人は彼を鬼と呼ぶ



江戸の街、茅川町は梅の花が咲き綻び、未だ残る寒さに晒されながらも人々は今日も活気付いている。
吐く息は薄らと白い、しかし春の到来を待ち侘びる町民達の明るさにより、この街を取り巻く空気はいつもどこか暖かい。

街中にある古い建物は、老夫婦が昔から営んでいる小さな薬屋である。薬草の取り扱いから生薬の加工まで精通したこの老夫婦は、近所の民からも好かれ日々様々な客を迎え入れている。
歴史を感じさせる古い暖簾を潜り、一人の娘が入ってきた。最近馴染みの顔となった娘だ。黒髪を綺麗にまとめ上げ、毎回必ず青い簪を差している。明るい挨拶の声が響いた。

「こんにちは!」
「まあまあ、ちゃん!」

あの日から二年が経過し、はすっかり年頃の娘へと成長を遂げた。
知識欲こそ、変わり者と謗られながら図鑑を抱え歩き回っていた幼少期と変わりは無いが、今や若き植物学者とも称されるほどの優れた才で有名な娘である。
良い噂が遂に遊郭の外へも波及し、顧客の拡大と共にの活動範囲は大きく広がった。薬草や薬品の仕入れのためにこうして遊郭の外、江戸の街へと出ることが容易に許されるようになったことは、ここ数年でにもたらされた嬉しい変化のひとつだ。

ちゃん、丁度今あんたの話をしてたところだよ」
「えっ?」
「この前知恵をくれただろう。飴に生姜や生薬を交ぜると良いだろうってなぁ」

彼女の来訪は、この店の老夫婦にとって暖かな楽しみそのものだ。
薬草に関する知識量がずば抜けたとの会話は時に唸らされることもある程充実していたし、若く新鮮な発想は老練な夫婦を楽しませる。何より明るく愛らしいと過ごす時間は、遠い昔に所帯を持ち遠方の地へ去ってしまった娘との日々を想起させた。今日も今日とて、老夫婦はを我が子のように歓迎する。

「作ってみたら大好評さ、ありがとうねぇ」
「本当ですか?ちょっと自信無かったんですけど、お役に立てたなら嬉しいです!」
「これ、ちゃんの分も作ったから持っていきなさい。今日も色々見ていくだろう?安くしておくよ」
「いつもありがとうございます、助かります」

の笑顔に老夫婦が微笑む、そんな暖かな空間。
暖簾の外には、彼女の護衛を務める男が腕を組んで佇んでいる。外出の際はいつもこうして、彼はの仕事の付き合いには踏み込まない位置で彼女を見守ることに徹していた。軒先から少し外れた場所でを待ち続け、暫し経った頃のこと。

「あの娘はどうだ?」

店の軒先を挟み、丁度逆側に屯する侍二人組の声が耳に入った。暖簾の隙間からを見つけたのだろう、鼻の下を伸ばし唇を歪めて笑っている。男の目が怒りに揺らめいた。

「ほぉ、なかなか悪くない」
「どれ、店から出てきたら声を」

声をかけてみるか。にやにやと得意げに笑っていた男達の言葉が、途切れた。
最初にを指した男の草履が、裂けている。
鋭い鎌が、鼻緒も草履も貫通し地面に刺さっているのだ。親指と人差し指の間の薄皮が破られ、ほんの僅かでも身を捩れば足の指を切るであろうことは一瞬で理解出来た。突然の恐怖に侍が身を硬くした、次の瞬間。

「あぁ。うっかり落としちまった。悪かったなぁ。けど、うっかりだからよぉ、許してくれよなぁ?」

侍たちの前に、男が立っていた。体躯は細身で上背も目立つ程は無いにも関わらず、まるで特別大型の熊を目の前にしたような威圧感と命の危険を感じさせる、そんな男だった。いつの間に間合いに入られたのかもわからず困惑する侍を他所に、気怠そうに屈み込み鎌を引き抜く。かなり際どい放物線を描き男の手に回収された鎌は、更に侍たちの恐怖心を煽った。

「ところでよぉ・・・」

地獄の底から響くような声だった。俯きがちだった男の血走った青い瞳が、殺意にも似た明確な敵意を宿して侍たちを射抜く。

「俺の連れに、何か用かぁ?」

妓夫太郎の鬼の如き形相に、侍たちは返す言葉も無く転がる様に駆け出した。









「妓夫太郎くん、おまたせ!」
「・・・おぉ」
「外寒かったよね、ごめんなさい」
「大したことねぇよ、これで終いなら帰るぞ。ほら、荷物寄越せ」
「ありがとう。今日はご飯作りに行くね」

今しがた繰り広げられた一方的な制圧劇など露知らず、用件を済ませて店から出てきたが、軒先に佇む妓夫太郎を見つけ嬉しそうに微笑んだ。今にも人を殺めそうだった空気は形を潜め、妓夫太郎はの抱えた荷物を当然のように持ってやっている。

談笑しながら去って行く二人の和やかな雰囲気に、痛い目に遭ったばかりの侍二人組は物陰で困惑に打ち震えるしかない。鎌で草履を割られた男に至っては腰を抜かした様だった。一部始終を見ていた近所の女が小さく噴き出してこう告げる。

「お侍さん、このへんの人じゃないね?命が惜しけりゃあの娘さんは手ぇ出しちゃいけないよ」

訳知り顔でにやりと笑い、女は続ける。がその分野の優秀な学者として有名ならば、妓夫太郎もまた別の意味で有名なのはこの地に住まう者でなければ知り得ない話だ。

「鬼の兄ちゃんて言えば、ここらで最近有名なんだよ」
「鬼だぁ?」
「例え話だよ、それくらい強面で腕っ節も強いのさ。ま、連れのお嬢ちゃん相手にゃあ大人しい猫みたいなもんだけどねぇ」

怖かっただろう?と畳み掛けられ、侍たちは甦る恐怖にぶるりと震え上がった。




* * *



妓夫太郎はあの夜に宣言した通り、年が明けると共に遊郭の中心街でも取り立ての仕事を始めた。

予め予想していたことではあったが、高額な遊女を相手にしようという男達の中で取り立て人に対し従順に降伏するような者は少なかった。だからと言って万一にも踏み倒される様なことは許されない、一度でも失敗すれば信用が地に失墜する仕事だ。妓夫太郎はより執拗に、より徹底的に、二度と同じ気を起こさない様対象を打ちのめすことにのみ注力した。
醜いと罵ってくるような人間を失神するまで殴り倒すことは、それほど苦では無い。怪我をする頻度が増したので、その度取り乱すを宥めることの方がよほど堪えたほどだ。

ともあれその容姿と確実な取り立て率が、妓夫太郎を遊郭の中でより恐ろしい存在へと昇華させた。金銭面は当初と比べ随分と潤ってきたように感じていたが、未来への漠然とした不安を前にしてはいくら手元にあったところで安心は出来ない気がしていた。
金があるのは最低条件。梅を連れてと共に外で生きるには、自分にはあらゆる物が欠けている。妓夫太郎はそう感じていたため、どれほど収入に余裕があっても梅の衣食を保たせること以外には金を遣おうとしなかった。

二年経ち身体は多少成長したが、纏う服は昔と変わらず薄汚れたままの姿だ。心配する妹には、これも自分を恐ろしく装うには好都合なのだと説明をした。このことでが妓夫太郎に口を出したことは無い。妓夫太郎の考えていることや思いを汲んでいるようで、時折洗濯や繕いをしてくれたが、それ以上のことは口にしなかった。

と妓夫太郎の関係も、簪を贈ったあの夜以降大きな変化は無い。梅を交えた三人で、家族のような関係をずっと続けている。
妓夫太郎はを幸せに出来る確信が無く、夢を叶えた彼女の隣にいられる自信も薄い。それゆえ自身の気持ちがはっきりしていようとも明確な言葉を告げられずにいたが、はそれすらも理解してくれている様だった。少なくとも、妓夫太郎はとの未来を諦めていない。それだけで十分だと言うように、いつも微笑み傍にいる。

言葉にせずともその黒い瞳が語ってくれる、とうに友情を超え熱を帯びた想いを。時折触れ合う彼女の指先が熱いことは、がこの様な自分を想ってくれているという奇跡は、途方も無い夢にもがく妓夫太郎を今日に至るまで支え続けている。こうして出掛ける度にあの簪を丁寧に挿し、幸せそうに笑うの顔を見ていると、全てを肯定されたような思いに堪らなく気持ちが満たされていく。は妓夫太郎にとって、幼い頃から眩しい存在だ。しかし今となっては、その光に縋らずにはいられない自分がいる。

幸せとは一体どんなものか、何も知らなかった頃にはもう戻れない。黙って待ってくれているの思いに報いる、妓夫太郎はこうして決意と不安の狭間を漂うように二年を生きてきたのだった。




* * *



今日の献立はどうしようか等とが話しかけてくる、平和な午後だ。帰路に着くため街中を並んで歩いていた最中、突如上がった悲鳴のような声に二人は足を止めた。
近くの橋の付近が騒がしい。を巻き込まないためにも面倒事を避けたい妓夫太郎だったが、彼女本人がそわそわと気にしているなら仕方がない。そう自身に言い聞かせ、妓夫太郎はの手を握る。

「離れんなよ、見に行くだけだ」
「うん・・・」

が必要以上に騒ぎを気にしている理由に気付けない妓夫太郎では無い。先ほどの悲鳴が、子供の声のように聞こえたせいだ。人集りが出来始めた中を二人して進む。離れないよう握った手が、の方から強く握りしめられている。
嫌な予感は的中した。

「どうしてくれるんだよぉ、一張羅が台無しじゃねぇか!」

男の恫喝する声に、がびくりと肩を揺らし足を止める。怒鳴り散らす男の足元に、子供が転がっていた。恐らくはぶつかってひっくり返ってしまったのか、水浸しの桶が落ちている。

「ご、ごめんなさい・・・」
「御免で済むなら世話無ぇわなぁ?おい、どう責任取るんだよ糞餓鬼。親がおめぇを売っ払ってもこれは償えるかわかんねぇぜ?」

男の着物の裾に、染みと豆腐の残骸のようなものが確認出来る。
二人がぶつかった時の状況はすぐにわかったが、男の方は明らかに酒に酔っている上、泣きじゃくる子供は手足に擦傷が出来ている。接触した後強引に突き飛ばされたのだろう、非道な現場にが息を呑む音が聞こえた気がした。
騒ぎにかけつけた大人は女性ばかりで、心配の声は上がっても割って入れるほどの度胸の持ち主はいない。問題の輩が背の高く強面な男であることも関係している様で、このままではあの子供がさらに理不尽にいたぶられるであろうことが予期された。

「・・・妓夫太郎くん」

面倒事は避けたい。しかし、がこうして懇願の瞳でこちらを見上げている。恐らくはも同じことを考えていただろうが、妹を持つ身としては子供が虐げられられる場面は気分が悪い。妓夫太郎の気持ちは決まった。

「・・・しょうがねぇなぁ」

預かっていた荷物を一時に返し、人集りの輪の中心へと妓夫太郎は歩みを進める。
自身より上背のある男だったが、難無く背後から肩を掴んだ。

「おい」

苛ついた声で振り返った男は次の句を告げることが叶わなかった。大きく振りかぶった妓夫太郎の拳が鼻に命中したためである。嫌な音がしたため骨が折れたかもしれないが、知ったことではない。
あまりの衝撃に男は仰け反ったが、勢い良く鼻から吹き出した鮮血が妓夫太郎の着物に付着した。これは好都合と言わんばかりに妓夫太郎の目が細められ、早速膝をついた男の胸倉を掴んだ。

「おっと・・・これお前の鼻血だなぁ。俺の一張羅も台無しになっちまったじゃねぇかよ、おい」
「ぐっ・・・鼻が、鼻がぁっ・・・!!」
「あぁ?見えねぇって?お前と違ってよぉ、こんなボロでも俺にとっちゃあ一張羅なんだよなぁ、お前にゃわからねぇか。けどやっちまったことには責任取らないといけねぇよなぁ、おい」

子供はが保護した、それは目の端で確認している。ならば後はこの害悪を追い払うだけである。掴んだ着物の生地は綺麗なものだ、たかが豆腐が掛かった程度で何を喚いているのか。
しかし、妓夫太郎はこの顛末がなかなかに面白いことに唇の端をにやりと上げた。この男、取り立てで自分と競おうとは良い度胸をしているではないか。

「なぁ、どうする?俺を相手に取り立て勝負なら、喜んで受けて立つぜ?」

お前があの子供から不当に取り立てるなら、お前からは一体何を取り立ててやろうか。不敵に笑う妓夫太郎の恐ろしさに、すっかり酔いの醒めた男は戦意を喪失しすごすごと退却した。張り合いが無ぇなと妓夫太郎が半目で溜息をつく。同時に、その場が拍手と歓喜の声に湧き返った。

「よっ!やるじゃないのさ鬼の兄ちゃん!」
「強いねぇ!さすが鬼の兄ちゃん!」

どさくさに紛れて群衆の中に男の声も聞こえてきた。男手があったんじゃねぇかと悪態をひとつ。更には聞き捨てならない単語に舌打ちもひとつ。
ここ最近そんな風に陰で呼ばれていることは妓夫太郎も承知していたが、遠慮なく本人へ呼びかけるとは一体どういう了見か。

「おいおい、人助けした見返りが鬼呼ばわりかよ、ふざけるなよなぁ」
「鬼じゃなくて、鬼みたいに強いって妓夫太郎くんを褒めてるんだよ。ふふ、確かにちょっと変わった呼び方だけど」

喝采の中に居心地悪そうに佇む妓夫太郎の元に、が駆け寄ってきた。彼女が可笑そうに笑ってそう言うのなら、納得してやらないことも無いけれど。そうして複雑な顔をしている妓夫太郎へ、不意に真剣な顔をしてが問う。

「怪我は無い?」

今の鮮やかな手腕を見ても尚そんなことを案じるのは、間違いなくくらいのものだろう。自分を誰だと思っているのか、あんな雑魚相手に擦り傷でも負う筈は無いだろうに。しかし、そうして強がる言葉すらこの真剣な瞳に射抜かれてしまえば封じられてしまう。

「・・・無ぇ」
「良かった」

安心した様に微笑むに、つられる様に妓夫太郎の表情も若干緩む。そんな時、の背後から小さな影が顔を出していることに妓夫太郎は気付いた。先ほどの子供である。持ち合わせの薬で手早くが処置したのであろう、擦傷は清潔な布で覆われ隠されていた。

「ありがと、鬼のお兄ちゃん!」
「・・・」
「姉ちゃんも、おくすりありがと!」
「良いんだよ、気をつけて帰ってね」

鬼の兄ちゃん。不穏な単語だが、この子供はきらきらと瞳を輝かせてそう口にした。
先ほど声を掛けてきた町民たちもまるで悪意の無い顔をしており、むしろ親密な様子だったことを思い出す。
まったく、遊郭から一歩外に出るだけで調子が狂うものだ。走り去る子供を見送り、が妓夫太郎に向き直った。

「私からもありがとう、妓夫太郎くん。あの子があれ以上怪我しなくて、本当に良かった」
「・・・おぉ」

厄介事など関わりたくない、その認識は今も変わらない。しかし、こうしてが願ったことならばいくらでも叶えてやりたい。結果的にが笑ってくれるなら、何だって構わないとすら思わされる。

「さ、帰ろう」

少し頬を赤くして、の方から手を握ってくる。人集りは既に散っており、今更手を繋がずとも逸れる心配は無い。しかし妓夫太郎はそれに応じ、繋いだ手とは逆の腕で再度彼女から荷物を奪い取ったのだった。

耳が赤いのは寒さのせいだ、春が待ち遠しい。



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