二人の兄と妹について 壱
「あの、立花さん」
「はい?」
それは放課後、高等部の校舎前で妓夫太郎たちを待っていた時のことだ。
一人佇む
に声をかけたのは、一学年上の男子生徒だった。何かの覚悟を決めたような赤い顔をして正面に立つその先輩を見上げ、
は既視感に身を固くする。昨年の文化祭で
に告白をしてきた後輩と似た雰囲気を感じ取ったためだ。
これはもしやと身構えるものの、ここは生徒の数も多い校舎の出入り口だ。今も多くの学生が行き交う中、流石にこの場で本題には入らないだろう。しかし
の希望は虚しく、彼はその場で深呼吸をした末口を開いてしまった。
「実は、大事な話が・・・」
「―――大事な話かぁ」
地を這う様な声が重なる。
困っていた
がはっとして顔を上げると、すぐ傍に妓夫太郎が立っていた。
の半歩前へと庇う様に立ち塞がり、上級生を睨み付ける。
心からの安心感に、
は思わず胸を押さえた。
「どうした、言えよなぁ。大事な話なら俺も聞いてやるからよぉ」
「ひっ・・・あ、あの・・・」
「・・・妓夫太郎くん」
彼は後輩の筈の妓夫太郎を相手に、完全に怯え切っていた。彼の青い瞳は血走り、鋭い刃の様な威圧感を持って相手へと向けられているのだ。背後からは直接見えずともそれが理解出来た
は、思わずそっと恋人の腕に触れてその怒気を鎮めようと試みる。幸いすぐにこちらを振り向いた妓夫太郎の目は、苛ついてはいるものの普段の彼に近く、
はそのことに小さく安堵した。
「・・・あの、立花さん。二人は・・・その・・・」
告白の現場に割り込んだ妓夫太郎、そして彼の腕に触れてやんわりと落ち着かせる
。
一目瞭然な状況を前にして尚
に事実を確認しようとする男に対し、妓夫太郎が苛立ちを隠す事なく大きな舌打ちをした。
「チッ・・・見てわかんねぇのかよ、おい」
「・・・妓夫太郎くん、待って」
今度は
が前へ出る番だった。妓夫太郎の腕は離さず、ひとつ小さく息をする。
今この瞬間も人の出入りは多く、既に結構な数の注目を集めていることもわかっていた。けれど目の前の上級生は今
自身に対し、妓夫太郎との関係を問うているのだ。もし本当に彼が
に対し真剣であるならば、こちらも真剣に答えなければ失礼にあたるだろう。
「・・・私の・・・ずっと一緒にいたいひと、です」
何故か本人を前に愛を語るより緊張した面持ちで、
は上級生へその気持ちを告げた。
* * *
「・・・そうでしたか」
遅れてやって来た幸太郎は、妹の身に起きた出来事を知るなり小さく息を吐いた。
学園からの帰り道、普段は二人ずつ二列で歩く道のりも今日は四人で固まって歩く。
幸太郎が帰りの集合場所にやってきたその時、高等部の校舎入口は結構な騒ぎになっており、その中心で赤い顔をして俯いているのが
だった。妓夫太郎が慰めるようにその肩を抱いていたため、同じタイミングで現れた梅と共に一体どうしたことかと顔を見合わせたものだ。
曰く、この人だかりの中
が告白を受けそうになり、妓夫太郎が割って入った、と。更にはその場で二人の関係を問い質されたため、
がはっきりと妓夫太郎との間柄を明言した、と。
結果としてその上級生はやはり
に思いを寄せていたことを告げ、二人に対し幸せを祈る言葉を残しその場を去ったそうだ。事は無事に丸く収まった。ただ、少しばかりギャラリーが多すぎたというだけで。
「っていうか、遅くない?今更?って感じなんだけど。お姉ちゃんがお兄ちゃんと付き合ってることくらい、もう学校中知ってるのかと思ってた」
梅が不満そうに口を尖らせた。そんなことも知らないだなんて、といった呆れ顔である。
確かに
と妓夫太郎は高校に入って以来早半年以上クラスは違えど一緒にいることが多く、その雰囲気も相まって自然とその仲を察せられていた二人だった。
「・・・んー・・・そうだね、隠してはいなかったけど、確かにはっきり公表はしてなかった、から」
「え?お姉ちゃんどうしたの?大丈夫?元気ない・・・」
ただしそれは同学年の間だけに限られた話だった様だ。
やや気落ちした様子の
を見て、梅が心配そうに擦り寄った。横から抱き着きながらも器用に前進する梅の姿に小さく笑みを漏らす
は、やはりどこか元気が無い。
「人の好意を断るって、勿論答えは最初から決まってるんだけど、ちょっとしんどくて・・・特に今回は、結果的に大勢の前で振っちゃったわけだし・・・答えは覆らないけど、申し訳ないな、って」
文化祭の時もそうだった。好意を向けて貰える、それ自体は有難い。ただ、応えることは出来ない。
正直な回答こそが最も誠実な対応だと
は信じているが、それでも相手の心を傷つけることは胸が痛む。
の中で決して譲れぬ優先順位が確立している以上どうしようもないことではあるが、重苦しい気持ちになってしまうのだ。
困ったような苦笑を浮かべる
の顔を見上げ、梅が瞬間目を丸くした末に肩で息をついた。
最早有象無象からの告白など挨拶と同程度にしか思えないほどに、梅の美貌は学内で有名だった。元来の性格もあるが、梅はこれまで振った相手のことなど気に掛けたこともない。
の様に、一人一人に心を割いていては身が持たないだろう。彼女の優しい部分は大好きではあるが、今回は
が気にする必要は一切無いとますます抱き着く力を強めた。
「なぁーんだそんなこと?お姉ちゃんはそんなの気にしなくて良いの!向こうが勝手に言ってきてるだけなんだから。ね。お兄ちゃん」
「そこで俺に振るかぁ・・・?」
そんな妹と
の様子を眺め、話を振られてしまった妓夫太郎は複雑な顔で頭を掻く。
の性格上、今日の出来事を気にせず流すことは出来ないだろうと妓夫太郎も理解できている。疑い様も無いほどに彼女の気持ちも承知しているのだから、心優しい
があの男のことを気に病んでいることも決して悪くは思わない。
ただ今回に限って言えば、逃げ場無しの状況を作ったのはあの男本人なのだ。確かに気の毒だったかもしれないが、より学内に自分たちのことを広められたとプラスに考えるしかないだろう。
これ以上
が気に病むような機会を作らないこと、それが何より大事なことだ。
「・・・とりあえずこれで少しは周知されただろうからなぁ。あとは正面からぶん盗ろうとする奴じゃねぇ限りは告白なんてして来ねぇだろ」
「妓夫太郎殿、また不穏なことを・・・」
「まぁ、そん時ゃ返り討ちにしてやるけどなぁ」
「ふふっ!お兄ちゃんかっこいい!アタシも加勢するわ!」
悪い顔をして乗り気な兄妹を横目に、
が浮かべるのはやはり苦笑だった。そんな妹に対し、何も言葉を用意できない幸太郎ではない。梅が抱き着いている方とは逆の肩へと、優しく手を置いた。
「
、ここは前向きに考えましょう」
「お兄ちゃん・・・?」
に落ち度が無いことで妹が傷付くのは兄として見逃せない。
今回の様な言わば大自爆の様なケースは滅多に無いだろうが、今後も付いて回る課題と言って良いだろう。何しろ
の知名度は高いし、ファンも学内に少なくはない。全ては妓夫太郎を見つけるための算段でその目的は既に達せられたが、妹が有名人である事実は今更取り消せない。
ならば考えられる解決策はひとつで、二人の関係を周知して貰えるよう、
がもっと自然体で過ごせば良いのだ。二人は確かに一緒にいることが多いし、妓夫太郎が
に特別優しいことは誰もが知ることであるが、やはり外であることを意識してか二人が恋人であることを明示するのはその雰囲気だけだ。
少なくとも同学年の生徒たちは、二人のことを温かく見守るような体制が出来上がっている。周りの目を気にすることも多少は必要だが、二人がそれをほんの少し緩めさえすればきっとうまくいく。幸太郎はそう結論付けた。
「これまで以上に堂々と、妓夫太郎殿と恋人らしく振舞えば良いんです。今日のお相手は傷付けてしまったかもしれませんが、
と妓夫太郎殿の関係がもっと広まれば、今後も自然とそういう機会は減りますよ」
「・・・そっか。うん、確かにそう、かも」
兄からの助言はゆっくりと
に染みた。
二人の関係は隠してはいないものの、やはり心のどこかでセーブしていた部分は確かにある。外なのだから限度はあるにしても、少し緩めるのは有効かもしれず。
しかし、
一人では結論付けられないこともわかっている。思わず足を止めて、一歩後ろを歩く彼を振り返った。
「えっと・・・妓夫太郎くんさえ良ければ、だけど」
もっと自然に手を繋ぎたい、もっと恋人であることを示したい。改めて宣言するには少々気恥ずかしく、本人に確認を取るのは緊張することだった。
けれど妓夫太郎は瞬間呆気に取られた末、優しく
の頭へ手を乗せることで答えをくれる。
「断る理由が無ぇだろうが、ばぁか」
「よ、良かった。ありがと・・・」
「ふふっ!お姉ちゃん可愛いー!」
「もう、梅ちゃんからかわないでよー」
答えはわかりきっているだろうに、安堵したように息をつく
の表情は誰にとっても微笑ましい。
梅は堪らず
に抱き着き、その顔をぐいぐいと肩へ押し付けた。告白ひとつ振ったくらいでこんなにも悩むだなんて、
はとても可愛い。
この時の梅は、その程度の認識しか持っていなかった。
* * *
告白への呼び出しには、応じる時もあれば応じない時もある。断ることは決めていても、気分によっては指定された場所へ足を向けてやる日もある。
今日はそんな日だったので、梅は昼休みに中庭で一人の男子生徒を振った。良い返事など貰えないことくらいわかっていそうなものなのに、ご苦労なことである。
のことは勿論大好きだけれど、振った相手のことを気に病むなど梅にとっては時間の無駄でしかない。
五限まであまり時間が無いが、まだ高等部の教室で
たちに会う時間はあるだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら校舎へ向かって歩いていた、その時である。
「立花先輩が好きです。付き合ってください」
角をひとつ曲がった先から聞こえて来た言葉に、梅は足を縫い留められたかの様に息を止めた。
人気の無い中庭は告白によく使われる場所だ、梅はそれを良く理解している。よってこの現場も、学園内では特に不思議ではないあり触れた光景の筈だ。
にも関わらず、足が一歩も動かない。
今の声を知っている、梅と同じ学年で頭が良く人気の女だ。
「・・・お気持ちはありがとうございます」
幸太郎の声は普段通り穏やかなものだった。
その事実が、梅の胸中を騒つかせる。
梅の知る幸太郎であれば、こんな状況で動揺しない筈はない。
まさか。
まさか、梅が知らなかっただけでこのようなことは初めてではないのだろうか。
まさか、自分の知らないところで幸太郎は人気があったのだろうか。
まさか、了承してしまうのだろうか。
頭の中が真っ白になるような動揺に、梅は目を見開いた。
「ただ、そのお申し出は、受けることが出来ません。すみませんが・・・」
心臓が痛い程に収縮して、数秒後にようやく全身に血が巡る音が聞こえた気がした。息を殺しながらも胸に手を当て、梅はその手を強く握り締める。幸太郎の謝罪を受け、同級生の女は食い下がることなくその場を去った様だった。
汗が吹き出しそうになる程な動揺は治まらず、足は未だ一歩も動かない。ありふれた筈の告白の現場に居合わせ、こんな思いをすることになるなど考えもしなかった。
何故こんなにも動揺するのか、何故こんなにも落ち着かない気持ちになるのか。眉を顰めたタイミングで、目の前に影が差す。
「・・・梅殿?」
恐る恐る顔を上げると、穏やかな瞳と目が合って。途端に覚えてしまう安堵感と気まずさに、梅は口の開閉を小さく繰り返す。
「・・・先生、あの、アタシ、」
「あぁ・・・見られてしまいましたか」
幸太郎はそう口にするなり苦笑はしたが、梅を責めはしなかった。
普段通りの幸太郎だ。梅の良く知る、優しい彼だ。
そして今しがた、一人の思いを断った男だ。
「
の言う様に、やはり重苦しい気持ちになるものですね」
「・・・」
「ですが、やはり正直に答えなければ。お相手にも失礼にあたりますから」
梅は何も口にすることが出来なかった。
これが初めてではないのか。怖くて確認が出来ない。
何故断ったのか。これも怖くて確認が出来ない。
「戻りましょう、昼休みが終わりますよ」
優しい微笑みは今当たり前の様に梅へと向けられているが、それはいつまでだろうか。
いつまで幸太郎は、梅だけの先生でいてくれるのだろうか。
数分前までは考えもしなかった恐怖に、梅は拳を握り締めた。