彼女の夢



妓夫太郎の身重の母は、大きくなった腹を抱えている。
元より病で身体を弱くしているため、思う様に身体を動かすことが難しいこともある様だったが、最近では何をするにも苦しそうに呻いたり舌打ちを欠かさない。増えていく悪態と比例するかのように、妓夫太郎に手を上げる回数が増えた。殴る蹴るが続く日もあれば、物が飛んで来る日もあり手法は色々だ。
そのため日々新しい傷や痣が増え、妓夫太郎は先日彼女から貰った薬を手放せない毎日が続いていた。なるべく母の機嫌を損ねたくは無いため、勿論家の中では使えない。自然と一日の大半を外で過ごすことが多くなる。しかし街中の人間に忌み嫌われている妓夫太郎は歩き回るだけで笑い者であり、石を投げられることすら珍しくない。外も無闇に歩き回ることは避けなくてはならない、ならば向かう先は限られてくる。
妓夫太郎の家からそう離れていない場所に、例の食べられると教えられた花の咲く平地があった。あまり人の立ち入らない場所だった上、腹が減ればあの花を食してやり過ごせる好条件の揃うここは、この上無い安全地帯だ。

一日の大半をここで過ごす様になり、早数日。珍しく先客がおり誰かと身構えれば、未だ名前を知らぬ彼女だった。妓夫太郎の足音を聞きつけ振り返り、笑ったのは一瞬のこと。彼女の目は素早く妓夫太郎の頬の腫れを捉え、次の瞬間には顔を顰めて肩を落とした。

「なかなか、治らないね・・・薬草、効き悪いの選んじゃったかな・・・」

彼女はぶつぶつと、妓夫太郎にはわからない単語を唱えはじめ、ああでもないこうでもないと独り言を並べているが、何となく薬草のことを話しているのであろうことは妓夫太郎にもわかった。
やはり、彼女は自分を心配してくれているのだ。
自分から他人に近寄ることは、正直なところ怖い。しかし一心に自分を心配し、今も眉間に皺を寄せて頭を働かせている彼女は、日々虐げてくる周りの人間たちとは違うこともわかる。
妓夫太郎は考えた末、少しの距離を空けて彼女の隣に腰を降ろした。

「・・・ちゃんと効いてる」
「でも良くなってないよ」
「仕方ねぇよ。毎日、殴られてるから」

彼女が目を丸くして妓夫太郎を見る。
事実、貰った薬は大変良く効いたので、それは伝えなければと感じたので話した結果だったが、失敗だっただろうか。あの薬が無ければ、今ごろ顔の形が変わっていたかもしれない。それほどに良く効いたし、これが貰い物であるという事実は、妓夫太郎の支えでもあった。

「・・・どうして?」
「母ちゃん、もうすぐ子ども産まれるから」
「えっ?」

労わるような声色の質問に、思わぬ方向からの新しい情報。ますます目を大きくして瞬きを繰り返す彼女に、妓夫太郎はまた失敗したかと気が気ではないが、彼女は更なる言葉を待ってくれている様だった。
しっかりと会話が出来るだろうか。
話を、聞いてくれるのだろうか。

「もともと俺にはよく手ぇ上げる人だ、ただ最近は余計にイライラするみてぇでな。ただでさえ病気持ちなのに、腹が重たいから好きに出来ねぇんだろ、色々と」

一気に言葉にすると、不思議なことに少し気持ちが楽になる気がした。殴る蹴るの暴行を受けている現実は変わらない、しかし日々もがき苦しんでいる母を見ていると、憐れむような気持ちになることも決して嘘ではなかった。

「ま、自分の腹をぶん殴るよりかは、大分マシだよなぁ」

本心だった。
餓鬼などこれ以上いらない、何故こんな目に。そう口にしながらも、母が自らの腹に決定的な打撃を与えずにいることを知っている。悔しそうなその拳を、自分が受けることで丸く収まるのならば。枯木のようなこの身体も、流石に赤子よりは丈夫なのだろうから、何とかなるだろう。

不意に、彼女からの返答が無いことに気付く。
隣に目を向けると、先ほどより少し距離をつめた場所に彼女はいて。
思いの外近くで、目と目があった。

「・・・優しいんだね」

柔らかく細められた瞳に、心臓が大きく脈打った。


* * *



それからのことは、妓夫太郎が目を白黒させている間に進んだ。
さてこうしてはいられないと彼女は慌ただしく立ち上がり、明日も同じ時間同じ場所で会えるかと問うた。気圧されるように頷くと、彼女は満足気に笑い、手を振り走り去る。
彼女の後姿をぼんやりと見送った後も、妓夫太郎はなかなかこの場から動けずにいた。日が暮れて、ようやくふらふらと帰路に着いた時でさえ、未だ頭の中がぼんやりした様な心地がしたものだ。
家では変わらず物が飛んできたが、じっと耐えながらも明日の夜明けを心待ちにする自分に、妓夫太郎自身は気付けてはいなかった。

夜が明けて、昨日の約束の時間よりかなり早くから同じ場所に寝転び、数刻。接近してくる駆け足の音に身を起こせば、何やら包みを抱えた彼女が嬉しそうに笑った。

「今度はこの薬、腫れてるところに試してみて。切り傷はこっちね」
「お前・・・」

昨日、あれから揃えたのだろうか。真新しい布に包まれた前より重量のある薬草に、更には小さな木箱に入った違う薬まで準備されていた。戸惑う妓夫太郎に対し、彼女は躊躇なく彼の手に包みを握らせて笑う。

「毎日殴られるなら、毎日もっと良く効く薬使わなきゃね!」

何てことを、笑顔で告げるのだろう。
しかしその前向きな言葉に、心が躍るのを強く感じて。
胸の内のむず痒さに、妓夫太郎は口元を小さく緩めた。

「お節介なやつ。俺なんかと話して石投げられても知らねえからなぁ」
「投げられたら投げ返すよ、大丈夫」

お節介と言われたことにも、まともに礼を言われないことにも、彼女は気を悪くはしない。石を投げられたら投げ返すなど、考えもしなかった返答に思わず小さく笑ってしまう。
声に出して笑うなど、妓夫太郎にとって一体どれほど珍しいことか。相変わらず嬉しそうに笑う彼女と共に、並んで腰を降ろす。
同時に今日の彼女の膝の上に、見たことの無いものを見つけた。

「それ・・・」
「見る?いいよ」

手渡されたそれは書物のようで、妓夫太郎の知るどれよりも大きく分厚い。やや古い様だったが、しっかりとした作りのそれを眺めるしか出来ない妓夫太郎に、彼女が横から表紙をめくった。
ぎっしりと刻まれた文字、描かれた絵は植物の様だ。当然のことながら、妓夫太郎には一切解読など出来はしない。
信じられないような思いで、妓夫太郎は彼女を見遣った。

「読めるのか?」
「うん」
「全部か?」
「なんとか」

少しだけ得意気に笑う彼女を嫌味にはまるで感じず、むしろ誇らしく胸を張る姿に感心してしまう。妓夫太郎には到底理解の及ばない分野ではあるが、まず文字の読み書きを十分に出来る子供は少ない筈だ。その上この様に膨大な情報量の詰まった一冊である。切見世と言えど、遊郭に暮らす女は子供の内から美を磨くことか芸事にのみ専念するのが常である中、文字の読み書きを使いこなし、大人でも尻込みしそうなこの本を抱えた彼女は、逸材以外の何者でも無いのだろう。
妓夫太郎に唖然と見つめられるのを感じながらも、彼女は小さく笑って口を開いた。

「私ね、大人になったら、外で暮らしたいから」

外とは。
妓夫太郎の中で理解が追いつくまでに、少し時間がかかった。

ここで生まれ育った子供たちは、遊郭という世界の中で生きていく。そういうものだと、幼いながらに子供たちは理解している。生活水準や格が上がったとしても、それは遊郭の中での話だ。
しかし、彼女の言う外というのは、遊郭より更に外の世界の話なのだろう。途方も無い話だ。

「何かひとつでも賢ければ、外でも生きられるかも」

途方も無い話だが、彼女の語る夢は、夢では終わらないような。そんな頼もしさに溢れているようで、思わず妓夫太郎は読めない本に目を落とす。彼女が眩しく思えた。

「だからこれは、いつか役に立つ私の武器、かな」

眩しく、頼もしく、暖かな存在。
年の近い子供とは思えないほどにしっかりと前を見据えた姿に、不思議なほど惹かれた。卑屈な気持ちは成りを潜め、ただただ感心した。彼女がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。この本は、彼女をいずれ外の世界へ連れて行く鍵になる。

妓夫太郎は真剣に彼女の話に聴き入っていた。自分の夢を聞いて貰えた嬉しさと、少しの気恥ずかしさに彼女ははにかむ。

「ふふ、格好つけちゃった。まぁ、厳しい夢なのはわかってるし、頑張っても無駄に終わるかもしれないけど」
「全部が全部、無駄じゃあねぇだろうな」
「え?」

彼女の学びは無駄では無いのだろう、妓夫太郎は本心からそう感じた。
何故ならば、今ここにいる自分自身がその証明であることを知っているからだ。

「あの時お前に止められてなかったら、俺は毒喰らってのたうち回ってたかもしれねぇって話」

毒なので食べては危険だと、見ず知らずの妓夫太郎を止めてくれた。あの日の出会いに、救われたのだと。
妓夫太郎がごく当たり前のように口にしたその言葉に、彼女がどれほど幸福を感じたのか。
当然のことながら、この時の妓夫太郎は知る由も無いけれど。

「・・・っありがと!」
「んでお前が礼言うんだよ、ばぁか」
「もし間違えて毒食べちゃっても、私が助けるからね!」
「食わないって。怖ぇこと言うんじゃねぇ」

照れ隠しに軽口が出るほどには、二人の距離は縮まった。
未だお互いに名乗ってはいないことなど、些細なことの様に思えた。




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