秋色ノスタルジー 4






風呂上がりの卓球台を後にしてすぐのこと、話があると呼び出した張本人である狛治の瞳は凪いでいた。激情の色は無く、責めるでも嘲るでもなく、ただ淡々とした口調が過ぎた日に水族館で起きたの涙を明かす。
意図的に気遣われ伏せられていたであろう事実を知れたことは有難かったが、少々疑問が残った。何故今それを明かしたのか。自身の恋人のことならともかく、あえて本人すら黙っていたことを今日明かしたのは何故か。

『・・・何故だろうな』

その問いに対し、狛治は静けさの中で小さく戸惑う様に宙を仰いだ。

『大切な人を泣かせてしまったことは・・・俺なら、たとえどんなに後からでも知っておきたいと思う。お前も同じだろうと、思ったのかもしれない』

考えの纏まらない様な迷いを含んだ声色は珍しい。しかし、背筋を真っ直ぐに伸ばしこちらを見遣る姿から偽りや誤魔化しの気配は感じられない。

『立花が今日、お前と会えなかった期間の空白を埋めたなら。お前にも、その機会があって良いんじゃないかと思った』

同い年で何事も競う機会の多い相手。深い意味は微塵も無くとも、と随分と長い時間を共に過ごしている男。少々細かく反発し合うこともあるが、時に誰より冷静な目を持っている強者。が友人として信頼を置く理由も、今なら頷くことが出来る。

『・・・余計な世話だったか?』

尤も、本人を前に認めてはやらないけれど。こちらの気も知らず真面目な顔をして疑問符を浮かべる狛治に対し、妓夫太郎は溜息を返したのだった。




* * *




人は動揺の境地に立つと瞬きすら忘れるらしい。
が黒い瞳を揺らし、懸命に脳内で多様な可能性を挙げ、あらゆる考えを巡らせて最善の言葉を探しているのが手に取るようにわかる。何故。何故知られているのか。どう答えるべきか。どう答えることが正解なのか。大きな動揺の底に突如突き落とされて尚、は何とかして妓夫太郎を傷つけまいと必死になっているのだ。
そんな顔をさせたかった訳では無かったが、彼女の性格を考えれば無理も無い。謝罪の言葉で逆に困らせてどうするのだと妓夫太郎が眉を顰めると同時に、が小さく息を吸い顔を上げる。固く見開かれた瞳が、強い決意のもとに煌めいていた。

「妓夫太郎くんの、せいじゃないよ」
「・・・
「本当に、妓夫太郎くんのせいじゃない」

一言一言、噛みしめる様にはそう口にする。知られたならばどうしようも無いが、しかしあの日の涙は意味があって伏せていたことだ。謝罪を今更求めてもいなければその必要も無いことだと、彼女の全てが心の底から訴える。

「それくらい、私が妓夫太郎くんに会いたかった気持ちが、爆発しちゃっただけで・・・」

確かにあの日は人目を憚ることなく声を上げて泣いたが、今妓夫太郎に謝って欲しいとは欠片も考えてはいない。辛さも淋しさも無かったことにはならないが、どうしようも無かったことだ。の手がおずおずと伸び、妓夫太郎の羽織の裾を掴んだ。

「・・・本当に、今こうしていられて、幸せなの。私はもう、それだけで良いの」

僅かに震える手が、一歩近付き見上げてくる瞳が、何ひとつ偽り無い彼女の本心であることを告げている。謝罪など必要ない程に今が幸せだと、それだけで構わないと。喧嘩でも言い争いでも無いがどことなくひりついた空気の中、気持ちを伝えようと必死なの表情が妓夫太郎の胸に刺さる。
何を置いても大事な存在からこうまで言われて嬉しく思わない筈が無い。幸せという概念そのものを共に創り上げて来たに対して、同じ気持ちだと心のまま言えたならすんなりとこの場が収まることも理解している。

「お前は多分、そう言うだろうとは思ってたけどなぁ」
「・・・妓夫太郎くん」

しかし、今日ばかりは引き下がれない。他のどんなことは譲れても、今だけは折れてはやれない。
そんな胸中を読み取ったであろう不安と更なる動揺にの表情が曇る。妓夫太郎の指先が宙を彷徨い、戸惑いがちに彼女の冷えた頬に触れた。

「・・・んな顔すんなよなぁ」

にはいつでも笑っていて欲しい。これは、もう随分と昔から妓夫太郎の中で変わることの無い思いだ。悲しませたい訳ではない。不安にさせたい訳でもない。ただ今夜は、ひとつの覚悟を聞いて欲しいだけだ。

一度静かに呼吸した。鼓動が早まる様な、それでいて頭の中が冷静に冴え渡る様な、不思議な感覚だった。

「これから先、俺は何があってもを泣かせねぇ」

その言葉に黒い瞳が丸く見開かれ、何もかも映しとられている様な錯覚に妓夫太郎は苦笑した。の表情から不安と悲しみが抜け、代わりに驚きと動揺、そして緩やかな熱が灯る。触れた頬は外気に曝され色味は変わらないが、冷たさが徐々に薄れていく。
知らぬところで泣かせてしまった。それを優しさから意図的に伏せられていた。狛治から明かされた際に覚えたものは自身への情けなさと同時に、強い決意でもあった。
繰り返すものか。こんな愚かしい失態は、決して繰り返してなるものか。を守る。今度こそ、必ず守る。それは何度も繰り返した誓いだったが、今夜一層強まったと言える。何事からも何者からも守ると言いながら、自分で泣かせてしまう様では何も誇れはしないだろう。

「どんな事からも守る。必ずだ」
「・・・」
「今度こそ、約束は絶対に違えねぇからなぁ」

何度でも、見つけてみせる。命の火が消えようという以前のに結んだ約束は、本意では無かったにしろ記憶を手放すことで一度違えてしまった。と幸太郎は明かさないだろうが、今回のことは氷山の一角にすぎず泣かせてしまったことも一度や二度では無かったかもしれない。
ならば、もう二度と繰り返さないと新たに約束を結ぶ。決して違えない。今度こそ、決して。どんなことからも、どんな悲しみからも、必ず守る。二度と約束は違えないと、己との両方に誓え。そう自らを戒め、決めたのだ。今更の謝罪はを困らせただろうが、伝えるべきことも伝わった。覚悟と安堵の混ざり合う感情の波に妓夫太郎が僅か目を細めた、そんな時だ。の瞳が、明確に潤む。ある意味お約束な展開とはいえ、これには思わず苦い表情が漏れてしまった。

「・・・おい。言ってる傍からお前は、」
「こ、これは良いんだもん、嬉しい涙だから」

慌てて目を擦るの瞳から、一粒の光が零れ落ちる。本人の申告通り悲しみとは違った意味合いの涙は刺さる様な痛みを伴いはしなかったが、それでも苦笑を漏らさずにはいられない。
嬉しいのだとは言った。自分なりに考えた末に決めたことを涙が出るほどに嬉しいと受け止めて貰えることは、幸せなことだ。何ひとつ傷付けぬ様そっとなぞった眦、頬に触れる妓夫太郎の手をが包み込む。

「ありがとう、妓夫太郎くん」

距離などほとんど無い程に接近し向かい合ったまま、白く柔い頬にふたつの手が重なり合う。二人きりだったならこのままは背伸びをし、自然な流れで妓夫太郎はそれを迎え入れただろう。しかし、少なくとも今屋上には自分達だけではないという最後の一線がふたりを辛うじて引き止める。周りも恋人同士の組み合わせしかいない状況下、基本的に互いに自分達以外に興味も無ければ何があろうと見て見ぬふりが最適解と頭ではわかっていても、なかなかこの一歩は踏み込み辛い。二人してじりじりとした熱を感じながらも、の表情が溶けそうに緩み。半歩踏み込み遂に距離の無くなった状態で、の頭がこつんと妓夫太郎に預けられる。今はこれが限度だった。気恥ずかしそうに耳を赤らめる彼女に応える様に、遠慮がちな両手がその背に回される。

「だいすき」
「・・・おぉ」

囁く程度の音量が互いの耳に心地良い。寒さなどとうに忘れてしまう程に、優しい夜だ。
幸福と少々の照れ臭さに、が溜息を吐く。思わぬ決意を告げられたことは間違いなく嬉しいことだったが、出来れば封じておきたい過去だったのだと。甘える様に頬を擦りつけることで、それは容易く妓夫太郎にも伝わった。

「もう。油断してた。素山くんが喋っちゃうなんて予想外」
「まぁ、俺も最初はそう思ったけどなぁ」

この状況では暗躍者の正体は説明せずとも伝わってしまった様で、しかし友の一面を意外だと語るの声色に憤る色は無い。本人を前に疑問を覚えた感覚は間違っていなかったと、妓夫太郎の表情が緩んだ。

「大事な奴を泣かせちまったことは、後からでも知っておきてぇもんだろって言われたなぁ」
「そっかぁ。それなら・・・ちょっと納得」

聞いたそのままの台詞は、の中に長年蓄積された狛治の人物像と合致したらしい。素山くんらしい、と小さく呟く声の甘さが何とも癖になる。
今日という日は実に慌ただしかった。出発時の梅と幸太郎のイレギュラー、光谷と藤堂との思わぬ再会、囃し立てられながらも一日と手を繋いで歩き、半ば嵌められた形で気まずい長湯をし、とどめに過去の大失態を明かされたのだ。何が何でも話さなくてはいけないと思っていた大事を終え、腕の中にはが大人しく収まっている。ゆるゆると身体の力が抜けていく様な感覚に、妓夫太郎は思わず目を伏せ安堵の息を零した。

が今日空白を埋めたんなら、俺にもそういう機会があっても良いんじゃねぇかって・・・」

気が抜けていたと言えばそこまでだが、腕の中のがほんの僅か身体を固くしたことを見逃した。妓夫太郎は確かにこの瞬間、普段よりも頭が回っていなかった。

「いつ・・・?」
「んん?ついさっきだなぁ」

確実に余計なことを漏らした。頭の回転が早いであれば、会話の内容とタイミングによって何を導き出すか。“空白を埋める”という独特な表現は自身が使ったものであり、それが狛治の口からつい先程出たという事実。互いに知らない過去を補完しあったことの裏に潜む時系列の違和感。さて、全ての推測が正しかった場合、湯煙の中で壁越しに聞かれたであろう会話はどんなものだったか。

「・・・あ?」

素知らぬ顔で逃げ切る一手を、妓夫太郎は自らの勘の良さと気の緩みによって潰してしまった。




* * *




時計の針は十時二十分を指している。男女の宿泊棟を繋ぐ連絡通路の影で、二人は一歩も動けぬ状況を強いられていた。互いにしか聞こえない程度の小声でが妓夫太郎に縋りつく。

「・・・ど、どうしよう」
「どうするもこうするも・・・面倒な奴が仁王立ちしてんなぁ」

物陰から出られない理由はふたつ。
ひとつ、通路の中央付近に厳しい形相をした不死川が立ち塞がっている。
ふたつ、消灯時間は午後十時。二十分を過ぎてしまっている為だ。

「ごめんなさい妓夫太郎くん、私が消灯時間も忘れて魂抜けてたせいで・・・」
「・・・いや、お前は悪く無ぇからなぁ」

最悪の可能性がすべて的中し、は本人の言葉の通り暫し放心状態となった。静まり返っていた壁の向こう、男湯で何を聞かれたか。なかなかに恥ずかしいことも、なかなかに際どいことも、すべて。
恥で真っ白くなるという彼女にしては珍しい固まり方に妓夫太郎が心底慌てたことも、良からぬ聞き耳にひたすら詫び倒したことも、を完全に引き戻すには結構な時間を要した。彼女の性格上怒りはしなかったものの、あまりの羞恥にふらつきながら漸く消灯時間を意識した時には既に遅く。“ご武運を祈ります”というしのぶからのメールに、二人して青くなり今に至る。
妓夫太郎が男子の宿泊棟へ戻るにはこの通路以外に道が無く、厳しい不死川を誤魔化せる算段も無い。はひとつの決意を固めた。

「私、謝って来る」
「あぁ?」
「私のせいで妓夫太郎くんをこっちの棟に引き留めちゃったんだもん、私が悪いって謝れば不死川先生も妓夫太郎くんのこと許してくれるかも」
「馬鹿言ってんじゃねぇぞ、おい」

の言い分は到底妓夫太郎が飲める筈も無いものだ。互いに引けない主張で縺れ合う、その刹那。不死川の顔が、ぐるりとこちらを見た。

「っ・・・!!!」

声にならない悲鳴を押し殺し、妓夫太郎がを壁に押遣る。姿を見られてはいない、小声の通る距離ではない筈だった。しかし確実に不死川には存在を探知され、説明のつかない圧で逃げることもままならない。

「っねえ、やっぱり私、」
「黙ってろ・・・!」

絶体絶命。何とかして互いを庇う術ばかりに考えを巡らせ、震え、また巡らせ。いよいよすぐ傍の角からとんでもない形相の不死川が顔を出す、その直前のことだった。

「不死川先生」

男子の宿泊棟側から、声がした。
不死川にしてみれば背後からの呼びかけである。気になる気配まで残り一歩の状況で、教員としての責任感が彼を生徒の方へ振り向かせた。

「・・・稲玉じゃねぇか。消灯時間はとっくに過ぎてんぞォ」
「すみません。大至急報告したいことがあって宇髄先生を訪ねたのですが、今夜の酒を選ぶのに忙しいからと相手にされなかったもので」
「んの野郎・・・!ふざけやがってェ・・・!」

間一髪の場面、思わぬ人物からの足止めに覚えたものは安堵か動揺か。変わらず壁に貼り付いたまま、二人は息を殺して耳に意識を集中させる。
獪岳の口調は青筋を立てる不死川を相手にしても淀みなく、宇髄の断り文句も実に想像に容易いものだった。

「でェ?こんな時間にわざわざ報告たァどういうことだ?」
「脱走です」
「あァ?!」

血管が切れるのではないかという勢いで不死川が声を荒げる。あまりの圧にの肩が一瞬びくりと跳ねたが、彼女を壁に押し付けたままの妓夫太郎は注意深く眉間に皺を寄せた。

「朱紗が宿を抜け出すのを見ました。恐らく行先は温泉街の灯篭祭だと思いますが」
「何だとォ?!舐め腐りやがって危ねェだろうがクソガキがぁ・・・!!」

灯篭祭は夜中までの煌びやかな催しだ。温泉街で大々的に宣伝をしていた為興味を持っていた生徒も多いが、同時に学校側は安全面からきつく禁じていた催しでもある。見事な正面突破に腹を立て、悪戯好きな女生徒を無事に確保すべく風の如く不死川はその場から消えた。
正面玄関から自動ドアの開く間も惜しむ様飛び出ていく不死川の様子は、連絡通路の窓からはっきりと確認出来る。黙ってその場を後にしようとする獪岳の背中を認め、思わずといった様子でが飛び出した。

「・・・っあの、稲玉くん・・・!」

獪岳は振り返らなかったが、の登場に一切驚きもしない。恐らくは妓夫太郎が傍にいることもわかっているであろう後姿に、益々は焦燥感を募らせた。

「助けてくれて、あの、」
「お前たちを助けた訳じゃない。脱走は事実だ。今すぐ報告する必要があった」

その声は相変わらず手厳しい。獪岳はの礼すら受け取ることを拒絶した。

「・・・俺がしたいことをしただけだ」

しかし、その一言は夏の一幕を思い出すには十分過ぎるもので。ほんの僅か緩んだ隙を気取られまいと、獪岳は足早にその場を後にしたのだった。




* * *




「もう、妓夫太郎くん、折角稲玉くんが連絡通路通れるようにしてくれたのに・・・」
「余計に通れるかってんだ。あの野郎に貸し作ってたまるかよなぁ」

の泊まる部屋は三階の角部屋だった。同室のしのぶの実に意味ありげな微笑みを交わし、今二人はバルコニーに立っている。カーテンは閉めさせたが、果たしてあの知略家を相手にどこまで隠し通せるかは怪しいところだった。
獪岳の助けは絶対に借りない。最早意地の様なものではあったが、二人の相性の悪さを知っている手前嗜めることも出来ず、策があるのならとは妓夫太郎の考えを尊重した。部屋に通せと言われた際は素直に頷き、バルコニーに通せと言われた際も首を傾げつつも頷き、柵に手をかけた瞬間は流石に心配の声が上がったものだけれど。体感で飛べると判断し一度降りた瞬間、は漸くひしと飛び付いてきた。

「っえ、ここから戻るの・・・?!危ないよ・・・!」
「これくらい余裕なんだよなぁ」
「えええ本当に・・・!?」

隣接する建物同士にさほど物理的な距離は無い。張り出したバルコニー同士を利用すれば十分飛べる上、渡り切ってさえしまえばこちらのものである。決して真似しないようにと確実に注意書きが出る場面ですらあったが、妓夫太郎には自信がありこれ以外の手は無いとその背中が物語る。真っ当な感覚で心配をしていたも、何を言っても止められないと悟ったのか小さな溜息と共に見送る覚悟を決めた様だった。

「妓夫太郎くん」

その声に振り返ったのは自然な流れ。音も無く、風を切ることも無く。ふたつの歯車がゆっくりと静かに噛み合わさる様に、妓夫太郎の視界いっぱいにの顔が近付いた。
ほんの数秒、しかしはっきりと数秒間、二人は繋がった。目を瞑る余裕も与えず、少々冷えた唇に確かな熱を灯してが爪先立ちをやめる。
唖然とする妓夫太郎を見上げ、彼女は気恥ずかしそうに微笑んだ。

「本当は、さっきしたかった分」
「・・・」
「本当に気を付けてね。おやすみなさい、また明日」
「・・・おぉ」

どこかぼんやりとした頭のまま、しかしに心配をかけまいと妓夫太郎は隣の棟へ軽々と飛んだ。目測通り、音も無く着地に成功する。後はバルコニー伝に大部屋へ戻るのみだ。振り返れば、無事に棟間を渡り切れたことに安堵していると目が合った。寒いから早く中へ入れと促せば、小さく頷き手を振って来る。見慣れた笑顔が時に心臓に悪い現象は、今尚現在の様だ。が室内に戻るのを確かに見送り、さてと隣に飛び移ろうとしたその瞬間。
屋上でキスを堪えた彼女の表情と、先程不意打ちで受けた熱を同時に連想した妓夫太郎は、見事に足を踏み外した。

「っ・・・・!!」

抜群の運動能力が一階分の降下と共に見事リカバリーを果たす。予定していた部屋の、ぴったり真下のバルコニーに妓夫太郎は着地した。怪我ひとつ無く、痛めてもいない。しかし二階のバルコニー沿いには所々植栽があり、予定外にガサリと大きな音を立ててしまった。明確に人の気配のする部屋、立てるべきではなかった物音。まずいと思った時には既に部屋のカーテンが内から開かれていた。

「・・・」

無言で見つめ合うこと、数秒。部屋の主はニヤリと口端を上げ、素早くカーテンを閉ざしてしまった。

「どうした?宇髄。何か音がした様だったが」
「いやあ、何でも無ぇ。だっせぇ猫がハデに着地失敗してただけだったわ」

誰がダサい猫だと反論したい気持ちは山々だが、見逃して貰えたこと自体は非常に有難い。苦々しい思いを抱え、妓夫太郎は今度こそ正しい軌道で自室の大部屋へと帰り着いた。

「・・・おかぁえり」

正直なところ非常に疲れている。しかし、律儀にバルコニーの鍵を開けて待っていた男たちの目は爛々と輝いていた。

「ねえええどうだった?消灯時間過ぎても帰って来れねぇくらい、夜のデート盛り上がっちゃった?!立花妹、可愛かった?!」
「うっせぇんだよなぁ・・・」

やはり一番に飛びついて来た佐伯の顔に、妓夫太郎は心無し威力を落として枕を投げ付けた。




* * *




一泊二日の工程を無事に終え、大型バスは学園への帰路を辿る。半数以上が疲労感からうとうとと船を漕ぐ車内は往路と違い静かなものだった。
そんな中においてもマイペースに読書を進めるしのぶの視界に、ごそごそと動く影が映り込む。正確に言えばひとつ前の座席だったが、少々難儀しているのは間違いない様だ。身を乗り出す様に立ち上がり、しのぶは前座席の背もたれに手をつく。窓側で気持ちよさそうに爆睡している佐伯、そして彼の足癖に奮闘する狛治の姿があった。

「大丈夫ですか?素山くん」
「問題無い・・・と言いたいところだが、少し手を貸して貰えるか?」
「勿論です、喜んで」

佐伯はそれほど大柄でないにも関わらず、どうしたらこの寝相になり隣の席を侵食するのか理解に苦しむ造形をしていた。狛治が何とか窓際に押し込むと同時に、しのぶがいくつかの荷物で二人の間に壁を作る。簡易的ではあるが、バリケードによって佐伯は大人しく窓際に落ち着いた様だった。陽に当たった明るい髪が煌めき、その口元がゆるゆると弧を描く。

「・・・ふへへ、しゃばなぁ、おしえてくれよぉ」
「ふふっ、楽しい夜更かしだったご様子ですね」

寝言は本音に忠実だ。消灯時間を過ぎてが連れて来た妓夫太郎がバルコニー伝いに帰ったと知らされた時は流石に驚いたものだが、女子の部屋でもが質問責めにあった様に妓夫太郎も同じ経験をしたのだろう。眠りも惜しみ食い入る様に質問を繰り返しては迷惑そうに睨まれる佐伯の姿が目に浮かぶ。そうして微笑むしのぶを見遣り、不意に狛治が後方へ目を留めるなり声を潜めた。

「・・・その様だな」

つられる様に振り返ったその先に、酷く優しい光景を見たしのぶの頬が緩む。

「あらあら」

頭を預け合い眠る二人の顔が、窓から差し込む陽光に照らされている。膝の上からずり落ちた妓夫太郎の上着は、しっかりと中央で結ばれた手を隠す役割を放棄した様だった。



 Top