確かに彼は其処にいた



立花家はそこそこ大きな敷地を持つ家である。
広々とした稽古場と庭付きの一軒家は母が離婚してから建てたもので、兄妹は物心ついた頃からここで暮らしている。随分と昔から学校帰りには遊ぶより稽古漬けの日々を送ってきたため、親子三人には広過ぎる家に友人を招いたことは無かった。

今日この日までは。

「狛治殿、お疲れ様でした」

幸太郎から差し出された食後の緑茶を、狛治は礼の言葉とともに受け取る。
8月上旬。夏休みも半ばを過ぎたこの日、狛治と恋雪は立花家の夕食に招かれ四人でテーブルを囲んだ。今日は宇髄からの紹介先へ和太鼓の稽古の挨拶へ代表で行くという大役をこなしたので、確かに狛治はそこそこ疲れを溜めていた。しかし立花家へ招かれてからはそれを帳消しに出来るほどの世話を焼かれっぱなしで、若干申し訳ない。調理から片付けまで、狛治は一切動く必要無しという宣言通り、この家の兄妹は実に連携良く動き回り彼の手伝いを阻止した。

「何も手伝わなくて悪いな」
「何言ってるの、今日は素山くん一番大変だった上にお客様なんだから。恋雪ちゃんだって座っててくれてよかったのに・・・」

その鉄壁を上手に抜けたのが恋雪である。憧れの人の予備だというエプロンを借りてご満悦の彼女は、とともにリビングへと戻ってきた。と並んで洗い物をしていた時も楽しそうな声が響いてきて、狛治は癒される思いがしたものだ。

「いえ!私は今日本当について歩いただけですし、たくさん良いもの見せていただいたので、これくらいは・・・!」
「ふふ、ありがとう。助かったよ」

ゆらゆらと揺れる尻尾が見えそうな光景に、向き合っている本人も思わず頬が緩む。
サラダに素麺と唐揚げという夕食は大変好評の内に皿が空になった。初めて友人を招いたのだからもっと手の込んだ献立でも良かったような気もするが、皆楽しそうだったので良しとする。
改めて四人でテーブルを囲み直し、食後のお茶に口をつけた。話題はやはり昼間のこととなる。

「狛治殿は流石ですね。初めてとは思えないほどの出来栄えでした」
「・・・教え方が良いんだ。あれなら多分、他の奴らも休み明けから練習すればすぐ追いつく」

折角来たのだから、挨拶だけでなく覚えて行くと良い。そうして突然の稽古をつけられることとなった狛治は、見事その期待に応えてみせた。
驚くべきは狛治の柔軟性、そして。

「まさか宇髄先生の紹介先が、校務員の鱗滝さんとは思ってなかったけどね」
「私も、びっくりしました・・・」

表札の名前の通り、中から見覚えのある天狗の面が顔を出した時の驚きは凄まじかった。あえて住所以外何も言わなかった宇髄は、この反応を想像してにやけていたに違いない。

普段校務員として生徒たちを見守ってくれている鱗滝が、和太鼓の本格的な経験者とは思ってもみなかった。ともあれ、厳しい指導ながら大変わかりやすい解説を受け、狛治はあっという間に上達の鍵を掴んだのだった。

もお疲れ様でした。作品、気に入っていただけて良かったですね」

兄から話題を向けられ、が苦笑を浮かべる。

鱗滝はの活躍を知り、ネットに不慣れな中の過去の映像を探しては見てくれているのだと言った。それに対し当然の様にお礼を言ったところ、足早に奥の和室へ通されたのである。
一組の墨と筆、そしてどう見ても上質な長半紙の準備が整っており、照れた様に小さく頭を掻く老人の素振りには筆を取る覚悟を決めた。

「うーん突然だったからちょっと不安だったけど、上手く書けてほっとしたよ・・・」
さん、とっても素敵でした・・・」
「ふふ、今日恋雪ちゃんから褒められ過ぎておなかいっぱいだよー」

大会では大きな紙と大きな筆で作品を仕上げるのが常だが、当然通常の大きさの紙と筆での稽古も続けているし、週に一度は母と共に書と向き合う時間を取っている。何より書道家としては、いつどんな時、どんな道具を用意されても全力を振るうべしとは心に決めていた。

リクエスト通り出来上がった『明鏡止水』の文字を眺め、鱗滝は心が洗われる様だと背筋を伸ばして感動してくれたので、は安堵した。
思わぬところで“和室にて書道と向き合う”というファン垂涎の現場に居合わせ、恋雪が感情を持て余したというのはちょっとした笑い話である。

「響凱先生の方で必要な数の和太鼓は休み明けまでに準備していただけるみたいだし、あとは鱗滝さんと皆の日時を調整しつつ、実演部隊は練習あるのみかな」
「そうだな、あとは音楽の選定を・・・」
「それは裏方の管轄ですね、お任せください。和太鼓と相性が良い曲を選びますよ」

秋の本番まで時間がありながらも、好スタートが切れたことで早くも良い予感がする。そうして団結力を高める三人を見て、恋雪が小さく肩を落とした。

「・・・当日は勿論楽しみですけど、私も何かお手伝いがしたいです」

ぽつりとそう呟く恋雪は、ほんの少し淋しそうな顔をしながらもやはり可憐だ。狛治だけでなく全員が思わず頬を緩め、が優しくその頭を撫でた。学年が違うのだから仕方が無いことだが、こうせずにはいられない。

「ふふ、気持ちは嬉しいけど恋雪ちゃんは自分のクラスのこと頑張らなくちゃ。紅葉組は何するか決まった?」
「あっ・・・はい。模擬店になりそうです・・・美味しいパンが調達出来そうなので、クラスで文化祭風にアレンジしようって」
「・・・竈門くんだね?」
「ふふ、当たりです」

一年紅葉組はパンのアレンジの模擬店を出す。しかもベースはあの炭治郎が焼いたパンだ。これはなかなか、中学一年にして模擬店ブロックの覇者候補になりそうな予感にと幸太郎が顔を見合わせて笑った。
いまひとつ会話に乗り切れなかった狛治が一瞬遅れて頷く。

「ああ、パン屋の・・・」
「素山くん行ったことない?あそこ本当に美味しいよ」
「我が家は見事、米派からパン派へ鞍替えしましたからね・・・」
「ほお、それはなかなかだな・・・」

恋雪のクラスメイトに、この辺りで評判のパン屋の息子がいるということは狛治も知っていた。いつぞや、恋雪を迎えに行った際に何やら話し込んでいた様で、丁寧に会釈をされたことを覚えている。

まさか前の世の自身と大きく関わりのある少年とは思いもしないだろう。友人宅の主食を変えたパン屋に感心したように呟く狛治を見上げ、恋雪が小さく微笑んだ。

「実は私もお話だけ聞いてて、まだ行ったことが無くて・・・」
「えっ恋雪ちゃんも?それは勿体ないから近々二人で行きなよ、お兄ちゃん今年はお盆休みとか張り紙無かったよね?」
「一昨日行った時は見かけませんでしたね」
「・・・お前たち常連だな」

さらりとほんの二日前にも買い物をしていることを話され、狛治が冷静に突っ込む様子に恋雪が可笑しそうに小さく笑う。
大変に平和な食後の風景である。

「狛治さん、是非行ってみたいです」
「そうですね、今週中にでも行ってみましょうか」

そうして微笑み合う二人に温かな気持ちを分けて貰い、はお茶の追加を準備すべく席を立つ。
この場に、あと二人がいてさえくれれば完璧に幸せと言えるだろう。どうしたって考えてしまう願望は、そっと自分の中へと押し込めた。



* * *



早めの夕飯にしたとはいえ、なかなかの時間が経過した。
未だ他の家族が戻る様子の無い立花家に、狛治は自然と浮かんだ疑問を口にする。

「今更なんだが、家族は今日不在なのか?」
「あ、そうそう。随分昔に離婚してるから父はいないし、うちのお母さんちょこちょこ個展とか催事で遠征してるから不在の日が多いの」
「・・・個展?催事?」

小首を傾げている狛治と恋雪を前に、兄妹はふと思い至る。恋雪はが活躍し始めてからのファンなのだ。母が書道家であるということは、考えてみれば未だ打ち明けたことのない話だった。

「あっ・・・そっか、教えてなかった。母は元々、書道のパフォーマーなの。今は普通の書道家だけど、当時は結構活躍してたみたい。私がこの世界に入ったのも、それがきっかけのひとつで・・・」
「え・・・そうだったんですか?」
「初めて知ったぞ、母娘で書道家だったんだな」

二人して驚きを隠せない様子に、思わず幸太郎が小さく微笑む。狭き世界なだけに、“立花ふじの娘“というイメージばかりが先立ち、思うようにいかなかった時期は決して短くはない。それがこうして、逆に母も書道家だったのかと驚かれるようになったことは、紛れもなく自身の努力の成果だ。苦労していた妹の姿を見て来た兄として、嬉しくない筈が無い。

「・・・ふふ、そういう反応は嬉しいですね。二世の宿命ですが、最初の方は母の名前ばかりが先行して、なかなかの名前は覚えて貰えないことが多くて」
「内心悔しかったなぁ・・・でも、それだけ凄い人だったってことなんだろうなぁって・・・反省もした、かな」

最初の頃は何処に行っても母の名が出たし、母の打ち立てた記録や数々の受賞歴も聞きたくない程に耳に飛び込んできた。幼いが自身を見て貰えない悔しさと共に覚えたのは、それほどの功績を残した母の偉大さだった。

確かに、以前から何かに打ち込む姿勢は妥協が一切無かった様にも思う。その向かう先が、あの時代は遊郭の中で女将としてのし上がるということだった、というだけで。
当時のには理解出来なかったことだけれど、外の世界を知らずあの街で生きていくにはそれしかなかったのではないかと、今なら少しは考えることが出来る。

「・・・やっぱり、前からちゃんと話せば、親子関係もちょっと違ったかもしれないのに」

ぽつりと呟かれた言葉の重みに、狛治と恋雪が目を瞬いた。
前、とは。何も知らなかった頃ならば流せたことが、今であればもしやと勘繰ってしまう。

「・・・おい、まさかとは思うが」
「・・・そのまさか、なんです」
「えっ・・・?」

幸太郎が苦笑を浮かべながら狛治の言いかけた説を認めた。の母もまた前世からの繋がりを持っているだなんて、狛治と恋雪にしてみれば驚き以外の何物でもない。両手を口に当てて目を丸くしている恋雪に見つめられ、は小さく手を振って補足をする。

「あ・・・えっと、お母さんは確かに生まれ変わりのその人なんだけど、記憶は持ってないの。でも、前の時は色々あってお互い全然わかりあえなくて・・・それっきり。今は違うよ。まぁ決してべったりじゃないけど、お互いに普通の関係築けてるとは思う」

二度目の母娘関係。一度目は最悪に近い形で始まり、雪解けを迎えることなく終わってしまったけれど。二度目の今は、恐らくそう悪くはない。少なくともはそう信じているので、笑ってそう告げることが出来た。

一方それを受けた狛治と恋雪は、ひとまずの今代の家族関係が良好であることは喜ばしいが、それとは違った部分でやはり驚きを隠せない。友人同士が兄妹として生まれ変わることだけでも凄いことだと言うのに、更には片方は母と娘の関係すら引き継いでいるという。

「・・・何というか、凄い縁が固まっているな、お前の家は」
「というより、さんと立花さんの引く力が強いんじゃないでしょうか・・・」

引く力、と恋雪は言い表した。
引力の様に何かを引き付ける力。と幸太郎がそれを持っているため、前世で関わりのあった者を自然と近くに引き寄せるのだろう、と。

「きっと、お二人のことも見つけられる気がしますね」

縁が強ければ強い程、きっと二人の生まれ持った引力が相手を引き寄せる。その兄妹は話に聞く限り、仲が良かったのは幸太郎も勿論そうだが、に至っては十年以上の付き合いがあったと言う。
それだけ長く一緒に過ごした絆があるのだから、きっと今回も見つけられる筈。そうして恋雪に微笑まれたことで、は暫し黙り込んだあとに小さく俯いてしまう。

有難い。本当に、心強い。

「・・・なんか、こうやって家族以外の人から励まされると、嬉しいね」
「本当に・・・。お二人には感謝しかありません」
「だから、礼にはまだ早いって話はしただろう」

狛治の呆れたような苦笑を受け、兄妹揃って小さく笑って返す。
そうして並んで笑う双子を前にして、狛治は考えていたことを話すタイミングが今であることを悟った。

「・・・立花、落ち着いて聞いて欲しいんだが」
「なに?」
「あれから考えたんだが・・・お前、本当にあの日に見間違いをしたのか?」

何を、とは言うまでも無い。
途端に、の表情が引っ込んだ。
和やかな空気を一変させてしまうことは忍びないが、親が帰ってこないならば話が中断することもない。これは狛治自身、近い内に話すことを決めていた内容だった。

「お前の説明だと、水族館の中で一度見失ったって話だったな」
「・・・うん」
「館内は薄暗かった。焦って探すあまり、最初に見た奴とは違う奴を掴まえたって可能性は無いか」

あの日、は泣いていた。
妓夫太郎に会いたい、と声を上げて泣いていた。
そこには恐らく、一度見つけた期待から見間違えてしまった絶望まで、色々なものが混ざり合っていたことだろう。
しかし順を追って冷静に考えると、狛治はどうも腑に落ちない点があることに気付く。

「・・・狛治、殿」
「これだけ心血を注いで探している相手を、立花が見間違えるとは・・・正直言って考え辛い、俺はそう思う」

果たしてが、それほどに強く思い続けている相手を、本当に見間違えるだろうか、と。

「・・・さん、私も同じ考えです」
「恋雪ちゃん・・・」
さんも、あの日間違いないと思ったから・・・一生懸命、追いかけたんじゃないですか?」

恋雪が言葉を重ねた通り、はその時、確信を持って彼を追ったからこそ、違っていたことに大きく傷付いたのではないか。
最初に見た相手は間違いなく本物で、しかし一度見失ってしまった焦りから違う人間に目標が挿げ替わってしまったのではないか、と。

「あの日、そいつは確かにそこにいたんじゃないか」

水槽の向こう側に見た相手は、確かに妓夫太郎本人だったのではないか。
狛治から告げられた言葉に、は困惑したように目を見開いた。
あの日はショックのあまり考えることを放棄してしまったことが、今違う方向からの可能性を示され、酷く動揺する。
何てことだろう。もしそうだとしたら、やはりあの時不注意から見失いさえしなければ、今頃は。

「・・・妓夫太郎くんが、本当に」
・・・」

そうして自己嫌悪に震えそうになるを、横から幸太郎が支えた。
狛治としても、を徒に不安にさせたい訳ではない。あくまでも、前向きな策を提示するために話しているのだ。

「可能性の話だ。だが立花、俺はそのつもりで行動すべきだと思う」

の目線が上がり、狛治としっかり目が合った。
妓夫太郎は確かに今この時を生き、存在している。曖昧な希望ではなく、それを前提として動くべきだと狛治は告げる。

「少なくとも、そいつは隣町の水族館へ来れる圏内に存在している。それを念頭に置いて、お前はもっと名前を広めるんだ。今後の大会も勿論だが、文化祭はチャンスだぞ。外部にも事前告知をするし、当日は配信もある」

の目に光が戻る。それを見届け、狛治は小さく苦笑を浮かべた。
幸太郎の様に献身的に支えることはしない。狛治がそうすべきは恋雪ただ一人だ。けれど、友として背筋を伸ばすよう軽く拳をぶつけることくらいなら出来る。
これだけ前世からの縁を引き寄せる力があり、学内外に名も広まりつつある今、秋の文化祭を最大限に利用しない手は無いだろう。
水族館にいた男はきっと彼女の探し人本人だ。ならば、発信し続ければいずれは何かが届く。狛治は確信に近い思いを感じて口の端を上げる。

「頑張りましょう、さん。きっと届きます。もしかしたら、もう近くまで届いているのかも」

恋雪の優しい言葉が、狛治からの励ましを後押しする様にの中へ染み込んでいく。
とんでもない可能性を取り違えたことへの自己嫌悪が薄まり、再度目の前に新たな道が構築されていくような気がする。細い道の先に、きっと妓夫太郎がいる。今なら恐れることなく、その可能性を信じることが出来る。
目の前の友人二人が、頷いて励ましてくれる。
隣にいる兄が、優しく肩を支えてくれる。

「・・・ありがとう。私、頑張るよ」

大丈夫、頑張れる。
の笑顔に、幸太郎が心底安堵したように微笑んだ。


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