似通ったふたり
立花は一頻り礼を尽くした後、
の本棚に目を向けたかと思えば一冊の本に釘付けになった。
それは元々本として売られていた物ではなく、
が書き記した紙を一枚ずつ綴って製本した物だった。いかにも自作の背表紙と、異様な厚みが目を引いたのだろう。立花にしてみれば、
は同じ分野を学ぶ自分より遥かに優れた存在だ。そんな彼女の恐らく非売の著書だ、見たい、是非読みたい。これでもかと見開かれた瞳がそれを物語っており、
はそれを快く了承した。
おい、と妓夫太郎は難色を示したが、読むだけだからと彼女が言うならばそれ以上口は出せない。またしても深々と礼をした末、立花は部屋の隅で正座をして本を開き始めた。
念のため、何かおかしなことをされたら直ぐに大声を上げろと
に指示し、妓夫太郎は時間が来たために仕事へと向かった。
「・・・こいつ、まさか俺が出た時から同じ体勢じゃねぇだろうなぁ、おい」
仕事終わりに再度同じ光景を見ることになるとは。記憶のままの場所から動かず、体勢も崩さず。強いて言うならば頁が進んでいる事くらいだろうか。立花は妓夫太郎の入退室もまるで気付いておらず、熱心な姿勢を崩さずにいた。
仕事終わりの妓夫太郎が怪我をしていないか、いつも通りの確認をしながらも
が困ったように頬へ手を当てる。
「そのまさかなの」
「いつまで続ける気だぁ?もうとっくに日も暮れてるんだが」
「そうだよね。いくら何でも、そろそろ声かけなきゃ・・・」
熱心だなと感心し一時間、お茶を入れ替えても気付かれない事に更に感心し二時間、正座を崩す様声をかけても無反応なことを心配し三時間。以下、途方に暮れ始めたところに妓夫太郎が帰ってきてくれたのだ。
は安堵してはいたが、まるで解決には至らない。意を決したように立花の傍に腰を降ろし、彼女の手がそっと肩に伸ばされた。
「立花さん、立花さん」
「・・・」
「立花さん、そろそろお帰りにならないと、ご家族の方が心配されますよ」
「・・・」
最初はそっと触れただけ、次は更に優しく揺さぶりをかけたが、それでも無反応だ。これは彼女ではどうにも出来ないと判断し、妓夫太郎が前へと進み出た。
「・・・
、退いてろ」
「ありがとう。でも、あまり乱暴なことは・・・」
「しねぇよ」
手っ取り早く頭をぶん殴るつもりが、心配そうな制止の声が入ったために心得ているような顔で無かったことにする。念のため
には少しの間耳を塞ぐ様指示し、妓夫太郎は力の限り息を吸い込み、迷惑な男の耳元でありったけの大声を出した。
「おい!!!!」
目から星が飛び出すような衝撃が、立花を襲う。一瞬確実に魂が抜けたような顔をして、彼は現実へと帰還した。慌てたように瞬きを繰り返し、すぐ目の前で牙を剥く妓夫太郎に悲鳴を上げる。
「っ・・・?!ひぇ、妓夫太郎、殿」
「ひぇ、じゃねぇんだよ馬鹿が!とっとと帰りやがれ、
が困ってんだろうがぁ!」
「すみませんすみません!すぐ帰りますすみません!!」
比喩にしても的確なほど、妓夫太郎は鬼の形相である。
がいる手前胸ぐらは掴まないが、前のめりに睨み付ける圧は十分それに匹敵する迫力がある。立花は飛び上がって自身の荷を纏め始めた。読みかけの著書を目にし、
が優しく声をかける。
「それ、良ければ今日お貸ししますので」
「たっ・・・助かります!ありがとうございます!本当に素晴らしい情報ばかりで時間も足りず私の語彙力では表現できず」
「そりゃあ良かったなぁさっさと失せろぉ!」
「はいぃ大変失礼いたしました!」
へ感謝の言葉を、妓夫太郎へは謝罪の言葉を告げ、立花が去った。嵐が過ぎ去ったかのような静まり方に、
が小さく笑う。
「ふふっ・・・立花さん本当に凄い。あんなに集中力持たないよ、普通」
「お前にだけは言われたくねぇなぁ」
「え?」
不思議そうな顔をしている
の頭に、妓夫太郎の手がぽんと載せられた。没入型の知識欲とでも言うのだろうか、お前も大概だと告げると、
が照れたようにはにかんだ。
* * *
が所用で再び茅川町へと外出したのは、三日後のことだった。当然のように隣を歩く妓夫太郎は、用件を済ませた
の話に相槌を打ちつつ何気なく視線を彷徨わせたことを激しく後悔した。
何も見ていない、何も見なかった。そうして足早に
を促そうとしたところ。
「ねえ、妓夫太郎くん。あれって・・・」
「・・・」
間が悪いことに、
もまた妓夫太郎と同じものを見てしまった様だった。同じ者、と言った方が良いだろう。見知ったような、しかし様子のおかしな対向者に、
が妓夫太郎を見上げる。
出来れば関わりたくは無かったが、彼女がこれを無視出来るような性格をしていないことも熟知している手前、妓夫太郎は何も言えない。
「た、立花さん・・・?」
ふらふらと、そんな表現がしっくり来る彷徨い方をしていた男が、
の声に顔を上げる。
「!!!
殿!妓夫太郎殿も!」
弾かれたようにその顔は笑みを浮かべたが、目の下の隈は凄まじい濃さをしている上に顔色が奇妙に白い。
「先日は大変、大変お世話に・・・」
「!顔色が悪いです、大丈夫ですか?」
当然のことながら
は立花を案じて眉を下げたが、妓夫太郎は予感めいたものを感じ腕を組む。脳裏に浮かんでいたのは、碓氷の拠点で頭を掻きむしっていた
の姿だ。そのやつれた姿が、今目の前にいる立花と被る。
「おい。てめぇまさかとは思うが・・・」
何故言いたいことが通じたのかはわからない。しかし、立花は妓夫太郎の言わんとしていることに満足気な笑みを浮かべて親指を立てて見せた。
「ふ。ふふふ。持ち帰ってから丸二日以上もかかってしまいましたが、ようやく読破、です」
「えっその間ちゃんと食事や睡眠は・・・」
「寝たような寝ていないような・・・まさに寝食を忘れるほど、充実の時間だったのですよ・・・」
誇らしげな顔をしているが、どう見ても身体はボロボロである。間違いない、この男は
と同じ種類の探求者だ。一度頭が学びの方向に切り替わると、完全に周りが見えなくなる人間なのだ。恐らくひと段落の末、思い出したかのように日光を浴びに町へ出てきたと言ったところだろう。妓夫太郎は恐るべき既視感に眉を顰め、
は心配そうな顔をするばかりだ。すると、立花が名案を思い付いたかのように手を打つ。
「あの・・・お二人にお時間があればのお話ですが。もし宜しければ、狭いですが我が家へどうぞ。本もお返ししたいですし、春男も喜びます」
* * *
そこからの展開は、妓夫太郎にとって大変に疲れることの連続だった。
まず立花家で予定外の客人を迎えた春男が、妓夫太郎という英雄的存在の訪問にはしゃぎ回った。本物の鬼のお兄ちゃんが来てくれたと、自分を軸に永遠に走り回り続ける子供の構図には妓夫太郎も頭を抱えたものだ。
にはちらと目を向け手を振った程度で、妓夫太郎に対してのみ尻尾を全力で振るかの如く喜びを体現する春男には、大層調子を狂わされたものだ。梅ですら、妓夫太郎と
が二人揃った時の好き好きと表現する割合は五分、否、
の方が高い程なのだ。
子供相手にここまではっきりと一番の称号を掲げられた経験は乏しく、妓夫太郎は慣れるまで結構な時間を有した。
「すみませんね、重くはないですか?」
短時間で一日分はしゃいだ反動か、春男は妓夫太郎の膝の上でひっくり返るように眠ってしまった。見事に腹を丸出しにし安心しきっている弟の姿に、立花は苦笑して掛け物を持ってきた様だった。
「・・・別に。そこまでヤワじゃねぇ」
「子供の扱い、もしかして慣れてますか?」
「妹が・・・いるからなぁ」
「妹さん!それは是非お会いしたいものです」
「・・・」
それは止めておいた方が良い、そう言いかけて咄嗟に口を閉ざす。明らかに喋り過ぎた。妓夫太郎は眉間に皺を寄せて小さく息を吐いた。春男の影響も勿論あるのだろうが、この立花という男にも調子を狂わされている。
妓夫太郎が黙ったことを違った意味に解釈したらしく、立花は穏やかに笑いながら妓夫太郎へと茶を勧めてくる。
「すみません、あの部屋それほど広くない上にあの通り散らかっているもので・・・基本的に、定員は一人なんです」
妓夫太郎が本調子でない理由のひとつがこれだった。
が同じ空間にいない。
彼女は今、立花の『研究部屋』とやらに籠り、見たことの無い文献を読み漁っているのだ。本人の申告通り、片付いているとは言い難い狭い部屋だった。しかし、高く積まれた本や所狭しと並んだ調合道具は
の興味本能を強烈に引いたようで、吸い寄せられるように部屋の中へと姿を埋めた。まったく、
も立花をまるで笑えない。
「
さんの様子を見に行かれるなら、春男も受け取りますから。家の中はご自由に歩き回っていただいて結構ですよ」
そうして警戒心の欠片も無く穏やかにほほえんでいる。妓夫太郎は言おうか言うまいか迷った末に、こう告げた。
「・・・お前、何か企んでるかぁ?」
「はい?」
「・・・いや、何でも無ぇ」
認めてしまうのは妙に癪な気もしたが、
と立花は似ているのだ。研究に没頭しがちな点だけでなく、纏う空気感が似ている。だからこそこうして、いらない事まで口にしてしまう妓夫太郎がいる。
不本意ながら、まるで
を相手にしているような返答をしてしまう時がある。
と根が似た人間であれば、何か打算があって近付いて来たという事は恐らく無いだろう。妓夫太郎はそうして自分の発言を取り消したが、立花の方はそうでも無かった様で、そわそわと手を揉み出した。
「あ、あの。妓夫太郎殿が心配される様なことは何も・・・。お二人のことは、承知しておりますので」
「あぁ?」
二人の間には誤解がある様だった。しかし、立花はあらぬ疑いを否定するかの様に言葉を紡ぐ。
「今日はこうしてお二人なのでお招きした次第です、
殿お一人の時は控えます・・・あ、そもそもいつもお二人は一緒でしたね。
殿が一人で歩かれているのは、見たことが無いので」
家に招き急速に距離を縮めたことを、別の意味で疑われたと解釈したのだろう。立花はそう言って微笑んだ。
しかし、妓夫太郎は違和感を見逃さない。
「・・・お前、俺達を知ったのはこの前が初めてじゃねぇな?」
いつも一緒だと。それは、以前から
を見ていたような話振りだった。
妓夫太郎に言われたことを、立花は脳内で反芻する。素直に頭を下げるまでに、そう時間はかからなかった。
「・・・すみません。一方的にですが、何度かお顔は拝見していました。お名前やお住まいまでは存じていなかったので、弟の件をきっかけに色々聞いて回ったのは本当ですが」
立花が初めて
を見かけたのは、薬屋の店内だった。店から出ようとした立花と、入れ違いに入店した
はすれ違った。見ない顔だ、と意識したのが始まりだったと言える。
「素敵な女性だな、とは思っていました。同じ学問を勉強していて、私とそう年も変わらないのにずば抜けた知識をお持ちだと有名でしたし」
これには妓夫太郎が僅かに身を硬くした。しかし、立花はそれも見越したかのように小さく手を振って答える。安心して欲しいと柔らかく笑う、その笑い方すら
と似ている気がした。
「いつも隣に貴方がいて、大切に守られている
殿を見ていました。妓夫太郎殿の隣で笑う
殿は本当に幸せそうで、鬼なんて呼ばれる妓夫太郎殿も、
殿と話す時はとても優しいお顔をされています。他人の私にも、それくらいはわかっていました」
春男の件があり、直接の知り合いになれたことは立花にとって喜ばしいことだった。しかしそれは、邪な気持ちではなく、何かと有名な二人とお近付きになれたという単純な喜びだ。
を素敵だと感じたことは否定しない、否定出来ない。しかし、妓夫太郎と二人だからこそ余計に彼女は暖かく映るのだと、それは知り合う前から承知していたことなのだから。立花は心配無用と胸をはり、幾分か緊張を緩めた様子の妓夫太郎に笑いかける。
「なので、何の企みも無いのですよ。安心してください、恋仲のお二人に無粋な真似などとても・・・」
「・・・恋仲じゃねぇけどな」
しまった。またしても喋り過ぎたことに妓夫太郎がまずいと顔を顰めたが、立花は暫し唖然と口を半開きにしてしまう。まさか、そんな馬鹿な。しかし、こうして妓夫太郎から話を聞けることは、立花にとっては嬉しいことに他ならない。まるで友人が一人増えたような興奮感に、ずいと距離を詰めた。
「・・・えぇ?ちょっとそれ詳しく」
「近ぇんだよ馬鹿が離れろぉ・・・」
「どういう事なんです?だってどこからどう見てもお二人は相思相愛の間柄では」
「だから近ぇってんだよ・・・!」
膝の上の春男は、起きる素振りも無く幸せそうに寝息を立てている。憧れの鬼のお兄ちゃんと、夢の中でも楽し気に遊んでいるようだった。