こうして少年少女は前へ進む



切見世の広くは無い通りを、一人の少女が歩いている。彼女が幼い頃こそ髪の色を気味悪く言う輩もいたものだが、今となってはこの子供離れした美しさに気圧され、また虜になる者も少なくはない。白く美しい髪を風に靡かせ颯爽と歩くさまは堂々としたものだ。月日は流れ、梅は今年齢十歳となった。

「あら白梅ちゃん、今日もちゃんのところかい?」
「おばさん。そうだけど?」

白梅ちゃんというのは彼女の愛称である。顔馴染みになると親しみを込めてそう呼ぶ者が多かった。昔は散々気味悪いと馬鹿にしておきながら何様だという気持ちも勿論ある。しかし、愛想良く振る舞うことには利点があることを梅は理解していた。

ちゃんとお食べ。この前作って貰った薬が腰にとっても良くてねぇ」
「ありがと!お姉ちゃんにも伝えておくね」

差し出された焼き芋を抱え、梅は他所行きのにこやかな笑みを作り応えた。愛想良くするだけで貢物を貰えると学んだのはここ数年の話だが、意識さえすれば簡単なことだった。今の女にも、の薬が効かない筈が無いだろう彼女を誰だと思っていると、内心毒を吐きはしても表面に出さなければ良くして貰えるのだ。
何とも思っていない相手なら、いくらでも演じて騙してみせる。その上自分は美しいのだから、今は見習いでも遊女は案外天職かもしれない。十歳とは思えぬことを頭に思い描いていると、梅の足は目的地の前で止まった。隣の区画を取り仕切る女将の店、そこから少し離れた場所に建つ小さな小屋。念のため中の様子に耳をすませたが、来客の様子は無い。自然と肩の力が抜け、頬が緩むのを感じながら梅は扉を開け放った。

「お姉ちゃーん!!」

摺鉢の音と独特な薬草の香りも慣れたものだ。三角巾で髪を纏めているが、作業のため落としていた視線を上げる。そして梅の姿を認め、優しく微笑んでくれる。梅はいつもこの瞬間がたまらなく好きだった。

「梅ちゃん、お稽古終わったの?」
「終わったよー疲れたぁ!!」

履き物を放り飛び込むと、心得ているように膝を空けてくれる。梅は腕に抱えた焼き芋を手早く文机に置くと、迷い無くの膝を枕に滑り込んだ。外向き用の仮面を取り去り、自分らしく好きに甘えさせて貰える至福の時間。梅は堪らない多幸感にうっとりと目を閉じた。

「この焼き芋は?」
「向かいのおばさんから。お姉ちゃんの薬が腰に効いたって。お姉ちゃんは天才!私の自慢なんだから!」
「ふふ、褒めてくれるの?ありがとう」

額のあたりを優しく撫でると、くすぐったそうに身を捩る。何年一瞬に過ごしても色褪せることの無い愛おしさに、は目を細めて笑った。血の繋がりが無くとも、自分を姉と慕ってくれる小さな幼子。そう思っていたけれど、いつの間にか大きくなったものだ。最近では芸事の稽古に通い始め、外では背伸びをして大人びた素振りをしている様だけれど。こうして遠慮なく甘えて貰えることも姉と呼ばれている特権の様で嬉しい。ふとが戸口に目を向けて、小さく笑う。梅が閉じきらなかった扉の隙間から、入るタイミングを見計らいうろうろと彷徨う影が見えた。

「嬉しいけど、梅ちゃんの自慢は他にもある筈よね?」

なりの合図がすんなり伝わったのだろう。扉が再び開き、外にいた男が中に入ってきた。梅の兄、妓夫太郎である。今度こそ扉をしっかりと閉め、仕事道具の鎌を収めて部屋の主と妹へ小さく手を挙げた。自慢の兄と自負してしまったようで若干照れ臭そうではあったが、梅の嬉しそうな顔を見てしまえばそれも吹き飛ぶ様だった。

「お兄ちゃん!お仕事終わったのぉ?」
「ああ、今しがたなぁ」

梅が随分大きくなったように、妓夫太郎もまたここ数年で背を伸ばした。同年代の男たちよりは格段に華奢で猫背ではあるが、それでもとの体格差は歴然だ。目線が同じ高さだったのは遠い昔、すっかり頼もしくなった妓夫太郎の姿には未だ慣れきっていないであった。彼は最近始めた取り立ての仕事をしている。稼ぎはそこそこ良いらしいが、荒事のため怪我が付き物だ。いつもの調子で世話を焼こうと、は膝から動かない梅に優しく問いかける。

「妓夫太郎くん、お疲れ様。梅ちゃん、ちょっと良いかな?」
「えーっ?」
「あー、動くな動くなぁ。機嫌損ねると面倒だぞぉ」
「お兄ちゃんひどーい!わかったわよぉ退いてあげる!」

感謝してよね、と少々怒った素振りを見せながらも梅は上機嫌だ。自分がを独占することと同じほどに、彼女が兄の世話を焼く姿を見るのが好きだったからだ。街中ではその容姿から近寄ることすら恐れられている兄だったが、に怪我の確認や土汚れを拭かれてたじろいでいる姿は、むしろ愛らしいとすら思える程だった。

「おい梅ぇ、なにニヤニヤしてやがる」
「別にー?お兄ちゃんは幸せ者だなあって」
「うるせぇぞ」
「梅ちゃん、妓夫太郎くんと一緒に戴いた焼き芋食べようか」
「食べるー!」



* * *



妓夫太郎と梅、そしての三人は変わることなく家族の様な良好な関係を築き続けていたが、ここ数年で変わったことも勿論ある。

まず、妓夫太郎と梅の住まいが元の長屋の一角に戻った。これは梅が遊女見習いとして名乗りを上げたことがきっかけの出来事だった。本来この区画で住まいを保証されるのは本格的に客を取れる遊女とその家族であり、梅は見習いとなっても五年以上早い話ではあったが、既に十歳手前の時点で美しさを発揮し始めていた彼女の将来性を女将が見込み、先行投資と銘打ち住まいと稽古場に通う手筈を整えたのだった。
妓夫太郎とが精一杯日銭を稼ぎ暮らした町外れの物置小屋は狭いながらに邪魔の入らぬ良い家ではあったが、雨風すらまともに凌げない暮らしには限度があった。梅に苦労を強いることは妓夫太郎もも当然望みはしなかったが、よく考えた上で決めたのだと決意表明をする梅の成長した姿に涙ぐんだ二人はそれ以上何も言わなくなった。

次にの周りを取り巻く環境であるが、こちらも大きく変わったと言える。の母は隣の区画を取り仕切る女将であったが、娘の勉強意欲に理解が薄く、更には悪い意味で有名な妓夫太郎たち兄妹と関わることを良く思っていなかった。それに対しが反発を続けたため親子関係は悪化の一途を辿るばかりだったのだが、これに外からの力が加わることで思いもよらぬ化学反応が起こることとなった。
七年前に麻薬犯罪者の一件で知り合った青年、碓氷の存在である。奉行所雇われの一団の長という肩書きを持ち外見と物腰の良い碓氷は、ほんの一月の内に切見世中の女将連中の信頼を勝ち得るに至った。無償で夜間の見回りを実施したことで切見世の治安は良くなり、困り事への相談にも喜んで応じる若き好青年である。女将たちは揃って気分を良くしたし、の母も例外では無かった。
遊郭中心街に屯所を構える碓氷は実に巧妙に彼女の女将としての手腕を褒め称え、更にはの植物学の知識量すら母である彼女の教育の賜物だと説いた。植生調査の際には是非欲しい才能だと口説けば、是非連れて行けと娘の背を押した程だ。は格段に勉学に励み易い環境を手に入れた。
驚くべきことに、碓氷は妓夫太郎の評価すら簡単に操作して見せた。

『彼はね、天賦の才を持っていますよ。子供とは思えない身体能力と大人顔負けの粘り強さがあります。荒事なら誰にも負けないんじゃないですか?あ。そういう逸話、既に持ってますよね?女将さんがご存じ無い筈無いですね、大変失礼しました。ただね、貧困がその才能を陰らせている。然るべき場所で、然るべき環境さえ与えて育てられればまるで違ったでしょうに・・・世の中の歪みですよ。俺は彼のような子供にこそ、積極的に色々な機会を与えるべきだと考えています。その点、御息女は大変人を見る目に長けていますね、幼い頃から彼の良さを見極めている。流石、良い教育を受けて育ったお嬢さんは違いますね』

といった長台詞をサラリと披露し、の母から表立って妓夫太郎を忌み嫌う選択肢を抜き取ってしまった。以来は妓夫太郎との交友関係には一切口を出してこない。梅がここらで最も美しい娘だと評判になってからは、三人揃っての納屋に籠ることにさえ容認されるようになった。これは大きな進歩である。三人がの住まいの方で和やかなひと時を過ごせるだなんて、昔なら考えられなかったことだ。
に関することとしてもうひとつ、薬草の優秀な調合師として本格的に名が広がり始めたことも挙げられる。近所の住民は勿論のこと、遊郭の中心街からもわざわざ足を運ぶ者が現れる時もある程だ。対価も最小限の要求しかしないことも良い評価に繋がっているのだろう。は日々学び、それを発揮し、自立の道を歩み始めていた。

最後に妓夫太郎の仕事のことであるが、こちらもきっかけは碓氷だった。日中は奉行所周りの警護があるとかで、彼らが遊郭を見回るのは店の活性化する夜に限られていたが、その見回りに妓夫太郎は度々連れて行かれたのだ。見聞を広めるのは悪くないことだと碓氷は笑っていたが、必要な場面では妓夫太郎に実戦での稽古のようなこともさせていたと言う。
筋が良いと褒められる度に妓夫太郎は碓氷との力量差を指摘されているような劣等感を抱いたが、見回りに同行したり実際に荒事対応をしている現場を切見世中に見せて回ったようなものなのだ、正式に取り立ての仕事を依頼されるようになるまでに、そう時間はかからなかった。
は妓夫太郎一人で荒事仕事をすることに心配そうな顔をしたが、仕事後は怪我の確認と手当てをさせて欲しいという条件のもと、渋々納得をした。妓夫太郎としては、稼げる上に鍛錬代わりにもなるこの仕事こそ、待ち焦がれていたものだと確信していた。何事も不足な点ばかりで焦っていたいつかの自分に、ようやく決別する時が来たと前向きに日々働いている。

こうして三人はそれぞれの道を歩み始めながらも、変わることの無い親愛を育み支え合い、前を向いて生きている。
いつまでもこうしていたい。
それは三人に共通する切なる願いだった。



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