あの日に覚えた匂い



夏休みが明け、芸能ブロックにエントリーした三年柊組は本格的に文化祭の準備が始まった。
実演部隊は放課後に体育館の一部を借りて鱗滝に稽古を付けて貰い、裏方部隊は幸太郎が指揮をとり日々会議や買い出しに忙しい。
も先日の大会を最後に文化祭までは予定を入れていないため、基本的には実演部隊と行動を共にしつつ、時に煉獄家にて鍛錬に励む毎日を送っていた。これにより特に影響を受けたのが狛治率いる実演部隊であり、彼らはの演技を直接間近に見ることで元々高かった士気を更に上げた。休みの日を返上してまで鱗滝に頼み込んで稽古に励むとは、柊組の熱意は最早天井知らずである。

そんな日曜の昼頃、鱗滝家の稽古場にて。

「一年紅葉組、竈門炭治郎です!」
「お、同じく、素山恋雪です・・・!」

元気良く響いた二つの声を、午前の稽古を終えたばかりの実演部隊が迎え入れる。恋雪の自己紹介に対しては、知ってる、素山の彼女、などの声も飛び、彼女が赤くなる度に狛治が睨みを利かせる一幕もあった。
炭治郎は大きなバスケットをいくつも抱えており、中からは美味しそうなパンが顔を覗かせている。

「皆さんお疲れ様です!本日は三年柊組の皆さんへうちのパンを持ってきました!」
「一年紅葉組は文化祭の模擬店ブロックで、パンのアレンジ販売をします。皆さんには用意したパンの中から、美味しかったものや気になったものなど、アンケート調査にご協力いただければ幸いです」
「言わばパンの選挙です!清き一票を!」
「い、一票じゃなくても良いです、たくさんご意見お待ちしてます・・・!」

漫才?なんて声も飛んだりしつつ、最終的には恋雪の初々しい締め方に皆が温かい拍手をした。つまり、紅葉組の模擬店に出すパンの試食会のようなものである。評判の良かったものを採用しようという一年の試みを、実演部隊は喜んで受け入れた。
炭治郎は評判の良いパン屋の息子である。疲れた身体に美味しい食事とはまさに最高の調査だ。アンケートは全力で協力するので早く食べたいと群がる実演部隊を狛治が整列させる様を、は出入口付近からこっそりと見守り微笑んだ。

炭治郎からこの企画を相談された時はどうしたものかと少々悩んだものだが、なかなかお互いに利点のある結果になりそうだ。事前にお代は一律で徴収しているが、果たして本当に足りているかは怪しいところなので、そこは後日しっかり確認しなければ。そうして踵を返し、裏手の水道へと向かいながら大きく伸びをする。

午前の稽古では、しっかりと気持ちを入れてなかなかに良い動きが出来た様に思う。放課後の体育館は便利だが、どうしたって他の部活の騒めきがある。その点、鱗滝の家にある稽古場は集中するにはとても良い。午後も頑張ろうと前向きな気持ちで角をひとつ曲がった、その時。

「・・・鱗滝さん?」

は思わぬ光景に出くわし、身体を固くした。
鱗滝が天狗の面を若干ずらしてその目元を拭っていたのだ。

「ああ、お前か・・・すまんな。すぐに退く」
「えっ・・・あの、どうかされましたか?どこかお加減が悪いとか・・・?」

彼は何事も無かったかのように去ろうとしているが見過ごせない。が慌てた様に追い縋ると、鱗滝は暫し沈黙した後に小さく息をついた。

「いや、年を取ると涙脆くて困るな・・・。良いものを見せて貰った、魂が震えた」

一瞬何のことかわからず呆けていただったが、老人の様子からまさかと目を瞬いた。
鱗滝は、つい先ほどのの演技を見て涙を流してくれていたのだ。思わぬ反応に、は慌てるやら嬉しいやら気持ちが追い付かない。

「いや、そんな・・・ありがとうございます、嬉しいです」
「最近も度々良い演技を見せて貰っていたが、今日ここまで心揺さぶられるとは・・・感服した」

この狭い世界で特に年配者からの感想というのは、いつも身が引き締まる思いがするものだ。彼の様な年代の男性からこうまで手放しに褒められることは滅多に無く、は嬉しさに胸が熱くなる。

鱗滝の話し方は、かつて二度目の人生でを気にかけてくれた浮世絵師に雰囲気が少し似ていた。当時視界が暗闇だったにとって、相手の声や話し方の雰囲気は気配を判別するに際しとても重要な鍵だった。有墨は、つまり晩年の春男の話し方は低く穏やかで、どんな時もの耳に心地よく響いたものだ。大旦那様と慕った彼がどんな姿だったのか、は幼少以降の春男を知らない。けれどきっと鱗滝の様な雰囲気の老人だったに違いないと、内心で微笑まずにはいられない。がこれまで関わりの薄かった校務員に心を開き始めたその時だった。

「ただ、お前は・・・まるで、命を削る様に舞い踊っているように見えて・・・若干、心配でもある」

不意に齎された心配の声に、瞬間時が止まった様な気がした。
命を、削る様に。
三度目の人生を生きているにとって、その言葉はより意味を増して染み入る。

「いや、年寄の戯言だな・・・すまない、忘れてくれ」

鱗滝はすぐさま自身の言葉を訂正しようとしたが、は気付けばその言葉を追うように口を開いていた。

「ご心配、ありがとうございます。でも・・・どんなことをしてでも、会いたい人が、います」

不思議だった。
無難に流せば良いところを、正直に胸の内を明かしてしまう。
ただ何故か、こうして心配をしてくれる相手になら素直に話せるような気がしたのだ。

「何処にいるかはわかっていません。でも、その人に見つけて貰える様に、頑張ってます。此処にいるよって、伝わる様に」

鱗滝は黙っての言葉に耳を傾けてくれる。
やはり、そっと見守ってくれるような安心感が有墨の雰囲気に似ている。は僅かに眉を下げて笑って見せた。
どんなことでも出来る。二人に会うためならば、何だって出来る。

「命を削っている様に見えたなら・・・それくらい私が必死だってこと、見てる人に伝わってるって・・・思って、良いでしょうか」

命を削るような危うさを覚えて貰えるほどに、心を動かせているのなら。
この必死な気持ちも、誰かに伝わるだろうか。
探し求めている人に届くほど、自分は大きくなれているだろうか、と。

「ああ・・・お前の気迫は、間違いなく見る者を釘付けにする力がある」

力強く肯定してくれるその言葉が、優しく沁みる。在りし日の浮世絵師を思わせるその手に頭を撫でられ、は微笑んだ。
こうして周囲に甘えられるようになってきたことは、きっと悪いことではない筈だ。励ましてくれる友や、大人たちがいる。何より、寄り添ってくれる兄がいる。

「見つけて貰えると良いな」
「・・・ありがとうございます」

会いたいという気持ちは日々大きくなるばかりだ。
きっと、そう遠くない場所に彼はいる。そうして背を押して貰えたことがきっかけとなり、は前を向けている。

「天狗の、お面」
「ん?」
「その人も・・・昔、お祭りに一緒に行った時、天狗のお面を、付けてて」

鬼の面と同じく、祭のシーズンでは決して珍しくはないそれを見る度、切ない思いを抱いていたものだ。
初めての灯火祭、そして遊郭のおもて祭。二度の祭でそれを身に付けた彼と並んで歩いた思い出は決して色褪せない。
意識していた訳ではなかったが、これまであまりこの校務員と話す機会が無かった裏には、の心の奥底で逃げの感情があったのかもしれず。

「・・・懐かしいです」

けれど今はこうして、素直に懐かしむことが出来る。

「鱗滝さんに話してたら、早く会いたい気持ちが強まったから・・・また頑張ります」

奇跡の様な可能性を、一度は掴みかけたのだ。
きっと次は、見失わず掴まえてみせる。
幸福な未来を信じ決意を新たにする笑顔を前に、鱗滝がその肩に手を置いた。

「ああ。だが、無理は禁物だぞ」
「ふふ、身体は資本、ですね」
「そうだ」

角をひとつ曲がった先で二人の会話を聞いている少年がいることに、は気付かなかった。



* * *



炭治郎は前回の人生の記憶を有している。

時は大正時代、鬼に変貌した妹を人間に戻すため、人知れず鬼と闘い人の命を守る組織に彼は所属していた。
陽光と首を刎ねることでしか死ぬことの無い不老不死の人喰い鬼を相手に、幾度も命の危機に瀕し、その度仲間と助け合い、遂には鬼の始祖たる男を滅することに成功した。

数々の激闘はどれも記憶に色濃く残るものだったが、中でもひとつの情景が炭治郎の心の片隅で今も燻り続けている。
それは、或る鬼の兄妹を葬った時の記憶だった。
まさに死闘だった。命を獲るか獲られるか、ひとつ違っていれば勝敗はわからなかった様な闘いだった。首を同時に斬り落とされ敗北した兄妹は、お互い首ひとつになって尚詰りあいの口論を始めてしまい、思わず炭治郎は二人の間に割って入った。

炭治郎は鬼に変貌した妹を連れながら運良く人間でいられたが、歯車がひとつ噛み合わなければ兄妹で鬼になっていた未来もあったかもしれない。それを自分でよく理解できていたからこそ、彼はこの兄妹を放っておくことが出来なかった。
鬼である彼らは、これまで殺してきた数々の命に憎まれ、恨まれ、罵倒される。たった二人の兄妹なのだから、せめて二人だけはお互いを罵りあうべきではない。そうして間に入った炭治郎を前に、妹鬼は塵となり消える間際まで酷く泣き喚きこう叫んだ。

『お兄ちゃん何とかしてよぉ!死にたくない!死にたくない!っまだ・・・まだ、お姉ちゃんも先生も見つけられてないのに・・・約束したのに!消えたくないよぉ!』

大粒の涙は、その悲鳴の様な声と共に塵となりかき消えた。
炭治郎は思わずはっとして手元を見下ろす。頭部の半分を残し消えかかっている兄鬼から、胸が締め付けられるような匂いを感じとったためだった。

それはひとつの言葉で形用するには難しい気持ちだった。
誰かへ向けられた、ただひたすらに深い愛情。心から会いたいと願う誠実な思い。激闘の中では秘められていた鬼の思いが、切ない匂いとなって伝わってくるのを痛い程に感じた。
お姉ちゃん。先生。
妹鬼は誰かをそう呼び、約束を守れていないと言った。鬼となった彼らにも、こんなにも恋しく思うほどに大切なひとがかつて存在していたという現実。
やはり鬼は、哀しい生き物だ。

『・・・罪を償ったら、きっとまた生まれておいで』

涙を零す兄鬼の瞳が、炭治郎の方を見上げた。数字を刻まれ禍々しく光るこの瞳も、人間だった頃は違った輝きを持っていた筈だ。
願わくば、この兄妹が地獄で罪を償った末に、もう一度生まれてこれる様に。こんなにも強く焦がれる存在と、もう一度巡り合える様に。彼はそう祈らずにはいられなかった。
その言葉に返答は無かったが、兄鬼はその瞳を細め静かに泣いた。最後にその口元が動き何かを呟いた様であったが、炭治郎には聞き取れなかった。確信は無かったが、彼の大事なひとの名前だった様に思えてならず、思わず唇を噛む。
妹と手を重ね合い、その塵の最後のひとかけらが星空へ溶けていくまで、炭治郎はいつまでも彼らを見守り続けた。








かつて鬼だった者たちも生まれ変わっている今の時代に、彼らは転生できているだろうか。
常日頃から漠然と気にかかっていたことではあったが、今この瞬間は特にそう思う。
壁をひとつ曲がった先にいるから、覚えのある匂いを感じた為だった。

炭治郎は以前、恋雪と舞台上のについて話をしたことがある。普段とまるで似通わない気迫で何かと闘うような様子には、何か理由があるのではないか、と。炭治郎はその時、彼女に会いたい人がいることを思い返したが、それはやはり正しかったのだと今になり確信する。どんなことをしてでも会いたい人がおり、その人に見つけて貰えるよう頑張っていると、はっきりと彼女は鱗滝に告げた。

あの兄鬼が塵となる瞬間に発した、誰かを恋しく思う気持ち。あの日に覚えた胸に迫る切ない匂いと、今しがた聞こえてきたの声が重なる。遠く離れた誰かを思い、何とか思いを届けたいと願うその声が、消えゆく兄鬼の見せた愛情と同じ匂いを発している。不思議な感覚に炭治郎は目を伏せ、稽古場へと道を引き返した。

「あれ、竈門くん・・・さんたち、会えなかった?」
「あ・・・ごめん、ちょっと後にした方が良さそうかなって」
「そう・・・?それじゃ、お二人の分はこっちで包んでおくね」
「ありがとう、助かるよ」

鱗滝とに渡すパンをそのまま持って戻った炭治郎に恋雪は首を傾げたが、特に追求することもなく受け取ってくれた。あまりの美味しさに横取りしようとするクラスメイト達を狛治がチョップで制し、その場に笑いが起きる。

炭治郎が今生きている時代はとても平和だ。
あの鬼の兄妹も、この世界のどこかで生まれ変われていたら良い。の探し人にも、どうか思いが届きますように。
二つの願いを胸に小さく微笑む炭治郎は、二人が遠い昔から約束された存在だったことを知らない。


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