君の好きなところ



グラスの中の氷が、カランと音を立てる。

「えっ?」

アイスティーのストローを軽く握ったまま、は正面の梅の顔を見て何度か瞬きを繰り返した。

女同士でデートがしたいという梅の主張に従い、学校帰りに立ち寄った喫茶店。夏の日差しを感じる窓際の丸テーブル。可愛い梅にパフェをご馳走する時間の穏やかさに目を細め、幸せだなぁと頬を緩めていた時のことだった。
突如投げかけられた話題が頭に入ってこないもどかしさに、は思わず小首を傾げてしまう。

「・・・ごめんね、もう一回」
「もう、お姉ちゃんってばしっかりしてよぉ」

梅は可笑しそうにクスクスと肩を揺らし、おもむろにパフェを掬った長いスプーンを差し出してきた。反射的に口を開けることで甘いクリームとクッキー生地を堪能し、ありがとうと礼を告げればどういたしましてと返事が返って来る。
至って普段通りの筈だ。と梅の距離感はこれが普通であるし、特別おかしなことは何も無い。

「お兄ちゃんが、お姉ちゃんのどこを好きなのかって話!」

しかし、この問いかけはに困乱と動揺を与えた。
二度目ゆえに比較的ゆっくりと告げられた言葉の意味を咀嚼し、それでもは瞬きを繰り返す。

「ど、どこを・・・?」
「ふふふっ!どうしてアタシに聞くのよぉ。お姉ちゃんが答えなきゃだぁめ」

梅は大層楽し気に頬を緩めていた。の口からこれを聞くことに意味があるのだと、彼と同じ青い瞳が期待に煌めく。
対するはようやく呑み込んだ質問を処理し切れず、黒い瞳が宙を仰いだ。彼が、自分のどこを好きなのか、だなんて。

「・・・どこ、だろう」

店内のBGMが途切れた瞬間の一言が、妙にはっきりと梅の耳に届いた。何を誤魔化しているのかと追及しようと身を乗り出しかけ、その動きが止まる。の目が本当に困惑していることに気付けない程、その付き合いは浅くは無いのだ。

「えっ?お姉ちゃんそれ本気で言ってるの?」
「む、難しいよそんなの・・・」

信じられないとその青い瞳が語っている、それはにも強く伝わった。しかし、実のところ本当にわからない。

妓夫太郎は昔から、のことを凄いと言う。理由はその時により様々だが、彼に褒められ認められる度嬉しい思いがするのは今も変わらない。けれど好かれる理由として挙げるには少し違う気もする。強いて挙げるならば傍に居続けていることだろうか。否、それも好かれる理由には弱い。
逆に妓夫太郎のどこが好きかという質問にならば、いくらでも答えられるのに。そうして眉を寄せるを呆然と見つめ、梅はひとつの結論を出した。

「・・・お兄ちゃんの愛が足りないのね」
「えっ・・・?!」
「そりゃあ目と目で伝わる関係も素敵だけど、言わなきゃ伝わらないことも絶対あるわ!具体的にお姉ちゃんのどこが好きでどこが素敵か、お兄ちゃんが口にしないからいけないのよ!アタシから言ってあげる!」
「ちょっ・・・待って梅ちゃん、それは違うから・・・!」

拳を強く握り声を荒げる梅を制し、が慌てて人差し指を口元へと当てた。店内に人が少なくて良かったと安堵する一方、正面の梅は納得がいかないと美しい顔を顰めて腕を組んでいる。
何をどう説明すれば伝わるだろうか。確かに妓夫太郎が自分の何を好きでいてくれるのか、そこに確固たる自信はひとつも無い。けれど、だからと言って不安や不満は欠片も感じていないのだ。

「その・・・愛は、日々沢山・・・お陰様、で・・・」

彼に大切に守られ、心から愛されている。有難くもその自覚は、日々感じているもので。は照れながらも、素直な気持ちを口にした。

遠い昔、自分は彼の幸せそのものだと言われたことがある。それは具体的にどこを好きかと告げられるより、よほど意味の深い言葉の贈り物だったと断言出来る。
梅の言う通り、言わなければ伝わらないことも確かにあるだろう。けれど、それは少なくともにとってはあまり必要のないことだ。

「どこを好きでいて貰えているのかは・・・具体的にわからなくても良いの。それは多分、妓夫太郎くんのやり方じゃないし・・・好きって気持ちは・・・すごく、伝わってるから」

言葉がいらない程に、彼の瞳は雄弁だ。時に困ったように、時には仕方無さそうに眉を顰めつつも、最後には口の端を上げて見つめてくれる青い瞳は優しい。
細身だが逞しい腕に、手のひらに、そして指先に触れられる度覚える気持ちは、紛れも無く愛されていることへの感謝と幸せだ。

「梅ちゃんの聞きたい答えを準備できなくてごめんね。でも私は今、大好きな人の傍にいられてとっても幸せ。それじゃ、駄目かなぁ?」

いくら可愛い梅の頼みであっても、こればかりは求める答えを用意出来ないことをは詫びた。
梅としては面白くは無い。しかし頬を赤らめつつもストローを掻き回すの表情は、どう見ても幸福に満たされていることもわかる。家族ではなくとも姉と慕う彼女の幸せは梅の幸せでもあるのだから、これ以上は食い下がれる筈も無い。

「・・・もう。しょうがないなぁ」
「ふふ、ありがとう梅ちゃん」

わざとらしく頬を膨らませたところで、が笑えばつられて肩の力が抜けてしまうのだから困ったものだ。
梅はパフェを一口頬張るなり、ふとした閃きから通学バッグの中を探った。目当てのメモ帳は使い勝手より可愛さ重視で買ったものだったが、それを一枚破りの前へと差し出す。

「許してあげる代わりに、今からお兄ちゃんの好きなところ、これに書き出して」

これ以外に妥協案は無いと言わんばかりに、梅は腕を組んで得意気な笑みを浮かべて見せた。
は梅の笑顔とメモを見比べ、差し出されたものを手に取るなり今度は少々難しい顔をして考え込んでいる。

「ちょっとお姉ちゃん?」
「・・・文字、うんと小さくしないと」
「え?」

今度は折れてやらないと前のめりに顔を近付けた梅と、の目が合う。渡されたメモを両手で摘み、彼女は困ったような苦笑を携えていた。

「えっと、紙が小さ過ぎるなぁって」

求められていることに対し、紙が小さい。文字を小さくしなければ。
の言葉の意味を数秒考えた末に、梅が小さく噴き出した。まったく、降参だ。

「もう、お姉ちゃんってば」
「本当だよ?梅ちゃんの好きなところも、この大きさじゃ全然収まりきらないし」
「・・・ふふっ、アタシもお姉ちゃんが大好きよ」

もう一口、梅は上機嫌にスプーンをの方へと差し出した。


* * *



梅は日々色々な場所へ行きたがった。
四人揃って出掛ける日もあれば、狛治と恋雪もつれて六人で出歩く時もあり、当然幸太郎と二人で出掛けることを望む日もある。

まさしく今日は放課後から遊園地へ行くのだと言う二人を見送り、は妓夫太郎と二人で夕飯を済ませることとなった。二人で買い出しから後片付けまで済ませる日はこれが初めてではなく、手際良く済んだ洗い物の末にがマンションの時計を見上げた。時刻はまだ19時を過ぎたばかり、妓夫太郎と二人だと実に滞りなく家事が済むので大変助かる。梅と幸太郎は恐らく閉園まで遊ぶのだろうし、ここは邪魔をせず時間を見計らって二人と遭遇しない時間に帰宅すべき、と頭の中で帰り時間の計算式を組み立てる。
どんなに早くとも、まだ余裕が随分あることにが小さく頬を緩めた、その時。


「ん?」

最後の洗い物までしっかりと協力的だった彼の声に、リビングを振り返る。
広いソファの真ん中に陣取り隣を指し示す妓夫太郎の姿に、は目を丸くした末ぱっと表情を輝かせた。その目と声の様子でわかる。これは、甘やかそうとしてくれている時の彼だ。

「こっち来い」
「・・・うん!」

半ば飛び込むように隣に掛けると同時に肩を抱かれる感覚に、が多幸感に目を細め頭を肩へと預ける。ひらりと視界に紙切れが舞い込んだのはその時だった。厳密には妓夫太郎の指先に挟まれたメモ用紙は、ラメ入りのピンク色。どう見ても昨日ぎっちりと書き込みをした梅のメモである。の頭の中から甘さが消し飛び、特大の焦りが顔を出した。

「・・・んん?!何で妓夫太郎くんが持ってるの?!」

慌てて手を伸ばすも、しっかりと肩を抱かれているため、ひらりと指先にかわされてしまえば成す術が無い。何故。何故、妓夫太郎本人の手元にこれがあるのか。昨日の記憶の中の梅は、確かに“お兄ちゃんには秘密“と笑ってくれていた筈が、何故。

「まぁ、梅を叱ってやるなよなぁ。アイツなりに考えた結果らしいからよぉ」
「そりゃあ、怒ったりはしない、けど・・・」

困惑、動揺、そして気恥ずかしさ。あらゆる意味で余裕を無くしたの手が、再度宙へと懸命に伸ばされる。当然のことながら、妓夫太郎の指先はメモを挟んだままひらりと旋回し奪取の手を逃れた。彼がこういった形で揶揄って来ることは滅多に無い。うう、と困り切ったか細い呻きを漏らし、は懇願の声を上げた。

「か、返してくれない、かな?」
「・・・これは俺のことじゃねぇのかぁ?」
「それは・・・全部、妓夫太郎くんのこと、だけど・・・」
「じゃあ良いだろうが、俺が持ってたってよぉ」

それを言われてしまうと弱い。空気の抜けた風船が萎むかの如く小さくなってしまうを横目に、妓夫太郎の手首が器用に翻った。

小さなメモに彼女の綺麗な字が細かく綴られているのだけれど、これらが全てから見た妓夫太郎の好きなところだと言うのだから参ってしまう。今朝、梅から真面目な顔でこれを手渡された時の衝撃は暫く忘れられないだろう。妓夫太郎は苦笑を浮かべた末、の肩を抱く腕の力を強めた。

「流石に、美化し過ぎじゃねぇかって部分もあるが・・・俺のことはこれだけ書けて、自分はひとつも思いつかねぇもんか?」
「・・・」

目が優しい、声が優しい、手が優しい等、優しいだけで何点も続いた先には頼もしい、格好良い、以下数種の項目が待っており、所狭しと彼女の想いが綴られていた。

梅は言った。こんなに沢山書けるにも関わらず、自分が好かれてることはひとつも自覚が無いのは由々しき事態である、と。念のため由々しき事態の言葉の意味を確認したため妹の機嫌を損ねつつも、妓夫太郎も概ね梅と同意見だという結論に至った。概ねという表現に誤りは無い。確かにこうしたことを言葉にして伝えていない、妓夫太郎にはその自覚があった為だ。

「まぁ、俺のせいかぁ」
「・・・そんなことないよ」

言葉にしなければ伝わらないことがある。しかし、はそれをやんわりと否定する。

「妓夫太郎くんに、大切にして貰えてるのは・・・よくわかってる、から」

ぴったりと隣に寄り添い大人しく肩を抱かれ、紙を取り返すことは諦めたらしく、やや赤みの残る頬でが顔を向けて来る。
ほんの間近の距離で柔らかく花が咲く光景を、妓夫太郎は眩しい思いで受け止めた。

「いつも、ありがとう」

ありがとう。からのこの言葉に全てを許される様な、何事も肯定される様な嬉しさを感じていることは、どうしたら伝わるだろうか。
妓夫太郎は今、ひとつの決意を固めた。

「まずはそうやって、どうってこと無ぇタイミングでよく礼を言うところだろ」
「え?」

突然のことには目を丸くした。
妓夫太郎は指先に挟んだメモを見ていたが、何かを考えているかの様に肩を抱く手の内人差し指が一定のリズムで動き続けている。トン、トン、と刻まれる指先の感覚が染み込んでいく中、彼女はまさかと目を見張る。

「俺が考えてることに対して、察しが良い。まぁ百発百中じゃねぇが、それくらいで丁度良いんだろうなぁ」
「・・・」
「あと意識してねぇんだろうが、根っからのすげぇ世話焼き」

相手のどこが好きなのか、言葉にしなければ伝わらないこともあると梅は言った。妓夫太郎が今それを実行してくれていることがわからないでは無い。同時に、彼がこうした伝え方を決して得意としていないことも熟知している。

じんわりと胸の奥が熱くなるような思いに、は小さく息を呑んだ。大事なことは痛いほどに伝わっているのだから、それ以上は必要ないと思っていた。けれど、こうして妓夫太郎の口から思いもよらないことを告げられて、嬉しく思わない筈が無い。

「梅のことも大事にしてくれるしなぁ」
「・・・ふふ。そんなの、当たり前なのに」

面と向かって具体的なことを口に出されると、思いの外くすぐったい思いがするものだ。照れと嬉しさの狭間で肩を揺らして笑い、は妓夫太郎の肩口へと頭を預けた。温かさと大好きな匂いに包まれて、頬の緩みが止まらない。

「よく笑う顔と声」
「・・・」

これには思わず頬が硬直し、代わりに顔全体が徐々に熱を持っていく。目に見えて固まってしまうに対し、妓夫太郎が小さく笑う気配がした。自然な流れでメモはローテーブルへと追いやられ、空いた片手は埋められた赤い顔を容易く持ち上げてしまう。

「すぐ、熱くなる頬」
「・・・っ!!」

声に出さないで欲しい。これは流石に嬉しさよりも気恥ずかしさが勝り、の手が頼りなく彷徨った末に妓夫太郎の服を掴む。

「困って縋り付く時の小せぇ手のひら」

何もかも先んじて読まれている、降参としか言いようが無い。懸命に逸らしていた視線がついに逃げ場を失い、その瞳に射抜かれてしまう。熱と優しさが溶けあった様な綺麗な青を目の当たりにし、の心臓がひと際大きな音を立てた。

「照れてる割には、期待してるのがダダ漏れな、その目」

頬に添えられた指先が、慈しむように表面をなぞる。若干眉を下げて目を細めるその表情はやはり優しくて、堪らなくなる。恥ずかしい、けれど、もっと触れて欲しい。縋る様に服を掴む手に力が入ったことはすぐに気付かれてしまい、妓夫太郎の口の端が上がった。

望み通りにしてやりたい気持ちは山々だが、それは今夜の決意に反する。

「悪ぃがまだまだ序の口だ」
「え・・・?」
「舐めんなよ、あれと同じ数は余裕で言える」

あれとは。の目が不思議そうに泳ぎ、促されるままローテーブルの上のメモを捉えると同時に大きく見開かれた。

「っえ・・・いい、いいよそんなに無理しなくて!」
「無理、だぁ・・・?」

確かに得意ではないことだが、無理と言われるのは大いに心外だ。妓夫太郎の目が怪しく光り、は動揺のあまり息が止まる。基本的に妓夫太郎はに対して優しいため、今この瞬間も恐怖は一切無いが、時折こうした迫り方をされると鼓動が早鐘を打って仕方が無い。
身を引こうにもがっしりと肩を掴まれているため逃げ場が無く、鼻先が触れ合うような距離で低く囁かれてしまえば全ての抵抗を封じられたようなものだ。

「良いか。確かに俺の柄じゃねぇが、あんなもんを一方的に渡された俺の気持ちを考えてみろよなぁ」
「っそ、それ、は・・・」

まさか本人に渡るとは思っていなかった、というの言い分は声にならない。最早顔だけでなく、心臓そのものが熱い。
口の開閉だけを小さく繰り返す彼女はまるで狼に追いやられる羊だ。とはいえ、狼の側はなにも今宵取って食おうという訳ではないけれど。

「覚悟しろよ―――時間が来るまでは、黙ってやらねぇからなぁ」

その口調とは裏腹に、唇をゆっくりとなぞる親指は限りなく優しい。

あのメモに乗ったの文字から、妓夫太郎が気恥ずかしさと同時にどれだけの幸福を貰ったことか。同等の思いを返すと固く決めた以上、決して逃がしはしないと青い瞳が主張する。

時計の針は、未だ19時半にも到達していなかった。

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