秋色ノスタルジー 2




宿泊先はなかなかに豪華な宿であり、宴会場ひとつ貸切っての夕食は大変賑やかなものになった。
流石にクラス単位の着席を義務付けられた二人は別々に食事を摂ったが、時折目が合いが嬉しそうに手を振る度に妓夫太郎も小さく手を上げて応じ、その都度近くにいた佐伯が頬の緩みを隠し切れず殴られるという流れが繰り返された。

消灯までは残り数時間。男湯の脱衣所から露天の大浴場に踏み込んだ妓夫太郎は、背後から近付いてきた気配を当然の如く察知しており。

「しゃ・ば・なァー!!」

そして当然の如く避けた。勢い良く飛び付こうとした佐伯が危うく顔面から転倒するところであったが、知ったことではない。

「さ、避ける?普通そこ避ける?」
「まともに受け止める方がどうかしてんだよなぁ」
「ちくしょお厳しい・・・けど俺は負けねぇかんな・・・!」

常日頃より佐伯は口数が多く、どんなに睨まれようが殴られようが臆せず妓夫太郎に絡んでくる稀有な存在であったが、今日は特別その頻度が高い様に思えた。怪訝な顔をして洗い場に向かう妓夫太郎を追いかけ当然隣の席を使い、タイミングを合わせて席を立ち一緒に風呂に浸かろうとしている。鬱陶しさに妓夫太郎が舌打ちをすると同時に、佐伯は次の手に打って出た。

「なぁなぁ、昼間は楽しかった?立花妹と温泉街でラブラブデート、楽しかった?」
「・・・」
「おおおう無言で頭掴もうとしないで!ちょっとくらい話聞かせてくれても良くない?!俺ふたりの邪魔しなかっただろ?!」
「邪魔しねぇのは当たり前なんだよなぁ・・・!」

悲鳴も虚しく、青筋を立てた妓夫太郎の手が佐伯の頭を鷲掴みにした。流石に目立ったのか、呆れた様な顔をした狛治が傍で足を止める。

「妓夫太郎、よせ。俺たちの貸切じゃないんだぞ」
「そうだそうだ!」
「・・・お前もだ。妓夫太郎を煽るんじゃない」

狛治の助け舟は本人の調子の良さによって泥舟と化した。頭を掴む手の力はまるで弱まる気配が無い。
確かに今日佐伯がそう来るであろうことは妓夫太郎も予想していたことだった。滅多に外では、ましてや学園の人間の近くでは緩めることの無い警戒を今日に限ってはあえて解いた。それはが如何に今日を楽しみにしていたのか、その気持ちを正面からぶつけられた為であり、梅の為に旅行自体を蹴った幸太郎からの後押しに応じる為でもあり、同時に雑踏の中からによからぬ手が伸びることを牽制する意味合いもあった。二人繋いだ手はすれ違い様の相手に囃し立てる口実も与えたが、結果として強固な虫除けの役割も果たした。恐らくこの判断は間違っていなかっただろう。しかし、執拗な問答に応じるかは別問題である。妓夫太郎が多少脅しの手を厳しくしようとした最中、負けじと佐伯が歯を食い縛った。

「いいや今日の俺は諦めねぇよ?!何たって修学旅行だし?!同じ部屋だし?!謝花と立花妹の恋バナは正直学年中の男子が気にしてるかんな!俺は代表してしっかり聞く気満々だかんね!!」
「あァ・・・?」

学年中とは何か。眉間の皺を深めつつ、妓夫太郎が辺りを見渡す―――同時に、その場にいた狛治以外の男子生徒達が一斉に素早く目を逸らした。
かぽーん、と鹿威しが音を立て瞬間男湯は静寂に支配される。妓夫太郎の忌々し気な舌打ちがひとつ重なった時だった。横から第三者が近付いて来る。同学年の矢琶羽だ。

「佐伯よ、少し落ち着け。黙って待っていれば、良いこともあるかもしれないぞ」
「はぇ?矢琶羽・・・?」
「よく言うだろう。果報は寝て待て、だ」

彼はそれだけ告げると、三人を追い越す様に湯舟に浸かり始めた。十分な広さの露天風呂は秋の夜に最適だ。突然絡んで来たと思えば何事か。言い回しが若干気になりつつも、彼らは矢琶羽に続くことを決めた。

何とも心地の良い湯に浸かり、放っておけば佐伯が数秒後にでも良い湯だなぁと歌い出しそうになった、その時である。
カラカラと、遠くから扉を開ける音がした。

「うわぁ。結構広いんだね」
「そうですねぇ」

竹の仕切り一枚向こう側。女湯から、聞き間違える筈の無い声がする。
何が果報は寝て待てだ。がしのぶと共に女湯に入って来ることを知っていたに違いない。
涼しい顔をしている確信犯であろう男を見遣り、妓夫太郎は細く息を吸い込み掴みかかろうとした。

「・・・ってめ、」
「しぃー!謝花静かに・・・!」

しかし、ここに来て劣勢だった佐伯のいつになく真剣な声色が強制力を高める。声を殺す必要は無い。堂々としていれば良い話だ。頭ではわかっている筈が、何故か男湯は静まり返り同調の圧が強い。妓夫太郎は黙らざるを得なくなってしまった。
熱気と重苦しさすら感じる沈黙の中、次いで女湯の扉が開閉される。

「何じゃ。良い湯を独り占めかと思うたが、読みが甘かったかのぉ」

声では判断しかねるものの、この独特な喋り方は同学年の朱紗丸だった。どうやら女湯は男湯に比べ随分と空いており、今は彼女としのぶ、そしての三人だけの様だ。

「こんばんは、私たちもご一緒して構いませんか?」
「仕方が無いのぉ」
「ありがとう朱紗さん」
「うん、苦しゅうない」

同学年の筈が奇妙な会話だ。思わず妓夫太郎は眉を顰めて浴槽の端に陣取る矢琶羽を睨んだが、それは動揺に対する一時の誤魔化しにしかならなかった。
覗き見ている訳でも無く、無論その様な輩がいれば一人残らず湯の底に沈める気でいた妓夫太郎であったが、仕切り一枚を隔てた無防備な笑い声に結果として聞き耳を立ててしまっている現状は異様な程背徳感を伴った。
女子三人の会話は男子からすれば独特だ。備え付けのシャンプーが良い香りであるとか、アメニティの化粧水が有名なものであったとか、洗い場ですら何故会話が続くのかと思うほどに彼女たちの声は途切れない。が今何を洗っているのかという煩悩を懸命に封じ込めて妓夫太郎が耐え切った頃合いで、どうやら三人は揃って風呂に浸かった様だった。
星が綺麗だの、肌がすべすべになりそうだの、男子ではまず話題にしそうも無いことが聞こえて来た直後のことだ。

「立花妹。お主、意外と豊満な胸をしておるのォ」

特大の爆弾は遂に投下された。
男湯の大多数が発作の様に噴き出すのを堪えている。微動だにしないのは狛治だけの様であった。

「え、えぇ・・・?そんなこと無いんじゃないかな」
「いや、見間違いではないぞ。身体は絞られておるのに、胸はある」
「私も思ってました。さん、着痩せするタイプなんですね」
「うっ・・・み、見られると恥ずかしいよ」

今すぐに全員を殴り倒し脱衣所まで引き摺って行くべきか。物騒な使命感が現実味を帯びようとした次の瞬間、妓夫太郎の動きは見事封じられることとなった。

「キャハハ。成程、謝花の奴なかなかに」
「朱紗さん、それ以上は教育的によろしくない発言ですよ」

直接確認せずともわかる。朱紗丸のニタニタとした笑み。しのぶの素早い制止。

「ち、ちがうよっ・・・!」
「なんじゃ。つまらんのぉ」

そして、これ以上無いほど赤くなっているであろうの震える語尾。
爆弾魔の朱紗丸はあっさりと引き下がった様であったが、男湯の中にあって完全孤立状態の妓夫太郎は振り上げかけた拳の行き所を無くした。
おのれ朱紗丸。しかしこの状況では成す術が無い。

「ところでさん、日中は楽しかったですか?」

しのぶの一声が、風向きを変える。ある意味佐伯が最も聞きたがったことであり、その主張が正しいのであれば学年中の男子が気にしているという話題そのものだ。余計なことは外野に聞かせたくない。しかし、何故かこの場を立ち去れない。妓夫太郎の足は湯舟の底に根付いてしまった様だった。

「・・・うん、すっごく」
「そんな顔をされていますね」

の声は相変わらず嘘が無い。膝を抱えた柔らかな笑顔が、見えた気がした。

「お主ら、ずっと一緒におって飽きんのか?」
「え?」
「うちのクラスでもお主らは評判じゃ。しかしなぁ、私には分かりかねる。毎日毎日同じ奴の隣にいるというのは、飽きてしまわぬか?」

ずっと一緒にいては、飽きてしまうのではないか。朱紗丸の疑問が不思議と刺さった。
の気持ちを疑うつもりは微塵も無い。正直な彼女の声や瞳は、いつだって真っ直ぐ過ぎる程の思いを届けてくれる。
しかしながら、すっかり染み付いてしまった自己肯定感の低さもまた消えることは無い。飽きてしまうのでは、という率直な問いは鋭く妓夫太郎の胸の内に刃を向けた。

「ふふ。全然」
「そういうものかのォ」

穏やかに返された即答の否は、誰の耳にもはっきりと届く。
納得には至っていないであろう朱紗丸の声が響く中、どこか胸の内が救われた様な思いで妓夫太郎は人知れず短く息を吐いた。未だ拭い切れぬ不安に俯く度、からの肯定の言葉が前を向かせてくれる。またひとつ、彼女自身ですら気付かぬ内に守って貰った様な気すら覚えてしまい、一滴の汗が音も無く湯舟に消えた。

「朱紗さんだって、矢琶羽くんといつも一緒で楽しそう」
「あ奴は別じゃ。言わば腐れ縁よ」
「えぇ?その逃げ方ずるいよ。気になるなぁ」

仕切り一枚隔てたこちら側のことなど知る由も無く、の声は和やかに響いた。不意に些細な沈黙が女湯に訪れる。喋りっぱなしの時間も遂に尽きたかと思われた。
しのぶの次の一言が響くまでは。

「お話戻しても良いでしょうか。デート中に何か良いこと、ありました?」
「えっ・・・?」
「勘違いならすみません。謝花くんと一緒にいる時のさんはいつも幸せそうですけど、今日は一段と輝いて見えるような気がしまして」

話の起動は完璧に修正された。朱紗丸の横槍はあったが、元はと言えばしのぶの問いかけから始まったのである。否応なしにドキリと心音が高鳴る心地に、ますます男湯は静まり返った。

「今日ね、妓夫太郎くんの中学時代の友達と偶然お話し出来る機会があって・・・」
「あ。他校の制服の方もお見かけしましたね。同じく修学旅行でしょうか」
「うん、そうみたい」

藤堂と光谷との邂逅はあの後少し続いた。光谷が気を遣って解散を言い出さなければ、恐らくは時間いっぱい食い付いたであろう勢いで妓夫太郎の中学時代に強く興味を示した。どんな雰囲気だったのか、どんな中学生だったのか。光谷は正直に見たままを答え、藤堂もまた遠慮の無い感想を述べた。だからこそ、今は随分と丸くなった様に見えるという補足にが目を丸くしていたことは、妓夫太郎も気付いていたのだけれど。

「妓夫太郎くんから聞いて知ってたこと、お友達から改めて聞かせて貰えて、何だかすごく・・・嬉しかった」

まさかこんな形で本人の気持ちを改めて聞かされることになるとは、思いもしなかった。

「何でもかんでも知りたがるのは、あまり良くないのかもしれないけど。ちょっとした空白を埋められたことが、本当に嬉しくて」

の声が、感情の波によって深みを増していく。
の柔らかな笑みが、脳裏にはっきりと浮かぶ。

「今更だけど。私、妓夫太郎くんのこと、好きだなぁって」

僅か一瞬の静寂が、途方も無く長いものに思えた。

「・・・あっ」

我に返った様なの声が、慌てた様なその声が響くと共に、現実が戻って来た。
唖然、驚愕、そして羨望。様々な類の視線が注がれる感覚に、妓夫太郎は眩暈に似た感覚を覚えてしまう。

「ふふ。ご馳走様です」
「何じゃ何じゃ、遠慮せんで続けろ」
「うっ・・・ごめんなさい!もうこの話はおしまい!」

見事惚気てしまったことを恥じたは強引に話を打ち切り、湯舟を立った様だった。それに続き残り二人も立ち上がり、女湯は扉の開閉音を最後に静まり返る。男湯の静寂は解かれた。必要以上に温泉に浸かり過ぎた上、心臓に負担がかかり過ぎている。

「・・・謝花」
「次何か言ったら沈めるからなぁ」
「やめてやれ妓夫太郎、もう沈んでいる」

ゴボゴボと泡で主張する佐伯を後目に、勢いよく音を立てて立ち上がった影があった。

「とんだ茶番だな」

冷ややかな声だった。
しかしながら、周りと同じく長時間湯に浸かっていたであろう獪岳の頬は赤い。

「下らん話で時間を無駄にした」

その下らん話に熱心に聞き耳を立てていたのは誰だ、という反論はその場の誰もが思い浮かべたものだが口にはしない。
口にはせずとも、この後の展開が予想出来たからである。

「・・・あァ?」
「何だ。文句でもあるのか」

ざば、と音を立てて妓夫太郎が立ち上がる。
両者は赤い顔をして厳しく睨み合った。




* * *




小規模な人だかり、そして短いスパンで響き続ける独特な軽い音。
長い髪を乾かす為に十分な時間を要したたちは、女湯から出て早々に足を止めることとなった。

「あらあら、白熱してますね」

卓球台があることは知っていた。ひょっとしたら男子達がここで対決する現場に居合わせるかもしれないとも思っていた。そして妓夫太郎がもし戦うとすれば、相手は恐らく狛治であろうともは予想していたのだ。
これはまさかの展開である。

「素山くん、あの・・・」
「まぁ、色々あってな。すまないが上手く説明は出来ん」
「そっか・・・」

妓夫太郎の相手は獪岳だった。互いに非常に険悪な雰囲気のまま、一歩も引かずレベルの高いラリーが繰り広げられている。何があったのか、何故こうなったのか。何も聞かずとも大体を察したしのぶと違い、は落ち着きなく拳を握ることしか出来ない。女子たちが優雅に髪を乾かしている間に表へ出ろと言わんばかりに飛び出て来た男子間の諍いなど、加えて火種が自分などとは考えもしないことだった。
それにしても運動神経抜群の妓夫太郎は何をしても様になる。振りの大きな被りに乗せた打球、そして瞬発力。改めて惚れ惚れとしてしまうを揶揄う様に、適当な濡れ髪のままの朱紗丸が絡んで来た。

「何じゃ立花妹、声援のひとつでも送ってやったらどうじゃ」
「えっ?で、でも妓夫太郎くんの邪魔になっちゃったら・・・」
「キャハハ、邪魔な訳がなかろうて。ほれほれ、さっきの勢いはどうした」
「も、もう。わかったよ」

心臓が煩い。強引に背を押されるまま、は息を吸い込んだ。

「妓夫太郎くんっ・・・!」

ラケットがピンポン玉を打つ。次の瞬間、妓夫太郎の視線はの方を向いた。青い瞳とはっきり目が合い、は嬉しさに目を輝かせながら手を振る。

「頑張っ」

応援の言葉は、最後まで発されることは無かった。ほんの一瞬でも敵の集中力が削がれたことを見逃す獪岳ではなく、容赦の無いスマッシュが叩き込まれた為だ。カン、カン、コロコロ。卓球において終わりを意味する音が鳴り響いた。

「・・・お見事なスマッシュですね」
「完全に隙をつかれたな」

しのぶと狛治の冷静な言葉が全てを物語った。
言葉も無く固まるを横目に捉えつつ、獪岳は転がった玉もそのままに勝ち誇った笑みを浮かべる。

「ふん、大したこと無かったな」

妓夫太郎の完敗である。
気分良く獪岳が立ち去った卓球台に向かって、が間を置いた末慌てて駆け寄った。打ち捨てられたピンポン玉を拾い、立ち尽くす恋人に向けておずおずとそれを差し出す。勝てたかもしれない局面で、余計なことをしてしまった。風呂上がりの上気した頬は、しかし後悔と申し訳無さから眉を下げていた。

「ご、ごめんね妓夫太郎くん・・・」
「・・・いや、良い」

ピンポン玉を受け取りラケットを置いた妓夫太郎の表情は、傍目には仏頂面に映るだろうがにはわかる程度に穏やかだ。風呂上りに浴衣一枚のに向けて、彼は自然な流れで自分の羽織を脱ぐ。無言で肩に掛けられた優しさに、は思わず頬が緩んでしまった。

「・・・ありがと」

真剣勝負中にも関わらず、風呂上がりの浴衣姿に虚を突かれ彼の時が一時停止したことを、は知らない。



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