添え宙を見上げた。

「ですが・・・確かに。実は私もさんにチョコを今朝お渡ししたんですが・・・」
「でたぁ、良いよなぁ友チョコー!」
「ふふ。女子同士の特権ですから。さん、ホワイトデーにお返しを下さると言ってました。他の女子にも配る様子は無さそうでしたね」

バレンタインは女子から男子へ一方通行のイベントに在らず、特に女子同士の遣り取りは意識せずとも目に入ってくるものだ。しかししのぶによれば、は義理どころかそれすら用意をせず早くもホワイトデーに徹するつもりの様だと言う。いよいよ困惑が隠しきれなくなった妓夫太郎を見抜いているかの如く、彼女は穏やかに目を細めた。

「本命の謝花くん以外は、幸太郎さんや謝花くんの妹さんくらいにしか用意していないんじゃないでしょうか」
「はぁー、義理も友チョコも用意しない彼女から純度百パーの大本命チョコかぁ、憧れしか無ぇんだけど・・・!」

佐伯が天を仰いだ後、妓夫太郎の席へと大きく身を乗り出した。臆せずこの様な絡み方が出来るのは最早才能であったが、どう考えても制裁の射程圏内だ。良ければチョップ、悪ければヘッドロック、さて如何に。

「・・・うるせぇ」

しかし、今日に限って妓夫太郎は席を立った。スマホと荷物を片手に教室を出て行く背中を唖然と眺め、佐伯がしのぶと目を交わす。

「・・・え。殴られなかった」
「ふふ。穏やかな良い日ですねぇ」
「ほんっと、お互い大好きなんだもんなぁ」

今日は一年に一度のバレンタインデー。険しい顔をしようとも、多少は脇が甘くなるといったところだろうか。

「ところで胡蝶、俺に義理のお恵みは・・・」
「残念、不要な出費はしない主義なんです」




* * *




昼食を持ち報道同好会の部室へ来て欲しい。送られてきた文面の通りに妓夫太郎は目的地の前へ立った。の頼みであれば何処であれ文句は無いが、何故此処なのか。今日というイベントを誰より全力で謳歌しそうな一年先輩の姿を連想しつつ、扉に手をかけた。鍵は開いている。そして。

「あ、の」

昼休み馴染みのメンバーはひとりもおらず、この部屋の管理者たる蜜璃の姿も無い。室内には、見るからに落ち着かない様子のがただひとり。妓夫太郎の登場に慌ただしく席を立つなり、彼女はひと息に捲し立てた。

「えっと、お兄ちゃんも素山くんも、今日はお昼中等部の教室に行くって。ほら、梅ちゃんと恋雪ちゃんから受け取るものがあるって。えっと、それで今日甘露寺先輩がお昼休み中ここの鍵を貸して下さって、他には誰も来ないからって、それで・・・」

今この場が二人である状況は理解出来たが、明らかに様子がおかしい。妓夫太郎は怪訝な顔をして一歩踏み込んだが、同時に歩み寄ろうとしたのだろうは見事にテーブルの角でよろめいてしまった。いよいよ気配が妙である。

「おい、
「ご、ごめん、何か全然普通に出来なくて・・・大会より全然緊張してる。あはは、私変だね」

全開になったカーテン、窓越しの明るい冬空。それらを背景に強張った笑みを象ったが、後ろ手に隠し持っていたもの。彼女は待ち人と目が合うなり挙動と笑みを同時に潜め、そして。

「・・・受け取ってください」

既製品ではない贈り物を、両手で差し出し頭を深く下げた。その声が普段より格段に固く、語尾が若干震えてさえいることに気付けない妓夫太郎ではない。一体何事か。から妓夫太郎へ、何かを贈られる機会などこの一年半で数回は経験した筈だ。日常的なほんの消耗品から、クリスマスのプレゼントまで。記憶のどの頁を遡ったとて、ここまで彼女が緊張に身を固くしていたことは無い。
疑問は残る。不可解な点ばかりだ。しかし、今この時最初に口にすべきは礼以外の何物でもないこともまた、妓夫太郎はよく理解していた。

「・・・おぉ。ありがとうなぁ」

昨夜遅くまで妹がキッチンで頑張っていたことを知っている。も同じ様に自宅で一人、この為に時間を割いてくれたのだろう。そうして礼と共に妓夫太郎の手が贈り物を受け取り、指先同士が僅か触れ合った、その刹那。
の身体が、明確に揺れた。まるで眩暈を起こした様な異変に対し、咄嗟に差し出した腕で妓夫太郎はの華奢な身を抱き留める。

「っおい・・・!」
「ご、ごめんなさい」

瞬間遅れて沸き上がった恐れに、無事を確認しようと顔を覗き込む。腕の中のは動揺に瞳を揺らしてはいたが、意識も受け答えもしっかりしている様で、妓夫太郎は深く安堵の息を吐いた。

「・・・大丈夫かぁ?熱でもあんじゃねぇのかぁ?」
「違う、違うの、全然元気。ただ・・・」

一体、何事か。何故、今日に限ってこれほどまでに様子がおかしいのか。
直接聞くべきと判断したタイミングをもって、答えは彼女自身から齎された。

「・・・正真正銘、初めてのバレンタインだったから。無事に渡せて、緊張の糸が切れちゃったのかも」

外から響く昼休みの音が、瞬間静まり返った気さえした。
義理は用意しないのではという、先程の佐伯としのぶの声が脳裏に反響する。
正真正銘、初めてのバレンタイン。十六歳の学生にしては違和感の残るその単語と、今くったりと寄り掛かりながらも達成感に微笑んでいるの姿が繋がった。
言葉では説明がつかないながら、不思議と通じ合ってしまう。諸々が削ぎ落された結果、残ったものは考え辛いと思っていた現実だった。

「・・・お前、まさか」
「言葉の通りだよ。これが、私の人生で最初の一個。お兄ちゃんにだって、渡したこと無いんだから。はぁ、緊張したぁ」

人当たりの良い人気者。日頃周囲に必要以上の感謝を唱える彼女であれば、当然活用していたであろう一年に一度の赤い行事。それら全てが思い込みであったことを突き付けられ、妓夫太郎は左手に持ったままの包装を見下ろす。
の人生で、最初のひとつ。長年に渡り幸太郎ですら、話の通りであれば今日は梅にも用意されていないひとつきりのチョコレート。生まれて初めてのバレンタインデー。誇張は一切なく真実である証の様に、の吐息が熱かった。

「あの文化祭まで、会えるかどうかもわからなかったのに。意地になっちゃって、笑ってくれて良いよ。でも、私は本気で決めてたんだぁ」

渇いた笑いと、真剣な声が絡み合う。胸板に手を置かれ生まれた空間、こちらを見上げるの瞳が何とも言えぬ温度に蕩け、妓夫太郎は戸惑いと共に息を呑んだ。

「大好きな人に気持ちを伝える日の相手は、絶対に妓夫太郎くんを最初で最後のひとにするって」

最初で最後。まごう事なき本心に違いないが、いざ言葉にすると何処か照れ臭くなった様子で、がはっと目を丸くして妓夫太郎の胸に置いた手をやんわり押す。開いた距離は妓夫太郎が背に回した腕を離さないため若干に留まり、はますます焦った様に息を吸い込んだ。

「つ、付き合い悪いって思われても、義理は用意しない。友チョコも、お返し組に徹底したの。お世話になってる人宛の感謝の気持ちは、何もバレンタインじゃなくたって表せるんだし」
「・・・」
「・・・なーんて。私の方こそ、バレンタインに拘る理由も無い筈だったんだけどね。ただのお菓子業界の口実なんだから。でも、不思議とクリスマスよりもお正月よりも、昔からひとりで勝手に拘って。無事に会えるまで誰にも渡さないことで願掛けみたいな気になってたのかも。去年は梅ちゃんの受験でそれどころじゃなかったじゃない?だから今日は私にとって特別で、こんなに格好悪いくらい緊張しちゃって、」

徐々に早口になっていく告白が、途切れた。

「・・・妓夫太郎くん?」

改めて両腕で強く閉じ込めた線の細い身体が、実のところ鍛え抜かれた努力の結晶であることを妓夫太郎は知っている。先の見えぬ暗い道をひたすら手探りに前進し続けた理由が、自分たち兄妹を探す為だったことを、今の妓夫太郎は知っている。

「お前は、いつ会えるかもわからねぇ俺なんかの為に、最初の一個を取っておいてくれた訳かぁ」

気が遠くなる程の奇跡の積み重ねの末に、から愛されていることを知っている。十分に知っている筈が、彼女はいつだって想像を遥かに超えて飛び込んで来ることを失念してしまう。
得難い幸福そのものをこの手に抱き、何よりの栄誉を得るただひとりに選ばれた。何も知らない内から、この椅子を用意されていたのだ。学園中から羨まれて当然だろう、それ程に恵まれている。深い感謝の思いに腕の力を僅か強めた妓夫太郎を好意的に捉え、が嬉しそうに笑った。

「妓夫太郎くん、だいすき」
「・・・
「会いに来てくれて、私の時間を動かしてくれて、ありがとう」

会える日を夢見て、初めてのたったひとつを守り続けた二月十四日は終わった。そうして好意を隠さないの声が、ほんの直近の距離から妓夫太郎の耳へと優しく届く。

「一緒にいられる様になって、傍にいられる時間が増えて、この気持ちもいつかは慣れていくものかもしれないけど」

毎日を傍にいられる様になり早一年近く、これからも同じ時は続く。少しずつ慣れていく。奇跡は当たり前の日常へと変わっていく。
互いに抱き締めあったまま、ほとんど額が触れ合う様な距離でが笑いかけてきた。

「一年に一度、私のたったひとつは、最初から最後まで妓夫太郎くんだけ。これから先もずっと、妓夫太郎くんひとり分しか無いんだよ」

変わることもある、慣れることもある。それでも、この期待に輝く黒い瞳と見つめ合う喜びは、この先も薄れることは無いだろう。穏やかな確信に目を細める妓夫太郎を前に、はくすぐったそうな表情で首元へと飛び付いてくる。

「・・・ふふ、ちょっと重いかな」
「この程度で重いもクソもあるか。舐めんなよなぁ、ばぁか」

幸せだ。こんなにも力いっぱいに愛されて、負担に思う筈が無い。妓夫太郎は他の誰にも見せないであろう柔らかな笑みでを抱き締め返し、鼻から目一杯に優しい香りを吸い込む。

「けど、んな話聞いたらよぉ、勿体なくて食えねぇんだよなぁ」
「だぁめ、それは困るよ。売り物じゃないから早めに食べて貰わないと」

戯れ合う声は甘い。左手に受け取ったままの貴重な贈り物からふとした閃きを得て、妓夫太郎の口端が不敵に上がった。
勿体無いものを早く食べて欲しいとが望むならば、解決策はひとつしか無いだろう。

「だったら、今ここでお前が食わせるしかねぇよなぁ」

提案の意味を理解し背伸びをやめたの目は丸くなっていたが、鼻先が触れ合う距離で見つめ返す青い瞳は、企むような口調とは裏腹に堪らなく優しい。

「・・・お弁当、食べた後ね」

再度の背伸びが、微かな音を立てて空いた空間を埋める。何者にも邪魔されない空気の甘やかさに、二人は思わず小さく笑い合った。



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