廃墟からの挑戦状 捌



診療所を飛び出し、敷地の南西に広がる小さな小径を抜ける。
社の境内に差し掛かったところで、先頭を走る狛治の足が止まった。

「・・・止まれ」

物陰へ誘導され、石畳の音を残し場が静まり返る。西日に照らされた祠は異様な雰囲気に包まれており、何故狛治が歩みを止めさせたのかは誰もが察することが出来た。

この先に、最後の狩人がいる。
緊張に唾を飲むへ向けて、狛治が静かに地図を広げて見せる。妓夫太郎と獪岳も黙って倣い覗き込んだ。

「禁止エリアからは抜けた。ここからは散開するのが得策だろうな」

残りの時間は僅か。全員で固まって正面からやり合うよりは、当然勝率の高い戦法だった。
しかし立案者本人の口調が、どこか他人事に聞こえる違和感に妓夫太郎とが顔を上げる。

「・・・お前、」
「俺はここに残る」

まるで迷いの無い声色だった。
彼の望みであると同時に、それが最善と確信している、そんな口調で狛治は別離を告げる。

困惑に眉を顰める獪岳と違い、頭のどこかでこの展開を予想していた妓夫太郎は深い溜息を吐いた。迫る強敵が誰であるかを知っている手前、普通の人間なら殴ってでも止めるところだが、生憎相手は狛治だ。万が一、という可能性も無くは無い。

「・・・援護はしてやらねぇぞ」
「あぁ。妓夫太郎は立花を連れて行け。稲玉も、幸運を祈る」

手を出されることは逆に望まない。狛治はすっかり心を決めており、誰もそれ以上の異論は口に出せなかった。
まずは獪岳がその場を走り去り、妓夫太郎ともまた逆側へと走り出そうとするその刹那。

の手が、狛治の服の裾を掴んだ。

「恋雪ちゃんのお願い、忘れてないよね・・・?」

婚約者が出られないならと当初辞退をしようとした彼に対し、恋雪が望んだこと。
活躍を願い優しく背を押した彼女の思いに応える、その気持ちに変わりはないか。
その問いに対し狛治は瞬間目を丸くした末、苦笑を返した。

「無論だ」

相手がどんな強者であれ、最初から負けるつもりも無ければ捨て駒になるつもりも毛頭無い。
心配するなと力強く頷くことでようやく憂いを緩めたが、妓夫太郎に連れられ去って行くのを見送り、狛治は立ち上がる。

石畳を踏み締める音がやけに響く中、武の道を究めようと立つ少年は、かつて無い強者との対峙に心を震わせた。
構えを取るにあたり、邪魔になっていたスナイパーライフルを迷わず捨てる潔さには黒死牟が目を細める。

「・・・装備を捨てるか」
「身一つの方が、性に合ってるんでな」
「成程。確かに良い学生が揃っている様だ」

空気がひりつく独特の心地良さは、恐らく万人には伝わらないものだ。一対一で向き合ったことで改めて格の違いを痛感することも事実だが、この高揚感には嘘を吐けない。
あくまでも高みから見下ろす様な言動を受け止め、狛治は厳しい眼を向けながらも小さく口の端を上げた。

「悪いが―――そう簡単にはくれてやらないぞ」

今自分には成すべきことがある。
力強く地を蹴り、狛治が黒死牟に飛び掛かった。



* * *



朽ちた女神像が、夕陽に照らされている。
機能しなくなった噴水広場は、はじめに梅や幸太郎と合流した時とは随分雰囲気が違って見えた。
残りの時間は少ないが、決して楽観は出来ない。ひとり残してきてしまった狛治のことも気に掛かる。瓦礫の陰に身を寄せあう様に潜みながら、不安げに眉を顰めていたの手を妓夫太郎が握った。

「怖ぇか」

日の落ちかけた物陰の中、緊迫感は消えてはくれず。しかし、目と目が合うと瞬間気持ちが緩むのは身体の奥に根付いている反応だ。小さくその手を握り返したの瞳が、柔らかく細まった。

「妓夫太郎くんと一緒だから、怖くないよ」

怖いか怖くないかと問われれば、間違いなく後者だと言える。例え何が起きようとも、傍にいてくれるのは一番大切な相手だ。遊びであることを忘れかける程に緊迫したこの空気の中、どんな結末になろうともこの手が繋がっている限りは心細く思わずにいられる自信がある。

しかしながらゲームに勝てるか、という点においては話が違ってくることも事実で、不意にの表情が気の抜けた様な苦笑に変わった。

「上手く逃げ切れるかは、少し不安もあるけど」
「お互いになぁ」

逆の手で前髪を混ぜられ、思わず小さく肩を揺らしてが笑う。
その刹那、二人は空気が張り詰める瞬間を肌で捉えた。
瓦礫一枚を隔てた先から、最早隠すことをしなくなった気配を感じる。武闘家のクラスメイトでも押さえ切れなかった相手だ。ひりつく様な圧に息を呑むの肩に手を置き、妓夫太郎が立ち上がった。

目線は狩人を見据えたまま、彼は夕陽にその身を曝す。正面から対峙した黒死牟の表情は凪いでいたが、逆に驚きや動揺の色は微塵も感じられない。恐らく、あちらに記憶は無い。妓夫太郎はそこに微かな息をつき、肩にかけていたライフルを構えた。涼しい顔をしているが、スーツが大分汚れているのが見て取れる。果たして狛治がどこまで善戦したかは確認出来ないが、残りの時間を稼ぐにあたり少しでも体力が削がれていることを祈るばかりだ。

「二人同時でも、一向に構わないが」
「さぁ、何のことだぁ・・・?」

瓦礫の裏に潜んでいるの存在を、当然の様に察知し言い当てる。
そう簡単に見逃してはくれないかと眉を顰めつつも妓夫太郎が口を開いた次の瞬間、黒死牟の姿が消えた。

咄嗟に横へ転がることで避けられたのは、ほんの僅か視界の端に迫り来る影を捉えた為だ。姿を追えているとはとても呼べない、しかし感知は出来る。彼が元々誰であったかを知っていれば、初動はこれでも随分と上等だ。
元居た場所に屈む狩人はほんの息継ぎの暇も与える気は無い様で、静かに妓夫太郎を見据えるなり真っ直ぐに地を蹴り向かって来る。発砲で応戦するも、赤い塗料は地面を彩るばかりで一向に当たりはしない。流石にそう簡単には行く筈も無いのだ。

手がかかる寸前でかわすことを数回繰り返し、その度普通ではない音が空を裂くのを直に感じる。相手は攻撃しようとしているのではなく、あくまで捕獲しようと手を突き出しているのみだ。その一撃がこれ程に重いとは、やはりこの剣士は規格外の存在であると認めざるを得ない。
残りの時間が少ないとはいえ、逃げの一手ではいずれ限界が来てしまう。一か八か深く屈み込んで避けた拍子に、妓夫太郎は再度胸部の急所へとライフルを構えた。当然ガードで避けるであろうところを、銃口を手で抑え込むという荒業で動きを封じられ瞬間息が止まる。

背後にいるが、声にならない悲鳴を上げたような、そんな気がした。

「・・・っ!!」

次の瞬間、黒死牟の顔色が変わった。些細な風の唸りを感知し、強引に上半身を捻ることで横槍の一手を回避する。
黒死牟のヘッドセットを掠め損なった赤い弾丸が、二人の間を通り抜けた。
解放されたことで生じた隙を逃すことなく飛び退いた妓夫太郎が口元の砂埃を拭い、まさに今流れを変えた方向へと睨みを利かせる。

「下手クソが・・・一発で狙えよなぁ」

物陰からまず露わになったものは、細い煙を上げる銃口。
音を抑制する装備を搭載した為細長くなったそれを片手に、獪岳が姿を現した。
今がある意味最大のチャンスだったと顔を歪める妓夫太郎に対し、負けず眉間に皺を寄せて応戦する。

「うるせぇぞ、加勢してやるだけ有難く思え」
「っは、足引っ張んじゃねぇぞ」

相変わらず両者の放つ空気は険悪だ。しかし一時休戦を忘れた訳ではなく、今だけは並び立つこともお互いに許容する。
これに対し黒死牟は瞬間怪訝な顔をしたが、即座に元の無へと戻り一歩引く様に構えを取り直した。対峙した獪岳の表情は硬く、真意を問う時間は無い。

浅く息を吐いた次の瞬間狩人は再度姿を消したが、標的が摩り替ったことに気付けない妓夫太郎と獪岳ではなかった。二人して同時にの潜む瓦礫の方へと飛び、妓夫太郎が瓦礫の前へ立ちはだかり、獪岳が黒死牟の胴体へと飛び付く。
当然振り払おうと翳された逞しい腕に、獪岳は懸命に動きを封じようと縋り付く。正面からは妓夫太郎のライフルに狙いを定められ、このまま獪岳に組み付かれたままでは万が一のことが起きかねない。
黒死牟の涼やかな顔に薄い苛立ちが浮かんだその刹那、獪岳の両手は手錠によって拘束を受けた。

「っ稲玉くん・・・!」

堪らずの口から悲鳴が漏れると同時に、妓夫太郎が地を蹴った。
なりふりは構っていられない。伏した獪岳を飛び越える様に放った回し蹴りは、呆気なく避けられてしまう。当然かと苦々しく思いながらも、一歩引けばが獲られる状況が妓夫太郎の背を押した。
最早相手の格を恐れている場合ではない、やるしか無い。発砲も足技もすべて最小限の動きでかわされたが、何度空振ろうとも攻めの姿勢を止めない妓夫太郎に、黒死牟の目が感心した様に細められた。

その最中、ライフルから掠れた様な音がする。弾が切れた。舌打ちをひとつ、彼は振り被ってライフル本体を投げつける。勢いをつけて飛んできたそこそこの重量を狩人がかわした些細な隙を逃さず、妓夫太郎はその胴体へと素早く飛び付いた。全力で背後へ押しこまれることを黒死牟が堪え、絡んで来た腕を逆に取り押さえようと手を翳す、次の瞬間。

軽やかな跳躍を持って突如間合いへ入り込んだ影に、その目が見開かれる。

師の“集中”の掛け声を脳裏に描き飛び込んで来ただった。彼女が真っ直ぐに振り被っているのは竹刀。しのぶの剣と動揺に、先端には塗料が赤く光っている。まったく突飛が過ぎる小道具だが、それがにとって銃より余程得意とする戦法であることを黒死牟は事前に知っており、冷静に考えを巡らせる。
飛び付いてきた妓夫太郎のライフルは弾切れを起こし本体は遥か彼方、今飛び込んで来ようとしているのホルスターにも拳銃が収まったまま。
今最も警戒すべきは竹刀の一振り。結論を素早く弾き出し、力強く振り下ろされた一閃を白刃取りで防ぎ切った。

「・・・悪い、なぁっ!」

両手で竹刀を受け止めた為にがら空きになった胸部。
その急所に押し当てられた拳銃、不敵に笑う妓夫太郎の声。

次の瞬間には、避けられない一撃が遂に狩人の急所を打ち抜いたのだった。



* * *



動きを停止し膝立ちになった狩人を前に一瞬呆然と立ち尽くした妓夫太郎とであったが、慌ててそのスーツの内ポケットを探った。強制停止の時間は限られている。この機会はまさに千載一遇、逃せば二度と次は無いだろう。

しかし、探せども残りひとつある筈の手錠が出てこない。

「おい、もうひとつは何処だぁ・・・?」
「先ほど別の少年に、破壊されてな」

まさかの展開に、がひゅっと音を立てて息を吸いこんだ。
狛治の拳が手錠を破壊するとは考えもしなかったが、今の状況には相性が悪過ぎる。獪岳を拘束している手錠を解錠して使えないものか、それも拘束時間を考えると現実的ではない。
完全にお手上げの状態に思わず二人が顔を見合わせた、その時。黒死牟の表情が、僅かに緩んだ。

「案ずるな」

静かな一言と共に、端末が聞いたことの無い音を立てる。

制限時間は今この瞬間をもって定められた一線を越えた。ゲームセットの合図は思いのほか軽い電子音ひとつで、逃げ切った実感が湧くまでに数秒を要した。
ふらりとよろめくの腕を妓夫太郎が咄嗟に支えたが、緊張の糸が切れたことにより結局ふたりしてその場に座り込む形に落ち着いてしまう。

「終わっ、た?」
「・・・何とかなぁ」

未だ実感の追い付かない勝利に戸惑う二人は、黒死牟の目から見ればほんの子供に過ぎなかったが、その戦法は見事としか言い様が無いものだった。
が銃を収めたままだったことから警戒対象を竹刀一本に絞らせ、弾を使い切ったと思われた妓夫太郎にもう一丁のペイント弾を握らせておくとは恐れ入る。

「・・・最初から、二丁持っていたか」
「すみません・・・私のこれは、ペイント弾じゃなくて・・・」

今更種明かしをすることに意味があるのかはさておき、が律儀にも太もものホルスターから銃を抜いて空へと一発引き金を引く。
黒い煙が立ち上る様を見上げ、狩人のサングラスの下の目が若干和らいだ。ゲームバランスを崩したのはしのぶで間違い無かったであろうが、本人不在の中それを見事に活かした戦術の勝利と言えよう。

「手錠がひとつになった時点で、勝敗は決していた」

狛治は一歩も引くことなく接戦を繰り広げたが、彼が最終的に選択したのは拳同士の衝突でも相手を組み伏せることでもなく、自身を捕獲するため翳された手錠を砕くことだった。
残りの時間とプレイヤー数を考えれば、ふたつある手錠がひとつになってしまえば狩人側に勝機はほぼ無くなる。
結果手錠を突きで砕いた拳を掠め取られ、残りのひとつで彼は捕獲されたが、どこか満足そうな顔をしていたことが黒死牟の印象に残った。

残された時間は僅か、使える手錠は残りひとつ。出来ることならば、獲るべき駒は別にあったのだけれど。
天神杯の三冠達成者という最大の獲物を逃してしまったことは雇用主の機嫌をいたく損ねるだろうが、叱責は甘んじて受ける以外に無いだろう。

近くで脱力した様に横たわる獪岳を見遣り、黒死牟は薄い笑みを浮かべて勝者たる二人へ目を向けた。

「見事にしてやられた。なかなかに見込みがある」
「何の見込みかは知らねぇけどなぁ・・・」

座り込みながらもを背に庇う様に押しやり、妓夫太郎が顔を顰める。

「・・・アンタとはもう二度と会いたくねぇなぁ」

思いの外警戒されていることに、黒死牟の口元が緩んだ。




* * *



「・・・お姉ちゃんってば欲が無さ過ぎ」

呆れた声は、それでいて甘える様に腕に絡みついて来るものだから、まるで嫌な感じがしなかった。
友人達と再び会えた喜びと疲労感が混ざり合い、夜風がとても心地良い。大きな船のデッキで各々好きに過ごす帰り道、達は一カ所に集まり今日のことを話し合っていた。
話題は当然、と妓夫太郎に権利が渡った優勝賞金についてだ。不服そうに頬を膨らませる梅を見遣り、彼女は小首を傾げて見せる。

「そうかなぁ?」
「そうかなぁ?じゃないっしょ流石に。立花妹さぁ、賞金全員で分けたら取り分全然無ぇじゃんかぁ」

賞金はすべて、参加者全員で均等に分けること。これがの決めた答えだった。それなりに多額の金額であったとしても、三十人で分けてしまえば一人分は当然微々たるものになる。納得が行かないと眉を寄せる佐伯の頭部を、背後から妓夫太郎が遠慮無く掴んだ。

「てめぇは分けて貰った分際で何をに意見してやがる・・・」
「ごめんなさい俺が悪かったです、はい」

元より妓夫太郎はにすべての決定を委ねていたため、一切の意見をしなかった。
お決まりの様に白くなり謝罪する佐伯の姿に苦笑するに向けて、しのぶと蜜璃もまた心配そうな顔を寄せる。

さん、本当に良かったんですか?私も分け前をいただいておいて何ですが・・・」
「そうよぉちゃん、妓夫太郎くんも。二人で優勝なんだから、豪華なデートとか、使い道たくさんある筈なのに・・・」
「私が残れたのは、本当に運が良かっただけと言うか・・・最初にあの狩人と会ってたら、多分最後までは残って無かったと思うし・・・。あ、それにしのぶさんの助けが無かったら、多分こうはならなかったと思う」
「いえいえ、説明する時間も無かったんですから。色々活かして下さったのはさんですよ」

竹刀とフェイクのための拳銃はのために用意されたものであったが、しのぶがいなければ考えも付かない手法だったことは間違いない。両手を振って苦笑を浮かべ、はゲームが終了して以来姿を見せない獪岳のことを思い密かに息を吐いた。

賞金の分け前云々のことは獪岳に確認するつもりも無いことだったけれど、諍いで嫌な思いをしたであろう彼は、確かに妓夫太郎とは反りが合わない様子ではあったが最終的に共闘をしてくれた。結果としてその手を振り払ってしまったが、一時はを助けようともしてくれたのだ。全員で賞金を分けることで、ほんの少しでも彼に対し何かが返せれば良い。この決断には、そんな思いも込められていた。

「もともと賞金目当てで参加した訳じゃなかったし。皆で特別な体験が出来たから、それで良いの」

踏み込んだ世界は、非日常どころの話では無かったけれど。特別な思い出が出来たことには間違いない。
そうして微笑むを横目に、梅が腕に絡まる力を若干強めた。

「・・・お姉ちゃんのそういうところ、アタシ好きよ」
「梅ちゃんにそう言って貰えるのが一番嬉しいなぁ」
「でもつまんない!今日帰ったらパンケーキ焼いて!」
「いいよー、何枚でも焼いちゃう」

慈しむ様に梅と頭を合わせるの表情は、普段通り穏やかだ。輪から一歩引いてその場を見守っていた狛治と幸太郎が、顔を見合わせて笑う。

「・・・立花らしいな」
「ふふ。ああいう妹なので」

その時だった。

独特の高い音が響いたかと思えば、夜空に突如色とりどりの大輪の花が咲く。

船上からはまさに絶景で、デッキに集まっていた生徒達は瞬間誰もが呆気に取られた末、同時に大きな歓声を上げた。

「えっ、花火?!何で?!」
「ひゃっほー!!たーまやー!!」

梅は勢い良くベンチから立ち上がり、幸太郎の手を取りデッキの淵まで駆け出して行く。大体の生徒達がそれに倣い前へと詰めかける中、空いたの隣に妓夫太郎が静かに掛けた。

「・・・大丈夫?」
「おぉ」
「流石に疲れたよね。お疲れ様」
「お前もなぁ」

遊びであることを忘れる程に、大変な一日だった。何度お互いに助けられたかはわからない。

、あの話だけどよぉ・・・」
「良いよ、また今度で」

終わったら話すと約束していたことを、は緩く首を振って遮った。そっと手が重なり、妓夫太郎の好きな優しい笑顔が花開く。

「今は、ゆっくり花火楽しもう。こんな特等席、滅多に無いよ」

確かに、遮るものの無い船上は花火を見るには最高のロケーションだろう。各々が盛り上がる声の大きさが、それを物語る。

けれど妓夫太郎にとって何が一番かと言えば、それは絶好の場所でも無ければ花火の大きさでも無い。どんな特等席だろうと、どんな豪華な花火が上がろうとも。隣に彼女がいなければ。

「・・・意味無ぇんだよなぁ」

特別大きな音がすると同時に、そう呟いた。

「え?」
「何でも無ぇ」

当然小首を傾げるに対しては、小さく首を振って応える。
の隣にいられるのならば、それが一番だ。過去に並んで見た花火は、そういった意味ではどれも見栄えは違っても同列に大切な思い出だと言える。
今こうしていられることへの感謝の証に、妓夫太郎の手がの手を握り返した。



* * *



夏休み中の学園は、部活で登校する一部の生徒はいるものの圧倒的に人気が少ない。
今日も変わらず外は酷く暑いものだが、黒死牟は黒いスーツ姿で汗ひとつかいた様子も無く、背筋を正して校長室に佇んでいた。

「以上が報告になります。万一怪我や痛みを訴える学生がいた際は、日が経った場合でも遠慮なくこちらへご連絡を」
「わかりました」

差し出された名刺を、校長である産屋敷あまねは表情乏しいままに受け取った。
生徒達は昨日無事に島から帰還している。今回の企画の主催たる政治家本人は遂に姿を現さなかったが、この秘書を名乗る男が全てにおいて表に立ち働いている様子だった。
涼しい顔をして立ち去ろうとする黒死牟の背に向かい、あまねは静かな口調で釘を刺す。

「そちらの勧誘に頷く学生は、本校にはいませんよ」

勧誘。
その単語に黒死牟は瞬間反応を示したが、何事も無かったかの様に一礼をした後部屋を後にした。

ここ数年、“学生連合”なる団体が立ち上がっていることは有名な事実だった。才能に恵まれた学生へ、転校等はする必要無く最良の環境でその力を伸ばさせることを謳った団体だ。トレーニングジムや設備の整った練習環境を好きに貸し与える代償として、大会等へ出場する際には母校の名前でなく学生連合を名乗らせる。
その代表こそが鬼舞辻という名の政治家であることもまた、有名な話だ。彼らの縁者の内どの程度が後援会の人間かはともかくとして、多額の投資で実現した設備環境を使い、彼らは確かに各大会で優秀な成績を修めている。

尤もこの一年にかけては、優勝トロフィーは悉くこの学園の生徒が勝ち取っているのだけれど。
参加者の大半が学園の優秀な学生アスリートで構成された名簿を改めて眺め、あまねは頭痛のする思いで手を翳した。

「・・・こんな企画を、学園として受ける必要があったのか疑問です」

生徒達は怪我をした者はいないが、二人を残し制限時間を鬼から逃げ切れなかったと言う。これは酷く子供じみた報復。同時に、より優秀な生徒を引き抜こうとする議員の罠だ。

それを知っていて尚、学園として受けてしまった以上生徒たちを送り出さなければならなかった苦々しい思いは、そう簡単に忘れることは無いだろう。
美しい顔で眉を顰めるあまねに対し、すかさず冷ややかな声が部屋の隅から上がった。

「校長先生は、生徒たちを信頼していらっしゃらないのですか」
「そんな筈が無いでしょう。信頼出来ないのは今回のお相手です」

顔の大半を長い黒髪で覆った女性の一言に、あまねは厳しく言い返す。鳴女という名の教頭と、彼女は日々睨み合うことが多かった。

「この話を強引に通したのは、教頭先生でしたね」
「強引だなんてとんでもない。生徒たちの思い出作りに最適と判断したまでです」

事前に生徒達の特技と交友関係を纏め主催へ渡していたのは彼女であり、議員側からの内通者である彼女もまた今回の結果に対し多少なり悔しい思いを抱いてもいたが、それらは全て黒髪の奥へと隠され暴かれることは無かった。



* * *



学園を後にしようとする黒死牟の進路上に、獪岳が立っていた。傍から見れば、部外者に対し廊下の端で会釈をする生徒にしか見えないだろう。しかし彼らは同じ議員の手の者であり、今回の企画においては協力関係にあった筈だった。

「・・・転入して、間もないもので」

土壇場でプレイヤー側についてしまった獪岳の表情は硬い。

「今後立ち回り易くする為にも、今は奴らと円滑な関係を築くことを優先すべきと判断しました」

あくまで先を見据えてのことだと告げる表情は、実のところ揺さぶれば違う回答が出かねない様な脆さを纏っていた。しかし黒死牟は、あの日全力で飛び掛かってきた獪岳の懸命さを思い起こし、あえてそれ以上の追及はせず前を向く。

厄介な学生の心を折り、あわよくば好条件をちらつかせこちら側へ取り込もうというのが雇用主の狙いだったが、ここの学生達はなかなかに筋が良い。誰一人取り込めずリストの学生を一人逃したことは秘書として落ち目であるが、一個人としては優秀な若い力と向き合えたことが清々しい気持ちですらいた。

「良いだろう。あの方には私から報告をしておく」
「ありがとうございます」
「なかなか筋の良い学生が多い。お前も励むことだ」
「・・・はい」

そのまま静かに立ち去る黒死牟を見送り、獪岳はようやく緊張を解いて息を吐き出した。
こんな筈では無かった。もっと積極的に報復の対象者を背中から狙い撃つ筈が、何故こんなことに。しかし心の何処かでこの結果を前向きに受け入れている自分がいることを、獪岳はわかっていた。

獪岳の人生は獪岳が主役だと、獪岳がしたいことをすれば良いと告げる声を思い出す。

「・・・お節介な奴」

絆されてどうすると言うのか。

ふんと鼻を鳴らして踵を返す獪岳の表情は、知らず知らずのうちに清々しいものに変わっていた。



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