灯火祭の夜



「ちょっと碓氷!お姉ちゃんにしっかりステキな着物選んだんでしょうね?!」

遊郭中心街に位置する宿屋の一室に、梅の厳しい一言が飛んだ。ここは碓氷の指揮する一団の屯所として利用されている宿屋である。

仲秋の今宵、梅は髪を結い上げ薄桃色の愛らしい着物に身を包み、黙ってさえいれば良家の令嬢の如き美しさと可憐さを眩しく放っていたが、生憎梅がこの碓氷に対して愛想良く接したことは出会いからこれまでで一度も無い。他所行きの仮面で貢物を貰えるかもしれない期待度より、に近寄る胡散臭い男という不審感が勝っているからである。
しかし牙を剥かれた張本人は一切気を悪くすることも無く、いつも通りのにこやかな顔で小さな姫君に飲み物を差し出した。

「はいはい、勿論ですよお嬢ちゃん。お嬢さんにとっても似合うものを今支度しているからね、期待して待っていておくれ」
「ふん!」

貰える物は貰う、例え気に入らない男からの物だとしても。不本意ながらも口を付けた麦茶の美味しさに目を丸くした梅を横目でこっそりと笑いつつ、碓氷は部屋の隅で落ち着かない様子の妓夫太郎に目を向けた。
こちらは黒を基調とした着流しの格好をさせてみたが、なかなか様になっている。そわそわと落ち着きが無いのは先ほど強引に風呂に入れてしまったためか、それとも支度中のの仕上がりを気にしてのことか。

「君もなかなか似合うじゃないか、格好良いよ」
「見えすいた世辞はやめろぉ・・・特にてめぇみたいなツラの奴に言われると虫唾が走んだよなぁ」
「まあまあ今日はそんな怖い顔しないで」

兄妹揃って素直じゃないんだから、などと軽口を叩きつつ、碓氷の視線が妓夫太郎からは死角の一箇所で止まった。おやおや、これは。彼は嫌がる妓夫太郎の肩を掴み、ぐるりと方向転換をさせる。

「ほら、今夜は折角こんなに素敵なお嬢さんの隣を歩けるんだから」



* * *



話は数日前に遡る。
一月ほど前にが参加した植生調査はとても有意義な成果を上げたのだが、さらに後日が書き記した取り纏めの書が大変素晴らしい出来映えだったので、急遽写し取りに拝借したり改善点を纏めたりと、と碓氷の一団は連携を取り合い多忙な数日を過ごした。それらが無事に納まったため、慰労としてを江戸の祭に招待したいと碓氷が提案したのである。
場所は遊郭の外、江戸の夜を彩る灯火祭だ。三年に一度の大きな祭で、碓氷は前回初めて参加したそうだが大変賑やかな祭で楽しめたとのこと。大きな祭だけあり見廻り等も徹底されているので治安も良く、当然碓氷達も護衛を務めるので安心だと言った。
さえ良ければ妓夫太郎と梅を連れて行っても良いし、勿論遊郭の外に出るからには両方の区画の女将にも碓氷から話をつけるとのことだったので、は喜んでその申し出を受けた。

そして現在。
奥に巨大な神社を構える大通りの一本道は、祭囃子が鳴り響き豪華な山車がいくつも聳え、夜にも関わらず煌びやかな光に照らされている。
遊郭の中心街でもこれほどの絢爛さは無いであろう現実離れした光景に目を見開き、三人は興奮の絶頂にいた。碓氷は折角なのだから三人だけで楽しむと良いと言い、少し離れた位置に団の誰かしらを配置するので心配しなくて大丈夫だとたちの背中を押した。
祭を楽しむ資金は十分に持たされ、最終的な集合場所と時間も決めてある。至れり尽くせりの展開だが、一晩限りの祭と思うと流石の妓夫太郎でも抑えきれない高揚感を感じた。
尤もこの落ち着かない気持ちの理由は、目の前の光景の煌びやかさだけではない。

「お姉ちゃん素敵!お姫様みたい!」

先ほどから何回目になるかわからない台詞で梅が飛び上がる。
妓夫太郎から梅を挟んで反対側に立つは美しい水色の着物に白と薄黄色の帯を巻き、黒髪を綺麗に結い上げていた。加えて三人の身支度を担当した人間が、最後のにのみ特別に薄化粧を施したのである。
梅は当然美人であるが遊女見習いとして常日頃から綺麗にしているため、今宵の装いも普段より少し他所行きにお洒落をしたような印象だった。しかしはどうだろう。普段は当然化粧などしないし、とにかく調合作業がし易いようにと軽装で過ごしているのだ。今夜の彼女は、間違いなく妓夫太郎の見たことの無いだった。

「梅ちゃんの可愛さには全然敵わないよー、碓氷さん私にまでこんな上等な着物用意してくれなくて良かったのになぁ」
「そんなこと無い!今日のお姉ちゃんは最高よ!ね、お兄ちゃん?!」

突如話を振られ、妓夫太郎は動揺した。唾を飲み込み、覚悟を決めてを正面から見る。目が合った。は少し緊張ような顔をしてこちらを見ている。

「あ、あぁ。その・・・似合うんじゃねぇのか」

ぎりぎりのところで声は震えなかった。決して気の利いた感想では無かったが、ほっとした様にの表情が緩む。その笑顔もまた、薄化粧が乗っているせいかいつものとは少し違って見えて。

「あ・・・ありがと。妓夫太郎くんもね、格好良い」

いつもならうるせぇと軽く言い返せる筈の言葉が出てこない。梅は意味ありげな笑みを浮かべ、二人の手を引いた。

「さ、行こう!お兄ちゃん、お姉ちゃん!」



* * *



まずは形から入るべきという梅の主張に従い、彼らは三者三様なお面を購入した。
梅は狐、妓夫太郎は天狗、はひょっとこのお面を装着したが、顔が隠れては勿体無いという出店の店主の助言により三人共頭の斜め後ろにお面を固定して貰った。ここから先人混みも増すので、万一はぐれた時にお面は目印になるとも教えて貰い、三人は改めて祭の中へと繰り出した。

「親切なおじさんで良かったね」
「そうだけど、お姉ちゃんもっと可愛いお面にすれば良かったのにー」
「え?ひょっとこって可愛くない?」
「えー?!お姉ちゃん変だよー!」

梅は大変上機嫌で、と繋いだ手を振り回している。逆の手を繋いでいる妓夫太郎にも振動が伝わってくるが、それだけ妹が全力で喜びを表現しているのだと思うと微笑ましい。
最近でこそ外では白梅ちゃんと呼ばれ澄ました顔で歩くことが多い様だったが、この喧騒の中であれば余計なことは考えず普段の自分に戻れるのだろう。
妓夫太郎は妹とが顔を見合わせ笑っている姿を見て安堵したような気持ちを覚えた。不意にが目線をこちらに遣るため、その度何でもないように目線を逸らすのが妙に心臓に悪いのは何故だろうか。

「妓夫太郎くん、お腹すいてない?」
「あー、言われてみりゃあ確かに」
「今日はしっかり軍資金も預かってるし、好きなもの色々食べようね」
「わーい!碓氷の奴もたまにはやるわね!」
「こらこら、お世話になってる人だからね」

が苦笑しながら小言を言ったところで妹が素直に聞く筈も無く、梅が再び二人を先導してあちらこちらに歩き出す。
人混みの間を縫うように梅が好き勝手に動くものだから、それぞれ片手を引かれている妓夫太郎とは余計に対向者に気を配らねばならず、必然的に両者が密着して人混みを抜けねばならない場面も何度か発生したが、がその度に困りながらも楽しそうな顔で見上げてくるものだから、妓夫太郎は大変どぎまぎとしてしまった。
ここ数年で身長差が開いたことは勿論わかっていたが、ここまで密着するとそれが浮き彫りになり、自分より幾分か低い位置にあるの耳に、妓夫太郎の心臓の音が漏れるのではないかと気が気ではない。まさか妹が意図的にこの状況を生み出しているとは一切疑うことも無く、妓夫太郎の試練はこの後暫く続いた。

幾分か満足した様子の梅が足を止めたのは、神社の少し手前に配置されたとある屋台の前だった。
暖簾には蕎麦と大きく書かれていたが妓夫太郎と梅には何のことかわからず、に解説を求めた。切見世には蕎麦屋なんてものは存在しないが、はここ数年で何度か食べた経験がある。遊郭中心街の顧客に薬草を届けた際に立ち寄ったのだ。蕎麦を一人一杯ずつは先のことを考えると多い様な気もするが、今日は好きなものを好きに食すと決めた手前、細かいことはこの際置いて良いだろう。ええいと暖簾を潜り、三人並んで席に着いた。が手早く注文を済ませて待つこと数分、出てきたかけ蕎麦に妓夫太郎と梅は目を白黒させたが、こうして食べるのだとが手本を見せると二人して続き、初めての蕎麦の美味しさに舌鼓を打った。
蕎麦屋の店主は蕎麦初体験で感激する兄妹を気に入った様で、を含めた三人に野菜のかき揚げをそれぞれおまけしてくれた。おじさんの蕎麦は日本一ね!と褒め称えた梅の一言が効いたようで、帰り際に饅頭までご馳走様して貰い三人は蕎麦屋の屋台を後にした。

「梅ちゃんと一緒にいると、私まで色々おまけして貰っちゃって何だか申し訳無いなぁ」
「そう?お姉ちゃんは真面目ね。でも、お祭りってとっても楽しい!」
「連れてきて貰って良かったなぁ、梅」
「うんっ!!」

何が梅の機嫌を最高潮に高めていたかと言うと、この祭で相対した大人たちが妓夫太郎を見ても嫌悪感を示さなかったことにある。お面屋の店主然り、蕎麦屋の店主然り。今日の妓夫太郎が強引にとは言え風呂に入れられて身を清めていたことも関係していたかもしれないが、ここの大人たちは顔の痣や奇妙に痩せ細った体格程度ではまるで怯むこと無く、妓夫太郎を梅とと同等に扱った。
遊郭の街民であれば妓夫太郎の顔を見ただけで距離を置くし、梅に物を与える者はいても妓夫太郎に同じく差し出すような人間は一人もいない。兄を化物扱いしないこの祭が、梅はとても好きになっていた。
妓夫太郎との手を握りしめ様々な屋台を眺めうろうろと歩き回れば、遊郭と同じように梅の可愛さに顔を綻ばせる大人も多かったが、それと同じほどには妓夫太郎も周りの大人達から声をかけられた。

「よっ兄ちゃん、両手に花じゃねぇか!」
「若いって良いねぇ、女の子たちしっかり守ってやんなよ兄ちゃん!」

見ず知らずの間柄でここまで気さくに声をかけられる経験など滅多に無いが、それにしても陽気な圧が凄い。妓夫太郎は何とも言えない顔をして頬を掻いた。

「ここの連中はやたら陽気だなぁ・・・」
「ふふ、お祭りだからね」

相手が陽気過ぎて悪態も返せない妓夫太郎の姿が可笑しく、が小さく笑った。梅は神社の敷地に入ってから食べ物の屋台の多さに目を輝かせ、はそれを見守りつつ楽しげだ。加えてこの場には、妓夫太郎を避けて通るような輩も存在しない。

「・・・」

幸せだ。
妓夫太郎ははっきりとそう感じた。



* * *



気に入った食べ物を思う存分平らげ、投げ輪や面子遊びに夢中になり、遂に梅は電池が切れたように眠ってしまった。今夜の祭を十分に満喫し兄の背中でぐっすりと眠る梅の姿は、十歳よりずっとあどけなく映る。

「・・・ふふ、寝ちゃったね」
「あれだけはしゃぎ尽くせばなぁ、疲れたんだろ」

祭は神社内の敷地に踏み込むと一層賑やかさを増した。
所狭しと並んだ屋台は食べ物であったり子供向けの玩具であったり景品を賭けた遊びであったりと種類は様々だったが、どこも三人で寄り添い歩くたちに暖かく接してくれた。

梅は忙しく駆け回り、あちらこちらの屋台へ余所行き用ではない心からの笑顔を振りまき大変な人気を誇った。両手にと妓夫太郎の手を握って離さないために買った食べ物を持つのは二人の仕事であったが、串に刺さった団子や餅を食べさせて貰いご機嫌な梅の姿に年長の二人の心は都度ほっこりと暖まる気がするのだった。

少々困ったのは三人を仲の良い兄妹姉妹と思いこみ話しかけてきた屋台の男に、梅が正直に身の上を話した時のことだった。
両親はおらずは血の繋がりある姉では無い、しかしそんな事はどうでも良く大好きな姉なのだという梅の言葉に涙腺を刺激されたらしい男は盛大に咽び泣き三人に大判焼を振舞った。
そこまではまだ良かったのだが、それを聞きつけた隣の屋台の男が、そこの二人が夫婦になれば名実ともに姉となれるのではないかと妓夫太郎とを指したのだ。実に名案だと梅は食いつき、妓夫太郎はあまりの衝撃にむせて咳こみ、は慌てて大判焼を落としそうになってしまった。祭の夜は陽気で気さくな大人が多いが、稀に酒の入った様な状態の店主もいたので今回はそこに当たってしまったのだろう。男と更に語り合おうとする梅を引きずるように二人はその場を後にした。

遊郭において妓夫太郎は遠巻きにされる存在だ。いくら日々堂々と一緒に過ごしていようとも、今日の様にとの仲を囃し立てられたことなどこれまでに一度も無い。経験したことの無い恥ずかしさに両者ともしばらく顔が熱く大変に困ってしまった。
梅はそれからも二人を夫婦の話題に引き戻したがったが、妓夫太郎が懸命に吹き矢の腕前を披露したりが豪華な飴細工の露店で注意を引いたりしつつ何とか軌道を修正したのだった。恥ずかしかったことも必死で汗をかいたことも嘘ではないが、思い返せばこれも良い思い出だ。

「妓夫太郎くんは大丈夫?疲れてない?」
「俺よりお前だろうが。足、痛くねぇか」
「大丈夫、ありがとう」

口調は素っ気なくも、彼らしい気遣いには微笑む。梅が眠ってしまったことで二人の間は大分静かになってしまったが、未だ祭の賑わいは続いていた。
碓氷と約束した時間までには少し余裕がある、どうしたものか。出来ることなら少しでも長くこの祭を楽しみたいが、梅が眠ってしまった今妓夫太郎は帰りたがるだろうか。
そんなことを考えていると不意に対向者とぶつかりそうになり、が身を捩る。その様子を見た妓夫太郎が、一歩彼女の方へと踏み込んだ。

「・・・後ろについて離れんな」
「え?」
「今、両手塞がってっから。手は引けねぇけど、俺と梅のすぐ後ろなら前から来る奴らとぶつからねぇ」

壁になってくれるという意味だろうか。そして何よりも、まだこうしていて良いと許されたような気がして。

「まだ帰らねぇんだろ?」

優しい声色が自分ひとりに向けられている。

「・・・うん」

それが堪らなく嬉しくて、胸が苦しい。


* * *



神社の境内を少し離れ、河沿の道を歩く。祭の会場自体からは出ていないが、大通りから抜けただけで随分と人が減った。
昼間の如く煌々とたくさんの灯籠に照らされていた通りに今までいたせいか、最低限の足元の灯りしか無いこの道はとても暗く感じてしまう。人混みから抜けたため、は梅を背負う妓夫太郎の横に並んでいた。

「おじさんに教えて貰ったのってこのへんで良いのかなぁ。私たち土地勘が無いからちょっと心配だけど・・・」

最後の時間を先程までと同じく屋台巡りで埋めようとしていたたちに声をかけてきたのは、早めの店仕舞いを始めようとしていた蕎麦屋の男だった。
灯火祭の最後は川沿いで迎えるのがお勧めだと背中を押されて今に至る。は男の言葉を疑う気は一切無かったが、とにかく道がぼんやりと暗いことが不安にさせる。

「まぁ、大丈夫じゃねぇか?人の気配も」

人の気配もそこそこするしな、という妓夫太郎の言葉は、ひゅーという不思議な音にかき消された。思わず二人して足を止め、音の聞こえた川の方へ目を向ける。

一拍の間を置いて、夜空に美しい花が咲いた。
さらにほんの少し遅れて、腹に響くようなドンという低い音。

辺りが急に照らされたことでようやく気付いたが、人の気配は傾斜を降りた先にあった。皆思い思いの姿勢で打ち上げ花火を楽しむために陣取っていたのだろう。勿論たちのように傾斜の上からでも十分楽しめる規模の花火の様で、同じく立ち見をしている者たちも散見される。玉屋、鍵屋と口々に叫んでいるのは下で寝転んでいる者たちの様だ。祭の最後を彩る打ち上げ花火。成程、蕎麦屋の店主は良い場所へ自分たちを導いてくれた様だった。
そこでふと、妓夫太郎は違和感に気付く。こういう時には真っ先に嬉しそうな歓声を上げるであろうが妙に静かだ。どうしたと呼びかけるために隣へと目を向けた。

妓夫太郎の時が一瞬止まる。
彼女の横顔に、一筋の涙が光っていた。
焦る反面、涙を綺麗だと感じてしまうのは、が普段より大人びた姿をしているせいだろうか。

「・・・

恐る恐るといった呼びかけに、はすぐ反応を見せた。慌てて涙を払い、普段より遠慮がちな笑みを浮かべる。

「・・・ご、ごめんね。あんまり綺麗だから、びっくりしちゃった。こんな涙もあるんだねぇ」

感涙、というものだろうか。
妓夫太郎がいまひとつ納得しきれずにいるのを尻目に、は未だ眠り続ける梅を気にし出した。

「梅ちゃん、見逃したら可哀想かな。それとも起こしちゃう方が可哀想?」
「いや。この寝方は多分ちょっとやそっとじゃあ起きねぇよ、気にすんな」
「そっか・・・」

こんなにも美しい光景を眠って見過ごすことは、後から聞けば妹は怒るかもしれず。しかしこの深い眠り方はそう易々とは起こせないことも知っている兄の言葉に、は大人しく頷き。
暫しの間を置いた末、ぴたりと妓夫太郎の真横に寄り添った。

「妓夫太郎くん、そのまま聞いて」

突然近付いた距離に、花火を見上げていた妓夫太郎の肩がぎくりと強張った。
祭の序盤、人の往来を避けて歩く際に事故のように触れ合った時とはまるで違う。は身体ごと花火の方を向いているようで、触れ合っている部分は正確にはお互いの腕だけだ。相手は幼い頃から妓夫太郎に触れることに躊躇の無いだ、手を握られたことも、顔に触れられたこともある。
にも関わらず、今ぴたりと真横に寄り添われ触れ合っている腕が、異常に熱い。

「この前、私のこと、凄いって言ってくれて・・・いつもありがとうって、言ってくれて・・・嬉しかった。もう、本当に。こんなに嬉しいことってあるのかなってくらい、幸せだった」

の声色が柔らかく響く。文字通り喜びに満ち溢れた、そんな声だった。そのことかと思い返しつつ、早鐘を打ち続けている心音を何とか抑えようと妓夫太郎は黙ったまま花火を見据える。
あの日思い切って伝えた言葉に嘘は無い。妓夫太郎はに感謝しているのだから。

「だから、ありがとう」
「・・・お前、それはよぉ」
「間違ってないよ」

それはの台詞ではないと言った筈だ。しかし、今日のは譲らない。珍しく遮られた言葉に妓夫太郎は口を閉ざす。

「妓夫太郎くんに誉めてもらって、優しく額を撫でて貰えて、本当に嬉しかった私の気持ちは・・・嘘じゃないもの」

今、とても大事な話を聞かされている気がする。緊張に若干上擦る彼女の声が普段より近いせいだろうか、それとも珍しくの方から顔を動かすことを禁じられたせいか。
妓夫太郎の予感めいた気持ちに呼応するように、が小さく息を吸う音が聞こえた。

「私、やっぱりいつかは遊郭の外に出たい」

ドンと一際大きな花火と歓声が上がった。

ああ、そういう事かと妓夫太郎は静かにひとつ瞬いた。
彼女の涙の理由もこうして寄り添ってきた理由も、一本の糸の様に収束されていく気さえする。
遊郭の外で暮らしたい、の幼い頃からの夢だ。それは承知していた筈が、いつの間にか都合良く忘れ去ろうとしていた。いつまでも梅とと三人でいたいと、心に思い描いてしまっていた。今日こうして外界の良さを思い知ったことで、彼女なりにけじめを着けようとしているのかもしれない。
いずれは訪れる別れを覚悟する時が来た。こうして夢の様な一夜を過ごした後にこの結末を受け入れることは、正直なところ酷く苦しい。しかし、の夢はだけのものだ。この後何を言われようとも、友として受け入れなければならない。そう覚悟を決めようとした、次の瞬間。

「その時は、妓夫太郎くんも一緒に―――」

あまりのことに耳を疑い、瞬間花火の音すら聞こえなくなる。

妓夫太郎の覚悟は、まるで違う方向からの衝撃に砕け散った。
戒めが解かれたかのように身体が動き、堪らずの方へ顔を向けてしまう。お互い吸い寄せられるように、と目が合った。花火の灯に照らされた、赤い顔をしたがすぐ目の前におり、今口にされた言葉の意味を噛み締める。
今自分がどんな顔をしているか、妓夫太郎にはわからない。わからない、けれど。は妓夫太郎の表情に目を見開き、我に返ったかのように小さく息を呑んだ。

「あっ・・・ごめん、私なんか・・・お祭りで興奮し過ぎちゃったのかな、あはは」
・・・」

そのまま彼女は一歩二歩、さらに数歩妓夫太郎から距離を取る。嫌な予感がする。先程まで酷く煩かった自身の鼓動が妙に静かだ。
は辛うじて恥ずかしそうな作り笑いを浮かべてはいるが、距離がどんどん開いていく。何が誤解させてしまったのか、彼女は今間違いなく妓夫太郎から離れて行こうとしている。

「今の、一旦忘れて?自分でも無茶なこと言ってるってよくわかってるから。二人の人生を勝手に巻きこんじゃ駄目だよね、本当何言ってるんだろ、私」

が自己完結をして逃げようとしていると悟った途端、ふざけるなと憤りに似た気持ちが湧き上がる。今この瞬間、彼女を逃してなるものかと妓夫太郎の心が叫ぶ。

「・・・、こっち来い」

決して優しくは言えなかった。しかし戸惑うような顔をして少しずつ戻って来るに、妓夫太郎の方から大きく一歩近付いた。梅を思い切ってしっかりと右腕で抱え直し、左手で彼女の手を捕まえる。

「っ妓夫太郎、くん」
「逃げんな」

が驚きに目を見開き逃れようとしたのを、先んじて制する。低く唸るような一言に彼女は大人しくなってしまった。
怖がらせたい訳ではない、しかしこのまま逃がせばきっと取り返しのつかないことになる。
妓夫太郎は自分自身を冷静にすべく深い息をつき、の手を更に近くへと引き寄せた。梅を片腕で何とか支えている状況だ、これ以上はどうにも出来ない。先程から近寄ってきた時と同じように、二人して花火を見上げるような形に収まる。はそれ以上、逃げようとはしなかった。

「ちょっとの間で良い、前見て黙って聞いてろ」

失敗は出来ない、とにかく誤解の無いように思いを伝えなくてはならない。妓夫太郎は打ち上がる花火を睨むようにして言葉を紡ぐ。

「俺も、多分梅もなぁ。あの汚ぇ街の外では、生きていけねぇんじゃねぇかと思ってる」
「・・・」
「理由はわかるな?逆に、あの中でなら俺たちは食っていける。昔は無理でも今の俺たちならなぁ。それは多分、間違ってねぇと思う」

妓夫太郎と梅はとは違う。遊郭の外に出て自力で暮らしていけるほどの誇れる能力が無い。それは幼少の頃から努力を積み重ねてきたとの歴然とした差だ。
は外の世界に出るにあたり、妓夫太郎と、恐らくは梅もだろう、二人と一緒に行きたいと口にしかけた。現実的に考えて厳しいどころの話では無い筈だ。でさえ未だ夢としか語れない外での暮らしを、妓夫太郎と梅の兄妹が得られる可能性はほぼ無いに等しい。それが現実だ。
否定されたと感じ押し黙るの手を、妓夫太郎の左手が一度解放し、優しく握り直す。

「けど。今日は正直、夢見ちまったんだよなぁ」

がはっと息を呑んだような気配がした。こっちを見るなと念を押し、妓夫太郎は自嘲の笑みを薄く浮かべる。

「・・・妓夫太郎くん」
「梅が飢える心配無く元気で、が隣で笑ってて、誰も俺を怖がりも嘲りもしねぇ。柄にも無く考えた、こいつが幸せってやつかってなぁ」

今のままでは到底叶わない願いだ。夢に見るには甘やか過ぎる、遠過ぎる。しかし、妓夫太郎は既に幸せを知ってしまった。

「約束は出来ねぇ、途方も無さすぎる話だ」

に対し簡単にその約束は交わせない、あまりに厳しい道のりだ。しかし、それでも。

「けど、足掻いて足掻いて足掻き抜いて・・・万に一つの確率でも、そんな道が俺たちに許されたりしたらよぉ」

がそばにいたいと、そう望んでくれるのならば。がもし、こんな自分を信じてくれるのならば。どんなことでも足掻き続けたいのだと。

「その時に、まだお前の気が変わって無かったなら・・・連れて行けよ」

そばにいたいのは、自分の方なのだと。愚かな願いを許して欲しいのは、妓夫太郎の方なのだと。震えそうになる自身を鼓舞し、思いを口にした。

打ち上げ花火は上がり続ける。ドンと響く音が何度も響く。どれほど無言が続いた頃だろうか。の右手を握っていた妓夫太郎の左手に、そっと彼女のもう片方の手が添えられた。
ゆるゆると溶けていくような柔らかい感覚に、妓夫太郎が隣へと視線を移す。はやはり頬を赤くしたまま、緊張と嬉しさが入り混じったような瞳で妓夫太郎を見上げていた。

「それは・・・私のために頑張ってくれるって、自惚れても、良い・・・?」

極度の緊張からほんの少し潤んだ瞳で見上げられ、そんなことを言われてしまっては。妓夫太郎は脱力したように息を吐き出し、小さく表情を緩めた。

そんなこと、決まりきっている。何故こうまで、可愛いことを言ってくれるのか。いくらでも自惚れろ。遥か昔から、とうに彼女と妹以外は世界から締め出しているのだ。そんなことは口に出せないけれど。

「お前・・・俺らと違って頭良いんだからよぉ、それくらいはわかれよなぁ」

素直ではない言葉が口をついて出た。しかしそれでもは笑ってくれる。妓夫太郎の精一杯を理解してくれる。

「ふふっ、ごめん」
「ったく・・・ほら、花火見てろ。まだ終わりじゃねぇぞ」

打ち上げ花火は続く。改めて梅をしっかりと抱え直し、妓夫太郎の手との手が優しく絡み合った。



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