来年もその先も



今朝まではあった『暫し休みを頂きます』という貼り紙がいつの間にか剥がされ、中から灯がもれている。
幾度も訪れている小屋の前で立ち止まり、妓夫太郎は首を傾げた。

日も暮れた今、普段から客は受け入れていない時間のため閉店の札が出ている、それは良い。しかしは体調が悪い筈なので、休業の貼り紙が剥がされているのはおかしい。
妓夫太郎は怪訝な顔をして引戸を開け放った。同時に、摺鉢で作業をしていたと目が合う。まずいと察知したのだろう、彼女の顔がぎくりと強張った。

「おい、てめぇ・・・」

思いの外低い声が漏れ出す。妓夫太郎は明らかに気を悪くしていた。
は慌てた様に摺鉢から手を離し、焦るあまり三角巾をぽんと後方へ放り投げた末に両手をぶんぶんと振る。正直少し可愛い、しかしそんなことで誤魔化されはしないと妓夫太郎は威嚇するかの如く大きな音を立てて扉を閉めた。

「ま、待って妓夫太郎くん、怒らないで!」
「まだ大人しく寝てろって言っただろうが、おい、耳ついてんのかてめぇはよぉ・・・」
「そう言わないで、どうかご勘弁を・・・!」

が具合を悪くしたのは四日前の話だ。
遊郭から碓氷を見送り、それから半月ほど何事も無く薬草手配や勉強等に励み、そして突然限界が来たかのように倒れた。

発熱が酷く、本人もこれは休業せざるを得ないと悟った様で、弱りながらも早々に暫く休む旨の貼り紙を表に出したのだ。昨日見舞いに来た時点ではまだ熱もあったのだから、昨日の今日で急に良くなる可能性は低い。また無理をしてと憤りそうになる妓夫太郎と向かい合うべく、は困った顔をして正座で縮こまった。

「あのねっ、皆元気に年越したいから、薬草とか依頼が沢山で・・・今から準備しないと、年越しに間に合わなくて、えっと、私も熱下がったし本当に元気だから、その・・・」

どうか怒らないで欲しい、その一念で小さくなって許しを乞うの姿に、妓夫太郎の中の憤る感情は見る見る内に萎んでしまう。いまひとつ納得はいかない、しかしこれ以上を責め立てることは宜しくないこともわかる。
わざとらしく大きめな溜息を吐き出し、未だ正座で縮こまるのすぐ近くに屈み込んだ。額に手を当てて強引に顔を上げさせる。確かに、昨日までの様な明らかな発熱は感じられない。

「熱は・・・本当に無ぇんだな?」

探る様な声色に、今しがたまでの怒気は無い。は安堵したように表情を綻ばせた。

「うん、無い。声も普通に出るようになったし、食欲もちゃんと戻ったよ。妓夫太郎くんと梅ちゃんが家の方までお見舞いに通ってくれたお陰で一気に全快です、ありがとう」
「ったく・・・」

妓夫太郎を更に安心させようと、元気になった証を矢継ぎ早に口にする。そんなの姿にすっかり怒る気力を抜かれてしまい、まったくと浅い溜息をひとつ。
妓夫太郎の細く大きな手が、の頭に乗せられて。そのまま、ほんの少し雑に前髪を混ぜられる。

「無理はすんなよなぁ」

暫し唖然としたの瞳が、妓夫太郎の青い瞳と交差する。頭を撫でた手は心配してくれている。言い聞かせるような優しい口調も、自分を心配してくれている。違った意味で熱が上がりそうになるからやめて欲しいだなんて言えない。

「・・・うん、約束する」

やめて欲しいだなんて、思う筈も無い。は乱れた前髪を抑え、小さくはにかんだ。




* * *



妓夫太郎が初めてここを訪れたのは、毒に侵された幼い梅を担ぎ込んだあの日のことだ。それから約十年が経過し様々なことが変化するのと同様に、ここも随分と様変わりした。

当時は文机と本棚に薬草棚くらいしか目立たず広々としていたものだが、の行動範囲が広がるにつれ調合用品が増え、優秀なことが良い意味で広がるにつれ本棚の中身が増え、本格的な来客が増えるにつれ簡単な炊事が出来るような設備まで増えた。最早納屋の様だった面影は無く、十年かけて立派な仕事場へと変貌を遂げたと言えるだろう。
病み上がりだというのに温かいお茶を手際良く準備してしまうに何とも言えない顔を向けつつも、妓夫太郎は小さく礼を口にした後改めて屋内を見渡した。

「本、増えたなぁ」
「そうなんだ。結構大きな本棚なのにいまいち活用しきれて無かったから、最近はちゃんと活かせて嬉しいの」

気付いて貰えたことに対し、が少し嬉しそうに笑った。大きな本棚は種類豊富な厚さの書物で埋められている。背表紙の文字は、相変わらず妓夫太郎にはほとんど解読出来ない。しかし、が最近は医学書まで熱心に読み始めたことは本人から聞いて知っている。言わずもがな、青い彼岸花の発見及び皮膚病克服の方法を模索するためだ。相変わらず世話焼きならしく、忙しい合間を縫っては碓氷へ吉報をもたらせるようにと奔走している。
日々増える顧客に生活は安定している様であるし、親との関係も淡白であるらしいが以前と比べれば随分良い。これでもっと自身の疲労管理もきちんとしてくれれば、妓夫太郎も少しは安心出来るというものなのだが。

「・・・ん?なあに?」
「何でもねぇ」

こちらの気も知らず小首を傾げている呑気な様子に、妓夫太郎は小さく首を振り答える。
安心など恐らく出来はしない。相手はだ。放っておけばどこまでも走り続けるからくりの様な彼女を、必要な時に引き留め休息させる役回りがいればそれで良い。
願わくば、それが今後も自分の役割であり続けられることを祈るばかりだけれど。

「早いね、もう一年が終わりかけてる」

自分の分の茶に口を付け、がしみじみと呟いた。今年一年は何かと色々あり忙しかった。時が経つのを早く感じるのは妓夫太郎とに共通する思いだ。十年の付き合いを越えて、二人の関係になんら変化は無いけれど。

「ちょっと早いけど今年もありがとう、妓夫太郎くん。来年もその先も、よろしくね」

来年も、その先も。
その言葉に、妓夫太郎が暫し押し黙る。

まさか今日その時が来るとはまるで思っていなかったが、時期を見てに渡そうと思っていたものが、今懐に入っている。まさに今日購入したばかりの代物であるが、現場に居合わせた梅はこれを見越していたのだろうか、否まさか。しかし買った以上は、悩んだところでいずれその時は来るのだ。妓夫太郎は覚悟を決めた。

「・・・、手ぇ出せ」

素直に差し出されたその小さな手のひらに、若干の緊張を押し隠し用意したものを乗せる。彼女の黒い瞳が大きく見開かれるのを目の当たりにし、否応無しに妓夫太郎の心音が高まった。

「・・・妓夫太郎、くん。これ・・・」

の声が若干震えている。つられそうになるのを堪え、妓夫太郎は続けて告げる。

「梅に言われた。十年の節目にお前への感謝を形にしろって」

との友人付き合いは一体どれくらい前からなのかという妹の問いに、空白期間があるにしてもちょうどお前が生まれた年なので十年だと答えたことが始まりだった。
生活は幸い比較的安定しつつある上に碓氷からの報酬を抱えた今、絶好の機会なのだから絶対に贈り物をするべきだと熱弁され、妓夫太郎自身も多少考えた末に確かにと頷き今に至る。

青を基調とした、小さな簪。もっと派手で豪華な物もあった中、これを選んだ。それは簡素な造りだったが、あの祭の日に見たの着物の色を思い起こさせ。そして青は、によって生まれて初めて綺麗だと誉められた兄妹の瞳の色だ。に贈るならこれだと、吸い寄せられるようにそれを手に取り購入した。

それにしても、十年の節目と明かしたのは逆に気恥ずかしさを増しただけだったのではないだろうか。からの返答がそれきり無いことも相まって、妓夫太郎の頭の中は言い訳や逃げの言葉ばかりで埋め尽くされていく。

「俺に女物の善し悪しは正直わかんねぇから、気に入らねぇなら・・・」

しかし、それらは半分も言葉になることなく消え失せた。が泣いている。まるで自身の涙に気付いていないのではないかと疑うほど、大粒の涙をぼろぼろと零しながら贈り物を見つめていた。

「お、おい。・・・?」
「あ・・・ありがと、妓夫太郎、くん。すごく・・・すごく嬉しいっ・・・ずっと大事にする、本当に、ありがとう・・・!」

妓夫太郎が声をかけたことで、ようやく涙を拭って笑顔を作ろうとする。しかし、次から次へと何かが決壊したように溢れ出る涙に、動作がまるで追いついていない。やがてその手のひらは、慈しむように簪をその胸へと抱く形へ収まった。

「嬉し過ぎて、頭の中、追いつかないや」




『お兄ちゃん、殿方が女の人に簪を送る意味って知ってる?』

この贈り物に決めたと告げた際の、梅の言葉を思い出す。

『お前を必ず護る。あとは、一生添い遂げて欲しい、って意味があるらしいわ』

お姉ちゃんが知ってるかはわからないけどね、と意味ありげに妓夫太郎を見上げる梅の顔は、焦れったそうでいて真剣そのもので。この奔放な妹なりに兄を心配し、これでももっと言いたいことを我慢しているのかもしれず。

『・・・とりあえず、前半分な』
『んもうっ!!お兄ちゃんの意気地なしっ!』





が梅の言う簪の意味を知っているのかどうかは、正直なところわからない。結果的にこうして泣かせている状況は心苦しいが、妓夫太郎は言うべきことを伝えようと彼女の両肩を掴む。来年もその先もとが言ってくれるのならば、こちらも言わねばならないことがある。

。来年から俺よぉ、中心街でも仕事請け負えることになった」
「っえ・・・?」
「最近捌く件数を増やしてたせいか、この前なぁ、声かけられた。稼げる額も更に良い」

遊郭の中心街に来るような連中の取り立てだ、報酬も多いが恐らく危険度も増す。堅気の人間以外を相手にしなければならなくなる場面もあるだろう、これまで以上に荒っぽく、より強さを求められる筈だ。それ自体は妓夫太郎にとって問題ではないが、恐らく心配するであろうに今は明かさない。言いたいことはそこではないのだから。

「お前に比べりゃ大した進歩でもねぇんだろうが・・・俺なりに、まずはしっかり金を稼ぐつもりだ」

忙しくなるだろう、危険も増すだろう。しかしそれを引き換えにしても、欲しいものがある。

「・・・この先のことを足掻くにしても、先立つ物は必要だしなぁ」

この先のことを足掻く。その言葉に、の目が再度見開かれる。
否応無しに祭の夜のことが思い起こされている筈だ。あの時の誓いは、口先だけではないのだと知って欲しかった。

未だ未来は限り無く厳しい。それでも何とか道を模索するためには、まず金が必要だと感じていた。仕事量を増やしてみたところ、思わぬところからの依頼の道が開かれた。今はまだこれだけだ。しかし妓夫太郎なりに地道に前へ進もうとしていることを、知っておいて欲しかった。

「やるだけやってみる。だから・・・」

だから。その先の言葉が、どうしても出てこない。一緒にいたいのは妓夫太郎も同じ筈なのに、自分から口にするには途方も無さ過ぎる願いゆえに簡単には声にならない。

不意に、が前のめりに妓夫太郎の胸へと寄り掛かった。寄り掛かったというよりは、頭をこつんと当てた程度の接近だったかもしれない。未だ込み上げる涙で肩を小刻みに揺らす、小さな身体。
最近どうしたって身に染みる様に感じる、から自身へと向けられる友情以上の想い。こうしてその身を任せられ込み上げるのは、紛れも無い愛しさだ。妓夫太郎は困ったように目を伏せる。

「・・・泣くなよなぁ、ばぁか」

この小さな身体を力のままに抱き締め、思うままにしてしまいたい。しかし、妓夫太郎はの頭をそっと抱き寄せること以上は何も出来なかった。



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