秋色ノスタルジー 1




秋、深まる。
色付く季節を象徴するかの様に、赤い紅葉が空を舞った。

白い湯気と独特な硫黄の香り、寒くなる一歩手前の過ごし易い涼しさ。
身体は制服を着たままにも関わらずポカポカと温かいのは、膝から下を直接温泉に浸している為である。背後にはローファーと脱いだ靴下を置いてあるが、隣にはもう一揃いの男物が並んでいて、振り返り見下ろしたその光景の何とも言えぬ嬉しさにはその場で伸びをした。

「んんー、足湯気持ち良いねぇ」
「・・・」

実に明るい独り言に対し、すぐ隣で同じく裾を捲った足を浸す相手からの返答が無い。
普段以上に背を丸めて難しい顔をしている妓夫太郎を見遣り、は思わず苦笑を浮かべてしまう。

「・・・あの、妓夫太郎くん。お兄ちゃんのことなら本当に気にしないで」
「そうは言ってもなぁ」

高等部二年の修学旅行は一泊二日。今年の目的地は東日本で有名な温泉地だ。
修学とは名ばかりの自由度高きこの旅行を誰もが楽しみにしていたことは間違いなく、それはの双子の兄も例外では無かった筈だった。
しかし、今この場に幸太郎の姿は無い。この場どころか、彼は今この旅行に参加すらしていない。それに至る経緯に妓夫太郎がある種の責任を感じているであろうことは明白だった。

一学年下の梅はこの旅行に参加出来ないことへの不満を隠さなかった。大好きな兄、姉と慕う、そして特別な幸太郎に置いて行かれることを彼女は全身全霊で拒絶した。
どうにもならない問題ゆえ、誰の説得も結論として成功には至らなかったことがそうさせたのか、双方共に頭のどこかで理解して貰えると甘く見ていた為か。梅は出発の朝になり、兄との二クラスが使うバスに堂々と乗り込み、悲鳴嶼の手によって軽々と担がれ摘み出されてしまった。
そこまでは予想の範疇だったのだ。妓夫太郎ももどうしたものかと困り顔をしつつも、既に帰宅した後どうやって彼女の機嫌を取るかに考えを巡らせ始めてすらいた。別のバスに乗っていた幸太郎が、出発直前に突如腹痛を訴えバスを降りてしまったと知るまでは。

どう考えても仮病である。品行方正な優等生たる幸太郎だからこそ咄嗟にでも通じた手であったのだろうが、彼は間違いなく泣き喚く梅の為にバスを降りたのだ。幸太郎は学校行事よりも梅を優先した。誰かがそうする必要があったと言うならば、そうすべきは兄である自分だっただろうに。妓夫太郎の険しい横顔にははっきりとそう書いてあり、は困った様に眉を下げた末にそっと彼の手を握った。
気難しそうな目元が若干和らぎ、交差する視線はやはり根元からして優しい。同じく心優しい双子の兄もまた、妓夫太郎にこんな顔をさせることは望まないだろう。はもう一歩分座りながら隣との距離を詰めた。ぴたりとくっついた身体はやはり制服越しにでも温かい。どこまでが足湯の効能かは、この際瑣末なことだった。

「今まで私が知ってる限り、お兄ちゃんはそういう嘘ついたことないの。頭が良いから色んなことをいつも考えてるし、咄嗟の適当な嘘は状況を良くしてくれないってわかってるんだと思う。穏便に済むなら、譲らなくて良いことも譲っちゃうようなひと」

家族であるの目から見ても幸太郎は飛び抜けて聡く、先のことまで考えが及ぶ故に突飛な行動とは縁遠い兄だ。自我を無理に押し通すことなど滅多にしない。その幸太郎が思いもよらない決断をした。は驚きと共にどこか温かい気持ちを胸に、緩く微笑んで見せる。

「それが急に腹痛を理由にして無理矢理バス降りちゃうんだから、よっぽどだったんだと思うよ。お兄ちゃん自身がどうしてもそうしたいって思ったんだね。あ、ほら」

端末の短い振動が話題の人物からの受信を告げる。
湯に落とさぬ様に気を付けながらもが差し出した画面を、二人して頭を寄せる様に覗き込んだ。

『心配をかけてすみません、今日と明日は保健室で自習をさせて貰うことになりました。は妓夫太郎殿と一緒に目一杯楽しんで来て下さいね。帰ってきたらお土産話を沢山聞かせてください』

スタンプも絵文字も無く、しかし兄の苦笑している姿が目に浮かぶ様な文面に、が目を細めて笑う。あえて名前を出すということは、これは二人宛の発信なのだろう。妓夫太郎が眉間に皺を寄せて溜息を吐くと同時に、続けて端末が二度震えた。

『梅殿も今は落ち着いています』

その一文に遅れること数秒、送られてきた画像には二人にとっていつまでも可愛い美少女が映っていた。
若干気まずそうな顔で目線は逸らし、しかし正面からカメラに向かって小さく両手を合わせている。続けて送られてきたスタンプは、ウサギが“ごめんなさい!”と謝っているものだった。どう考えても梅が幸太郎の隣にいて端末を操作しているのだろう。これには妓夫太郎の頬も緩み、それを見たが安堵の息を吐いた。

「ふたりにお土産、いっぱい買って帰ろうね」
「・・・おぉ」

秋の空は澄み渡り、まさしく旅行日和の温泉街は楽し気に賑わっている。幸太郎がこの場にいないことは残念ではあるものの、こうして本人からの後押しを受けて尚いつまでも後ろ向きではいられない。ようやくふたりの足並みが揃った様な心地に、目に見えての表情が明るくなった。

「それにしても、すごく良いところだね!雰囲気あってまさに温泉街って感じ。あっ、温泉饅頭食べてる子がいる。妓夫太郎くん、ここ出たら探してみようよ!」
「わーったから落ち着けよなぁ」
「ふふ、落ち着いてなんかいられないよ」

隙間無く寄り添って座るその中央で、繋がれた手に僅か力が入る。

「今日と明日は自由時間多いのわかってたから、一緒に色々回れるんだろうなぁって何日も前から楽しみだったんだもん。昨日はちょっと寝不足なくらいで・・・」

湯に浸した足をふわりと浮かせた末、嬉しさを隠すことの無い黒い瞳から期待の籠った視線を向けられ、胸の奥が溶ける様な心地に妓夫太郎は思わず苦笑混じりに小さく眉を下げてしまう。
一緒にいたいとは言う。常日頃どれだけ傍にいても尚、隣にいたいと彼女から主張されて心が緩まぬ筈は無い。

「一泊二日、来たことの無い温泉街で妓夫太郎くんと一緒。嬉しくて色々落ち着いていられないのは、許して欲しいなぁ」
「・・・そうかよ」

重なった手と手の間で、妓夫太郎の親指がのそれをくすぐる様に撫でた。急速に満たされていく感覚に、が小さく肩を揺らして笑う。湯の下の素足同士がどちらともなく触れ合った。

「本当に良い天気だねぇ」
「おぉ」
「そう言えば、広々してるのは良いんだけど、どうして皆入って来ないんだろう。こんなに足湯気持ち良いのに」
「・・・何でだろうなぁ」

この温泉街には足湯が点在している。見渡せる限り、どこもあまり大きくはない円に詰め合う様にして人が座っている中、確かにこの円はと妓夫太郎以外に入って来る者がいない様だった。

さて、二人とは少し距離を置き背を向け合う様な位置取りで揚げ餅に齧り付いていた佐伯が、これには思わず背後を振り返る。興味津々で聞き耳を立てていることが妓夫太郎にバレでもしたら十中八九殴られるだろうが、不思議そうな声をあげているには友として同調しかねるのが本音である。

「・・・マジで言ってんの?」
「少なくとも立花は本気だろうな」

隣に座っていた狛治が静かに応じる。表情こそ普段通り静かなものだが、彼もまた佐伯と同じく背後の二人の会話に耳を傾けているという事実が妙に可笑しく、近くに佇んでいたしのぶが声を潜めて微笑んだ。

「ふふふ。あの中に入っていける強者はなかなかいませんよねぇ」

何しろ背中からして二人の世界であることがだだ漏れになっている。幸太郎の思わぬ離脱が引き金になったのか、は普段通りとして妓夫太郎も今日に限ってはガードが甘い様だ。普通の感覚であればあの円に外から入っては行けないだろう。口笛を吹きたくなる衝動を堪えるべく、佐伯は残りの揚げ餅を口に押し込み、危うく咽せかけたところを狛治が差し出した茶によって救われていた。




* * *




レトロな温泉街は程よく賑わっており、観光客は老若男女、また他校の制服の学生もちらほらと見受けられ、今が秋の行楽シーズン真っ盛りであることを物語った。
夕食の時間には宿に集合することを厳守しモラルに則った行動を取るならば後は自由とされた開放的な時間を、学生たちは各々の楽しみ方で満喫する。
レンタルした浴衣に上着を羽織り、少々の肌寒さの中下駄を鳴らしながら温泉巡りをする者。食べ歩きに徹する者。土産物屋であれこれと頭を悩ませる者。カメラを片手に馴染みの薄い温泉街を興味津々と散策する者。
その中にあっては制服のまま散策することを望んだ為、妓夫太郎は異を唱える理由も無く彼女の隣を歩く。温泉は宿に戻ってからでも入れる上、男湯と女湯で別れてしまう時間が惜しいと気恥ずかしそうに告げられてしまえば断る理由などありはしなかった。
道中では最早買わずとも試食だと店先で振舞われる温泉饅頭や揚げ蒲鉾、時には勧められるまま観光地価格のアイスを買ってしまうこともあったが、その度が嬉しそうに笑うので妓夫太郎の小言の類は一切封じられてしまう。
入り組んだ道なりを歩き、小腹を満たし、寒さを覚えては足湯に浸かる。どうという事も無いこの繰り返しが楽しくて仕方が無いといった様子でが笑い、それを横目に妓夫太郎の空気が緩む。しっかりと繋がれた手は地元民や同級生達から囃し立てられる原因そのものであっても、二人してそれを解こうという気にはならなかった。

不意にの足が止まり、彼女の視線がとある店先の一角に釘付けになった。何事かと視線の先を追った妓夫太郎の目に映ったのは、ぼんやりとした三つ編みの女学生だ。誰だ、と思い数秒。否どこかで見覚えがあると思い直し数秒。遂に妓夫太郎の中で答えが繋がるより早く、が本人に突撃した。

「・・・藤堂さん?!」
「っ・・・!」

本当にぼんやりとしていたのだろう。これでもかと言わんばかりに三つ編みを揺らし驚きを表現した彼女は、険しい表情でを睨み付ける。

「ちょっと、大きな声出さないで頂戴っ・・・恥ずかしい人ね・・・!」
「あっ・・・ごめんなさい、嬉しくてつい」

に対し、棘のある接し方をする人間は相当に少ない。
場合によっては間に入ることも考えた妓夫太郎であったが、邪険にされて尚の様子は明るかった。の方が一方的に藤堂に対し好意的な気持ちを抱いているのだろう。この関係性は珍しい。

「えっ、藤堂さんの学校も修学旅行なの?」
「・・・貴女もその様ね」
「すごい偶然・・・!こんな所で会えて嬉しい・・・!」
「私はそれほどでもないけど」

実につれない態度に負けることなく、は嬉しそうな顔のまま妓夫太郎を振り返った。
ずっと共に同じ競技会を競っている相手だと、確か二人は同じ中学出身では無かったかと。
願ってもない巡り合わせに輝いた瞳は、思いもよらない光景を映す。

「・・・謝花くん?」

藤堂と同じロゴの制服を着た男子学生だった。黒髪に白い肌、優しげな表情をしている。
この時代で出会い直すより以前の彼を、知っている人物。
が目を丸くしている間に、妓夫太郎が反応を見せた。

「・・・光谷ぁ?」
「覚えててくれたんだ。久しぶり」

中学の同級生の名を覚えていたのかという一見不自然な問いですら、嫌味には決して聞こえない声色で光谷は微笑む。すぐ傍に佇むの存在に気付かない筈は無く、必要以上に近付くこともせずに彼は小さく頭を下げた。

「はじめまして、立花さん。謝花くんと同じ中学だった光谷です」
「あっ、はじめまして・・・!」

の声が若干上擦った。
他人に名前を知られていることは立場上それほど珍しいことでは無かったが、自分の知らない妓夫太郎を知っているという存在はどうにも落ち着かない。
相手の出方がどうであれ、妓夫太郎の反応を見れば二人の関係性は大抵わかる。これは恐らく、悪くは思っていない間柄だ。突然の再会に驚きつつも顔を顰めるには至っていない恋人を横目に、はひっそりと心拍数を高めていく。
言いたいことが纏まらずドギマギとするの様子を察したのか、光谷は仏頂面の藤堂の横に並ぶ様にして薄く笑った。

「僕が立花さんの名前を知ってるのは、君が有名人だからじゃないよ」
「え・・・?」
「謝花くんがずっと見てた大会動画のひとだから。懐かしいなぁ。最初は天神杯だったけど、どんどんレパートリーが増えて、でもどの大会でも見てるのはずっと立花さんだけだったよね」

文字通り、過去を振り返る光谷の微笑みは穏やかだった。
遡ること二年前の妓夫太郎は確かに暇さえあればの大会動画を見ていた。彼女が自分にとっての誰であるかをわかっていない状態でありながら、授業中であろうが誰が近くにいようが関係無く画面の向こうのを眺めていた。
その事実自体に嘘偽りは無く、加えてそれを本人から文化祭の夜に聞かされていたであったが、いざそれを第三者から聞かされた時の衝撃は想像を遥かに超えた。

「今は二人共同じ学校なんだ。良かったね、謝花くん」
「・・・」

賑わう空気の中、にこやかな光谷の声が妙に響く。妓夫太郎は何とも言えない顔をして頭を掻いていた。

記憶の無い状態の彼が、ずっと自分を見ていた。
わかってはいた筈のことが、他人から指摘されたことで今更こんなにも胸に沁みるのは何故だろうか。

頬が熱くなってしまう様な感覚には小さく唇を噛む。そのタイミングで交差した視線の先、青い瞳は一拍の間を置いて若干照れ臭そうに逸らされた。

「・・・だからなぁ、言っただろうが。見てたってよぉ」

咄嗟に返答が返せない。言葉が上手く声にならない。それほどに、は改めて知らされた事実が嬉しくて堪らない。
そうしてふたりの間から暫し会話が途絶えるものの、流れる空気が限りなく緩やかなことは一目瞭然で。どこまで理解しているのか不明瞭ながらも、光谷は優し気な笑みのまま口を開く。

「立花さん、改めて天神杯三冠おめでとうございます。でも次は藤堂さんもきっと負けないよ」
「ちょっと!何勝手なこと言ってるのよ」
「あれ、自信ない?」
「生意気言わないで。次は勝つわよ」

これにはがおやと目を丸くする。若干ではあるが、藤堂の空気が丸くなった様な気がしてならない。同性故の勘としか呼べない感情であったが、これによりようやくは現実に戻れた様な心地で彼女との距離を一歩詰めた。

「うん!まだまだこれからも一緒に頑張ろうね!私、藤堂さんの文字、好きだなぁ」
「ちょっ・・・やめてよね、貴女と私は競ってるのよ、慣れあうつもり無いんだから!」
「素直じゃないね、藤堂さん」
「光谷っ・・・!アンタねぇ・・・!」

ギリギリと歯を食いしばる藤堂の姿は、普段つれない態度で顔を背けるだけの彼女とは大きく違って見える。楽し気に笑いながらも、は妓夫太郎を振り返り優しくその手を引いた。
光谷と妓夫太郎、光谷と藤堂。彼らが同じ中学の出身ならば、もう一本の繋がりを想像してしまうことは自然な流れだろう。

「あの、実は前から気になってたんだけど、もしかして藤堂さんも妓夫太郎くんと友達?中学同じなんだよね?」
「・・・」

しかしながら、妓夫太郎を輪に入れた途端に藤堂の眉間に深い皺が寄った瞬間を目の当たりにしてしまい、は驚きと疑問に小首を傾げることとなる。妓夫太郎もまた、どこか面倒そうな顔をして眉を顰めていた。

「友達なんかじゃないわ。まぁ、因縁はあるけど」
「因縁?」

藤堂の口からいよいよ穏やかではない単語が飛び出した。咄嗟に光谷に視線を向けても、彼は曖昧な苦笑しか返してはくれない。事情を知らぬは困惑するばかりだったが、藤堂は険しい顔をしつつも一歩前へと進み出る。
ほんの一瞬、空気がひりついた。

「・・・まさか、この期に及んで“初戦”とか言わないわよね?」
「しょ、初戦・・・?」
「それとも念願の立花さんと仲良くなれたことで手一杯で、私なんて記憶の彼方かしら?まぁそれならそれで、一向に構わないけど」

訳がわからず動揺に揺れるに構うことなく、藤堂はあくまで挑戦的な態度を崩さない。
妓夫太郎の眉間の皺も負けじと深まり、長い溜息が吐き出された。非常に面倒であると彼の挙動の全てが物語る。しかし妓夫太郎は今、あえてこの挑戦を正面から受ける決断を下した。

「・・・ひとの記憶力を舐めんじゃねぇよなぁ、“準決勝”」

新たな呼び名に、その場の誰もが一瞬言葉を失う。

準決勝。
今春が三冠を制覇した天神杯において、藤堂が敗れた試合だった。

たっぷりと空いた空白の末、わなわなと藤堂の拳が震え始める。

「結局名前を覚える気が無いんじゃないっ!」

彼女が体現したのものは怒りそのものだったが、光谷とは思わず小さく笑ってしまったのだった。



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