二人の兄と妹について 参



一周十五分、最大高度約百メートルの空の旅は、今日という日に限ってはチケットと別に整理券が無ければ体験できない人気のアトラクションだ。
特に夜景の時間帯は競争率が跳ね上がるであろうこの密室空間に意中の人と二人きりとなれば、普通は純粋に心が浮き立つものだけれど。

「アタシ、時々お姉ちゃんのことが心配になる」
「心配、ですか?」

地上からゆっくりと上昇していく景色を眺める梅の表情は険しい。

から梅宛にメッセージが届いたのは少し前のことだった。
欲しがった景品を無事取れた証に、兄が撮影したのであろう、猫のぬいぐるみを抱いた良い笑顔のの写真が送られてきた。
それを幸太郎と眺めて思わず頬を緩めていたタイミングで、思いもよらぬ二通目の受信に梅は目を丸くする。二人分の観覧車のチケット及び整理券がセットになったコードだと気付くまでに、少々時間がかかった。

これには流石に慌てて電話をかけてしまったものだが、は普段通りのおっとりとした様子でクリスマスプレゼントだよーと笑うばかりですぐに通話は切れてしまった。
納得がいかないながらも折角の機会のため無駄にせず乗り込んだが、夜景が綺麗であればあるほど梅は何とも言えない気持ちで眉を顰めてしまう。

「お姉ちゃんの優しいところは大好きだけど、もっと自分優先にすれば良いのにって思う。このチケットだって、お兄ちゃんと使えば良いのに・・・先生はそう思わない?」
「・・・そう、ですねぇ」

の気持ちはとても嬉しい。特に今日のチケットはそう簡単には取れなかったであろうこともわかっている。だからこそ、自分が一番一緒にいたいひとと使ってくれれば良かったのではないかと考えてしまう。

大事にされていることも愛されていることも分かっているが、はもう少し自分を優先すべきだと梅は同意を求めて幸太郎を見遣った。困ったような顔で頭を掻くその仕草が、兄妹して良く似ている。幸太郎は数秒言い淀んだ末に、見ているこちらが脱力するような柔らかい苦笑を浮かべた。

「梅殿に喜んでいただきたい気持ちは私もわかるので、それに関してはノーコメントです」
「・・・もうっ」

同意を求める相手を間違っていたことに、梅は頬を膨らませて視線を逸らす。そうしてさらりと嬉しいことを言ってくれるあたりも、彼はの兄なのだと意識せずにはいられない。

「観覧車からの夜景は、お嫌いですか?」
「そんなこと無いっ!!」

思わず大きな声を出してしまい、一瞬狭い空間が静まり返る。
しかし正面に掛けている幸太郎は変わらず優しい表情を浮かべているものだから、梅は両膝の上の手を丸くして外の景色に目を向けた。

冬のイルミネーションは、今日という日は特別色とりどりに輝いている。嫌いだなんて、そんなことある筈が無い。動揺のあまり少しささくれ立っていた気持ちが、穏やかに丸くなっていく。

「・・・とっても綺麗。今日こんな景色が見れるなんて、嬉しい」
「では、後でに直接伝えてあげてください。きっと喜びます」
「・・・ん。そうする」

クリスマスの夜景がそうさせるのか、目の前にいるひとがそうさせるのかはわからない。自身の内面が素直になっていく感覚に、梅は小さく頬を緩めてしまう。

人混みで逸れないようにと理由をつけて幸太郎と手を繋いで歩いている間、どれほど胸の内が温かくなる思いがしたことか。
流石に今日という日に異性と手を繋いでいれば、普段の様に声をかけて来る有象無象もいない。美貌に群がる他人も、羨望の声も貢物も、もう何もかも必要無い。誰に見向きをされなくとも構わない、そんなことよりも大切なひとの隣で手を繋いでいたい。
己の美しさを武器にしてきた梅がそうして考えを改めるには十分なほどに、幸太郎と二人の時間は優しかった。

「それにしても見事な景色ですね。まさにクリスマスといった感じで・・・私も、後で二人にお礼をしなくては」

普段通りに微笑んでいる幸太郎を前に、梅は頷き返しながらも内心の焦りに外へと視線を向けた。
頂上が近い。ここで二人になれる時間は、限られている。

「・・・先生は、アタシと一緒にいると楽しい?」
「勿論。ご一緒できて光栄です」

今夜誰も声をかけて来ないのは、繋がれた手から二人が恋人だと思われているからだ。実際には逸れない様にと理由をつけてのことだが、誰にもそれは伝わる筈も無い。
この優しく温かな時間をいつまでも続けたいと願ってしまうことは、きっと不思議な気持ちではない筈だ。
喉がひりつく様な感覚と共に、梅は幸太郎の目を見据えた。

「じゃあ・・・ずっと、アタシだけの先生でいて」

その青い瞳の真剣さに射抜かれ、幸太郎の目が丸くなった。

「何処にも行かないで」
「梅殿・・・?」
「誰の告白も受けたらイヤ。誰にも渡したくない。アタシだけの先生でいて」

空気が変わったことに気付けない幸太郎ではなかった。
梅は目を逸らすまいと懸命になっているが、語尾が僅かに震えている。ここ最近感じていた違和感と、誰の告白も受けて欲しくないという言葉が繋がり、幸太郎はゆっくりと瞬いた末に身を乗り出す様に正面に座る少女へと手を伸ばした。

瞬間びくりと身構えた梅の、頭の上へとその手は優しく乗せられる。

「・・・やはり、不安な思いをさせてしまっていたのですね」

はっとした様に目を見開く梅に対して、幸太郎は少し眉を下げて微笑んで見せた。
お互いの思いに微妙な誤差が生じていることには、まだ気付いていない。

「大丈夫です、梅殿」
「・・・先、生」
「約束は違えません。梅殿がそう望んで下さる限り、私はずっと傍にいます」

彼が約束と口にするそれが、何を示すのか。
何か見落としてはいけないすれ違いが生じているような気がしてならず、梅は焦った様に呼吸を浅くする。







『今更嫌だなんて言わせないから!先生はアタシだけの先生なんだから!』


文化祭の夜、記憶が戻ったことを告げると共に願ったことか。
それとも。








『言っとくけど、裏切ったら許さないから』


もし、後者だったとしたら。
胸が締め付けられるような思いに、梅は思わず首を横に振った。
幸太郎の手が戸惑った様に離れる。

「・・・違う、の」

あの時の一言が、呪いになってしまったのではと。晩年の春男から彼の最期を語られた時から、ずっと心の奥に棘が刺さっていた。

別の理由があるならまだ良い。けれど本当に梅の一言が原因だったなら。取返しのつかない呪いを残してしまったのではないかと、心の何処かで恐れていたのだ。

「本当は先生のこと、強引に縛っておきたいわけじゃない・・・」

誰にも渡したくない、それほどに強く思っていることは嘘ではない。けれど、彼の優しさに甘えて一方的に縛り付けたい訳でもない。
梅が望む限り傍にいるという言葉は、都合は良くとも本当の意味で望む形ではないことに、ようやく気付いた。

膝の上の拳を握ることでは誤魔化しきれない手の震えを感じたが、もうそんなことを気にしてはいられない。
これまで数えきれない男の思いを蹴ってきた今になり、梅は心からの願いを告げることの怖さを知る。

怖い。
けれど、伝えなくてはならない。

「ずっと傍にいたいって思って貰えるような・・・先生のたったひとりに、なりたい」

頭の中に過ぎる兄との姿は、いつだってお互いにお互いを必要としている。
どんなに憧れたところで同じようにはいかないかもしれない。けれど、梅が望むから傍にいて貰える関係では駄目だ、それははっきりとわかる。

「裏切ったら許さないなんて、もう言わないから。先生が望んでくれるアタシに、きっとなるから」
「・・・」
「だからお願い・・・先生に、アタシを選んで欲しいの」

明らかに戸惑っている幸太郎の表情を前に、怖気づきそうになる自身を叱咤して梅は一層強く拳を握り締めた。
梅の独占欲だけではなく、幸太郎に望んで貰える自分になりたい。こんなことを願うのは、目の前の彼以外にはあり得ない。

「アタシらしくないって、わかってる・・・っだけどもう、なりふり構ってられない・・・!こんなことっ・・・先生じゃなきゃ、絶対言わないんだから・・・!」

観覧車は、とうに頂点を通り過ぎて下降を始めている。沈黙は何秒に及んだのか、それは定かではなかった。
心臓の鼓動が重過ぎて痛く、生きた心地のしない緊張に梅は唇を噛む。とても前を向いていられず、限界に視線を落としかけたその刹那。

正面に掛ける幸太郎が深く息を吐き出す瞬間に、梅は息を呑んだ。
幸太郎は両手で額と目を覆い、両膝に肘をつくような形で大きく上体を倒している。
今の彼を襲っているもの。それはどう見ても、動揺だった。

「・・・文化祭の夜以上の奇跡は、私の人生にはもう起きないと思っていました」

ポツリと呟かれた言葉は彼の本音以外の何物でも無かったが、望んでいた答えとも恐れていた拒絶とも違う回答に梅は目を瞬く。
困り切ったような反応は、前向きな答えが望めないのではないかと不安になるような雰囲気であるにも関わらず、その声は不思議と安堵の色すら窺える。
今度は梅が戸惑う番だった。

「・・・え?」
「梅殿が、もう一度妓夫太郎殿の妹として幸せに生きておられる。それだけで十分な筈が、私のことを思い出して下さった・・・過ぎた望みが叶ったんです。私の人生で、間違いなく最良の日でした」

幸太郎の両手が僅かに下がり、覆われていた瞳が解放されると共に彼の顔が若干上がる。
目と目が合ったその時、幸太郎の瞳が普段の優しさと同時に、大きな感情の波に揺れていることに梅は気付いた。

あの日の再会を人生最良の出来事と呼ばれたことに、心臓が再度大きな音を立てる。
痛みの伴わない鼓動は小さな期待を生み、頬が熱を持った。

「あの頃の続きの様に、傍にいられるなら・・・梅殿がかつて願って下さった通りの未来を共に生きていられるなら、それだけで私は、最高に幸せ者なのに・・・」

遠い記憶が甦る。
おもて祭の夜、ひとが生まれ変わるまでの時間を問い、四人揃っての再会は難しいだろうかと話をしたこと。強い縁があればきっと後の世で巡り合えると信じたいと幸太郎は語ってくれた。彼はそれを記憶しており、梅の願い通りの今を幸せと呼ぶ。
優しい瞳が告げてくれる、決して一方的ではない思いを。もう期待は止められない。今更引き下がれないほど、奇跡的な嬉しさで梅は身体中が熱くなる。
にも関わらず、幸太郎はやはり弱ったような溜息と共に頭を掻くのだ。

「これ以上の奇跡が今日更新されたら、正直この先の人生、幸運は使い果たされて不運続きかもしれず・・・」

困り果てたように下がった眉。
そして、柔らかな苦笑。

「・・・こんな私でも、大丈夫でしょうか」

けれどその穏やかな瞳は、しっかりと梅に向けられている。
もう随分と前から惹かれていた優しげな笑顔と、ようやく対等に向き合えた様な感覚に頬が緩む。思いが通じることは、奇跡だ。

「・・・先生の、バカ」

地上が迫る。
梅は緩む頬をそのままに、両手をずいと差し出した。手を握ってと言わずとも今度は優しく握り返して貰える現実が、嬉しくて堪らない。

「アタシの隣にいるのに不運だなんて、絶対に言わせないんだから」
「ふふ、確かに・・・いつもの梅殿らしくなってきましたね」

多くの男女が隣り合って座る中、梅と幸太郎は最後まで向かい合ったままだ。
けれど伸ばした腕で繋がれた両手は、とても温かい。

「そのままの梅殿が、私にとっては世界で一番素敵です」

穏やかな笑顔が大好きだ。
このひとに素敵だと言われるために生まれてきたのではないかと思えるほどに、幸せを感じる。

「こちらこそ、傍にいさせてください。にとっての妓夫太郎殿ほどには・・・頼れる男ではないかもしれませんが」

困ったような苦笑も大好きだ。
まるで自分の魅力をわかっていない彼の隣にこれからもいられることは、何にも勝る喜びだ。

「なんにも、わかってないんだから」

係員に開けられたドアの音で、梅の囁きはかき消された。
けれど一切気にすることはなく、二人は片手を繋ぎ合ったまま観覧車を降りる。

「梅殿?」
「何でもないっ!あ、先生何かプレゼント欲しい!クリスマスプレゼント!」
「良いですね、今日の記念に何か探しましょうか」

もう手を繋ぐことに理由はいらない。
上機嫌で先導する梅を見下ろし、幸太郎がぽつりと呟く。

「簪に代わるものを、見つけなくては」

これには思わず、梅が勢いよく振り返った。
偶然にしては、その瞳がやけに意味深な色をして笑っていることくらいはわかる。
確かに今の梅では簪を使う機会は滅多に無いけれど、わざわざ口にする理由とは何か。








『アンタ、殿方が女性に簪を贈る理由って知ってる・・・?』

『何か意味があるのですか?それは存じませんでした、是非教えていただきたいものです』








まさか。

「・・・え?」
「いいえ、何でも」
「ちょっと・・・ねえっ!あの時は意味なんて知らないって・・・!」
「ふふ。さあ、どうだったでしょうか」

繋いだ手は離れない。
楽しげに隣り合う二人は、新たな一歩を踏み出した。

 Top