君がいたから今がある



文机に高く積みあげられた山は紙の集まりとは思えないほどの存在感を醸し出しており、その奥で熱心に書き物作業を続けるの姿を正面からすっぽりと隠してしまえる程だった。普段の三角巾で髪をまとめ、今日は襷をかけて着物の袖すら調整している徹底ぶりだ。

一心不乱に筆を進めるその真剣な姿を眺め始めてどれほど時間が経っただろうか。妓夫太郎が最初に入室した時からはこの様子でまったく気付かれず、急ぎの用ではなく空いた時間に顔を見に寄っただけだったために声をかける時期を完全に逸し今に至る。
表には本日休業の札がかけられていたが、緊急対応は受け付けるので声をかける様書き足すところがらしい。今日はよほどこの作業に集中したかったであろうことが伺えた。
ほんの少し身を乗り出してその手元を覗き見る。相変わらず文字の読み書きに疎い妓夫太郎には内容自体はさっぱりだったが、筆を走らせるの勢いは淀み無い。
よくもここまで集中力が続くものだと感心し、ふと伏せられた目元に注意が向いた。あまり意識したことが無かったが、縁取っているまつ毛が、長い。不意にその下向きだった瞳と、目が合った。

「びっ・・・くりしたぁ、妓夫太郎くん来てたんだね」
「邪魔したかぁ?」
「ううん全然、ごめんね気が付かなくて」

瞬間本当に驚いたようだったが、すぐに柔らかく笑って筆を置く。集中していたところを邪魔してしまったにも関わらず、何か用かとも聞かないところがの心地よいところだ。恐らくは本当に顔を見に来ただけであろうこともわかっているのだろう。恥ずかしいなぁと照れたように笑いながら、少し乱れた机上を整頓し始めた。下から現れた絵の入った紙が目に止まり、妓夫太郎は妙に納得したかのようにあぁと声を漏らした。

「この前の書き物かぁ、相変わらず凄ぇなぁお前は」
「頭の中が纏まらなくてねー、何回も書き直してる。新しい図鑑も読み込み足りてないせいかなぁ」

先日は碓氷と大勢の男たちに伴われ、遊郭の外へと出た。
植生調査と銘打たれたその工程は文字通りの植物の調査であったが、正真正銘奉行所からの依頼であり遊びではないのだと碓氷は言った。ここ数年麻薬中毒者がじわじわと増え続けているのは江戸全体の問題となっており、出所を炙り出すためにも少しでも多くの植物の把握と正しい知識が必要とされているそうで、麻薬の成分として使われている新種の植物があるならそれも把握したい、という事が狙いなのだと言う。
外部から専門家の人間も数人招くいう本格的な話に、勧誘された当初こそ恐縮していたであったが、若い力が一人でも多く必要とされているという碓氷からの熱弁と、夜間調査で心細いだろうから妓夫太郎も用心棒に付けるという提案に承諾の返事をしたのだった。

が懸命に書き記しているのは、その時に得た情報を纏めたものなのだろう。立派な本が出来るのではないかと思うほどの大量の紙の山は、そう簡単には書きつけられない代物だ。ちょっと疲れたかなぁと苦笑を溢しながらも、自身の成果を眺めるの瞳は楽しげに細められている。

「でも楽しいんだ、こういうの」
「・・・そうかぁ」
「夜に遊郭の外に出て調査だなんて緊張したけど、妓夫太郎くんが用心棒してくれてたから安心して採取も観察も出来たし。引き受けてくれて、ありがとうね」

止せよと妓夫太郎は小さく頭を振る。実際、獣や不審者の類を心配してのことではあったが、その類は現れずに終わった。強いて言うならば紅一点のに近寄ろうとした外部の調査員が数人いたくらいだが、片っ端から妓夫太郎が睨みを利かせて退けた。
そして今回の調査には、報酬金が出ているのだ。

「お前だけのためって訳でも無ぇよ、わかってるだろ」
「んー・・・ちょっと貰い過ぎじゃないかなって気もするけど」

正当な働きには正当な報酬が必要だからと碓氷は笑っていたが、その金額が本当に働きに見合っているのかとが心配になるほどの見返りがあった。何でも出来るとはいわないが、一晩調査に同行しただけで貰える額にしては高額だ。貰えるものは貰っておけと言う妓夫太郎に対し、は未だ戸惑いが捨て切れておらず、またその使い道にも悩んでいる様だった。

「梅ちゃんに可愛い簪でも買ってあげようかなぁ」
「・・・」
「んー、それとも美味しそうなお饅頭を色んな種類買ってみようかなぁ、妓夫太郎くんと梅ちゃんも食べるよね?」

何となくわかっていたことではあっても、一言口に出さずにはいられない。それは誰の働きへの報酬なのだ、ひとりの筈だ。

「自分のことだけによぉ、使えば良いだろうが」

それはぼやく様な小さな音量だった。しかしの耳はしっかりとそれを拾い、一拍の間を置いて力が抜けたような笑みに変わる。

「それがなかなか、思い付かないんだなぁ。梅ちゃんや妓夫太郎くんが喜んでくれることを考えてる方が、ずっと楽しいから」

はこういう人間だ、自分よりも妓夫太郎たち兄妹を優先する。それは長年の付き合いでわかってはいても、妓夫太郎は考えてしまう。本当にこれで良いのかと。今は小さなことでも、これから先もはこの価値観で生きていくのだろうか。それは、彼女の人生に損な結末を齎しはしないだろうか、と。妓夫太郎の漠然とした思いなど知る由も無く、は微笑むのだ。

「それに、幸せな悩みだと思わない?」
「あぁ?」
「昔ならちょっと考えられない話だもん、自分で稼いだお金の使い道を自由に悩めるなんて、幸せなことだよ」

梅を飢えさせないため、少しでも日銭を多く稼いで食い繋ごうと二人で懸命に協力し合ったあの頃。それに比べ生活が上向きになりつつある今は幸せだと。成程、それはその通りだ。

「しかもそれを妓夫太郎くんと梅ちゃんと楽しめるだなんて、私は最高に幸せ者だなぁ。いつもありがとうね」

にこにこと笑う。感謝を口にして、柔らかく笑う。この笑顔に日々助けられ、何度も救われていることは確かだけれど。それは違うのではないかと、妓夫太郎は彼女を見遣った。

「・・・なぁ、
「ん?」
「それは・・・全部、お前のお陰なんじゃねぇか」

は何を言われたのかわからないといった顔をした。妓夫太郎は怒っている訳ではない。ただ、今この瞬間ははっきり言った方が良いのではないかと強く感じたのだ。常日頃から、何でもないことでは礼の言葉を口にする。ならば生活が上向きになってきたと今を喜ばしく思うこの瞬間、礼を述べるべきは妓夫太郎の方ではないかと。

「碓氷が手ぇ回して色んなことが変わり始めたってのもある。癪だけどなぁ。けど、がここまで有能じゃなきゃあいつもこんな底辺の街に梃入れしようなんざ、思わなかったんじゃねぇか」

あの夜と妓夫太郎が事件に巻き込まれ、碓氷に救われたことは偶然だ。しかしその後も碓氷がこの遊郭最底辺の街に積極的に関わり続けようとしたのは、の子供離れした植物の知識に目を付けたからだと妓夫太郎は感じていた。周りの人間の信頼を得、少しずつ外堀を埋め、先日調査に同行させるまでに至ったのが証拠だ。胡散臭くはあるが立場もしっかりした大人だ。の幼い頃からの努力が、あの影響力ある男を引き寄せたのだ。

「長屋を追い出された時期も、が助けてくれなけりゃあ梅と二人で野垂れ死んでたかもしれねぇ」

妓夫太郎だけの日銭稼ぎでは厳しいところを、喜んで助力を申し出てくれた。今と違い親や周りからも妓夫太郎たち兄妹に関わることは白い目で見られ、時には親に手を上げられながらも食料を運ぶことを止めなかった。建て付けが悪いなんてものではない物置小屋での暮らしは、がいてくれたからこそ暖かな思い出だ。そうでなければ強烈な寒さと飢えに、兄妹二人きりで打ち勝てたのかどうかわからない。

「そもそもから声をかけて貰ってなけりゃあ、俺は毒で死んでたかもしれねぇんだ」

これはいつか、話したこともあったかと思い至る。しかしこうして思い返せば、妓夫太郎たちの人生にがいかに貢献してくれていたのかがわかる。出逢いは奇跡だ。しかし感謝すべきは奇跡よりも、彼女自身にすべきだとはっきり感じる。は呆気に取られたかのように押し黙っている。喋り過ぎただろうか、しかし間違ったことは言っていない筈だ。

「お前は本当に凄ぇよ」

妓夫太郎の手が戸惑いがちにの方へ伸び、その頭から三角巾を外す。

「いつもありがとうってのはぁ・・・俺の台詞だ」

照れ臭さを隠すように、妓夫太郎の手が少し乱れたの前髪を優しく混ぜる。
彼女の耳が赤くなったことに、妓夫太郎は気付かなかった。



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