出来るならもう一度



悪夢のような決別の日から、一年が経過した。

あの日の自分を、殴り倒してやりたい。
未だ毎晩のように妓夫太郎は自分自身を呪い深く後悔したが、起きた出来事は覆らない。

『もう、会いに来たりしないから。安心してね』

涙声で頭を下げたは、最後にそう言い残してその場を走り去った。ごめんなさいだなんて謝罪の言葉は、例え自分が口にすることはあっても、誰かから言われる機会など訪れないと思っていた。初めてのことだ。思えば、ありがとうもごめんなさいも、優しく触れられたことも贈り物も、心配の声でさえも、は妓夫太郎にたくさんの初めてをくれた。初めての、幸福をくれたひとだったのに。その絆を、愚かなことに自ら断ち切ってしまった。
が心無い噂話通り、貧しい妓夫太郎をからかっているだけの女だったならまだマシだっただろう。そうではないことを、あの涙が証明してしまった。は確かに出自の言い当てに狼狽えはしたが、妓夫太郎を見下して楽しんでいた訳では無かった。必死に弁明しようとする彼女を、他でも無い妓夫太郎が拒絶してしまったのだ。
これからの人生、もう二度と現れないであろう優しい存在を、自ら傷付けて遠ざけた。愚かな自分を呪い続ける以外、成す術は無い。

しかしながら、あんなにも酷いことをして後悔と罪悪感を負っているにも関わらず、日々を目まぐるしく感じることには、理由がある。

「ほら、梅。良い天気だろぉ」
「うー、あ!」
「そうかぁ、機嫌が良いんだなぁ」

あの日から間も無く、妹が誕生した。
赤子などまともに見たことも無ければあまり興味も無く、生まれてくる赤子が怪我をしなければ良いくらいの認識でいた妓夫太郎だったが、妹の愛らしさにはすぐ夢中になった。梅と名付けられたその赤子は美しい白髪と青い瞳を有しており、妓夫太郎は妹のあまりの可愛さに引力が働いたように側を離れず、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
にしてしまったことへの後悔、赤子の梅を死なせないための奔走。妓夫太郎の一年はこの二点にのみ尽きると言っても過言では無い。
困ったのは母の存在だった。
最初こそ、妓夫太郎と違い美しい姿形で産まれた娘に愛情を示していた母であった。赤子にして見目麗しく将来有望な容姿の娘を産めたことで、散々な目にあい続けた人生に一矢報いたような気持ちにもなっていたのだろう。しかし、梅の眩いばかりの白髪が悪い意味で周囲の注意を引き付けてしまってからが地獄の始まりだった。髪の色が気に入らない、妓夫太郎と同じ色の瞳も気に入らないと癇癪を起こし、この愛らしい首に手がかかった瞬間ほど肝が冷えたことは無かっただろう。間一髪で阻止して以来、妓夫太郎はこうして梅と離れることなく毎日を生きている。とにかく梅を飢えさせないよう、死なせないよう、以前にも増して自分のことを後回しにした結果、この一年で身体はますます痩せ細り、周りからはより露骨な形で怪物扱いされ蔑まれた。
それでも梅は迷うことなく妓夫太郎にぴったりと貼り付き、安心したように可愛い寝顔を見せてくれるのだ。この小さな命の側にいられることへの幸福と、守らなくてはという使命感が妓夫太郎を生かしている。
不意に、開けた場所に差し掛かり妓夫太郎が足を止めた。
桃色の花が、揺れている。
あてもなく日光浴に歩いていただけだったが、ここはこの一年意識的に避けていた場所でもあった。

「・・・」

否応なしに、彼女のことを考えてしまうからだ。踵を返しかけ、思い留まる。が教えてくれた桃色の花。これなら、梅に与えても問題無いだろうか。妓夫太郎は一瞬梅を地へ降ろし、その花を摘み口に含んだ。
僅かな甘さを感じる度、優しい思い出が脳裏に蘇る。
梅と同じくこの汚い手に躊躇なく触れた、優しい手。この蔑まれた身に、親身になって世話を焼いてくれた眩しい存在。

「・・・救いようのねぇ、虫ケラ以下だなあ、俺は」

もう一度、会いたいだなんて。
会えたところで、もうあの柔らかな笑みは向けて貰えはしないのに。
時が戻せたら、どんなに良いか。
自分自身の愚かさに、もう何度目かもわからない深い息を吐く。

ふと、我に帰る。
随分と、静かではないか。

「・・・梅?」

足元を這っていた梅がいない。
目を離したのは一瞬だった筈。否、思い出に耽るあまり、一瞬では無かったのかもしれず。焦ったように辺りを見回し、妓夫太郎は目を見開く。
妹が、地面に転がっている。

「っ!!!梅!おい、梅!!!」

駆け寄り抱き上げた妹は、口から泡を噴いて気を失っていた。
頭の中が真っ白になる。
何故、どうして、一体何が。
そして、妹のすぐ側で目に入ったものは。

『駄目』

記憶にある、あの植物。が、食べてはいけないと言っていた。そうだ、毒草だから食べてはいけない、と。
血管がどくんと波を打つ。
妹は自分が目を離した隙にここまで這いずり、これを口にしたのだ。

『最悪、息が出来なくなって命に関わる、かも』

どうすれば。
一体どうすれば。
手が震える、妹が泡を噴いている、自分のせいで梅の命が、目の前が、暗くなる。

『私が助けるからね!』

脳裏に響く、まだ日々が壊れる前の明るい声。
妓夫太郎は、迷うことなく全力で駆け出した。




* * *



何を今更、と詰られるだろう。
あんなことをしておきながら、都合の良い話だと一蹴されても文句など言えはしない。
しかしこの非常事態に、助けを求められる存在は一人しかいなかった。切見世にまともな医者はおらず、母は決して頼れない。妹を救ってくれるならどんな対価も差し出そう、例えこの命でも構わない。妓夫太郎はの住まうであろう区画へ駆け込んだ。
突然赤子を抱いた醜い子供が現れ、住民たちは一斉に眉を顰めた。隣の区画であろうが切見世は切見世、遊郭の中なのだからどこも価値観の基準は変わりはしない。蔑まれることは良い、他の人間には頼れない。ならば自力で探し当てるまで、この区画を管理する女将の娘ならばそれなりに大きな平屋を探してーーー

「・・・」

まるで周りの景色から、そこだけが切り抜かれたような錯覚。
神や仏がいるのなら、今この瞬間拝み倒したいほどの奇跡。
騒めく群衆の中、彼女と目が合った。

!!」

初めてその名を口にしたことで、彼女の肩が跳ねる。
記憶のままの黒い瞳が大きく見開かれ、妓夫太郎を見つめ、そしてそれは妓夫太郎の腕の中の梅に向けられた。

「っ頼む!虫のいいこと言ってるのはわかってる、けど」
「任せて!」

一拍すら間を置かない、即答だった。
は群衆を押し退け妓夫太郎に駆け寄り、小さな梅を抱き寄せる。そして変わることの無い躊躇の無さで、妓夫太郎の手を引き走り出したのだった。


案内されたのは納屋の様な場所で、は梅を横たわらせるなり次々と的確な処置を施していった。妓夫太郎があの毒草を覚えていたことが幸いしたらしく、素早くその植物を特定し、大量の引き出しから様々な薬草を取り出し調合し、こまめに梅の様子を確認しながら時には水を飲ませた。妓夫太郎は何も役に立てず祈ることしか出来なかったが、は額に汗を浮かべながらも冷静さを忘れず梅の処置に努めた。やがて梅が泡とともに白い液体を吐き出し、水を飲ませ、また吐き出すことを何度か繰り返し、その頬が赤みを取り戻す頃、ようやくが三角巾を外し額の汗を拭った。

「良かった・・・少し熱は続くかもしれないけど、大丈夫」

もう日はとっくに暮れていて、治療にかかった時間は計り知れない。突然押しかけたような形であったにも関わらず、は心底ほっとした様な表情で梅を慈しんだ。
やがてその視線が、梅から妓夫太郎へと移る。
こんな時だが、妓夫太郎の身体に一気に緊張が走った。

「私を頼って来てくれて、ありがとうね」

柔らかな、微笑み。
信じられないような光景。
心の内で何かが弾けたように、妓夫太郎は額を床に擦り付けた。

「すまねぇ、すまねぇ!!!俺は・・・!酷ぇことを言った、お前を傷付けた!」

が慌てて止めさせようとする気配がしたが、構ってはいられなかった。涙が溢れ出す、気を抜けば嗚咽が込み上げる、しかし今伝えなければならない。恥など知ったことではない、ここまで尽くしてくれたに、今全てを告げる。妓夫太郎は土下座の姿勢を崩すことなく、言葉を紡いだ。

「優しくされたことなんて無かった、親切にされたことなんて無かった、地獄みてぇな毎日だった、けどお前は違った、お前みたいなすげぇ奴が俺を見てくれて、助けてくれて本当は・・・嬉しかったんだ・・・!けど、お前みたいな恵まれた人間が、俺みてぇなゴミを相手にする筈無いって、気まぐれだって、俺の惨めな勘違いだって、そう噂されてるのを真に受けちまって・・・」

何度も後悔した、何度も自分を呪った。悪意の塊のような噂話と、目の前にいるとを比べ、どちらが信用に足るかなど分かりきっていた筈なのに。彼女の優しさが嘘か本当かなど、疑う必要もなく理解していた筈なのに。
一気に吐き出した言葉が途切れ、歯を食いしばる。一番伝えたいことを、伝えなくては。

「こんなどうしようもねぇ俺を・・・俺の妹を救ってくれて、本当に、ありがとうなぁ・・・」

今まで何度も言おうとして言えなかった。伝えるべきだったのに伝えられなかった、感謝の言葉。
遂に嗚咽が込み上げ床に縮こまる妓夫太郎のすぐ側に、が膝をついて。

「妓夫太郎くん。顔をあげて」

しっかりした声で、そう告げた。
両手で妓夫太郎の顔に触れ、涙で歪んだ視線を自分に合わせる。治療の際何度も水を使ったために冷え切った指先。その冷たさと、今間違いなく名前を初めて呼ばれた驚きに、妓夫太郎は目を見開いた。

「はっきりさせるよ、妓夫太郎くんはゴミじゃない。私が仲良くしたかったのは気まぐれなんかじゃない、勘違いなんかじゃない」

目と目を合わせてひとつずつ訂正していくの声は、最初こそ凛とした響きを主張していたが、すぐに普段の優しげな声色へと戻った。この一年、妓夫太郎の心に巣食っていた後悔と自身への怒りが、優しく解けていく。

「子供のくせに、女のくせにってずっと言われてきた。一生懸命勉強して必死に蓄えてきた植物の知識を、初めて認めて褒めてくれたのは妓夫太郎くんだった」

この街では学問など、特に女には無用なものだと言われ続けてきた。それでも諦めずに励むことは、意地になっているのだとか、変わり者なのだとか、散々な言われようだった。諦めないことはそれほどに異質なことなのか。
あの日、この知識は無駄ではなく、お陰で助かったと言われたことがどんなに救いになったことか。妓夫太郎の言葉に、どれほど幸福を貰ったことか。

「私はこの切見世も遊郭も嫌い、女の人を商品にする仕組みも、意地悪な人ばかりの濁った空気も大嫌い。だから、お母さんが女将だってこと・・・言えなかった。外で生きたいなんて口では言ってるけど、結局そこを管理してる家族のひとりだなんて、恥ずかしくて言えなかった」

美醜を価値基準とするこの遊郭では、妓夫太郎は隣の区画でも噂話に上がるほど忌み嫌われている。気の毒なのはお前達の方だと、は内心毒吐くのだ。
彼がこんなにも優しく、性別や風習に捉われず努力を評価してくれる、素晴らしい人であることに、ここの人間たちは気付かない、淀んだ視界では気付けない。
自身もまた、その歪んだ人間の血を引いていることも事実だけれど。

「私の方こそ、変に隠し事しててごめんね」
「そんな、お前・・・」

あの日、妓夫太郎はを傷付けたと謝罪してくれたけれど。
に言わせれば、あの日傷付いた表情をしていたのは、妓夫太郎の方だった。
が出自を隠していたせいで、妓夫太郎の心を傷つけてしまった。恥など気にせず、最初から家のありのままを話しておけば良かったと、何度後悔したことか知れない。だから今日こうしてを頼り妓夫太郎が来てくれたことは、信じ難いほどの喜びだ。

「私、妓夫太郎くんと友達になりたい。また図鑑抱えて、妓夫太郎くんに会いに行っても良い?」

友達になりたい、また会いたい、元に戻りたい。
それが独りよがりではなかったことは、奇跡だ。
妓夫太郎は乱暴に涙を拭うと、口を一文字に結んで首を一度縦に振った。花が綻ぶようにが安堵に笑う。照れ臭い気持ちで、妓夫太郎は鼻を啜った。

「お前、俺の名前・・・」
「知ってたよ、お互いさまかな」
「・・・そうだな」

やはり先程咄嗟に名前を呼んでしまったことは、しっかり覚えているらしい。お互いに名前を知りながらも名乗れずにいたとは、何とも間抜けな話だ。
すると、その瞬間梅が小さく声を上げた。
釣られるように、が梅を抱き上げる。額に額を押し当て熱の程度を確かめた様だったが、妹は泣き出す素振りも無く、落ち着いていた。

「それにしても可愛いねぇ、名前は?」
「あぁ、梅だ」
「梅ちゃん!」

由来は、母が永年患っている病の名だ。
それを言おうか言うまいか妓夫太郎が言い淀む。
しかしは優しく梅の額に口付け、妹を祝福した。

「綺麗な髪だし、白梅の神様みたいだね、素敵な名前。それに何より、妓夫太郎くんと同じ、綺麗な青い瞳」

妓夫太郎の時が止まる。
今、は何と言っただろうか。
この目を、何と呼んだ?

「お兄ちゃんとお揃いで素敵な目に生まれたんだね、良かったねぇ梅ちゃん、嬉しいねぇ」

この醜い容姿を褒められたことなど、一度もありはしない。しかし、相手はこれまで妓夫太郎にたくさんの初めてを授けてくれたなのだ。照れ臭くとも、素直に受け止められる、信じられる。
今日、生まれてはじめて、瞳が綺麗だと褒められた。
もう一生得ることは叶わないと嘆いた絆を、修復できた。
梅の可愛さにすっかり夢中になるを前にして、妓夫太郎が小さく感謝の笑みを浮かべた。



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