閑話:日陰の少女の話









※ご注意ください

無限列車に出てきた三つ編み少女・結核少年に名前(苗字のみ)を付けています。 今後もし名前が発覚した際は修正しますが、何卒ご理解ください。













7月下旬、どこの学校も夏休みを迎えようという時期。
M中学に通う藤堂という名の少女は、疲れた顔をして電車に揺られていた。トレードマークの三つ編みは全体的に解れ、手すりに頭を任せてしまうほどに身体が怠い。
世間はほぼ夏休みだというのに、休み入りの遅いM中学は明日まで授業と終業式がある。大会でこんなにも疲れているというのに、何故明日登校せねばならないのだろう。憂鬱なため息が零れ、大きな荷物を倒さないようにだけ神経を使う。

こんな時、立花なら隣に付き添う双子の兄が荷物を持ち支えてくれるのだろうか。それとも、今日来ていた応援の友人たちに盛大に労って貰えるのだろうか。楽屋の隅で今日の最優秀賞を祝われていた、あの照れ臭そうな顔を思い出すと胸の内が曇る。
もういっそ顔も見たくない存在だというのに、同い年の彼女は常に藤堂の前へ立ち塞がる。そして決まって、あの人の好さそうな顔で穏やかに笑い、話しかけてくるのだ。




『藤堂さん、お疲れ様』




演技中は誰も寄せ付けないような圧を放つその顔で、試合後に友好的に握手を求めるその態度が、どうしても気に入らない。敵とは慣れ合わないとその握手を跳ね除けた際の、困ったような苦笑も気に入らない。自分が悪いことをしているような気分にさせられる、大変に不可解な存在だ。今もこうして、考えたくもないのに彼女のことで頭を悩ませる自分が嫌になる。
そうして藤堂が眉間に皺を寄せた、その時。

「お疲れ様ぁ。ねぇどうだった?今日は彼女に勝てたかい?」
「・・・」

不自然なほどに乗客の少ない、席なら空き放題の車両の中。
ぴったり隣に滑り込んできた男の声に、藤堂は心の底から嫌な顔をした。

最悪だ。何故よりによって今、に何度目かわからぬ敗北をし、疲れて帰宅している最中に現れるのか。
に勝てたならどんなに良いか。例え誰も応援に来ずとも、大層気分良く帰れた筈なのだ。それをこの男は、人の神経を逆なでして喜んでいるかのように笑っている。

魘夢という名の、実に嫌な男だ。
人が疲労や悩んでいる時に限って近くに現れ、傷口を抉るようなことを囁き去っていく。

良く知っている、近寄りたくない筈なのに、気付くといつも間合いに入られている。恐らく今の彼は人間だが、もう関わりたくもない。前世のような負い目はもう断ち切った人生を送りたい。
そうして奥歯を食い縛る藤堂の横顔を眺め、魘夢は実に愉快そうな笑みを浮かべて見せた。

「そうだよねぇ、彼女って強いよねぇ。なんたって、えーと何だっけ?すごいトーナメントで、高校生を押しのけて優勝しちゃうくらいだもんねぇ、君が手も足も出ないのは仕方ないよ、うん。そんなに気に病まないで」
「・・・天神杯よ!名前も知らないで勝手なこと言わないで!私だって次はもっと順位上げてみせるわよ!」
「まぁまぁそんなに怒らないで。今日は君に、良いことを教えてあげようと思って来たんだから」

良いこと。
魘夢が発するそんな単語に意味は無いと知りつつも、今の藤堂の荒んだ心には酷く魅惑的な単語だった。
思わず押し黙る彼女に機嫌を良くして、魘夢は告げる。

「君と同じ学年に、顔に痣の目立つ不良がいるだろう?」
「・・・それが?」
「彼、君のファンみたいだよ」
「・・・は?」

藤堂は思わず顔を顰めた。
同じ学年の、顔に痣の目立つ不良。
心当たりは確かにあるが、話したことも無い男だ。それもその筈、不良中の不良と知られており、彼と積極的に関わろうという生徒が少ない為だ。鋭い目付きを思い出し、改めて覚えるのは恐怖である。そんな不良が、藤堂のファンであると魘夢は言う。
嘘を吹き込むならもっとそれらしい嘘を言えば良いだろうに、一体何のつもりなのか。

「俺、最近よく見かけるんだよね。その度に彼、ずーっと君の出てる大会の動画を見てるんだ」
「下手な嘘言わないで、あんな不良が書道の大会なんて見る筈無いわ」
「ふふふ、わからないじゃないか。疑うなら他の人に聞いてみれば良いよ。ほら、彼は確か同じクラスじゃなかった?」

他の人に聞けば良い、それは自信があっての物言いだと錯覚させられてしまう。その上、具体的な人物まで示してくる。
前回の人生では結核を患っていた彼を思い起こし、藤堂は魘夢を睨み付けた。

「・・・どうして光谷のクラスを把握してるの」
「さぁ、どうしてだろう」

こちらからの問いには答えない。あくまで一方的に喋りたいことだけを喋り、この男は勝手に藤堂へ干渉してくるのだ。
確かに彼はあの不良と同じクラスの筈だが、藤堂でさえ自信の無いことを何故魘夢が把握しているのか。
一切は明かされず、この気味の悪い笑みばかりが返される。

「とにかくちゃんと教えてあげたからね。自分でも確認出来たら声をかけてあげると良いよ。あれだけ熱心に見てるんだから、君から声をかけて貰えたら彼もさぞかし喜ぶだろうねぇ」

そんなことがある筈が無い。
けれど、今日に限ってはどうにもその言葉が甘い囁きに聞こえて仕方が無い。
自分に熱心なファンがいる、だなんて。
と自分を比べて孤独を感じている時に限って、そんなことをちらつかせるだなんて。

「・・・悪夢だわ」
「ふふ、それって最高」




* * *



「光谷、ちょっと」

夏休み前の登校最終日、藤堂は光谷を呼び出す。
今回の人生ではもう咳込むことの無くなった彼は、何の疑問も無く静かに頷き藤堂について教室を出た。

二人は中学三年の今こそクラスは違うが、一学年一クラスだった小学生の頃から同じ学校に通う付き合いの長い存在だ。藤堂の方はすぐ光谷の存在に気付いたが、彼に記憶が無いことを察するなり余計なことを言わず今に至る。
しかしそれでもこの付き合いの長さは、前世からの縁を感じずにはいられない。縁と言っても魘夢に利用されていた仲間という柵だ、碌な縁ではないだろうけれど。

「・・・あんたのクラスの不良なんだけど」
「あぁ・・・彼」
「なんか・・・最近、変なこと無い?」

不良という単語ですぐに話が通じる程に、彼はM中において悪い意味での有名人だった。光谷も同じクラスでありながら、彼と直接話したことが無い。誰もがその恐ろし気な雰囲気を遠巻きにして、彼自身もまた誰も寄せ付けない。同じ中学に通う美人の妹以外は、誰一人彼に対して近寄らない。そんなクラスの一匹狼のことを突然藤堂から聞かれ、光谷は暫し宙を見上げ思案する。

変なことは、無い。彼はいつも妹がいなければ一人だし、誰とも会話をしない。
けれど、光谷は彼の変化を知っていた。

「変ってわけじゃないけど・・・最近、書道の動画を良く見てるね」

藤堂の肩が小さく跳ねた。
それに特別疑問を覚えることなく、光谷は続ける。

「席が近いから見えるんだ。最初は意外でちょっとびっくりしたけど、真剣な顔して見てるよ」

誰もが欠伸をかみ殺すような退屈な映画を、授業の一環で見せられていた時のことだ。イヤホンは入れつつも堂々と自身のスマホで動画を見る彼を見て、流石度胸が据わっているとぎょっとしたものだが、内容が書道だと気付いた途端に光谷は驚きに目を丸くした。

あまりに不良のイメージとはかけ離れた内容だが、彼は真剣にその動画に見入っていた。そうして彼を気にする様になって初めて、繰り返し繰り返し暇さえあれば彼が書道の動画に、特定のひとりに見入っていることに気付く。
誰もが目を逸らす彼が、食い入る様に真剣に眺めている書道の大会動画。その横顔がどこか優しげにすら見える気がして、光谷は彼に対して抱いていた勝手な先入観に誤りがあったのではないかと感じ始めていた。

「あ・・・藤堂さん、大会出てるよね?彼と知り合い?」

話が逸れたが、光谷は藤堂に向き直り逆に質問をした。考えてみればこの付き合いの長い存在もまた、小学生の頃からその道で努力を続けているひとりなのだから。
そうした意味で口にした質問だったが、これが酷い悪手だったことにお互い気付かない。

「いや、知り合いじゃないけど・・・わかったわ、ありがと」

藤堂はそれだけ告げてから光谷を置いて去った。一人残された光谷は、突然何だったのかとぼんやりと瞬きつつも、去り際の藤堂の顔を思い浮かべる。
困惑した様な、ほんの少し期待する様な、そんな表情。それほど彼女に有益な情報を話したつもりは無かったのだけれど、と押し黙り。

「・・・あ、でも見てるのは・・・」

振り返った先に、当然彼女の姿は無い。
もしや、何か妙な勘違いをさせてしまったのではないか。光谷は嫌な予感を覚え、藤堂の姿を探した。



* * *



その姿は、誰もいない教室の隅に見つかった。
扉の開閉音に瞬間こちらに目を寄越したように見えたが、すぐに彼の視線は自身のスマホの動画へと戻る。
遠目に見ても判別がつく。間違いなく書道のパフォーマンス動画を見ている。藤堂は若干の恐怖と期待を覚えつつ、一歩を踏み出した。

「・・・あの」
「あぁ?」

彼は直接話しかけられても椅子から立ち上がることは無く、気怠い視線を寄越すだけだった。
制服姿ではわからないだろうか。けれど今まさに動画を見ているのだから、実物が目の前にいることに少しくらい気付いてくれても良さそうなものではないか。
緊張と共に僅かな期待が顔を出しかけた、その時。彼女の目が、彼のスマホの画面を捉えた。

鬼の面を外した立花の顔が、そこに映っている。突如、足元が崩れるような感覚に藤堂は目を見張った。

「・・・」

天神杯、決勝戦の動画だ。
彼が見ていたのは、自分ではない。
魘夢に嵌められたと理解出来た途端、彼女の頭の中が急速に冷え切った。
確かに不良で知られる彼は熱心に動画を見ていたのだろう。
確かに天神杯は、藤堂も出場したトーナメントで間違いない。
けれど。

「・・・あぁ、お前・・・“初戦”だなぁ」

頭の中の何かと照合出来たかのように、彼は藤堂をそう呼んだ。
初戦。
天神杯、立花の初戦の対戦相手が藤堂だった。ダイジェストでしか配信もされない、哀れな初戦敗退者だ。しかし、それでも彼は初めてまともに顔を上げて藤堂を見据える。

「立花ってのは・・・どんな奴なんだぁ・・・?」

藤堂が誰かわからない内は、視線を寄越すだけだった。それが、の初戦対戦相手だとわかった途端に明確に姿勢を変えて藤堂を見る。

誰一人応援にも来ない孤独な負け続きの中、ようやく見つけたかもしれなかったこちら側の存在は、蓋を開けてみれば立花の側の人間だっただなんて。
余計な希望をちらつかせた魘夢が憎い。

「っ知らない、わよ。何で私が・・・あんな、何もかも持ってるような人のことなんか・・・」

何もかもを攫っていく、彼女のことが―――。

「・・・妬ましいんだなぁ」

彼の言葉が全てを表していた。
非難された訳でも、嘲笑われた訳でもない。
ただただ淡々と、目を見てそう告げられた。
胸中を見事に言い当てられたことで、藤堂は今度こそ言葉を失くす。彼はそれ以上何も言わず、鞄を手に席を立ち教室を後にした。

「・・・あっお兄ちゃんいた!置いて行かないでよぉ!」
「ちゃんと待ってるだろうがよぉ。帰んぞぉ」

扉のすぐ外から二人分の声が聞こえ、そして足音が遠ざかっていく。
光谷は少し遅れて、後方のドアから教室に入ってきた。今の情けないやり取りは間違いなく聞かれていただろう。

「・・・藤堂さん、大丈夫?」
「大丈夫な訳・・・ないじゃない・・・」

惨めな思いに食い潰されそうだ。
成程、確かに天神杯は藤堂も出ていた試合だった。は優勝、藤堂は初戦敗退、それだけの話だ。にも関わらず、魘夢の適当な話に踊らされて期待をしかけた自分が愚かしい。

彼の言った通り、妬ましいのだ。孤独な上に負け続けている自分が、何ひとつ彼女に敵わないことが悔しいのだ。
傍で支えてくれる家族も、応援してくれる友人も、更には絶対的な強さも。藤堂の望む何もかもを、立花は容易く手にしているのだから。
彼女を妬んでしまう浅ましさに、胸の中がどんどん暗くなっていく。

「・・・あの、藤堂さん」

深く沈む、深く、深く。

「もし迷惑じゃなければ・・・次から大会のある日、教えてくれないかな」

それは、突然だった。
藤堂と目が合った光谷は、若干気恥ずかしそうに笑っている。

「彼がずっと動画を見てるのを意外だなって気にしてたら、僕も興味がわいて・・・応援、行ってもいいかな」

光谷は恐らく、藤堂の恥ずべき勘違いを知っている。それゆえ、気を遣ってそう言ってくれているのかもしれない。
けれど、例えそれでも。
光谷のその一言は、沈みゆく藤堂の手を掴むに至る強さを持っていた。

「・・・大体平日だから来れないわよ、馬鹿じゃないの」
「あ、そうなんだ・・・」

藤堂には何も無い。
支えてくれる家族も、他の追随を許さぬ力も、特別なファンもいない。

「・・・でも、もし休日の時があったら、教える」

けれど今日、長らく日陰にいた彼女に、初めて応援してくれる友が現れた。




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