少年は手放した



彼女は隣の区画を仕切っている女将の娘だと妓夫太郎が知ったのは、皮肉なことながら、普段なら耳を塞いで通り過ぎたい筈の噂話からだった。

曰く、件の女将は切見世の管理者の一人でありながら、大通りの店にも出入りして情報を仕入れているとか、自身の管理する店から優秀な遊女を教育・推薦して多額の紹介金を貰っているとか、非常に上昇志向の強い女で、己と立場が同等またはそれ以下の人間には見向きもせず、切見世の他の区画の女将連中からは疎ましがられているとか。

曰く、娘がひとりいるが、親子仲は決して宜しくないとか。という名のその娘は、女の身で勉学にばかり打ち込み、美しい反物ではなく分厚い図鑑を大事にしているとか。

曰く、その変わり者の娘が、醜い妓夫太郎と何か話し込んでいるのを見かけた、と。

彼女はという名前で、そしてあの分厚い本は、図鑑と呼ばれている代物らしい。
角をひとつ曲がった先で続く噂話に、妓夫太郎は聞き入った。彼女が植物に詳しかったお陰で自分が助けられたのは事実だが、その突出した知識力は切見世という小さな世界の中においては異物扱いの様だ。
下らない。彼女が目指しているのは外の広い世界だと言うのに。性根の腐った輩が彼女の才に嫉妬しているのだと、鼻で笑ってやりたいような気持ちがした。
しかしながら、街の人間たちから変わり者と眉を顰められている点は、ほんの少し自分と身近なものに思えたことも事実だった。勿論、怪物のように忌み嫌われている妓夫太郎とは、まるで程度が違うと理解はしているけれど。
親子仲が良くないという点に関しても、妓夫太郎は彼女に自分と似たようなものを感じていた。尤も、は妓夫太郎のように日々殴る蹴るの暴行は受けていないだろうけれど。
立場は違えど、彼女はほんの少し、自分と似ているのではと。
淡い期待が、ゆらゆらと妓夫太郎の中で燻りはじめたその瞬間。

「同じ切見世でも、自分は違うってお高くとまってるような女の子どもさ。あの汚い餓鬼と一緒にいたって話だけど、どうせ、哀れな生き物に施してやったくらいの気まぐれなんだろうよ」

「あんなに惨めで見窄らしい成りでまともに相手してくれる人間なんて、いる筈無いだろうに。ちょっと考えりゃあわかりそうなもんだけど、頭までイカれちまってるのかね。哀れな勘違いだよ、気の毒に」

思えば彼女は何故、自分の生まれを明かさなかったのだろう。
意地の悪い響きが棘のように、妓夫太郎の心に突き刺さった。



* * *



間の悪いことに、嫌な話を耳にしたその日の内に彼女は現れた。普段と違い橋の袂で蹲る妓夫太郎を見つけ、まるで探しものを見つけたかのような笑みを浮かべて駆け寄ってくる。妓夫太郎が不意に小さく身を硬くしたことに、今日のは気付く気配が無い。

「こんにちは」

こんな風にまともに挨拶をされたことなど、彼女以外にありはしない。妓夫太郎は返事をしなかった。しかしそれに気を悪くすることも無く、は妓夫太郎の正面に屈み込むなり彼の顔を観察し始めた。
頬の腫れが引いたことを確かめている。それを妓夫太郎が理解すると同時に、良かったと小さく囁いてが微笑んだ。
いよいよ出産が近く、気力も体力も無くした母は妓夫太郎に暴力を振るえないのだ。貰った薬を日々隠れるように使い続け、お陰様で頬の腫れは引いた。に礼を言わなくてはならない、ついでに、偶然名前と立場を知ってしまったことも。しかし真正面からばっちりと目が合ってしまい、今日も変わらず柔らかく微笑む瞳に、妓夫太郎は困ったように目を伏せる。
優しくされることには未だ慣れていない。こんなにも胸が暖かくなる感覚は、動揺してしまう。嫌ではない。彼女なら、彼女と接することは、嫌ではない。
もっと話せたら、もっと彼女を知れたら、今度こそ友達になれたなら。

「あのね、私今日、これ持ってるんだけど・・・」

は懐から、小さな包みを出した。中身は飴玉の様だった。妓夫太郎にとって口にしたことの無い、縁の無いもの。唾を飲み込んだ。彼女はこれを自分に渡そうとしてくれているのか。相変わらずお互い名乗ってもいない間柄にも関わらず、微笑んで誘おうとしてくれているのか。先ほど萎んでしまった小さな期待が、再び芽吹こうと顔を上げる、その刹那。
こちらを遠巻きに見つめる大人の視線に、妓夫太郎は気付いてしまった。

『どうせ、哀れな生き物に施してやったくらいの気まぐれなんだろうよ』
『まともに相手してくれる人間なんて、いる筈無いだろうに』

冷たい声が脳裏に響き渡る。
こちらを見ている大人は男だ、噂をしていた女たちではない。しかし、同じようなことを考えているであろうことがはっきりとわかるような、そんな冷えた目をしていた。
妓夫太郎と向き合っているは男の視線に気付かない。しかし、不意に辺りを見渡せば、冷たい視線はあちらこちらの大人たちから注がれているではないか。

「もし良かったら、あっちで一緒に食べない?」
「・・・」
「赤ちゃんもうすぐだよね?名前決まった?色々聞かせて!」

二人並んで座れるよう、近くの河原を指差しが言う。
渇いた喉が水を求めるように、妓夫太郎は手を伸ばしかけた。しかし、周りから注がれる奇妙な視線が、脳裏に焼き付く意地の悪い声が、無数の刃となって妓夫太郎の邪魔をする。

『・・・優しいんだね』

と過ごした淡い色の優しい思い出が、黒く塗りつぶされていく。

『哀れな勘違いだよ、気の毒に』

耳鳴りがした。肺に吸い込んだ息がやけに冷たい。

「・・・オレをバカにしてぇならそう言えよ」

時間が止まったかのように、の表情が固まった。
優しい笑みが薄れていく、妓夫太郎の心の内の暖かさが、こぼれ落ちていく。

の着ている服を見る、妓夫太郎とは違い清潔な着物。
の顔を見る、妓夫太郎とは違い痣の無い健康的な肌。
の手元を見る、妓夫太郎には縁の無い上等な菓子。

「お前、隣の区画仕切ってるババアの娘だろ」

普段と同じ自分の声が、一層掠れたように響く。
の表情がはっとしたものに変わり、その焦りに似た色が更に妓夫太郎を駆り立てる。
傷付けている、優しく手を差し出してくれたこの娘を、今自分は傷付けている。駄目だとわかっていても止められない、一度開いた口は、閉せない。毒を撒き散らすことを、やめられない。
彼女は自分とは違うのだと、ほんの気まぐれで弄ばれているのだと。心無い街民たちの噂話に加え、出自を言い当てられた際のの表情が追い風となり、強い思い込みが彼の憤りを加速させていく。

「てめぇより弱い人間に施しかよ、良いご身分だよなぁ」
「あの、私そんなつもりじゃ」
「楽しかったかよ、俺を見下して良い奴ぶって満足かよ、そりゃあそうだよな、お前は此処らを仕切ってる連中の家族で、俺はこの街一番の虫ケラだもんなあ、見下せるなんてもんじゃねえ、さぞかし気分が良かっただろうなあ!」
「違っ、そんなこと」
「何も違わねぇだろうが!」

決定的な威嚇に、が目を見開いて。その瞳に映る自身の醜さに、妓夫太郎は酷い不快感に襲われる。
しかしこれで良い筈だ。彼女から見た自分は哀れな生き物、自分より劣る、醜い生き物。気まぐれで施しを振りまかれてなるものか、これ以上舐められてたまるものか。貧乏なこの心を徒に弄ぶような輩なら、どこかへ消えてしまえ。消えろ、消えろ、消えろ。
自身の言動を正当化するため、また返ってくるであろう侮辱や攻撃的な態度に備え、妓夫太郎はありったけの呪いの言葉を準備し歯を食い縛る。
しかし、返ってきたものは怒りでも軽蔑の視線でもなかった。

「怒らせたなら、謝るよ」

彼女は小さく震えていた。
妓夫太郎に対する恐れではない、何故かそれははっきりとわかる。
はただ悲しみに震え、妓夫太郎を見つめていた。
耳鳴りが止んでいく、同時に頭の中が芯から冷え切っていく。

「ごめんなさい」

は頭を下げた。
顔を伏せる瞬間光って見えたのは、見間違いでなければ涙だ。
まるで頭を強く殴られたような衝撃に、妓夫太郎は目眩を感じた。



 Top