或る雪の日に



「おねえちゃん、こないね」

今日は随分と静かだと感じた答えが、そこにあった。
妹の一言に笠を編む手を休め、妓夫太郎が顔を上げる。確かに今日はが来ていない。しかし、それもこの悪天候ならば無理無いことだ。

「雪が酷ぇからなぁ、今日は来ねぇかもなぁ」

碌に雨風も凌ぎ切れないこの住まいでは雪の寒さを防げる筈も無く、梅は身体にござを巻き付けるようにして、妓夫太郎の膝を枕に寝転んでいる。ほぼ毎日顔を合わせているが現れないことに、不安を感じているのだろう。しかしこの深々と降り続く雪の中では、恐らく大人の足でも普段通り歩くのは難しい。妓夫太郎は宥めるように妹の頭を撫でた。

「こないねぇ」
「梅・・・」
「こないねぇ」
「・・・」

これは、納得のいっていない時の反応だ。参ったなと妓夫太郎は肩を落とす。明日になれば会えると説得したところで素直に聞くだろうか。とて、勉強や自分の時間も必要な筈なのだ。加えてこの雪ならば、顔を見せないことも何ら不思議な話ではないのだが、生憎梅には通じない。恐らくは、昨日別れ際にがまた明日来ると言っていたことを覚えているのだろう。これは参った。
しかし、がこの雪の中立ち往生をしているという可能性も、無くは無い。お互いの住まい同士の道のりを様子見に行くくらいなら、無理なく出来るだろう。

「・・・しょうがねぇなぁ」
「!!おにいちゃんだいすきー!」

簀巻きの様な状態からぽんと飛び抜けて盛大な抱擁を交わしてくる、まったく調子の良い愛しき妹である。寒くないよう再び小さな身体を覆ってやりながら、妓夫太郎は自身の支度にかかる。珍しく隣の区画まで足を延ばすが、全身笠と蓑で覆ってしまえば、この視界の悪さも相まい相手がでなければ一目で妓夫太郎とはわかるまい。あとはもう少し雪と寒さがマシならば梅も背負っていくところだが、今日に限ればその判断は正解ではないだろう。

「いいかぁ?ちょっと様子見てくるだけだ。は色々忙しいからなぁ、来れない時もある。それは覚えとけよ・・・あと、絶対に」
「ん!からくり、つかう!」

梅を一人置いて家を空けることは、極力避けたい。しかし、こうした非常事態は起こり得るので備えが必要だと以前に助言をくれたのは、他ならぬだ。廃材場から拾ってきた長い木材を内側から扉にたてかければ、外からは扉が開かなくなる。扉を内から開けるにはぴったり嵌まった木材を梅が外さねばならずコツがいる様だったが、これもが抜かりなく解錠役の梅本人に指南済だ。妹はこの扉の開閉の仕組みを、からくりと呼んでいた。

「俺が声かけるまで開けるんじゃねぇぞ、約束だからな」
「ん!!」
「そこにある蓑使っていいからな、なるべくあったかくして待ってるんだぞぉ」
「ん!!おにいちゃん、いってらっしゃい!!」

可愛いやつめと最後に頭をひと撫でし、扉に内側から木材が立てられた音を確認した。大粒の牡丹雪はそれだけで視界が悪く、出歩いている人間も疎な様だ。吹雪き始めれば少々危険だ、早々に道なりを確かめて帰ろうと妓夫太郎は一歩を踏み締める。

「・・・」

深い意味は無かったように思う。
しばらく手にしていなかった遊び道具の鎌が視界の端に光り、妓夫太郎はそれを引き抜いた。




* * *




梅が喜ぶかと黒糖飴作りに着手したのが昼前のこと。
手順工程はしっかり頭に入っていたが、なかなか思うようには進まず時間がかかってしまい、すっかり遅くなってしまった。何事も練習不足ではうまくいかないものだなどと呟きつつもが家を出たのが、数分前のこと。
雪道を一歩一歩踏み締めるように歩を進めていると、やけに強い視線を正面から感じる。大人の男だった。ふらふらと足取りが悪く、それは雪のせいではないような奇妙な違和感を放っていた。本能的に嫌な予感を察知し、一本違う道へ逸れようと方向転換をしようと振り返る。
別の男がニヤニヤと唇を歪め、を見下ろしていた。しまったと感じた時には遅く、先程の男がすぐ背後まで迫る。震えそうになる自身を叱咤し、は二人の男を睨み付けた。

「・・・通してください」

見たことの無い二人組だった。足元のふらついている男は息も浅いらしく、この寒さのせいで白い息を何度も吐き出している。もう一人の男は足取りや呼吸こそ正常な様ではあったが、を見下ろす目は血走り、焦点が小刻みに振れている。どちらも間違い無く普通ではない。関わってはいけない、何とか逃げなければとが固くするのを認め、二人の男は顔を見合わせて笑って見せた。

「まあまあ、そう言うなってお嬢ちゃん」
「俺たち調子が悪いんだよぉ。お嬢ちゃんの見立てでイイ薬繕ってくれよぉ」

薬という単語に、は怪訝な顔をした。
に植物知識があることを知っているのは、この区画近隣に住まう人間であれば珍しくはない。ほんの幼い頃から図鑑を抱えて歩き回っていたのだ、変わり者扱いもされてはいるが、多少顔が知れている自覚もある。
しかし、迷わず薬の処方を求めてくるとなると話が違って来る。確かに毒草知識から付随する解毒治療には心得がある。
だが毒は即効性があるものがほとんどであり、だからこそ解毒も緊急対応が必要なのだ。こんな風にじわじわと正常さを失うものは、の知る毒では無い。彼らが求めている『薬』とやらも、恐らくは―――

「・・・ここの人じゃないですよね。外から来たお客さんですか?だったら、外か大通りのお医者さんに行ってください。私急いでるんです」
「連れないなァ、せっかくクスリに詳しい女の子って話聞いたから遥々こんな汚ぇ所まで来てやったのにさぁー」

貼り付けたようだった男達の笑みが、薄寒い歪んだものに変わる。肺に吸い込んだ息の冷たさが、身体全体に沁み入るような悪寒。逃げなければ、今すぐに。の瞳が動揺に揺れ二人の間を抜けようとした瞬間、あっけなく腕を絡みとられ壁に縫い付けられる。

「それとも、こんなお嬢ちゃんに見えて、実はとんでもねぇ遊女だったりするのかなぁ?お嬢ちゃんとイイ仲になれたら、クスリ出してくれたりするの?」

耳障りな掠れた笑い声がする。
顔が近い、寒いのに熱い、全身を嫌悪感が走る。
一人の男の大きな口が開き、その舌が、の頬を、

「っ・・・!やあっ」

あまりの恐怖に大きな声が出ない。絞り出した声など叫びにはほど遠い。もう一人の男の手が気味の悪い動きでの身体を這い回る、信じ難い吐気に似た感覚と恐れが絡み合い、視界が涙に潤む。

助けて。祈るように念じたのは、優しい友人の照れ臭そうな小さな笑み。

次の瞬間その場に轟いたのは、獣のような咆哮と風を斬る音。
に顔を近付けていた男の背に、鎌が突き刺さった。
血が飛び散り、男が苦痛に悶絶し崩れ落ちる。

「なっ?!何処のどいつだ、おいっ!!」

二人目の男が慌てて周囲を見回し、再びを捕えることは無かった。

その暇を与えず妓夫太郎が飛び掛かり、強く殴り付けたからだ。息を飲むの前で、妓夫太郎は一心不乱に男の頭を揺さぶり時には蹴り上げ、叫び声を上げながら渾身の力で強打を続ける。の見たことのない妓夫太郎がそこにいた。少年と大人の体格差をものともせず怒りに打ち震え力を振るうその姿は、あの小さな家で梅を抱き抱えを迎え入れてくれる妓夫太郎とは、似ても似つかぬ覇気をまとっていた。
空気がひりつく、は一歩も動くことが出来ない。どれほど殴打が続いたのかは定かではないが、男は最終的に頭を盛大に揺らしながら鎌の刺さったままの男の上に倒れ込み気を失った様だった。

妓夫太郎は肩で息をして動かない。血走る瞳を見開き、地に伏している男二人を憎悪の目で睨みつけている。は今ようやく身体が動くことを実感し、小さく息を吸い込んだ。

「・・・妓夫太郎、くん?」

戸惑うような、小さな呼びかけだった。弾かれるように顔を上げた妓夫太郎と、目が合う。見開かれた瞳の色は、のよく知る美しい青だ。お互いに白い息を吐き出し、妓夫太郎がとの距離を詰めた。

っ・・・怪我は?!」
「無い、無いよ、大丈夫。ありがとう」

の両肩に手を置き、良かったと心底安堵している。大丈夫、彼はいつもの妓夫太郎だ。神への祈りが通じたかのように、危機を助けに来てくれた。
は妓夫太郎が若干震えていること、その手が返り血か彼自身の血か判別がつかないほどに赤く染まっていることに気付き、思わず瞳を潤ませた。
こんなに必死になって自分を助けに来てくれるだなんて。大人を相手に、こんなにも懸命に―――

突如として妓夫太郎の身体が投げ飛ばされることで、再度の頭の中が真っ白になった。

何故。
耳を掠めるのは、鎌の落ちる金属音。
向側の壁へと叩きつけられ四肢を投げ出す妓夫太郎の姿。

「妓夫太郎くん!!!」

鎌で刺された男に意識があり、反撃に出たのだ。
それを頭で理解するなり、は打ち捨てられた鎌を反射的に拾い、未だふらついている男と妓夫太郎の間に身を滑り込ませた。不意をつかれ身体全体を強打した上、先程無理をした妓夫太郎はこれ以上立ち向かえる筈がない。

・・・来る、な・・・」

こんな時でさえ、彼はこうなのだ。は涙を乱暴に拭い、目の前の男に向き直る。

「このっ・・・汚ェ餓鬼共がァ!!!」

形振り構わず歯を剥き出す男に対し、が鎌を握る。背後の妓夫太郎が息を呑む音が、聞こえた気がした。

「っ止せ、・・・逃げろぉ!」
「絶対逃げない!妓夫太郎くんを梅ちゃんに返すの!」

勝機など知ったことか。例え刺し違えたとしても、妓夫太郎を生きて帰す。
梅を一人にはしない、これ以上彼を傷付けさせはしない。血管が脈打つ、構えた鎌を振り上げ、が駆け出す。



「―――包囲!確保!」



突如として、決死の突攻は遮られた。



* * *




瞬く間に周囲を取り囲んだのは、僧侶のような男たちの集団だった。
大人数の男たちに包囲されれば成す術もなく、男二人は無力化の上拘束され、同時に妓夫太郎ともその一団に一時保護されることとなった。

この一団は奉行所からの要請に従い怪しい者を取締っているのだそうで、遊郭の中でも大通りの宿屋に拠点を構えているのだと言う。悪天候と夜間であることが幸いし今回の出来事は騒ぎにならず、また誰に見られることも無く二人はこの宿屋へ運び込まれた。自分の足でなく籠に乗せられて移動したことなど二人にとって初めての経験で、初めての大通りということもあり少しの間状況を忘れて年相応にはしゃいだ。

そんな二人を同じ籠に乗りにこやかに見守り、また今回の鎮圧を指揮していた若者がいる。今もこうして温かな部屋に二人を並んで座らせ、良い香りのする飲み物を差し出して正面に掛けている。
黒髪と漆黒の瞳がやけに印象的な、若い青年だった。物腰が柔らかく、二人を怯えさせないようにと人払いをして落ち着かせた。用意された飲み物は茶だったが、も未だかつて口にしたことの無いような上品な美味しさで、妓夫太郎と二人で目を白黒させた。

「いやはや、勇敢なお二人さんだ」

にこやかに微笑みながら、青年は二人の健闘を讃える。彼は他の僧侶たちとは違い、袴を着崩したような格好をしていた。しかし切見世に現れる客達とはまるで違う高級感と清潔感を兼ね揃えており、奉行所からの仕事を請け負う一団の長とは別世界の存在だと二人はぼんやりとしてしまう。

「あの二人は、禁止薬物の常習犯でね」
「え・・・?」
「難しいかな?つまり悪い人なんだよ、危ない薬で少々頭もおかしくなりかけてる、悪い人間さ。禁断症状に駆られて、薬を売ってくれる奴らを探してたんだろうね・・・ふふ、お嬢さんを麻薬の売人と勘違いするなんて、相当頭が悪いと思うけど。今日捕まえられて本当に良かった。突入する機会を待ってしばらく様子を見ていたのだけれど、二人のお陰だね」

麻薬の売人。
麻薬とはアヘンのことだろうかとは頭を巡らせる。確かに薬として非常に強力で大昔から存在はしているが、反面人体に悪影響を及ぼすことも知られている筈だ。自分がその売人と間違われたという事実は多少ショックではあったが、思いも寄らぬ事件に巻き込まれていながら無事に保護されて良かったと心から思える。妓夫太郎と青年の指揮する一団のお陰だ。すると、黙り込んだの様子に青年が小首を傾げた。

「あれ。一応確認するけど、本当に売人じゃないよね?」
「ち・・・違います。植物のことは、勉強してますけど」
「へえ、それって」

青年は、の知識力に興味を示したようだった。
しかし、話はそこで遮られる。

「・・・おい」

今まで大人しく縮こまっていた妓夫太郎が、急に顔色を変えて立ち上がった。

「見てた、だとぉ?」

突入する機会を伺い、しばらく様子を見ていた。青年はそう口にした。つまりあの二人は泳がされ、確保出来る隙を見計われていたということだ。が男たちに拘束され、身の毛のよだつ様な目に合わされかけたあの瞬間、青年たちは手を出さず見ていた、と。

「お前ら・・・が嬲られてるのを、見てたのか?」
「妓夫太郎くん・・・」
があいつらに何されたか、ただ見てたってのか?」

妓夫太郎の脳裏に、つい先程芽生えたばかりの激情が蘇る。の家の方向へ向かう途中、視界の悪い中目に飛び込んできた信じ難い光景。あの汚らしい男の舌が、の顔を。穢らわしい手が、の身体を。身体中の血液が煮え繰り返るような感覚。気付けば手にした鎌を投げつけ、もう一人の男に飛び掛かっていた。しかしその間ですら、この大人たちは動かず見ていたと言う。

「妓夫太郎くん、私は大丈夫だから」
「大丈夫じゃねぇだろうが!!」

慌てたようにが肩に触れてくるのがわかったが、構ってはいられない。妓夫太郎は許せないと歯を食いしばり目の前の男を睨みつけた。青年は数秒の間を置いて立ち上がり、妓夫太郎の前へと回り込み屈む。

「そうだね、大人の作戦だ」
「っ・・・!!」
「確かに我々はお嬢さんを囮に使ったよ。でも、最終的に囮を殺されてしまうような失態は無いかな。俺は強いから」

視線の高さで言えば、まだ立っている妓夫太郎の方が青年を見下ろす側だった。しかし屈んでにこやかな口調を崩さないにも関わらず、青年は圧倒的な威圧感を持って断言する。自信に満ち溢れた当然の様な物言いに、妓夫太郎は一瞬気圧される。しかし、それではまるで、妓夫太郎の助けはいらなかったと言われているような気さえして。咄嗟に拳を振り上げ、青年の顔目掛けて振り下ろそうとした。
が息を呑む気配がした。
勢いよく降り下ろした拳は、青年の顔に当たる寸前であっけなく片手で押さえ込まれている。

「君はとても勇敢だ、それは誇って良い。でも、大事な子を守るにはまだまだ力も経験も足りない」

彼は微笑んでいた。圧倒的な力の差を見せつけ、妓夫太郎の怒りと闘志を強引に沈めてしまう。もう妓夫太郎に彼を害そうとすることは出来なかった。青年は中腰の姿勢をとり、妓夫太郎の耳元へとそっと囁いた。

「人間が鎌を投げたって戻っては来ないよ。一度で息の根を止めて回収するか、しっかり最後まで手に持って戦わなくちゃ」

得体の知れない、ぞわりとした感覚。この青年は何者か、妓夫太郎が戦慄した次の瞬間。彼はパンと手を優しく叩き、にこやかに笑った。

「さて、君たちを送ろう。おうちの人に事情も説明してあげようね」

緊張感が消し飛んだように話の軌道が戻される。先に反応したのはだった。出来るなら、余計な厄介ごとに巻き込まれたという情報は伏せたいのだ。

「あっ・・・あの、誰にも見られてないなら、出来ればそれはやめて欲しい、です。私は怪我してないし、お母さんに知られると、色々と・・・妓夫太郎くんの手当てだけお願い出来れば・・・」
「そうかい?俺たちはお奉行さまじゃないし、お嬢さんがそれで良いならそうするけど。君は?」
「・・・親はいねぇよ、手当てもしなくて良い。妹を待たせてるから早く帰りてぇんだが」
「よし。それじゃあ急いで君の家にお邪魔して手当てしようかな。お嬢さんも手伝ってくれるかい?勿論帰りは送ってあげよう」
「はぁぁ?家には上げねぇぞ、おい・・・の送りもするんじゃねぇ、俺の仕事だからなぁ。さっさと失せやがれぇ」
「妓夫太郎くん、落ち着いて・・・」

悪態をつき続ける妓夫太郎とハラハラするを見て、青年は朗らかに笑う。こうして二人は無事、帰路に着いた。





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