日向の訪問者
扱う薬草や調合材が増えた分、収納棚は幅を広げ高さを増した。基本的に踏み台を使えば手の届く範囲に、資料も引き出しも収まっているのだけれど。本当にごく稀に、取り出す際苦労する時がある。
まさしく今、棚の最上段最奥に欲しいものを見つけ、
は鼻息ひとつの気合いを入れた。踏み台が倒れないよう注意を払いながら、背伸びをして指先を目一杯伸ばす。
背中から腕まで筋がぴんと張るのを感じる、あと少し。片目を閉じてもうひと頑張り手を伸ばそうとした矢先、背後から伸びてきた腕によって目的の瓶が動いた。
「・・・これかぁ?」
妓夫太郎の声がすぐ耳元に聴こえ、
は暫し呆然としてしまう。踏み台を使っても際どい高さにあった瓶が、難無く妓夫太郎の手に収まり差し出されている。
は瓶を受け取り、支えようとしてくれる妓夫太郎の手を取った。
「う、うん・・・ありがと」
「俺がいる時くらいは声かけろよなぁ。言われた物取るくらいなら役に立てる」
ほんの一時目を離した隙にこれだ。妓夫太郎としては、それくらいは頼って貰わないと困ると言ったところだった。懸命に手を伸ばしている後ろ姿を、可愛いと感じたことも嘘ではないけれど。
ふと、妓夫太郎は神妙な顔でこちらを見上げる
の視線に気付いた。踏み台からは降りているものの、台を片付ける素振りも無い。
「・・・どうしたぁ?」
はぼんやりとした様子で妓夫太郎を見上げていた。
「妓夫太郎くん、今更だけどすっかり大人の体型なんだなって」
「はぁ?」
「背が高くなってたのはもう何年か前からだし、わかってはいたんだけど。なんか、こういう事があると実感するって言うか・・・」
それなりに高さのある踏み台だったのだ。先ほどの体制で視線の高さが合ったということは、今の妓夫太郎と
の身長差がこの踏み台分もあるということだ。わかってはいた事だけれど、衝撃だった。先程耳元すぐ近くに聞こえた声は低く掠れて、好いた欲目を差し引いても大人びて聞こえた。今
が両手で握り締めている瓶も、妓夫太郎の細くとも大きな手のひらなら片手で包みこめてしまう。
毎日のように一緒にいるせいであまり意識せずにいたけれど、同じ目線で話せていたのは遠い昔の話だ。不意に込み上げる不思議な淋しさと、日々大きくなる熱い気持ちに納得したかのように
が目を伏せる。
「そりゃあ、どんどん格好良くなる筈だよね」
無意識のうちに本音が漏れた。独り言にも満たないような、微かな音量だった。しかし内に秘めておきたい内容にしては、大きすぎる。
静まり返ってしまった空気に、
は我に返る。妓夫太郎が下唇を噛んで目を逸らしていた。見間違いで無ければ、耳が若干赤い。まさか。
「・・・今、私、」
「・・・」
沈黙は
の独り言が漏れていたことへの肯定だ。
妓夫太郎は確実に赤くなっていく
を前に、勘弁してくれと逃げ出したくなる気持ちを懸命に堪える。
神妙な顔で一体何を言い出すかと思えば、妓夫太郎の体型が大人になったという今更の感想で。自分たちの年齢を考えれば、それはそうだろうと返答しようとした次の瞬間、まさかの発言に頭を強く殴られたような衝撃を受けた。軽い調子ならうるせぇと誤魔化せたものを、あんなにもしみじみと、噛み締めるように告げるだなんて。そして今、声に出ていたことを悟り赤面して慌てるということは、あれが
の嘘偽りの無い本音だという証に他ならない。
いつかの祭の夜の様に、普段と違う装いへの褒め言葉ではない。更に昔に遡り、兄妹揃いの瞳の色への褒め言葉とも違う。日々の妓夫太郎のことを、格好良いと。痣や染みだらけで、外見の醜さで昔から虐げられてきたような自分が、そんなことを言われる日が来るだなんて。これが見ず知らずの人間からの言葉であれば強烈な皮肉としか受け取れないが、
の言葉となれば話は別だ。否、二人の間柄がただの友人だった頃なら違ったかもしれない。昔の
なら至って普通そうな顔をして同じことを口にしたかもしれない。
しかし、今の二人は同じようで昔とは違う。今彼女が目の前で羞恥に頬を赤らめる、その理由を妓夫太郎は察してしまっている。
好いた女からの外見への褒め言葉を受け止め、この様に気恥ずかしい思いをすることになるだなんて、自分の事とはとても信じられない。
「・・・
」
「は・・・はい」
しかし相手が
であれば信じてしまう、真に受けてしまう。余計に困ってしまうので、頼むからそう緊張して赤面しないで欲しい。妓夫太郎は深く息を吐き出した後、
の額に人差し指を押し当てた。今日くらいは多少ぐりぐりと乱暴に触れても許されるだろう。
は突然の指圧に目を白黒させている。
「・・・良いか、お前の目が悪いのはよくわかった。ついでに言うなら、そんなとんでもねぇ事を口にするのはこの世でお前一人くらいなもんだ。自分が変わり者って自覚しろよなぁ」
この気恥ずかしい空気を何とかしたいだけだ。
にいつも通り笑って欲しいだけだ。だから頼むから、この軽口も笑って受け流して欲しい。
「・・・なんたって俺は、江戸の町で鬼と呼ばれてるくらいの醜男なんだからよぉ」
妓夫太郎の、祈るような気持ちが通じたのだろうか。
数秒の空白の末に、
が噴き出す様に笑った。
「ふふっ・・・だから、それは違うってば」
緊張と気恥ずかしさに重く固まっていた空気が緩む、いつもの二人に戻れる。妓夫太郎が心底安堵したように息をつく、その次の瞬間。
外から扉を叩く音が響いた。
* * *
大き過ぎず控えめ過ぎずの音量で扉が叩かれ、何拍か置いた末に礼儀正しい挨拶の声が外から聞こえてくる。
「御免ください、
殿の仕事場はこちらで間違いないでしょうか」
「はい!どうぞお入りください!」
来客と知るや否や、
の表情は即仕事用のそれに切り替わる。
流石の反応だった。先程までの空気は解消できた上、これから来客ならば好都合だ。予定より少し早いが、妓夫太郎は今日の仕事へ向かうことにする。
「・・・じゃ、また来る」
「うん、お仕事気をつけてね」
「おぉ」
妓夫太郎が戸口を開けるより早く、外側から客が扉を開く。妓夫太郎や
と同世代だろうか、若い男だった。一礼をして入室するなり、すれ違おうとする妓夫太郎の顔を見て、その目を見開いた。
「あっ・・・あの!!」
の来客なら席を外そうとした筈が、その客に呼び止められたことで妓夫太郎の足が止まる。背丈は妓夫太郎より低く、
よりは高いくらいだろうか。興奮気味に見開かれた灰色の瞳が、妓夫太郎を見上げている。
「失礼ですが、鬼の御仁では・・・?」
空白にして、数拍はあっただろう。妓夫太郎は眉間に皺を寄せて男を睨み下した。
「・・・本当に失礼な奴だなぁ」
「えっ、あ!申し訳ない!お名前を存じ上げないもので・・・!」
牙を向いた妓夫太郎に対し、男はわたわたと慌てて弱ったように眉を下げた。そんな二人のやり取りに、
が笑う。妓夫太郎に対し、親しみを込めてそう呼ぶ町人たちを知っている。
「ふふ、茅川町の方ですか?」
からの助け船に大きく頷き、男は一歩下がった上で深く二人に頭を下げた。
「立花幸太郎と申します。先日お二人に助けていただきました、春男の兄です」
* * *
どうやら
への仕事の依頼ではなく、二人宛の個人的な来客だった様だ。
は手早くお茶の準備をして立花を迎え入れた。
妓夫太郎は予定通り立ち去ろうとしたが、
に引き留められ渋々といった様子で再度席につく。どうかお構い無くと立花は遠慮したが、自分も喉が渇いたのでお茶を是非ご一緒にと
が押し切った。
さり気なく
が妓夫太郎の名前を口にすることで、立花は目の前の男が鬼の御仁改め、妓夫太郎という名であることを理解した様だった。
「改めまして、先日は弟を助けていただきありがとうございました。弟の証言からお二人のことを町中聞き回っている内に時間が経ってしまい、こうして伺うのが遅くなってしまい申し訳ありませんでした」
「あっ、立花さん頭を上げてください!」
深く丁寧に頭を下げる立花に、
が慌てて顔を上げるよう促した。あの時の子供―――春男から『鬼のお兄ちゃん』の話を聞き、自ら聞き込みをして歩き、恐らくは馴染みの薬屋へ行き着いたのだろう、
がこの切見世に住んでいることを告げてあるのはあの老夫婦のみだ。遥々ここまで来るのも一苦労だった筈だ。
「妓夫太郎殿には男を撃退していただき、
殿には弟の手当まで・・・家族を代表して、御礼申し上げます」
あくまで低姿勢を貫く立花に、妓夫太郎は居心地悪そうに目を逸らす。妓夫太郎殿、だなんて畏まった呼び方は終ぞされたことが無かった。それも、相手は見るからに育ちの良い男だ。立花の顔を真っ直ぐ見ることなど出来はしなかった。
「・・・別に。
に頼まれたから手ぇ貸しただけだ」
「もう、妓夫太郎くんったら。弟さん・・・春男くんは、あれから怖い思いはしていませんか?傷も治りましたか?」
顔ごと露骨に他所を向く妓夫太郎をそっと嗜め、
が会話を繋ぐ。あの子供があれからどうしていたのかは、
も気にしていたのだ。家族が訪ねて来てくれたのは幸いだった。
「お陰様で、傷口はすぐに綺麗になりました。突然の処置だったでしょうに消毒も薬の塗り方も完璧で、噂は存じておりましたが本当に勉強になるなぁと・・・」
まずは春男の様子にひと安心だが、立花の気になる話し方に
が首を傾げる。まるで彼にも同じ心得があるような流れだ。立花は若干恥ずかしそうに頭を掻いてみせた。
「実は私も、薬草学の勉強をしているんです」
「まぁ。そうだったんですか・・・」
「
殿のように植物全般でもなく、優秀さもとても敵いませんが」
「いえいえ、私なんかはまだまだ・・・」
まさか同じ分野で勉強をしている同志に出会えるとは。更には先日助けた春男の兄だと言うのだから、これも何かの縁なのだろう。
は驚きつつも、褒められたことに謙遜を返した。
「それから男のことですが、実は酒に酔って暴れてばかりの困り者だったのですが・・・あれ以来、大人しいんです。よほど妓夫太郎殿の成敗が効いたのだろうと、皆喜んでいますよ」
立花は妓夫太郎に向かって改まった。あの男は鼻をへし折られたことが効いているとの事で、それは吉報と呼べる。制圧するからには二度とその気が起きないよう対処すべし。取り立て業も長くなってきた妓夫太郎にしてみれば、特別なことをしたつもりも無い。
「あんなくだらねぇ雑魚程度で困り者扱いだったのかよ。頼り無ぇにも程があんだろ、大丈夫かぁお前の町は」
「妓夫太郎くん」
「・・・」
しかし、会って間も無い立花を相手に、妓夫太郎が気の利いたことを言える筈も無く。結局のところ
に止められ、顔を背けてしまった。居心地が大変に悪い。通りすがりに子供を救って
の願いを叶えたことに後悔は無いが、こんな男など、気を悪くして早く出て行ってしまえば良いのだ。
妓夫太郎はそうして内心でも悪態をついたが、立花は違った。失礼とも取れる妓夫太郎の態度に気を悪くするでもなく、彼はただ穏やかに笑って見せた。
「春男はあれから、『鬼のお兄ちゃん』の話ばかりしています。見事な手際で助けて貰えてよほど感激したようで・・・私はあまり力が強くないものですから、憧れます」
何故だろう。その瞬間の立花の笑顔が、
の柔らかい笑みと被る。立花の言葉は、不思議とそれが嘘ではないと信じられるような響きをしていた。妓夫太郎と違い何不自由無さそうな立花が、妓夫太郎に憧れると言う。普通なら馬鹿にしているのかと掴みかかりたい所だが、そうした気も起きはしない。
「・・・そうかよ」
気付けば妓夫太郎は、
にそうする時のような返答を口にしていた。ようやく客人にまともな返答をしてくれたと
は笑顔になり、勿論立花本人も大変嬉しそうに笑ったのだった。