君の頬に紅い花
季節は、二人が友情を結び直してから二周程巡る。
妓夫太郎と
の関係にのみ焦点を当てれば穏やかな二年だったが、二人を取り巻く環境について述べるなら激動とも呼べる時期だった。
まず妓夫太郎と梅の母についてだが、梅の服毒騒動から少し経った頃、遂に刃物を持ち出して梅に暴力を振るおうとしたものだから、妓夫太郎がかつて無い暴れ方で必死の反撃をした。それからと言うものの母は息子に怯えるようになり、妓夫太郎や梅が暴力を振るわれることは無くなった。
それ自体は良かったことではあるものの、彼が無力では無いと知った町民たちが、今度は妓夫太郎が酷い乱暴者であると触れ回ったため、誰の犯行か不明な傷害沙汰が起こる度彼に濡衣が着せられる事態が頻発したのだ。
これには
が酷く憤慨したが、妓夫太郎曰く、犯人と噂されたところで報復を恐れて処罰を下しにも来ないのだから、陰口を叩かれるだけで済むなら今までよりよほど生き易い、とのことで、
は納得がいかないながらも本人がそう言うならと渋々引き下がった。
そうして妓夫太郎を取り巻く町民達の視線が少しずつ、石を投げる対象から恐ろしい存在へと色を変え始めた頃、妓夫太郎の母が息を引き取った。
母の死に対し兄妹に哀惜の情は浮かばない様ではあったが、住まいについては立ち退きを余儀なくされた。対価無しに住まいが保証されるのは遊女のみで、母が亡くなり子供二人となった今、これまでの住まいは早々に立ち退き次の遊女に明け渡さなくてはならないといったことを、同区画の女将から宣告されたのだ。
妓夫太郎の決断は早く、切見世の外れにある物置小屋のような場所を新たな住まいとした。かなり手狭で今まで放置されていた様な場所であるにも関わらず、それでも月々金を払わねばならなかったが、条件の悪さと賃料は比例するため、まだ大人とは言えない妓夫太郎であっても日銭を稼ぎ何とか暮らしていける金額と判断してのことだった。
雨風を凌ぎ切れるとはとても言えない穴だらけの天井、見るからに脆そうな作りの小さな小屋だった。しかし、妓夫太郎と梅はそれでも日々を懸命に生きている。吹けば消えそうになる灯火のような貧しい生活の中にも、暖かな光や楽しみがあることを兄妹は知っていた。
以前より頻繁に、そして妓夫太郎たちが住まいを移してからはそれこそ毎日のように訪れてくれる
の存在は、兄妹にとって何にも代えがたい優しい光そのものだ。
妓夫太郎にとって
は唯一の友人であったし、蔑みも恐れもしてこない特別な人間でもあった。明るく優しい彼女に梅はよく懐いたし、世話焼き気質な彼女が兄妹の生活の手助けに名乗り上げない筈もなく、日銭を稼ぐことも喜んで協力してくれた。兄妹と友人という三人の関係はとても良好であり、
自身も二人の小さな家に通う今の生活を幸せに感じていた。
しかし、
の周りはどうだろうか。
「おい、
」
「んー?」
「んーじゃねぇ、こっち見ろ」
いつも通り律儀に扉を叩いて入って来た
は、昼寝をしている梅の傍に駆け寄り暫しの間寝顔を堪能し、今日も寒いね、早く春が来ないかなぁなどと呟きながら日銭の草鞋を手際よく編み始めた。一見するといつも通りだろう。しかし、話しかけては来ても頑なにこちらを見ない違和感に気付けない妓夫太郎ではない。核心をついた発言に、ぎくりと肩を強張らせ数秒。困ったように眉を下げながらも笑顔の
が、こちらを向いた。
嫌な予感は的中した。
綺麗な頬に、見事な赤い手形がついている。
「お前、これ・・・」
「ふふ、私もたまには正面きって喧嘩もするんだよー」
なかなかやるでしょ、などと強がってはいるが、そんな言い分を真に受ける筈もない。
妓夫太郎の眉間に、きつく皺が寄せられた。
「下手くそな嘘つくなよなぁ・・・親にやられたんだろうが」
確認するまでもないことだった。
は平気な顔をしているが、間違いなく彼女は今日、ここに来る前親に殴られている。
否、恐らく今日だけの話ではない。
「んー・・・正面きって親子喧嘩、ほら嘘じゃない」
「屁理屈だろうが・・・お前これが初めてじゃねぇな?俺たちに食料運んで来てるせいだろ、どう考えても」
今日
が持参した包みの中に、握り飯があることを知っている。毎日ではないにしろ、
はこうして兄妹に食料を差し入れることが多々あった。その内容は茶や黒糖であったり飴玉であったり様々だったが、それが米や上等な食料であった日には決まって不自然な痣が
の手足に見え隠れした。その度妓夫太郎が指摘しても、転んだのだとか薬剤調合で被れたのだとか、無難な理由で言い逃れられてきたのだ。
しかしこれまではなりを潜めていたものが、今日こうして頬を強かに打ってやったと主張している。
に対しても兄妹に対しても、これ以上は見逃さないという警告の証だ。
「
、こういうことはもう・・・」
「妓夫太郎くんは大袈裟だなぁ。次はもうちょっと上手くやるよ。大丈夫、怪我に効く薬は自分で調合出来るし。それに、食料のことは関係無くても私がお母さんと相性悪いのは今に始まった話でもないの、妓夫太郎くんはよく知ってるよね?」
梅を毒から救ってくれたあの日、
の暮らす区画で噂話が飛び交わぬ筈もなく、当然
の母である女将の耳にも入った。
あの納屋は、幼い頃から勉学や植物採取に打ち込みたがった
に与えられた、小さな研究部屋のようなものだったらしい。
しかし
に許されていたのは、客の立ち入らないあの納屋の中で静かに勉学に励むことまでだ。
隣の区画まで噂に上がるような得体の知れない子供を助け、更には仲の良い友人関係であることを街中に知られてしまったことは、元より歪だった
と母の不和を決定的なものにした。状況は変わっていないのだから何も気にしなくて良いと
は笑うが、そう易々と鵜呑みに出来る筈もない。
責任を感じて押し黙る妓夫太郎に、
が柔らかく微笑んでその両手を握った。
「心配してくれてありがとう。でも本当に大丈夫だから」
「
・・・」
「私がしたくてしてることだよ。梅ちゃんに少しでも美味しいもの食べさせてあげたいのは、妓夫太郎くんだけの願いじゃないの」
それを言われてしまうと弱い。
懸命に日銭を稼いでも、妓夫太郎一人分の働きでは土地代に消えてしまう。
の協力があって多少は食い繋げているが、それでも良いものはなかなか与えられない。
彼女が時折持参してくれる土産物に、どれだけ妹が飛び上がって喜ぶかを知っている。しかしその裏で、
が虐げられている事実も明白になりつつある。
もっとしっかりしなくては。
今はまだ梅も幼く側を離れられないため、草鞋や笠を編むことくらいしか日銭も稼げないけれど。もう少し状況が変われば、きっと。この心優しい友人に苦労をかけることなく生きていける道もある筈だ。自分がしっかりしなくては。
妓夫太郎が小さく下唇を噛んだ。
* * *
梅がもぞもぞと動く気配がした。
途端に空気が柔らかくなる。妓夫太郎の眉間の皺は無くなり、
の苦笑も何処へやら。幼子の存在は偉大だ。
「あ。梅ちゃん起きるかな?ふふ、今日のお土産も喜んでくれると嬉しいなぁ」
「そりゃあ大喜びだろ。土産が無くたって、お前には随分懐いてるしなぁ」
「嬉しいけど、お兄ちゃんには負けるよ」
「うるせえ」
満更でも無さそうな妓夫太郎の返答に被さるように、ふわあと可愛らしい欠伸をしながら梅が起き上がった。あまりの愛らしい仕草にクスクスと笑いを堪えている
には、まだ気付いていない。寝ぼけ眼で辺りを見回し、その大きな瞳がまず兄を捉え、次に
を捉え。
「・・・!おねえちゃん!」
初めての単語が元気よく飛び出した。
発語が出来るようになってからここ最近、特にお喋りの幅が急速に広がってきた梅だ。日一日と新しい単語を話せるようになってきたことは
も承知していたし、梅の日々の成長を見守れることもこの家へ通う楽しみのひとつだ。しかし、今お姉ちゃんと呼ばれたことには、
も驚いたように瞬きを繰り返すことしか出来ず。嬉しい。確かに嬉しいが、良いのだろうか。伺うように妓夫太郎を振り返ると、彼もまた難しい顔をしていた。
これは、流してはいけない気がする。少なくとも妓夫太郎はそう感じたのだ。
「・・・梅。
はな、家族じゃねぇんだ」
「どうして?」
「あー・・・どうしてって言われてもなぁ」
只でさえ、
は妓夫太郎達兄妹と関わることを善くは思われていないのだ。家の中でなら良いが、外で話すなと強制出来る筈も無い。妓夫太郎を兄と呼ぶように、
を姉と呼んでいるのを聞かれたら、また母親から彼女への風当たりも厳しくなるのではないだろうか。
の遠慮とは違った気持ちで、妓夫太郎は悩んだ。しかし、梅に伝えるには一体どうしたものか。ほぼ毎日顔を合わせている、しかし家族とは違う存在。片や隣の区画を取り仕切る女将の娘で、片や自分たちはこの遊郭最下層の中でも底辺の存在だ。
は勿論大切な友人だけれども、彼女を取り巻く環境は決して妓夫太郎達を認めはしないだろう。今の梅にわかる筈も無い、しかしこれを見逃せばどうなるか。
神妙な顔で言い淀む妓夫太郎の姿に、
がもしやと彼の心配事を悟り始めた次の瞬間。
梅がぱっと立ち上がり、彼女なりの勢いをつけ、兄の膝へと飛び込んだ。難なく受け止めた兄にぴったりと寄り添い、心得ているように体を丸める。
「うめ、おにいちゃん、すき」
「・・・おお、兄ちゃんもだぁ」
険しくなりかけた兄の表情が綻び、梅が大層満足そうに笑う。
はこの兄妹の、こうして寄り添う姿が堪らなく好きだった。
妓夫太郎が何を悩んでいるのかは、何となく察しがついていた。優しい彼のことだ。彼らしいと言えば彼らしいが、何もそこまで心配することは無いと言うべきか、しかし梅のことに関しては兄である妓夫太郎にあまり意見したくないのも本音だ。難しいことなんて考えず、梅の可愛さにいつまでも妓夫太郎が虜になっていれば良いのに。そんなことをぼんやりと考えていた時のことだ。
兄の膝に収まっていた筈の梅が、今度は
の方に飛び込んできて。
思わず慌てて抱きかかえるような形になってしまったが、兄と同じく美しい青い瞳に射抜かれたように
の息が止まる。
深い青が
の視線を縫い付け、そして堪らなく愛らしい微笑みが向けられる。
「うめ、おねえちゃん、すき」
ああ無理だ、抗えない。
は観念したかのように、梅を抱きしめたまま幼子の温もりに目を閉じた。
今感じた気持ちに嘘はつけない。
「ありがとう梅ちゃん、私も梅ちゃんが大好きよ」
「ふふっ!おねえちゃんすきすきー!!」
勿論、色々なことを心配してくれる妓夫太郎にも感謝はしているけれど。やはり何とも言えない顔でこちらを見守る彼には、大丈夫だと笑いかける。
「おい、
・・・」
「お願い妓夫太郎くん、無理に直さないであげて」
「けどお前・・・」
「大丈夫、誰に何を言われても気にしないよ」
例え区画中の人間たちから白い目で見られても、例え母からの折檻が増えたとしても構わない。
「梅ちゃんが色んなことを理解できるまででも良い、気分で呼び方が変わるなら、それでも良い。ずっとこのままでも良い。私、この子にお姉ちゃんって呼ばれるの・・・とっても嬉しいの。周りに何を言われても、こんなに幸せなこと、ひとつも取りこぼしたくないの。妓夫太郎くんと梅ちゃんの傍にいることが、私の幸せなの」
それに耐え得る、それ以上の幸せや喜びが、ここにはある。
の感極まった表情に、妓夫太郎もそれ以上の反論は出来なくなった。心配事も、今の生活への焦りも、勿論消えはしない。しかし、
が梅を慈しむように抱きしめているこの光景は、妓夫太郎にとっても幸せそのもので。自分たちの傍にいることが幸せだなんて、
に言われて嬉しく無い筈が無い。
がそう言うならと、妓夫太郎が苦笑を零しつつも梅の髪を後ろから梳いた。釣られるように梅の頭が仰け反り、不意にその大きな瞳が
の頬を捉えた。
「おはな?」
「えっ?」
「おはな、かわいいの。おねえちゃん、かわいいの」
の頬についた手形を、花と呼ぶ。
この幼子が起きる前までは妓夫太郎に険しい顔をさせていた元凶だが、梅にとっては綺麗なお花。
可愛い可愛いとはしゃぐ梅に妓夫太郎と
は顔を見合わせ、一泊の間を置いて同時に笑った。