彼の妹と或る青年の密談



「こんばんは、良い夜だね」

相変わらず綺麗な顔をした青年がニコニコと笑っている。
切見世にいる女連中であればまず頬を赤らめ気をよくするところだろう。しかしこの美丈夫を胡散臭いと切り捨てることに迷いの無い梅には通じない。扉を叩かれ戸口を開け、この笑顔を目の当たりにした途端に舌打ちをひとつ。

「生憎だけど、知らない男は家に上げないわ」
「ふふふ、用心は大切だよね、感心感心。でも知らない男と呼ばれるのは少し傷付くなぁ」

俺とお嬢ちゃんの仲じゃないか、と嘯かれたことにも更なる舌打ちを重ね、梅は強引に扉を閉ざそうとする。帰りを待っているのはお前ではなく兄だとその苛立つ瞳が物語っていたが、碓氷はまるで気にしない様子で片手で扉を押さえてしまった。

「でもねお嬢ちゃん、今日の俺は客なんだ」
「はぁ?」
「女将さんにもちゃんと話はつけてあるよ、代金も先に支払ってある。勿論見習いのお嬢ちゃんには指一本触れないし、無理なお酌もしなくて良い、貢物もこの通り。ただ、お嬢ちゃんの時間を少し買うだけさ」

遊女見習いの梅は個人として客を取らない。遊郭で本格的に客を取れるのは齢十五からと定められており、それまでは稽古事を続けながら先輩遊女の座敷に出張して酒の世話等をする。顔見せをしておく意味合いもあった。

しかし今日この男はわざわざ金を支払い酌もさせず、土産物の菓子を手に見習い遊女の時間だけを買うと言う。怪しむ気持ちしか起きないが、今この瞬間も通りすがりの女たちが碓氷の姿に黄色い声を上げ始めている。ここにこのまま立たせておくのは厄介だった。

「あんた、何を企んでるわけ?」
「ふふ、今宵は恋を語らうには良い月夜だと思わないかい?」

まるで質問の答えになっていない。お前と恋を語らう気は無いと梅が眉間に大きな皺を寄せた。しかし碓氷は怯むことなくにんまりと笑うのだ。

「聞かせておくれよ。お嬢ちゃんの兄上殿と、素敵なお嬢さんの話を」

梅の脳裏に、祭の夜の光景が浮かんだ。




* * *



形だけのお座敷擬きだ。
梅は遠慮なく土産物の菓子に手をつけたが、あらかじめ半分を残し別の巾着に移し替えている。兄か、もしくはに取っておくのだろう。碓氷は小さな笑みを携えたまま長屋の中を見渡した。

いつかの雪の日に訪れた、町外れの物置小屋と比べれば確かに広い住まいだ。しかし、とっくに日の暮れた今もここの住人の片割れは帰ってくる気配が無い。

「今更だけれど、彼は帰りが遅いんだね。いつもこうなのかい?」
「お兄ちゃんがいるってわかってたら来なかった癖に白々しい奴ね。そうよ、お兄ちゃんは最近忙しいの」

妓夫太郎の帰りが遅い。つまりは取り立てで請け負う仕事件数を増やしているということだ。梅は強がっている様ではあるが、兄の帰りを待ち侘びていることははっきりと顔に書いてある。
わざわざ可愛い妹に淋しい思いをさせてまで、日中だけでも事足りる荒事仕事を無理に夜まで伸ばす理由とは。碓氷は自然な流れで疑問を口にした。

「忙しいのは結構なことだよね。でも不思議だなぁ。今の君たちの生活基準で言えば、無理に仕事を増やさなくても慎ましく生きていけるだけの基盤は十分整っていると思うけれど」

文句の付けようの無い正論に、元より淋しさに強張っていた梅の心が若干緩む。あんたなんかに関係無い。普段ならそう口をつくであろう言葉は出て来ず、再び脳裏にあの日の光景が浮かぶ。



『約束は出来ねぇ、途方も無さすぎる話だ。けど、足掻いて足掻いて足掻き抜いて・・・万に一つの確率でも、そんな道が俺たちに許されたりしたらよぉ。その時に、まだお前の気が変わって無かったなら・・・連れて行けよ』



「・・・お祭りの夜に、お姉ちゃんと約束をしたから」

記憶に色濃く残る兄の言葉の熱に導かれたように、梅はそう口にした。約束は出来ないと兄は言ったが、あれは女からすれば将来の約束そのものだ。兄はと梅との幸せを真剣に模索するためにまずはより多くの金を稼ごうとしているのだ。淋しさはひとまず置いておかなければならない。

「あれ?お嬢ちゃんは寝ていたんじゃなかった?」

ふとその言葉に梅は我に帰る。あの時のことは自分の胸にしまっておく筈が、何という失態だ。
本当は眠ってはいなかった。瞬間確かに眠ったが花火の音で覚醒し、しかし二人の空気を察して眠った振りを決め込んでいたのだ。まずい、兄やに知られてはまずい。
しかし何故あの日に梅が眠っていた筈だとこの男が知っているのか。梅は屈辱と怒りに目を見開き碓氷に怒鳴り散らした。

「そういうアンタこそ!何で知ってるのよ!」
「いやいや、少し離れて見守るって言ったよね。多分皆忘れていたとは思うけど。引率の責任者としては君たちから完全に目は離せなかったのだよ」
「だからって盗み聞きしたのね?!」
「密告するかい?お嬢ちゃんも同罪みたいだけど」

あの光景を見ていた、二人の会話を聞いていた、そして梅も眠ったふりをしていたならば同罪だと、飄々とこの男は告げる。

「ふふふ、それなら俺とお嬢ちゃんは共犯者だ。何でも打ち明け合える仲というのも素敵だね」
「ふざけないでよ!アタシはアンタなんかと素敵な仲にならないんだからねっ!!」
「それでそれで?祭の夜以降、お嬢ちゃんから見た御二方の進展具合はどうなのかな?」

ギリギリと歯を食いしばり梅が噛み付いても暖簾に腕押しだ。ワクワクと目を悪戯っぽく輝かせて話の先を促すこの男を追い払う術が思いつかない。悔しいことに、金を払い客として現れた時点で碓氷の勝ちなのだ。心の底から不本意ではあるが、腹を括るしか無い。地団駄を踏みたい気持ちをグッと堪え、梅はふんと顔を逸らす。
あの日から今日に至るまでの、二人の進展を聞きたいだなんて。

「・・・何も」
「え?」
「何も無いの、お兄ちゃんもお姉ちゃんも今まで通り。お兄ちゃんは前からアタシとお姉ちゃんにだけは優しいし、何も変わってないわ。強いて言うなら、お兄ちゃんが仕事の量を増やしたことくらい」

あの祭の夜から今日に至るまで、梅が大好きな二人の進展を期待しなかった筈が無い。しかし梅の目から見た二人の姿は、見事に何も変わらなかった。確かに妓夫太郎はに優しい。しかし梅にも優しい上にそれは以前から変わっていない。間近で聞いているだけでもどかしさに眠る振りの継続が難しかったほど、甘酸っぱいやり取りをしておいて。何も変わらないだなんて。

「意外だなぁ。あの会話を盗み聞いていたなら尚更、お嬢ちゃんならもっと二人の仲をどうにかしようと躍起になるかと思っていたよ」

碓氷が楽しげに笑いながらそう口にする。
悔しいことにその通りだ。の言う外の世界での暮らしはひとまず置いておくとしても、梅にとって妓夫太郎とが幸せになることは至上の喜びだ。あの屋台で冷やかされたようにいっそ夫婦になれば良い、お兄ちゃんと結婚してアタシの本当のお姉ちゃんになって、と。梅がそう言いさえすれば、きっとは悪い返事は出来ない筈なのだ、わかっている。
わかっているけれど。

「言えないわよ、余計なことなんて」

兄の背に負われて花火の響きを感じたあの夜。視界を閉ざしていたからこそ、二人の空気の熱さを強く感じた。が語ったこの前のこととやらに梅は覚えが無かったが、兄が彼女を褒め称え日ごろの感謝の言葉を述べた、それが心の底から幸福だったと告げるの言葉は、紛れも無く愛に満ち溢れていた。から妓夫太郎への気持ちが、確実に前とは違うものへと変化している証だった。

が妓夫太郎を想ってくれている。誰も良さを理解してくれない大好きな兄を、同じく大好きなが特別に想ってくれている。梅にとっても嬉しくない筈が無い。

「お姉ちゃんがあんなに勇気を振り絞って精一杯の気持ちを伝えてくれたのに、お兄ちゃんてば気の利いた台詞が出ないんだもの。アタシがお姉ちゃんならきっと苛々しちゃう」
「おや手厳しい。大好きなお兄さんのことなのに」
「アタシのお兄ちゃんは『お兄ちゃん』としては勿論最高よ!だけどお姉ちゃんのことに関しては、ここぞって時に弱いのよねぇ。正直、自分の気持ちをしっかり自覚してるのかも危ないわ。お姉ちゃんのこと本当に大事な癖に、大好きな癖に」



『それは・・・私のために頑張ってくれるって、自惚れても、良い・・・?』



があの震える声で告げた本意が、愛の言葉で無いなら何だと言うのか。それに対し兄が察しろと雑な返答をしてしまったことは、妹として見過ごせない事態だ。しかし、はそれを難無く受け入れる。

「でもそんなお兄ちゃんを、お姉ちゃんはわかってくれる。目を閉じててもわかったわ、お姉ちゃんが優しくお兄ちゃんを見つめてたことくらい」

いつか遊郭を出て共に暮らしたい。彼女が口にしたそれを途方も無い夢と諭しながらも、のためなら出来る限り足掻きたいと告げる。それが妓夫太郎に出来る精一杯の回答だと、は理解していた様だった。

女は商品、男の見栄や欲のため消費されるだけの人形。そんな遊郭に生きていながら、と妓夫太郎のやり取りは梅にとって眩しく切なく、そして甘やかな響きがした。

「愛の言葉をはっきり告げあった訳じゃない、でも間違いなく心はしっかり結ばれてる。素敵だなって思ったわ」

心の底から素敵だと、いつか必ず結ばれて欲しいと願った。そこで大人しく聞き手に専念している碓氷と目が合ってしまい、真面目に心境を吐露し過ぎてしまった恥ずかしさに梅は咄嗟に声を荒げる。

「勿論本当はお兄ちゃんに色々言いたいけどね!そこはもっとしっかりお姉ちゃんを捕まえなさいよとか、綺麗だとか好きだとかはっきり言葉にしなさいよとか、連れて行けじゃなくて俺がお前を攫うくらい言いなさいよとか、凄く良い雰囲気だったんだから勢いで唇奪いに行ったってきっと大丈夫だったのにとか!!本当、色々!」
「ふふふ、それは面白い。そんな積極的な彼なら是非見てみたいものだなぁ」
「だけど・・・お姉ちゃんがそうやってずっと待ってることを決めてるなら、アタシは余計なこと言わないの!ほら、これでいい?納得した?」

こんなつもりでは無かった。悪態をついて金だけ無駄にさせてやるつもりだったのに、気付けば必要以上に本音で喋り過ぎてしまった。梅は悔しさと気恥ずかしさに下唇を噛み締めた。するとそんな彼女の心境を見透かしたかのように、碓氷の細く長い指先が梅の頭へと伸びる。

「いやあ、お嬢ちゃんは十歳とはとても思えないほど大人なんだね、驚いたよ」
「ちょっと気安いわよ頭撫でないで!指一本触れないんじゃなかったの?!」
「おっと失礼、ついつい手が勝手に」

碓氷という男は不思議だ。気付いた時には既に切見世中の信頼を勝ち取り、と妓夫太郎と梅を取り巻く環境を変えてしまった。何が狙いかと思う程に周りへ良い顔を振り撒き、しかし見返りは求めず何かとたちを気にかける。の頭の良さに目を付けているのだろうと兄は言っていたが、梅が記憶する限りそれほど頻発にが連れ回されていることも無い。稀に調査とやらに同行させられても必ず護衛に妓夫太郎を指名するし、その度必要以上の給金を支払っているのだとも聞く。

胡散臭いという印象は何年経っても変わらない。しかし、気付けば間合いに潜り込まれているような、それでいてあちらからは何も危害は加えて来ないという不思議な男だ。

「そうかそうかぁ。それでは二人の恋物語の進展は今後も随分ゆっくりなんだろうねぇ・・・少し残念だな」

引っ掛かる言い方だった。怪訝そうな顔をする梅に、碓氷は少し困ったような笑みで答える。

「あと一月ほどでね、俺はここを去らなくてはならなくなったから」
「え・・・そうなの?」
「ここには随分長い間いたし、お嬢ちゃん達と話すのも楽しかったから名残惜しいが・・・雇われの身だからね、拠点を変えろと言われれば逆らえない」

突然の話だった。なんだかんだと長年に渡り遊郭の中に屯所を構えていた男がこの地を去る。思わず棘を無くしてしまう梅に、碓氷は微笑んだ末に姿勢を改めた。

「ここでの最後の仕事は、お嬢さんに協力依頼をしなくてはいけない。少し大掛かりな工程になりそうだから、数日こちらの屯所にお嬢さんを泊まり込みで借りることになると思う。間違いは起こり得ないけれど男世帯だし、用心棒としてお兄さんもね。あちらの女将さんにも勿論お願いに上がるつもりだけど。まずは今日、お嬢ちゃんにそのお願いをしに来たのだよ」

つまり、数日の間と妓夫太郎を借りたい、と。奉行所雇われの一団の長が、わざわざ梅のような子供のために。絆されそうになるのを手前で堪え、梅はふんと顔を背ける。と妓夫太郎の話は前談に過ぎなかったのではないか。

「アタシが嫌がったって、もう決まってる事なんでしょ?そこまで聞き分けの無い子供じゃないわ」

聞くところによると最後の大仕事なのだろう。梅が反対を唱えたところでどうにもならない事くらいはわかる。相変わらず態度自体は素直では無いが、梅が理解を示してくれたことに碓氷が微笑んだ。

「ふふふ、ありがとうお嬢ちゃん。二人に会いたくなったらあの宿に遊びに来てくれても構わないからね。勿論、俺に会いに来てくれるのも大歓迎さ」
「うるさいわね!アンタに会いに行くわけないでしょ!」

この軽口への応戦も、あと僅かで無くなる。何とも言えない気持ちを感じ、梅は腕を組んで碓氷を睨みつけた。この男は子供だからと梅を侮り過ぎではないだろうか。いつまでも聞き分けの無い子供だと思われているのなら大間違いだ。

「留守番くらい出来るし、大事なお仕事の邪魔だってしないわ。だけどお願いを聞いてあげるんだから、どんなお仕事くらいかは教えて貰えるんでしょうね?」



ああ、と碓氷はいつも通りに微笑んだ。



「探し物だよ。とても希少な植物を、探しているんだ」



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