文字から始まる兄の話




日が沈んだ後の職員室は人気が少ない。
椅子の上に胡坐をかき、宇髄は一枚の紙を透かす様に仰ぎ見た。

「へぇ。あいつ遂にこんな展示会までやんのなぁ」

決して派手では無かったが、しっかりとした厚みの紙で刷られた表題は“躍動 歴史を塗り替えた少女の軌跡”とある。

それは遂に今春天神杯三冠を成したの功績を謳った催しだった。
書道連盟のカメラマンが収め続けた数々の大会写真や作品の実物展示、この為に書き下ろした作品も飾られると言う。
恐らく本人は展示会だなんてとんでもないと否定するだろうが、これは彼女の母をはじめとするプロの書道家達の個展とそう変わらないものだ。会場自体は小規模な市民会館の展示室だが、それでも学生一人の特集を組まれることは学園としても大きな意味を伴う。

高らかな口笛を鳴らす宇髄を横目に、隣の席の煉獄が満足気に腕を組み大きく頷いて見せた。当然彼は事前にこの開催を知る者の一人である。

「うむ、見応えは抜群だろうな!俺も今から楽しみにしている!」
「っはは。兄貴分としちゃあ見逃せねぇってか?」

が煉獄家を昔からの稽古拠点としていることは、学園内の人間であれば周知の事実だ。そうした背景があろうが無かろうが普段から煉獄は教師として公平であるし、他の生徒の前でを特別扱いなど断じてした事が無い。
しかし胸の内を透かす様に意味ありげな笑みを浮かべる宇髄を前に、彼はその逞しい眉を若干寄せた。

「む。そういう意味ではないぞ。公平な目で見て、彼女の筆には十分な価値があると思っている」
「へいへい、そういう事にしておこうかね。早い内に見に行くんだろ?俺も混ぜろや」
「勿論だ!是非行こう!」

何事も揶揄わずにはいられない性格と興味関心のバランスが絶妙に混ざり合う宇髄と比べ、煉獄は根がこれ以上無い程に真っ直ぐな為か切り替えも早い。
宇髄と共に予定を立てることを了承した煉獄の胸中は今、誇らしい教え子にして妹に近しい存在の活躍で熱く燃え滾っていた。一教師として実に喜ばしい。
少年に戻ったかの様なワクワクとした高揚感をもって、宇髄とは逆隣の存在に声をかけたことは至って自然な流れの様に思えた。

「不死川もどうだ?」
「俺ァ良い」

瞬時に戻ってきた返答は簡潔な否だった。

別段何かを期待していた訳でも無ければ、強要したつもりもまったく無い。しかしその温度差が大きかった為か、何故か煉獄はぴしゃりと冷水を浴びせられた気になってしまう。

「あっそぉ、じゃあ俺たちだけで行きますかね」

宇髄の口調は普段通り何ら変わらない筈が、少々遠く聞こえる。
その日の不死川の声の硬さが、妙に煉獄の胸に引っかかった。




* * *




採点業務は時に設問作りより手間がかかる。

すっかり日も落ちグラウンドで部活動に励む生徒の影すら無くなった今も尚、不死川は険しい表情で答案一枚一枚と向き合っていた。目線はデスク上に固定したまま、しかし静まり返った職員室の中に残っているのは己一人であろう現状に彼はひとつ息を吐き肩を回す。
放課後の補習に時間を使い過ぎたツケだが、こればかりは仕方がない。視神経に相当負担がかかっているのを強く感じるが、残すところあと一歩という薄さまで山を減らすことが出来た。誰に頼らずとも気合いくらいは入れられる。

仕切り直しと言わんばかりに捲った次の答案用紙を視界に入れた瞬間、不死川は不意に目を丸くした。ほんの数秒の沈黙を挟み、ゴツゴツとした手が採点を再開する。
赤ペンが滑らかに紙の上を走り、やがて完成したその用紙は採点済のボックスに流れ作業の様に入れられる筈だったが、不死川はその一枚を改めて眺めた。

まるで数日前、宇髄が展示会の知らせを仰ぎ見た時の様に、その瞳は感心に彩られている。
不死川は今確かに、この答案用紙の出来栄え全てに満足そうな表情をしていた。

「成程、不死川は立花の硬筆が好きなのだな!」
「っ・・・!!急に後ろに立つんじゃねェ!!」

心臓が飛び出るが如く大きな衝撃に血走る目を見開き、不死川は背後に立つ男を一喝する。
確認するまでも無く相手は煉獄であったが、何故気付けなかったのかと不死川は内心で舌打ちをした。
それほどまでに集中していたか、しかし硬筆が好きなのだろうと指摘されたこの一枚をぼんやりと眺めた時間は逆に散漫では無かったとは言い切れない。
そうして不覚や羞恥に警戒する不死川の内心には一切触れることなく、煉獄は隣の席にかけるなり椅子ごと身体の向きを変え頭を下げた。

「先日は急に誘ってしまい、失礼した」
「・・・」
「考え過ぎであれば笑ってくれ。あの日、不死川の断りの返答が少々硬く聞こえてしまい、気になっていたんだ」

謝るのはそこかという突っ込みも儘ならず、これは少々面倒な展開だ。
頭を上げた煉獄の表情は真剣そのものであり回避出来そうも無い。
どうしたものかと数秒考えた末、不死川はまず手元の山から話を切り出すことを決めた。

「・・・答案は、まず正誤が第一な訳だが」
「ん?うむ、その通りだな」
「まぁ、コイツらはそれぞれに独特の文字で制限時間以内に書き殴ってくる訳だ」

話題が飛んだと横槍が入らないことに小さく安堵し、不死川は持論を続ける。
補習で時間を取られたことも確かに遅くなっている要因であるが、理由としては不足していた。
彼は実にユニークな数字たちの読解に頭を悩ませていたのである。
数学の解答に三角は無い。丸がバツか、読み違えぬ様向き合うには、学生たちの文字は実に個性的が過ぎた。

「特に数字は厄介な代物だからよぉ、1か7か、6か0か、4か9か、読ませる気が無ぇのかって拳骨くらわせてやりてぇ奴もいりゃあ、素で象形文字かってくらいに解読不能な奴もたまにいる」
「文章であれば前後から察することも出来るが、数学はその手が使えないな」
「点数が良けりゃ良いって問題でもねぇ。合ってても解読に時間がかかった奴には指導してやらねぇといけねぇしなぁ」

そう口にした不死川の脳裏に一番に浮かんだのは妓夫太郎であった。
試験の点数自体は常に良い。しかしながら読み易い字からはほど遠く、おまけに授業態度も宜しくない。
成績だけでは後々苦労することになると、毎度試験返却の折注意はしているものの響く様子も無く困り者だ。

尤も、同クラスの佐伯など文字も読み辛く高確率の赤点という目も当てられぬ惨状であるし、他にも文字の汚い常習犯は両手では足りないほど在籍している。不死川にとって採点とは答案用紙を通した生徒との闘いとも呼べる難関だった。

さて、前置きが少々長くなってしまったがここからが本題だ。

「そういう中にあってよぉ。この答案は何つーか、採点してて気分が良いと思わねぇか」

未だ採点済の山に重ねていない答案用紙は不死川の手にあり、それは変わることなく完璧に光り輝いてさえ見える。

「余裕を感じる筆圧、見間違え様の無ぇ読み易さ、おまけに満点」
「確かに!不死川の言う通り、見事な三拍子だな!」
「だろ」

煉獄の明るい肯定を受け、不死川は何処か得意げな気持ちで小さく笑う。

立花と美しく綴られた記名から始まり数字は教科書に載る書体の様に整い、大きさも程良く解答欄にきっちりと埋まり、何より全体から余裕を感じられる答案用紙は全問正解の出来栄えだった。
文字の読み易さの基準は綺麗汚いに限らず、適切な大きさや余裕の有無も大きく関係する。
汚くはないものの異様に小さな丸文字はどの学年も一部の女子生徒に見られる傾向であるし、時間が足りずギリギリで埋めようとする生徒の答案は焦りから文字があちらこちらに脱線して読解に難儀する。
その点の答案は正答率を含め手本にしたくなる程の代物であり、採点の度神経をすり減らす不死川にとって彼女の答案用紙と向き合う時間は大変に気分の良い、癒しとも呼べるものだった。

公欠を特例で認められる程の文武両道を中等部一年の頃より掲げ続けるは、今や書道界で最も有名な高校生だ。彼女自身と特別な関わりは無くとも、この答案と向き合う度覚える清々しい感覚は一教師として大変に好ましい。

「あれだけ活躍しといて一切成績落とさねぇんだからよ。大したもんだァ」

それは純粋な賞賛であり、煉獄に対する遠回しな回答でもあった。

煉獄との関係性は不死川も知るところであるし、彼女の活躍は勿論喜ばしい。
生徒が努力していることに教師として関心が無い筈が無い、の功績は無論認めている。
可愛い妹分を侮っている訳ではないと弁明するのは少し違う気もしたが、どうもこの同僚は時に生徒より真っ直ぐなものだから困る。不死川は溜息交じりに頭を掻き隣を見遣った。

「別にこいつの筆に興味が無ぇ訳じゃねぇよ。ただ、俺はこっちで十分腹いっぱいっつーか・・・」
「うむ、大丈夫だ。不死川の気持ちは十分に伝わった」

煉獄は溌剌と笑っていた。腕を組み何度も頷き、そして不意にその視線が和らぐ。

「宇髄にはああ言ったが、やはりこうした時に嬉しく感じてしまうのはいただけないな」
「あァ?」
「あの子のふとした側面を褒められると、どうも自分事の様に捉えてしまってな。ほんの小さい頃からよく頑張る子で・・・宇髄の言う様に、正直未だに兄の様な気持ちが抜けずにいる。あの子の努力が認められると、俺も嬉しい」

をあの子と呼ぶその口調は、途方も無く優しく嘘が無かった。
昔から傍で見守っているが故の秘めるべき特別を、煉獄は今少々の戒めを緩めて笑っている。それが普段の笑みとは違うこと、そして自身もまた覚えのある思いであることに不死川は瞠目した。

脳裏には、気まずそうに立ち竦む弟の姿が浮かぶ。

「生徒は皆等しく大事な存在だ。常々戒めているつもりが、時折気が緩んで困る。俺はまだまだ、精進が足りないな!」
「・・・まぁ、わからなくもねぇ」

思わず返してしまった相槌は今更引っ込みがつかない。
おやと目を丸くする煉獄から視線を逸らし、不死川はようやくの答案用紙を採点済のボックスへと滑り込ませた。

精進が足りないと煉獄が苦笑する気持ちが痛い程によくわかる。
表面上はどうあれ、数多くの生徒達の中に紛れた“特別”を意識してしまうことは、不死川にとっても覚えの強過ぎる気持ちだった。

「ったく、こっちの気も知らねぇで部活三昧。楽しいのは大いに結構だが、やりゃあ出来る頭持ってやがる癖にスイッチ入るのが遅ぇのなんの」
「不死川・・・」
「先回りして尻叩いてやれんのも今だけだァ。しっかりして貰わねぇと先々困るのはあいつだってのに。まったく・・・」

煉獄がに向けるものが誇らしさや喜びであるのなら、不死川が玄弥に向けるものは喝だ。
その裏側には数多くの心配が張り巡らされているが、厳しい言い方でしか不死川はそれを表現出来ない。
文字自体は決して汚くはないものの時間配分が上手くないのか後半になると決まって乱れる弟の答案用紙を思い起こし、まったくと腕を組む不死川の表情は呆れが半分、もう半分が優しい感情であることはすぐさま煉獄へと伝わった。
不意に目が合いにっこりと穏やかに微笑まれたことで、不死川は喋り過ぎたと小さく舌打ちをする。

「・・・教師も人間だからな。まぁ、こういう日もあんだろ」
「うむ、ありがとう!何やら共通点が出来た様で、嬉しく思う!」
「生憎、うちのはこんな満点の答案にゃ程遠いけどなぁ」
「っははは!だが、不死川にとっては自慢の弟だろう」
「・・・」

揶揄いでもなければ一切の誇張も無く、本心から自慢の弟だろうと告げられ覚えた気持ちは何やら調子の狂うもので。不死川は内心で毒づきながら些細な反撃に出た。

「そういうおめェは、立花の更に下に実の弟が控えてんだろーが」
「そうだな!!来年、千寿郎が中等部に来た時こそ俺は気を付けねばと思っているが、大層可愛い自慢の弟ゆえ実際はどうなることやら!」
「はぁ?今からんな弱気でどうすんだァ」

大層可愛い自慢の弟。
本心はどうあれ、不死川ではどう頑張っても他人に言えないであろう単語を煉獄は堂々と口にする。
そして彼は、明るい笑顔に親しみを込めてこう続けるのだ。

「大丈夫!その時はきっと、こうして不死川が話を聞いてくれるのだろう!」
「・・・」
「無論、俺も不死川の弟自慢を聞くつもりなので心ゆくまで語ってくれ!」

話の方向性が当初とずれた様な気がしなくもないが、兄であり教師という共通点から互いにこっそりと自慢話を明かし合うのが最良と煉獄は判断したのだろう。
前向きな視線にはほんの僅かの曇りも無く、不死川は眩しさから目を背ける様に赤ペンを構え直した。

「・・・そう簡単には聞かせてやらねぇよォ」
「んっ?何だ、もう一回言ってくれ!」
「何も言ってねェ」

残りは僅か。彼は採点を再開した。


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