揺蕩う水面





「正直に打ち明けるとね、俺は少し淋しかったのだよ・・・」

漆黒の髪と同じ色の瞳を伏せ、美しい男は芝居がかった口調でそう切り出した。

「廃墟を貸切ってのゲームに参加するだなんて、坊やもお嬢ちゃんも事前に何も教えてくれないものだから、後から知ってどんなにがっかりしたことか・・・」
「碓氷さん・・・」

哀れを誘う声に見事引っ掛かったのはであったが、隣で腕を組む妓夫太郎の苛立ちは既にピークに達しようとしている。放っておけば涙の演技すら披露しかねない勢いで、碓氷は片目を手で覆い大袈裟な溜息を吐いた。

「お金さえ積めばカメラ中継入れて貰えたかもしれないのに。心の底から見逃したくなかったよ、そんな面白いこと」
「どさくさに紛れてに触んな・・・!ふざけたことを抜かすなよなぁ・・・!」

遂に華奢な肩が抱かれそうになったことで、妓夫太郎は素早くその手を腕ごと振り払った。
容赦の無い痛そうな音とは裏腹に、碓氷は呑気な笑顔へと表情を切り替える。これまでの流れは何たる茶番か、年齢不詳の美しい男は高校生達を見下ろし満足げに手を叩いて見せたのだった。

「という訳なので、今日は俺の為と思って皆存分に遊んでくれたまえ。少年少女たちの青春を俺も近くで眺めたいのさ」

九月最初の土曜。天気は快晴、季節がほんの少し秋へと動き出そうという残暑の名残色濃き今日、彼らは一様に水着姿で碓氷の後姿を見送った。

背後の巨大なプールから人工的な波の音が聞こえて来る。一方的な演説の末、とにかく遊べと言い残しサポーターは去ってしまった。
唐突にこんな場所へ連れて来られ、戸惑いは勿論ある。ある、けれども。

「なんかよくわっかんねぇけど・・・俺いっちばーん!!ひゃっほー!」

この誘惑と整えられた状況を前にして、高校生達の心が動かない筈は無かった。
明るい髪を揺らし、佐伯が意気揚々と振り向きざまに駆け出す。彼の声は非常によく通る為、未だ戸惑いに揺れる全員の気持ちの切り替えには大いに役立った。
青い空に波の音、夏を締めくくるにあたりこれ以上無い程貴重な機会である。

「あっ!雑魚の癖に生意気よ佐伯!アタシ達も行くわよ先生!」
「う、梅殿準備運動がまだ・・・!」
「そんなのヘーキ!早く!」

問答無用とばかりに幸太郎の手を引く梅の表情は明るい。取り残された面々は端から順に、蜜璃、しのぶ、狛治、恋雪、、妓夫太郎である。それぞれ内心のうずうずとした気持ちはともかくとして、様子を伺う様にして互いを見遣る。中でも最も落ち着かない心地の恋雪が、思い切った様に隣のに一歩近付いた。

「あのっ、さん、私まで付いて来てしまって本当に良かったんでしょうか・・・」
「大丈夫だよ、誘いたいひとは皆連れておいでって碓氷さんが言ってたから」

それは突然だった。
何処へ行くかも知らされず、楽しい場所へ遊びに行くので連れていきたい友を集めて手ぶらで集合する様にとが碓氷から連絡を受けたのは昨日の夕方のことだ。電話口の向こうで不満の叫びを上げる兄妹は当然一緒にいられるとして、は兄と狛治と恋雪、そして先日の廃墟で大変世話になったしのぶと蜜璃、佐伯に声をかけた。多少の不安は各々ありながらも言いつけ通り何も持たず集った彼らを引き連れ、碓氷が向かった先が此処だったのだけれど。

「・・・まさかこんな大きなプールを貸し切りとは思わなかったねぇ」

最早これはレジャープールである。スタンダードなプールは異様に巨大であるし、流れるプールにスライダーまである。プールサイドも足元が実際の砂浜でないことを除けば宛ら浜辺の様であるし、ご丁寧にパラソルとチェアーまで準備済と知って思わず苦笑が零れてしまう。

「もしかして・・・廃墟の貸し切りに対抗したのかしら?」
「有り得ますね、拘っている様に聞こえました」

一体何をすれば此処を貸し切りに出来ると言うのか。当然レンタルではなく全員にその場で水着とタオル一式を買い与えた男の収入源は、未だ謎に包まれたままである。
碓氷が妓夫太郎と梅の保護者であることは、道すがら簡単な自己紹介をかねて本人から全員に告げられている。欲しいものは何でもどうぞと微笑む男と、これでもかと言わんばかりに顔を顰める謝花兄妹の間にはどう考えても何らかの壁が聳え立っており、高校生たちは皆それぞれに戸惑いの疑問符を浮かべたものであった。

「まぁ、確かに少し変わっているが・・・気前の良い人だな」
「・・・あの野郎の胡散臭さは一級品だからなぁ」

今となっては随分昔に思える文化祭の夜、目の前で幸太郎と梅を車で連れ去った黒髪の男に対し、奇妙な警戒を覚えていた狛治が場を取り繕うべく告げた言葉も、妓夫太郎の一言で一刀両断される。
胡散臭い。財力を駆使したあの綺麗な笑みは、何故かその表現が大変にしっくりと来た。恐らくは悪い人間では無い筈と信じるにとっては、ますます苦笑いが濃くなる状況だ。

「お兄ちゃん!お姉ちゃん!何してるの早くーっ!!」

何処から調達したのか、梅が大きなビーチボールを抱え声を張り上げている。佐伯にそれを投げつけ、妓夫太郎とに手を振る愛らしい表情には誰もが表情を綻ばせた。
戸惑いや疑問は当然残る。しかし、これもまた“貴重な非日常“であることには変わりない。
難しい顔をしている妓夫太郎の手に、そっとの指先が触れた。この状況を怪しむ頑なさを包み込む様に、黒い瞳が柔らかく細まる。

「折角連れて来て貰えたんだし、楽しく遊ばせて貰おうよ」
「・・・しょうがねぇなぁ」

絶対的な後押しには、深い眉間の皺も緩まると言うもの。
お馴染みになりつつある光景を前に、四人はそれぞれ顔を見合わせこっそりと笑った。




* * *




夏の終わりを鮮やかに飾るべく、彼らはこの貸切施設を堪能した。
水中のボールトスから始まり火が付いたのか、陸地に上がり本格始動したビーチバレーでは一部の面々によりプロ顔負けの接戦が繰り広げられ幸太郎が青くなり。そして二人乗りのスライダーでは九人中誰が一人になるかという熱弁を繰り広げた佐伯本人が涙を呑む結果となり、憐れみつつもパートナーは渡せない狛治が二回乗ることで事なきを得た。絶叫する男と無表情の男の組み合わせは大変にシュールで、下で待ち構えていた全員の笑いを誘った。主にトップ二人の争いとなった男子の競争、流れるプールにて大きなフロート上で繰り広げられた女子トーク。皆それぞれに、良く笑い良く泳ぎ良く遊んだ。

すい、と水面を揺蕩う大きな浮き輪の中心にすっかり腰を落ち着け、幸太郎はぼんやりと空を仰ぐ。
昼休憩を挟んだ今も尚、晴天が曇る気配は一切無い。これも妹の普段の行いが良い為だろうか。相変わらず第一線で書道家として活動中のの、何と体力に恵まれ頼もしいことか。浮き輪を引いて貰う心地良さに脱力しつつ幸太郎は考える。それに引き換え、何たる体たらくか---。

「・・・てめぇが乗る浮き輪じゃねぇと思うんだがなぁ」
「うっ・・・面目ない」
「良いんだよー。私が言い出したんだから」

まさに考えていたことを刺され、幸太郎が呻いた。体力を切らして居残りを申し出たところ、ならば自分が浮き輪で引くと言い出したのはだ。妹の手によって浮き輪で引かれるという、快適な反面情けない姿を指摘され返す言葉が無い。同じく横で妓夫太郎に浮き輪を引かれる梅が呆れ半分労わり半分な声を上げた。

「もぉー。先生大丈夫?」
「すみません梅殿、少し休めばまた復活しますので」

こちらは同じ様に浮き輪に腰を沈めているものの、両手両足で水面と戯れまだまだ元気が有り余っている様子である。幸太郎は苦笑を零し、改めて辺りを見回した。
今この巨大な中央プールにいるのは、四人だけの様だった。狛治と恋雪は再度流れるプールへ行くと言っていたし、佐伯と蜜璃はよほどワゴン販売のメニューをお気に召したらしく暫くは食べることに集中すると言っていた。しのぶも休憩するとのことだったので、恐らくは蜜璃の傍にいるだろう。
目視では推測しか出来ないほど、プールサイドが遠い。それだけこの楕円形のプールが規格外であるということだが、その分結構な距離を妹に引かせているということの裏返しでもある。幸太郎は前を行くを気遣った。

、無理はしていませんか?」
「全然?こういうのも新鮮で楽しいよー」

振り返り小首を傾げるの瞳には嘘が無い。心配されるなどとはまるで考えていなかったのだろう、楽しそうに彼女は笑った。

「妓夫太郎くん、梅ちゃん。お兄ちゃんも」
「はい?」
「ありがとうね、今年の夏もとっても楽しかった」

唐突に告げられた感謝の言葉は、目を丸くする三人へと等しく真っ直ぐに届けられた。
中学三年の秋に長い旅路を終えて以来、にとって特別にならなかった季節はひとつたりとも存在しない。四人揃っていられるならば、何でも無い日常ですら尊く感じられた。更に輪を広げた友人達の中に二人がいてくれる、変わらず微笑む兄がいる、非日常すら楽しむことが出来る今ほど恵まれた時は無いだろう。そうしては柔らかく目を細めて笑う。

「私は本当に、幸せ者だなぁ」

しみじみとした、疑い様の無い本心を表した声。聞いている方が少々照れ臭くなりそうな台詞も、が口にすればすんなりと心に染み入るものだから不思議なことだ。
空気が温かく和んだ直後、不意に梅がもぞもぞと身体を捩り浮輪から抜け出た。ひと掻きでの元へと辿り着き、その腕にぴたりと絡みつくことで返事に替える。どちらが幸せかという議論は恐らく平行線なので意味が無いと、この場にいる誰もが理解していた。誰にとっても同じこと、そしてそれを口にしてくれるの存在は途方も無く愛おしい。敬愛する姉へと存分に擦り寄って頬を寄せ、そして不意に閃いたかの様に梅は目を瞬かせる。

「お姉ちゃん、アタシと代わって」
「梅ちゃん?」

浮輪には取手が付いており、これまでが引いていたものを引き受ける形で梅の手がそれを掴む。ゆったりと揺蕩っていた幸太郎を乗せた浮輪が、明確に速度を上げてぐいと移動した。

「あっ、意外と行けるわね」
「梅殿・・・?あの、そんなに勢いをつけては・・・」
「浮き輪に乗ってるんだから文句言わないのー。ふふふっ、まだまだ付き合って貰うんだから!」
「ちょっ・・・待って下さい梅殿・・・!」

持て余した体力と元気さの使い道を決めた梅の行動力たるや。
幸太郎のか細い悲鳴に似た声がぐんぐんと遠ざかっていく様子を唖然と見送り、は小さく笑い声を漏らした。

「梅ちゃん元気だね、もうあんな遠いよ」
「・・・そうだなぁ」

ちゃぷ、と水面が波打つ。
二人きりになった途端に、静けさが増した。

九人も集ってわいわいと騒いでいた時は気にならなかった筈のことが、今は妙に落ち着かない心地にさせられる。互いに水着姿で揺蕩っている、それだけのことだと言うのに。
もしや、梅に気を遣わせてしまっただろうかとがこっそりと目を泳がせたその時、水面に浮いたままの浮き輪が妓夫太郎の手によって引き寄せられる。先ほどまで梅が揺られていた、大きめなスタンダードな浮き輪だった。

「お前、これ使うかぁ?」
「・・・どうしようかなぁ」

素直に乗ると答えるのが正解だっただろうか。しかし口をついて出た言葉は更に本音に忠実なもので、は思わず焦った様に口籠もった。小首を傾げた妓夫太郎と目が合い、一度逸らし、再度見上げた先にこちらを辛抱強く待つ青い瞳を捉え、は眉を下げて苦笑を浮かべる。

「えっと、楽しいんだろうけど・・・浮き輪が邪魔、って言ったら・・・呆れちゃうかな?」

楽しいことも欲しい。
くっついてもいたい。
改めて口に出すと何たる欲の塊か。

徐々に苦しくなる無言の数秒を挟み、の目の前で妓夫太郎が深い溜息を吐いた。不意にその手が華奢な肩を掴み、強引に背を向けさせる。

「妓夫太郎くん・・・?」
「・・・振り返んなよなぁ」
「えっ・・・うわっ・・・!」

突如、頭の上から被せられた浮輪に行手を阻まれた次の瞬間のことだった。

背後から聞こえる、勢いよく水に潜る音。
次いでぴたりと背中に貼り付く様に浮上してきた体温、後ろから抱え込まれる感覚。
大きな浮き輪が圧迫された、ぎゅむ、という少し間の抜けた音。

「・・・」
「お前が言い出したんだからなぁ。狭くても文句言うんじゃねぇぞ」

水中を経由して同じ浮き輪に潜り込んできた妓夫太郎は、当然頭の先からずぶ濡れだ。
耳元で聞こえる声と同時に水滴が滴っての頬を濡らす。
暫し唖然とした末に込み上げる鼓動の高鳴りは、同時にどうしようもなく胸中を熱くした。

「少しの間だけだからなぁ」
「・・・うん。ありがと」

わかっている。梅達からもプールサイドからも十分に遠い今だからこそ、甘える本音に応じてくれたこと。
それでもは、背後から包み込んでくれる体温に対して頬を最大限緩めずにはいられない。

「全部叶えてくれるんだね」
「・・・」
「やっぱり私は、世界で一番幸せ者だなぁ」

夏の終わり。波に揺られ、大好きな腕に包まれて。
いつも願いを叶えてくれる細くも逞しい腕に、は振り返れない代わりに小さく口付ける。
再び聞こえた溜息と共に、新たな水滴が降ってきた。

「・・・お前なぁ」

妓夫太郎が照れ隠しに床を蹴る。すい、と二人して揺蕩った。

「・・・後で覚えてろよなぁ」

苛立ちと甘やかさが絶妙に混ざり合った声が耳元でくすぐったく、が小さく肩を揺らして笑った。




* * *




「うわーお・・・この双眼鏡、性能良すぎじゃないっスか?」
「そうとも、特注品だからね。よぉく見えるだろう?」

遥か遠いプールサイドのチェアーに腰掛け、熱心に双眼鏡を覗く影が複数あった。
優雅に足を組む碓氷の隣では、思わずと言った様子で佐伯が前のめりになっている。
まさかこんな形で、普段は見れないであろう衝撃の光景にお目に掛かれるとは考えもしなかった。頑ななまでに封じられている友の優しげな表情をレンズ越しに眺め、佐伯の開きっぱなしの口端は興奮に上がり続けている。
その隣で同じく双眼鏡を手にしたまま、この特注品にとんでもない額を投資した碓氷もまた満足げな微笑みを浮かべた。これはまさしく、色々準備をした甲斐があったというものである。

「お金をかけた遊びって、どうしてこんなに楽しいんだろうねぇ」
「やっば。俺もいつかそんなこと言ってみてぇけど多分ムリ」
「その発言は如何かと思いますが、確かにこの双眼鏡は凄いですね」
「はぅっ・・・もうダメ、私キュンキュンし過ぎて心臓持たないわ・・・!」

プールサイドのチェアーに並んだ影は四つ。
波の音と共に、夏の終わりの幸せな光景を観察されているとは、当人達は未だ気付く由もなかった。




 Top