二人の限界



恋雪の私室は持ち主の雰囲気そのものな部屋で、は宛がわれた柔らかいクッションを抱えるようにして丸くなっていた。狛治と幸太郎も白い丸テーブルを囲むようにして直に座り込み、暫しの鼻を啜る音ばかりが部屋に響く。
そんな中、少しの間席を外していた恋雪が戻ってきた。テーブルに手早く人数分の飲み物を置き、には半月膳を用意している。

さん、お茶ここに置きます。あと、これ使ってください」
「・・・?」

可愛らしい膳の上にお茶と共に用意されていたのは、折り畳まれた二種類のタオルだった。

「冷たいタオルと、蒸しタオルです。交互に使うと良いですよ」

ぼんやりとそれを眺めるの目は、涙が枯れるまで泣き腫らしてしまった影響で真っ赤になっている。憧れの人の痛々しい様子に胸が痛み、恋雪は困ったように眉を下げながらも優しく笑いかけた。

「昔、身体を壊してばかりだった頃は毎日の様に泣き暮れていて・・・こうすると目の腫れが引くので、よく使っていました。おすすめです」

あれから随分と長いこと、は兄の胸を借りて声を上げて泣いた。あの様な大泣きは、もう記憶も無いほど昔に遡る頃以来ではないだろうか。それも、兄以外の人前でだ。恥ずかしいなんて次元のものではなく、今更申し開きも出来ないほどに醜態を晒してしまった。
再度鼻を啜り、は小さく咳込んだ。泣きすぎて声が掠れる。

「・・・ありがとう、恋雪ちゃん。迷惑かけて、ごめんね」
「謝ったりしないでください、何も迷惑じゃないです」

冷たい方のタオルを有難く拝借して目に押し当てる。腫れあがった目が優しく冷やされる感触に、は思わず溜息をついてしまう。

情けない。恋雪にこんなにも気を遣わせて、何をしているのか。恋雪だけではない、狛治も、勿論兄にも心配をかけている。あまりに散々な有様に、は自己嫌悪が止まらない。
そんな彼女を暫し見守り、最初に口を開いたのは狛治だった。

「・・・話を整理してもいいか?」

この言葉に僅かびくりと肩を揺らしたのは、だけでなく幸太郎も同じだった。
はあの後もひたすらに、妓夫太郎に会いたいと泣き喚いた。その尋常ではない様子は勿論狛治と恋雪に筒抜けであったし、二人に大層心配をかけてしまった。我に返ってから後悔の坩堝に頭を抱えるに対し、狛治が言ったのだ。
嫌な話を無理に聞き出すつもりは無いが、話して楽になることならいつでも聞く心積もりがあるぞ、と。真剣にこちらを案じる狛治と、若干貰い泣きをしながらその隣で頷く恋雪を見て、幸太郎は暫し考えた末に妹へ告げた。信じて貰えるかはわからないけれど、二人に話してみませんか?と。妹の様子からして、妓夫太郎がただの『会いたい人』ではないことは明白に二人に伝わってしまっている筈だ。色々なリスクはあったが、彼らとの関係性を兄なりによく考えた上での提案に、は暫し間を置いた後小さく頷いて見せた。

がこのままの顔で家に帰れないこともあり、四人が隣町の水族館から恋雪の部屋へと場所を移してもう大分時間が経つ。話せることを、話せる範囲で、話せるだけ。声を枯らしたに代わり幸太郎の口から告げられた現実離れした話を、ほんの欠片でも素直に信じて貰える可能性はどれほどだろう。

「まずお前たち二人は、前世の記憶を持っている。今は兄妹だが前回は友人同士で、同じ町に越してくる直前に事件に巻き込まれ死に別れている。立花と一緒に消えた友人兄妹の生まれ変わりを探していて、兄の方が妓夫太郎という名前の男で、立花と当時結婚の約束をしていた相手・・・で、間違いないな?」

そうして緊張して身構えていた兄妹に対し、狛治がスラスラと口にしたのは見事としか言えないこれまでの要約だった。
の二度目の人生に関しては鬼など諸々難しい話が絡んできてしまう為割愛したが、二人に共通する一度目の人生の話を出来る限りの範囲で話した結果、その全てを狛治は呑み込んだ様に思える。戸惑った様に瞬きを繰り返しながら、恐る恐る幸太郎が口を開いた。

「・・・狛治殿」
「何だ、間違っていたなら訂正しろ」
「いえ、素晴らしくまとめられています。ただ・・・信じて、下さるのですか?」

前世の記憶だの、生まれ変わりだの、突然聞かされたなら困惑して当然の現実離れした話だ。しかし目の前の友人は、それらを全て咀嚼して理解しようとしてくれている。有難い話ではあるが同時に無理を強いているのではないかと不安になってしまい、幸太郎は戸惑いの声を上げた。

そんな兄の視線と、タオルをずらした腫れた目の妹からの視線の両方を受け、狛治は肩をすくめて苦笑する。勿論、すんなり受け止められるとは言えない話だ。けれど、今この友人が自分たちを嘘で欺こうとしている訳ではないことには、確信が持てる。

「正直、突拍子もない話で困乱はしている。だが・・・今お前たちが、嘘を言っている様にも見えない。わざわざこんな嘘をつく理由も無いだろうしな」
「私もそう思います。さんのその方に会いたいって気持ち、痛いほど伝わってきました・・・前世で約束していた結婚相手なら、尚更納得できます」

恋雪の発言も重なり、兄妹は途方もない話を信じて貰えたことの衝撃に言葉を失くしてしまう。
思わずが落してしまったタオルを拾い上げ、恋雪がその手に遠慮がちに触れた。

さんが時々、ほんの一瞬ですけど、淋しそうなお顔をされる時があるとは・・・思っていたんです。その理由が、今日わかりました」

に憧れている、彼女を心から慕っていて良く見ているからこそ、共に過ごせる幸福な時間の中で恋雪はその違和感に気付き始めていた。優しく穏やかでいつも笑顔を絶やさない様な彼女が、不意の一瞬遠い目をすること。楽しい話の最中に、瞬間心ここに在らずの様な状態になること。それらは大抵いつも一瞬で、すぐに普段通りのが戻ってくることも知っていた。
以前、クラスメイトと彼女の闘う理由について話したことを思い出す。全てが今日のの涙に繋がっていると思えば、どんなに壮大な話でも素直に信じることが出来る。

「・・・その方に見つけていただける様、お名前を広めるために活躍されているんですね」

其の人に会いたいと幼子の様に泣き暮れる姿は、紛れもなく愛に満ちていた。
恋い慕う人に逢えない辛さは、どれほどの痛みを伴うものだろう。それ故にああして強い面を手に闘わざるを得なくなったことを、ようやく理解できた。何処にいるかもわからぬ其の人のために、自分は此処にいると彼女は声を張り上げて叫んでいるのだ。

「・・・ごめんね、恋雪ちゃん。あんなに応援してくれてたのに、こんな不純な目的のためだなんて・・・幻滅、だよね」
「大切な人に会いたいって気持ちは、不純なんかじゃないです、幻滅もしません」

自身を覆う鎧を脱がされてしまった様な心細さに、は目を伏せる。
全面的に肯定するような恋雪の言葉にその視線を泳がせ、やはり自信無さげにクッションに顔を埋めるの姿は、確かに普段の彼女らしくはないけれど。同時に酷く年相応に見えることに安堵した様に、狛治は小さく表情を緩めた。

「・・・まぁ、俺は少し安心した」
「素山くん・・・?」
「文武両道なんて掲げて、隙のひとつも無い奴だと思ってた。同い年の奴とは、若干信じがたい程にな」

全てにおいて完璧な人間は存在しない。そう考えていた狛治の前に現れた立花というクラスメイトは、その理を強引に捻じ曲げてしまった。学業と学外活動を両立し、更には武術を嗜む狛治でさえも圧倒する程の気迫をもって舞台上に立つ姿を見せつけられたのだ。人との距離感を心得た穏やかさは友人としては心地良い存在だったが、同じ人間としては少々出来過ぎて怖く思うこともあった。

「恋人のために必死に努力してたと思えば、立花も案外普通の奴だったんだなって・・・安心した。しかも、相手は前世からの婚約者だろ。あの気迫にも、納得がいった気がする」

それは当然全力以上で獲りに行くだろうなと付け加え、狛治は苦笑する。
鉄壁の鎧を取り去ってみれば、彼女の中身は好きな男のために懸命に努力する普通の十五歳だ。不安に泣き暮れるには悪い気もするが、それがわかっただけでも狛治にとっては大きな収穫だった。

縁あって付き合いも三年目に入った友人は普通のクラスメイトだ。前世の記憶があることは確かに異質ではあるが、むしろ色々なことが納得出来るような材料とも思えてしまう。初めての人生でないならば、あの気迫も頷ける。何故か負けた訳ではないと安堵する自分がいて、可笑しさに狛治は目を細めた。

「狛治殿、恋雪殿・・・信じて下さりありがとうございます」
「幸太郎、礼にはまだ早いんじゃないか」
「はい?」

狛治と恋雪は色々な疑念を置いて現実離れした話に耳を傾け、理解を示してくれた。そのことに心から安堵した様に感謝の気持ちを述べた幸太郎に対し、狛治が告げた言葉。不思議そうに小首を傾げた彼に小さく笑いかけ、恋雪がその後を引き継いだ。

「・・・そうですね。まずはお二人を見つけてから、ですね」

瞬間、室内を沈黙が漂った。
狛治と恋雪は穏やかに笑ってくれているが、その言葉の意味はあまりに重い。

「っえ・・・でも、二人を巻き込むのは・・・」
「今更放っておけるか。立花お前、恋雪さんがどれだけお前を慕っているかわかってないな」
「え・・・」

狛治から少々苦い顔をして指をさされ、がたじろぐ。
それを受け、恋雪が小さく微笑んだ。確かに恋雪はを慕っているけれど、それだけではないだろうに。

「ずるいです狛治さん。狛治さんも、お二人のことがお好きでしょう?」
「・・・恋雪さんがそう言うなら、そういうことにしておきます」

恋雪からの鋭い指摘に、今度は狛治が言葉に詰まることになった。狛治とて、二人のことは大事な友と思っているのだ。

「・・・狛治殿」
「ここまで聞かせて今更外野に回すなよ、幸太郎。そもそも、その計画は二人じゃ心許ないと思わなかったのか?」

前世からの友を探す旅。これがどれほど途方も無く、心細い計画か。話を聞いたばかりの狛治でも察することが出来るほどのものだった。それでもこれまで、この兄妹はたったの二人で前を向き生きて来たのだ。

「二人追加しろ、少しくらいは力になる」

友人としてそれに倣い、背を押す手伝いくらいは出来る筈だ。そうでなくとも先ほどのの涙を見てしまっては、出来ることは極力協力したい気持ちにもなって当然だろう。
協力の姿勢をはっきり示されたことに言葉を失うの手を、恋雪がそっと握りしめた。

「私、さんに憧れてます。好きな人に会いたい一心で闘ってたって今日知れて、もっとさんのことが好きになりました」

がとんだ醜態を晒したことも含め、それでも恋雪の視線は優しく慈しみに満ちていた。
出会った時から変わる事ない真っ直ぐ慕ってくれる眩しい瞳が、の不安に寄り添おうとしてくれる。

「お話して下さってありがとうございます。お手伝いさせてください、お願いします」

不意に思い起こされたのは、煉獄の声だった。
周りの存在に甘えてみろという言葉に、兄以外の存在を真剣に当て嵌める日が来るだなんて、考えてもみなかった。枯れ果てた筈の涙が再度込み上げてくる感覚に、は小さく唇を噛む。

「・・・素山くん、ごめん」

ぽつりとそう呟き、堪らず傍らに寄り添ってくれる存在を抱き寄せた。

「きゃっ・・・」
「・・・っ・・・恋雪ちゃん、ありがとう・・・!」

瞬間身を固くした恋雪は、しかし憧れの人からの抱擁に頬を染めて幸せそうに目を細めている。律儀に断りを入れるあたりがらしいが、狛治は大切な人の嬉しそうな姿を喜べないほど器量は狭くないつもりだ。何とも言えない顔で息をつくその表情は、呆れたようでどこか優しい。

「・・・まったく、いちいち謝るな」
「すみません、ああいう妹なので・・・。その、狛治殿」

幸太郎の声は、遠慮がちな響きがした。
狛治が視線を向けると、心底真剣で、それでいて安堵した様な瞳と目が合う。

「正直、本当に手詰まりを感じていて・・・お二人にお話し出来て、少し安心しました。実際に厳しい状況は変わらないですが、相談出来る相手が増えたと思うと・・・気持ちが、楽になりました」

幸太郎がふと思い起こしてしまったのは、妹がまだ友人であった頃、茶屋で妓夫太郎を含めた三人で向かい合った時の話だ。二人の夢は何かと問うた時、意思を確認する様に顔を見合わせ、真剣そのものな表情で二人から相談されたこと。
今度は自身が相談する側になるとは、正直少し前までは考えていなかったことだけれど。何かに限界を感じた時、傍に信頼に足る相談出来る誰かがいるというのは、幸せなことだ。

「改めまして、ありがとうございます。今後とも、よろしくお願いします」
「・・・あぁ」



* * *



幸太郎との背中が並んで遠ざかっていく。
何やらしんみりと話し合いながらも、兄妹は穏やかな雰囲気に包まれ帰路についていく。最後に一度振り返り手を振ってくれたことに対し、狛治は片手をあげ、恋雪は深い一礼を返した。
の目の腫れは多少引いた様で、二人は少しほっとした様な表情でその背中を見送った。

「・・・お疲れ様でした」
「いいえ、私は何も・・・狛治さん、ありがとうございました」

一日がかりだった工程を思い狛治は恋雪を労ったが、返ってきたのは礼の言葉だ。
恋雪は小さく微笑んで傍らの婚約者を見上げる。

「二人のお話をまとめて、協力出来るようにお話を持っていって下さったから。嬉しかったです」

前世の記憶を持った生まれ変わりという話は確かに驚いたけれど、これまでのとあの涙を思えば納得がいった。同時に、何とかして助けになりたいと恋雪は心の底から思ったのだ。そこへ狛治が上手に話をまとめてくれたため、今日の結果がある。
憧れのひとに抱き寄せられた突然の驚きを思い返し、恋雪は思わず頬を緩めた。あんなにも必死で不安に満ちたを見たのは初めてのことだったけれど、そんな中少しでも頼って貰えたことが本当に嬉しい。

さんの大切なひと、その妹さんも・・・私、お逢いしてみたいです」
「ええ。俺もです・・・何とか見つけられるよう、色々考えてみましょう」
「はいっ・・・!」

そう簡単な話でないことは、恋雪も理解できている。けれど思うのだ、クラスメイトの言葉を借りるならば、『頑張っていることは報われて欲しい』。特に相手がであれば、尚更のことだ。
彼女があんなにも懸命に全てをかけて探し求めているひと。どうにかして会わせてあげたい、叶うなら見届けたい。

夏の夜空を見上げて思う、生まれる前からの縁を追いかけるの長い旅路を。それは厳しい道のりだろうけれど、恋雪は同時に憧れてしまうのだ。

「前世からの恋人だなんて、素敵ですね」
「・・・そうですね」

こうして隣にいさせてくれる優しい婚約者とも、そんな運命の様な絆があったなら、もっと素敵なことだ。
お互いにそう考えていることは知らず、狛治と恋雪は微笑み合った。



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