青い彼岸花



「うぅー・・・」

大丈夫だろうか。
何度こうして心配しているのか、妓夫太郎はいつしか数えることをやめた。

文机に向かうの様子は、正直に言って普通では無い領域に片足を踏み込んでいる。筆を取り一心不乱に何かを書きつけたと思えば、次の瞬間には唸りながらその用紙を丸め投げ捨て、分厚過ぎる図鑑の頁をバラバラと慌しく捲っては顔を押し付ける勢いで凝視し、また筆を取り新たな紙屑を量産している。
いつぞや見かけた、静かに集中して妓夫太郎の来訪に暫く気付かなかった時とは明らかに程度が違う。

「んんん・・・っあああ!!駄目だぁ!!」

妓夫太郎がどこで止めに入るべきか真剣に悩んでいた頃合で、が奇声に近い大声を上げて活動を停止した。
文机にゴッと音を立てて額を打ち付けた様だが大丈夫なのか。妓夫太郎がそっと肩に手を置こうとした瞬間に彼女の頭が勢いよく持ち上がったものだから、往き何処を無くした手がびくりと強張る。
しかし今日のはそんな妓夫太郎を気遣うゆとりが何処にも無く、ばりばりと凄まじい勢いで髪を掻きむしりながら頭を抱えた。

「計算しても計算しても全然駄目!どうしてこんなに情報も候補も揃ってるのに・・・ぴったり条件が合う品種が、見つからないの・・・」

上手くいかない現状への悲鳴のような叫びから始まり、最後の方は消え入りそうな声がした。両腕で頭を抱え込んだはそれきり沈黙し、妓夫太郎は覚悟を決めてそっと彼女の肩に手を置く。
はよく頑張った。それは紛れもない事実だ。

・・・とりあえずなぁ、終わった事なんだからよぉ、落ち着け」

終わった事。妓夫太郎の言った通り、終わった事だ。

は数日前から宛てがわれたこの部屋にこもり、昼夜を問わず計算と照合に時間を費やした。今までに収集した植生の情報、様々な文献から割り出した条件、見たことの無い程の厚みの図鑑を見比べ、碓氷の最後の依頼である品種探しに応えようと必死だった。ぴったりと条件に合う場所は割り出せずとも、ここなら、ここなら、と祈るような思いで近い条件の場所の目録を出しては実動班の男たちに託し、残念な結果に落胆しては次の手を考えるような生活が続き、は目に見えて日々憔悴していった。

水も食事も最低限しか摂らず、眠る布団も最初は部屋の角に敷いていた筈がいつしか文机のすぐ横に移動させ仮眠程度でしか身体を休ませない。期限は昨日いっぱいだった。探すべき品種はついに見つからないまま、碓氷のこの拠点最後の仕事は終わりを迎えたのだった。
何故期限を過ぎて尚がこうして懸命になっているのか。それは最後にこの拠点から切見世へ送ると言われた時間まで、今暫く間があるためだ。期限は過ぎても最後の最後まで何とかしようと足掻く熱意は大したものだが、とうに限界を超えた状態のは恐らく頭もまともに働かない筈だ。

は全力を尽くした。それは碓氷も妓夫太郎も、この調査に関わった全ての者が認めているし、のこれまでの功績を讃える者はいても結果を出せなかったことを詰る輩は一人もいない。何とか顔を上げさせると、は大粒の涙をその瞳に溜めていた。

「碓氷さんに申し訳無い・・・申し訳無さ過ぎて顔向け出来ない、本当に色々お世話になったのに。何も返せないままお別れだなんて・・・」

申し訳ない。そればかりを繰り返し、拭っても拭っても溢れてくる涙を強引に擦り続けるの姿は大変痛ましく、妓夫太郎は彼女の華奢な背中を何度も撫でた。

「何もってことは無ぇだろうが。今までの調査でお前が纏めたすげぇ量の資料、次の拠点でも使えるから、全部運んで参考にするって碓氷も言ってただろぉ?」

碓氷は一切落胆の表情を見せることなく、逆にを励ました。
これだけ整えられた資料が山の様にあるのだから、気を取り直して次の拠点でも活かせる。の協力無しではここまで進むことも出来なかった、と。妓夫太郎もまた、を励ましたい一心で優しく背を撫でることを止めないし、思いつく限りの前向きな言葉を並べた。しかし、周りにどう言われようともの中で結果は変わらない。

碓氷の期待には応えられなかった。
青い彼岸花は、ついに見つからなかった。

「でも・・・これが見つからなかったら、今も病気が治らなくて苦しんでる人がいるって」

雇い主の大切な友人が、重篤な皮膚病に侵され命を危険に晒されている。それに対し有効とされている強力な薬の材料となる『青い彼岸花』を探したいのだ、碓氷はにそう告げた。
これまでに一般的な植物と並行して麻薬植物も繰り返し調査してきたため、此処ら周辺で人体に強い影響を齎す植物の情報はある程度揃っている。これと青い彼岸花に関する文献を照らし合わせ、生息地を割り出しては貰えないだろうか、と碓氷から頭を下げられ、は何としてもこの期待に応えなければと強い使命感を宿したのだった。

「太陽に当たれないくらい酷い皮膚病だなんて、辛いに決まってるよ・・・」
・・・」

陽光が差すと皮膚が焼け爛れ、即座に命を落としかねない程の病だと碓氷は言った。
が碓氷の期待に応えられないことは、その患者を救う道が遠退くことに直結する。未だ涙をはらはらと流しながらも彼女は文机を拳で叩き、自分を酷く責めた。

これまで碓氷に世話になった恩を返すことも出来ず、今も苦しむ皮膚病患者の助けとなることも叶わない。は心身共にボロボロの状態だった。

「私、これからもこの調査自分で続ける。私個人じゃ現地に行ける範囲は狭まっちゃうけど、今度は皮膚病の文献も併せて勉強する。もし見つけられた時はすぐに碓氷さんにお知らせできるように、文の届け先も聞いておく。絶対そうする。私やらなきゃ、時間がかかっても私が」
「おい、とにかく休め。顔色がやべぇことになってんぞ」

際限なく口を動かし続けるを、妓夫太郎が咄嗟に遮る。青を通り越し土色になった顔色とかさついた唇は、彼女がまるで別人の様になってしまったことの現れだ。結果を出せなかったという非情な現実が、を深く蝕んでいる。今は何を言っても恐らく届かないであろうことはよく理解した。ならばせめて、多少強引にでも彼女を休ませなくてはならない。妓夫太郎は諭す様にの肩を優しく摩った。

「迎えが来るまでまだ時間がある、ちょっとでも寝ろ。今の顔で梅に会ったら泣き出すぞあいつ」

ここ数日顔を見ていない梅の名前を出すと、は数秒間を置いた末に大人しく頷いた。事実、久々に会った彼女がこの様な状態では梅は悲鳴を上げるだろう。
それはにも理解出来たようで、すぐ側に敷きっぱなしになっていた布団に辿々しく横になり、妓夫太郎に背を向けた状態で膝を抱えて丸くなった。

「・・・ありがと、妓夫太郎くん」
「おぉ」
「自分のことも管理出来なくて、ごめんね」
「・・・」

これはどう考えても駄目だ。妓夫太郎は自分の失態を呪う。梅の名前を出せば何とかなるかと思ったが、逆に悪手だった様だ。はこちらに背を向け、無理に身体は横たえても眠ることはしないだろう。今の彼女はとにかく疲れ切っているのだ、こちらにまで気を遣わせてどうすると妓夫太郎は悩む。
背を向けているの様子を暫し眺め、今何が最良の手段かを考え、考え、考え抜いて―――

「・・・おい。頭上げろ」
「え・・・?」
「良いから、頭」

後ろから声をかけられたが不思議そうな顔をして振り返り、言われた通りに頭を持ち上げる。枕を抜き取られたと感じた次の瞬間、別のものが差し込まれる感覚。
え、と感じた時には胡座をかいた妓夫太郎の膝を枕に横たえられていた。呆気に取られて瞬きばかりを繰り返し、の視線が膝の主の方へと向く。

「寝心地は悪ぃだろうが文句言うなよなぁ」
「・・・妓夫太郎、くん?」

気まずそうな妓夫太郎と目が合った。その状態で掛け布団をしっかりの肩まで引き上げ、彼は戸惑いがちに彼女の髪に触れる。その手は優しくの頭を撫でていた。時には額を、時には耳の後ろを。一定の律動で行き来を繰り返すその指先は、例えようも無いほどに優しかった。

「とりあえず、あのままじゃお前は自己嫌悪で寝れねぇと踏んだが、違ったか?」
「・・・違わない、かな」
「だったらまだこっちの方が寝れる可能性あんだろ、梅も眠れねぇ時にたまにやってる」

妓夫太郎は梅の名前を出す時決まって優しくなる、言うまでも無く妹を心から大切にしているからだ。
そんな彼が、妹にしていることを同じようににもすると言う。ささくれ立った心から、棘が抜け落ちて行くような感覚。先ほどまでとは違った意味で鼻の奥がツンと疼くのを感じ、が表情を緩める。

「ふふ。そっかあ、梅ちゃんとお揃いかぁ」
「不服かよ」
「逆だよ、嬉しいの。わかってて言ってるでしょ」
「・・・どうだかなぁ」

がようやく笑った、それは妓夫太郎にとっても喜ばしいことだ。
普段は常に柔らかな笑みを浮かべているような彼女だったが、特にここ一日二日は追い詰められていたこともあり、ろくに目も合わなければ笑った顔など拝める筈も無かった。

今回は外へ探索に行く実動班では無かったが、男世帯で数日預かるからには信頼出来る護衛が必要だろうと妓夫太郎は指名された。碓氷の指揮する一団なのだ、不審な輩の侵入等は最後まで無かったが、擦り減っていくばかりのの傍にいることで妓夫太郎は自身の無力さを痛感してばかりの数日間だった。寝心地の悪い膝枕に抱え込むことくらいしか考えつかなかったが、が少しでも笑ってくれたならそれで良い。妓夫太郎の方が救われた様な気さえして、余計に丁寧に彼女の髪を梳いた。

「・・・妓夫太郎くん、内緒の話していい?」
「あぁ?どうした?」

頭を優しく撫でられる感覚に、は気持ち良さそうに瞳を閉じていた。目の端から伝う涙の跡を労わるように、妓夫太郎の空いた片手がなぞる。そんな時囁くような声で告げられた内緒話とやらに、続きを促したのはごく自然な流れだった。

「私ね。皮膚病なのは、お奉行様のご友人じゃなくて、碓氷さん本人じゃ無いかって思うの」

その刹那、痛いほどの静寂が二人を包んだ。

妓夫太郎は今が口にした内容を脳内で繰り返す。太陽のもとを歩けないほどの重い皮膚病を患っているのは、碓氷本人なのではないかと、はそう言った。
心臓がドクンと一際大きな音を立てた気がする。思いもよらない話に言葉を失う妓夫太郎に対し、彼女は声を潜めたまま続きを紡ぐ。

「確信は無いよ、ただ何となく。碓氷さんがそれを教えてくれないなら、確認するつもりも無いの」

何故そう思うのか、はそれを口にしなかった。更には碓氷にそれを確認する気も無いという。妓夫太郎は気付く、彼女が本当に伝えたいことはそういう事では無いのだと。

「だから、尚更ね。絶対見つけたいんだ、青い彼岸花」

碓氷が皮膚病を隠している、それ自体はにとって問題では無い。何故隠しているのか、ではなく、何とかして力になりたい、と言っているのだ。の目が開き、泣き腫らしたために充血した瞳と目が合う。
ああ、いつものが戻って来た。妓夫太郎は強くそう感じた。

「碓氷さんには本当にお世話になったもの。妓夫太郎くんは私の勉強の成果が碓氷さんを引き寄せたって言ってくれたけど、碓氷さんと知り合ってから、妓夫太郎くん達との楽しい思い出たくさん貰えたよ」

碓氷と出会ってから、彼の影響力により様々なことが形を変えた。は優れた知識力を認められたことにより勉強に励み易くなったし、妓夫太郎たち兄妹との交流も堂々と出来るようになった。碓氷が現れなければ、は何をするにも肩身の狭い思いと闘いながら日々を生きていたかもしれない。

「灯火祭だって、碓氷さんが色々お世話してくれなかったら、行けなかったお祭りだもの。感謝しても、し足りないよ・・・」

あの夜のことは忘れられる筈も無い。
誰も自分たちを蔑まず、好奇の目にも晒されず、暖かで陽気な大人たちに囲まれて過ごした夜。飢えの心配もなく好きなものを好きなだけ平らげ、穏やかな幸せに心から感謝した夜。そして、美しい花火を前に将来を改めて強く願った夜でもある。
碓氷がいなければ叶わなかったことが沢山ある。何とか力になりたい、はそう繰り返した。

「だから、これからも自分で・・・」
「あー・・・わかったよ、わかった」

妓夫太郎は根負けしたかのようにそう口にした。しょうがねぇと呟きながらも、その声と手のひらは堪らなく優しい。全てを甘やかすような指先が、の瞼をそっと閉ざした。

「調べ物で出歩く時は、俺が必ず守ってやる」
「・・・」
「だから安心して、今は休め」

出来ることであればいくらでも協力する、一人では背負わせはしない。だから安心して大丈夫だと告げるその声に、今も優しく頭を撫でるその指先に、の身体の力が少しずつ抜けていった。

「ありがと・・・妓夫太郎、くん」

心身ともに疲れ切っていたのだ。の意識は見る見る内に深い眠りへと沈んで行く。

「優しい、ね」

囁くようなその声が、途切れ。

「そういう、ところが・・・」

はそこで眠りについた。気になるところで途切れた言葉の続きは、想像出来なくも無いけれど。安心しきって寝顔を晒すには敵わない。妓夫太郎は優しくその頬を撫でた。




* * *



「ふふ。お嬢さんは相変わらず可愛いね」

を膝に寝かせている手前、咄嗟に飛び上がらなかった自分自身を褒めてやりたい。
妓夫太郎は音もなく部屋の隅に立っていた男を睨み付けた。

「っ・・・!!てめ、いつからそこに」
「しー、起こしちゃ可哀想だよ」

扉は閉ざしていた筈が、引戸の開閉する音はしなかった。気配もまるで無かった。しかし碓氷はいつもの調子で笑っている。妓夫太郎はを寝かせているため身動きが取れない。碓氷は二人から少し離れたところで歩みを止めた。

「改めてお疲れ様だったね、何日もお嬢ちゃんと引き離してしまって申し訳無かったよ」
「あぁ・・・こいつは結果を出せなかったって、すげぇ落ち込んでるがなぁ」
「うん、みたいだね」

確かに昨日の調査打切りの時点では憔悴しきっており、碓氷はそれを知っていた筈だ。それにしてもあまりに素早い同意、まるで今までの聞いていたかの様な速さ。妓夫太郎は眉間に皺を寄せて男に目を向けた。

「お嬢さんは十分に働いてくれたよ。君が庇ってくれたように、あの貴重な資料は全部次の拠点へ持ち込むよ。あんなに整理された資料、売られてる書物にだって無い筈だからねぇ」
「・・・相当前から聞いてやがったなぁ?」

音もなく気配も無く、流石にが寝るまでは扉の外にいたと、妓夫太郎自身の名誉のためにも信じたい。真偽はともかくとして、碓氷は妓夫太郎に睨まれたことに何ら怯むこともなく、気の毒そうな視線を二人に向けた。

「しかし、折角お嬢さんと同じ部屋で何日も寝泊まりさせてあげたのに。お嬢さんが忙し過ぎてときめきを楽しむどころでは無かっただろう、可哀想に」
「てめぇ・・・」

今回の任に就いた際、
『別の部屋にしても良いけど、お嬢さんが夜這いに遭ったりしたら意味無いんじゃないかな?眠る時も同じ部屋で守ってあげたまえよ、その方がお嬢さんも安心さ』
という碓氷の台詞に妓夫太郎は渋々、内心の焦りを隠しつつも頷いたのだ。
実際は指摘された通り同じ部屋の寝起きに動揺するゆとりも無い日々だったが、やはり面白がられていたのではないかとぎりぎりと歯を食い縛る。
兄妹揃って同じ悔しがり方をするんだなぁなどと一頻り楽しく微笑み、碓氷は改めて眠り続けているに目を移した。

「そうそう。俺たちが居なくなった後も、お嬢さんは個人的に調べてくれるんだって?」
「・・・こいつはこうと決めたら頑固だからなぁ。止めたって聞かねぇよ」
「正直とても有難いよ。お嬢さんが協力を継続してくれたら百人力だ。後で文の送り先を渡すよ」

感謝していると、これからも頼りにしたいと微笑む碓氷の声色はいつも通りだった。そしてその声色のまま、彼の目が妓夫太郎に向けられる。不自然な程に黒一色の瞳が、妓夫太郎を捉えていた。

「それで、君はどう思うんだい?」
「あぁ?」
「お嬢さんの推理だよ。俺は皮膚病か否か」

遂に来た、と妓夫太郎は身構える。これまでの話を聞いていたなら、皮膚病と碓氷の関わりについても聞かれていた事は当然の流れだ。

の推理は正直なところ考えたことの無い路線だったが、あれから妓夫太郎なりに考えた結論、あり得ない話ではないと納得も出来てしまった。
妓夫太郎はこの男と、太陽の下で顔を合わせたことが一度も無い。遊郭は夜の街だ、誰もが昼間に碓氷を見かけないことはなんら不自然なことではない。また、日中は奉行所の警護に当たっているため、拠点でありながら此処へはほとんど夜しか戻って来ないのだと聞いたこともある。そのため植生調査も夜間になってしまうことを心細かろうとに詫び、妓夫太郎を用心棒に雇ったのはこの男なのだ。
ごく稀に日中に顔を合わせたことが無い訳では無かったが、それは必ずと言って良い程日の差さない屋内であったり移動に使う籠の中だったことを思い返す。今この瞬間も、日光の当たりにくいこの部屋は一日中行燈を灯さねばならない有様だ。

見たところ病を患っているような独特な翳りは見受けられない。しかし碓氷が皮膚病患者本人である可能性は、の言う様に充分あり得る。今まさに碓氷本人から試されているようなこの状況は、妓夫太郎にいくつかの選択肢が準備されていることを示していた。問いただすことも、今ならば望めば可能だろう。不意に喉が渇くような感覚に襲われ、唾を呑む。
しかし次の瞬間、妓夫太郎は溜息と共に碓氷から目を逸らした。

「・・・俺がどう答えたところで、どうせ適当にはぐらかすんだろ」

真偽は恐らく明かされはしない、妓夫太郎はそう考えていた。
のように碓氷を信用し切っているかと言えば、そうとも言えず。しかしと同じように、彼が病を隠していたとしてそれを暴こうという気にもならなかった。
どの様な回答を用意したところで、煙に巻かれて終わるような確信めいたものがある。どちらにしても、がこの男への恩義で調査を続けることには変わりないのだ。ならば妓夫太郎はそれを支える、それだけのことだ。

「ふふ。正解がわからない方が、今後も色々考える楽しみが残るだろう?」

結論として否定も肯定もせず、碓氷は目を細めて笑った。
理由の無い息苦しさから解放されたような心地に、妓夫太郎は小さく舌打ちを返す。

相変わらず捉え所が無いと言うか、総括するとやはり胡散臭い男だ。約七年に渡りこの男には翻弄され、同時に世話にもなった。取り立ての仕事は、碓氷に連れられた見回りの実績が引き金になり発生したような物なのだから。気に入らないが、の言うようにこの男と出会わなければ、今の生活は少し違ったものになっていたかもしれない。そんな妓夫太郎の気持ちを、知ってか知らずか。

「お嬢さんは賢くて素晴らしい娘さんだ」

碓氷がそう口にした。言われずともわかり切っていることだ、は妓夫太郎たちと違う。培った知識を武器にはどんどん前へ進める、その力がある。しかし、それでも何とか共にいる未来を模索しようと―――

「この先の人生、ずっと隣にいるためにも・・・足掻いて足掻いて、足掻き抜かないとね」

考えていたことを言い当てられた、奇妙な違和感。否それよりも、覚えのある表現を使われはしなかっただろうか。妓夫太郎の頭があの夜の花火の場面へと一瞬飛ぶ。まさか。

「っおい、お前まさか・・・」
「ふふふ、動かない動かない。また後で迎えに来るから、それまでゆっくり眠らせてあげておくれ」

まさかあの晩近くにいたのでは、と。目に見えて動揺する妓夫太郎を可笑しそうに見つめ、碓氷は部屋を後にするべく出入り口に立った。扉を開き、外へと一歩進み出る。

「君は強くなったよ」

振り返りざま、そんな言葉を碓氷が口にした。あの日、を守るという勇敢さだけで拳を振り下ろした未熟な少年は、ここ数年で身も心も大きく成長した。今、想い人を膝に寝かせて身動きが取れないさまは、恐れられている外見と不釣合いに可愛らしくもあるけれど。

「まだまだ、俺とは格が違うけどね」
「っは、上等だ」

悪戯っぽく微笑み、碓氷は部屋を後にする。
こうしてこの日の夜の内に、彼が率いる一団は多くの人間に惜しまれながら遊郭を去った。


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