江戸の納涼



七月の土曜は大安の日。
隣町の新しい水族館の、プレオープンの日がやってきた。
鋭くなってきた日差しの下辺りを見回すの視界に、見知った二人の姿が映り込む。

さんっ・・・!!」

背景に光の粒を散らさんばかりの勢いで、恋雪がのもとへ駆け寄ってきた。白い半袖のブラウスに、小花柄のロングスカートが似合うなんて次元の話ではない。最近はずっと制服姿を見慣れていたせいか、私服姿は一段と恋雪の可憐さを増して見せた。

さん、今日はありがとうございます!私、何日も前から本当に楽しみで・・・」
「・・・恋雪さん、まずは日陰に入りましょう」
「あっ・・・ごめんなさい、嬉しくて、つい・・・」

追ってきた狛治から落ち着く様声をかけられ、恋雪は頬を赤くして俯いた。確かにこの日差しの下は辛そうだ、は恋雪の背を優しく押しながら笑いかける。

この可憐な少女と知り合って早三カ月、狛治を通して自然と一緒に過ごす時間が増えたものだけれど、この真っ直ぐ慕ってくれる視線には未だ慣れない。けれどその目を見ていると素直に思うのだ、嬉しい、と。

「こちらこそ、今日はよろしくね恋雪ちゃん。えっと、二人のお邪魔じゃなければ良いんだけど・・・」
「そんなこと無いですっ・・・さんと立花さんと一緒に楽しめたら、もっと嬉しいです!」

即答の否の返事に、は苦笑を返す。
煉獄から譲り受けたこのチケットをどう使うか、と幸太郎はギリギリまで考えた。
一番の使い道はわかっている。それが簡単に叶うことでは無いことも、理解出来ている。最大限に熟考を重ねた末、四枚中二枚をデートに使って欲しいと狛治に提案してみたところ、ならばたちとも一緒に行きたいと恋雪が主張したため、今日の組み合わせと相成った。
は兄と二人で行くつもりでいたのだ。狛治に悪いことをしたのではないかと、申し訳ない気持ちが先だってしまう。

「・・・ごめんね、素山くん」
「謝るな。俺も楽しみにしてたんだ」
「・・・ありがと」

その返答は至って正直な響きに満ちていて、は安堵する。
水族館のゲートが見えてきた。未だ姿の見えないの双子の兄を探し、恋雪が辺りを見回す。

「立花さんは?」
「今ね、チケットを引き換えに行ってくれてる。入口近くで合流出来ると思うよ」
「・・・あれだな」

狛治が素早く見つけたのは、手を振りこちらへ向かって来る幸太郎の姿だった。彼が手に持つ人数分のチケットが目に入り、何やらこれから向かう先の期待度が増してくる。

「狛治殿ー。恋雪殿ー」
「来た来た。それじゃ行こうか」
「はいっ・・・!!」

こうして四人は、水族館の中へと足を踏み入れた。



* * *




新しい水族館は広い敷地の中央に本館を据えて、それを取り囲む様に様々なショーのドームが並んでいた。
プレオープン日ではあったが、招待券を手に今日集った来館者のためにイベントは全て実施される様だ。パンフレットを片手に、どのショーを見るか相談しながら工程を組むだけで心が浮き立つ。本館の中は主に展示スペースの様なので、各ドームの時間指定のイベントを先に消化していくこととなった。

真っ先に向かった先でイルカの大ジャンプに歓声を上げ、アシカの多彩な芸風に大いに喜び、順番を待つことで会えたシャチからはと恋雪が代表して頬にキスを受けた。クラゲのドームという一風変わった空間は一歩足を踏み込んだ瞬間から暗く震えたものだが、薄い照明にぼんやりと照らされるクラゲの群れがとても幻想的で癒される心地がした。

昼食を挟んでいざ本館へと入った途端に地上・地下の分かれ道に遭遇した際は全員で首を傾げたが、まずは地上フロアから回ることとして、水中トンネルやイワシの大群に其々目を丸くする。年齢関係無く誰でも参加できる触れ合いコーナーで魚に餌をやり、ペンギンの巨大水槽の前では何故か狛治がモテたためペンギン達の配置に偏りが出たのは笑い話だ。天気が良いため地上フロアは程好く陽光が入り、どの水槽もキラキラと煌めいている。まさに水族館日和といった今日、此処へ来れたことに四人は感謝した。

もう随分と満足感を得た段階で、思い出したかの様に最後に向かった本館の地下フロア。そこで今日一番の衝撃を味わうことになるとは、誰しも予想していなかったことだろう。

螺旋階段を降り切った先の大きな自動扉が開いた瞬間、四人は其々呆気に取られた様にその場に立ち尽くした。

「正直な感想を言うぞ。俺はここまで凄いと思っていなかった」
「狛治殿、恐らくここにいる全員同意見です」
「右に同じく・・・」
「そ、そうですね・・・」

フロア全面に映し出される、色とりどりのプロジェクションマッピング。これまでとはまるで違う世界観に圧倒され思わず口が半開きになってしまったのは、全員に共通して言えることだろう。

水族館の筈が、まるで森の中に迷い込んだ様だ。木に見立てられた水槽の中では、確かに小さな魚たちが泳ぎ回っている。鳥の鳴き声や木々のさざめきがBGMとして流れており、それらと溶け込むように水の音もする。特別宣伝をしていないだけで、この水族館一番の目玉はこのフロアだとようやく理解した。

「これは本オープンしたら、間違いなく人気が出て大混雑でしょうね・・・。プレオープンに来られて、幸運でした」
「うん、本当に・・・」

今日こそ招待券を持った限られた客しか入れないが、それでもフロア内はそこそこの人数の出入りがある。展示物を見るには困らないが人の混雑は感じられる、まさに程良い混み具合だ。明日以降しばらくは何をするにも並ぶことになるだろう大混雑を予想し、煉獄には本当に感謝しなくてはいけないと改めて感じた。

「まるで、別の世界にいる様です・・・」
「・・・そうですね、本当に良く出来ています」

恋雪がうっとりと目を輝かせて、一つの水槽へ近付いた。タツノオトシゴを眺め頬を緩めている彼女は、狛治でなくとも愛らしく感じてしまう。
自然と寄り添う二人の背中を見守りつつ、がパンフレットのある一角に目を止めた。

「・・・お兄ちゃん、ここ行っても良い?」
「何ですか?・・・ほう、江戸の納涼、ですか」

兄の了承を得ると、がそっと狛治の背をつつく。
振り返った彼に対し手招きをし、恋雪には聞こえない程度の囁きで用件を告げた。

「素山くん、私たちちょっと別のところ行っても良い?」
「何だ、一緒に回れば良いだろう」
「・・・おーい、ちょっとくらい二人きりの時間作ってあげなくてどうするの」

若干わざとらしい程にが腕を組んで厳しい顔をすると、一拍の間を置いて狛治の表情に隙が生まれる。
これまでの一日、恋雪はとにかくの隣から離れなかったのだ。自身とても嬉しいことだったが、少しくらいは狛治と二人の時間があっても良い筈だ。彼女の注意があちらに向いている今がチャンスだろう。
すぐに普段通りの笑みに戻ったが背を押す素振りを見せるなり、狛治は観念した様に小さく笑った。

「・・・わかった。何処に行く予定だ?」
「二つ隣のエリアですね、江戸の納涼という名前です」
「なるほど、わかった。また後でな」

小声で打ち合わせて自然に恋雪の隣へ戻った狛治を確認し、と幸太郎はそっとその場を後にした。
ひとつの水槽を見上げる二人の後ろ姿は、改めて見てもとても自然でお似合いだ。何とも言えぬ微笑ましさに胸の内を温かくするを横目に、幸太郎が小さく微笑む。

「・・・は気遣いの出来る良い子ですね」
「ふふ、何言ってるの。それに、ここにお兄ちゃんと行ってみたいなと思ったのは、私だけ?」

狛治とを二人きりにしてあげたい、その気持ちに嘘は無かった。けれど、幸太郎と二人だけでこの先のエリアに行きたいというの気持ちも本当だ。

「まぁ・・・そうですね、確かに」

江戸の納涼。
覚えのある地名は、二人を不思議な懐かしさで包み込んだ。


* * *



それは、想像を遥かに超えた景色だった。
壁には小さな風車が実際に多数設置されカラカラと音を立て、町の喧騒の様な音がそこかしこから聞こえてくる。江戸の街並みを模したプロジェクションマッピング、そして数多く設置された水槽に泳いでいるのは、鮮やかな金魚だ。

「・・・先ほどの狛治殿の台詞、そのままですね。こんな光景は、想定外でした・・・」

江戸の納涼。そのタイトル通り、テーマは夏の江戸の街並みだろう。厳密に言えば同じ場所に立ったことは無いが、江戸の町を思い返すには十分過ぎる素材がそこに再現されていた。

と幸太郎は、暫し無言で目の前の光景へと浸る。茅川町を思い出す。薬屋の老夫婦や、皆一様に明るい性分の町民たち。そして幸太郎の幼い弟である、春男の幼少の姿。

「・・・変な感じだね。私たち、今は兄妹だけど・・・」
「ええ、そうですね・・・」

フロア中央のひと際大きな金魚の水槽の前でお互いに顔を見合わせ、以前は友人同士であったことを思い返す。偶然にも同じ薬草学を学んだ同志であり、妓夫太郎と梅を交えた四人で集った友。

「懐かしいですね・・・立花さん」
「ええ・・・殿」

不意に昔に戻ったような口調で、お互いを呼び合って。ほんの数秒後、二人して同時に小さく笑い合った。

「っふふふ、駄目だ、この呼び方は今更違和感あり過ぎる」
「本当に。私たち、もう兄妹として生まれて十五年になりますから」

転生してから約十五年、双子として生まれずっと一緒に過ごしている。随分と長い時間をかけて培われた兄妹の絆は、今更友情の関係に巻き戻すことは出来ない。
十五年。そうして自分で口にした単語から、幸太郎は今になり大事なことを思い返した。

「・・・あの頃一緒に過ごしていたのは、ほんの一年だったんですよね」

と妓夫太郎が春男を救い、その縁で知り合いとなってから一年。
たった一年の間に、幸太郎の人生は大きく変わった。

「ですがあの一年は・・・私の人生の中で、最も輝いた時間でした。こんなに幸せなことがあるだろうかと、自問自答してしまう程に。良い友に恵まれて、最高に充実した一年を過ごしました。貴女たちと過ごす時間が、とても好きでした」

その言葉を受け、こちらこそと言いかけたは寸前で口を閉ざした。の方こそ、当時から幸太郎に感謝をしていた。遊郭を出て暮らしたいという漠然とした夢に、具体的な解決法と新生活の基盤を授けてくれたのは幸太郎なのだ。

けれど、何を言ったところで結果は変わらない。出会って一年後、全てを一夜にして奪われた現実は変わらない。その先幸太郎がいかに辛く苦しい人生を送ったのか、それは在りし日の春男が語ってくれた話で聞き及んでいるし、何より彼の最期に立ち会ったはその痛みを知っている。

兄がかつての一年に思いを馳せ感謝してくれると言うならば、は今の兄に感謝の気持ちを伝えるべきだと結論付けた。

「お兄ちゃん、いつもありがとう」
「ふふ、急にどうしたんです?」
「冗談じゃないよ、本当に感謝してるの。いくら記憶があっても、一人じゃここまで頑張れないよ。何回も心が折れそうになる度に、お兄ちゃんが支えてくれた」

一人だったなら、とうに心が折れていただろう。それほどに途方もない旅に、兄は常に寄り添ってくれている。友人であった頃から変わらぬ穏やかな笑顔に、何度助けられたかわからない。

「ありがとう、お兄ちゃん。本当に・・・ありがとう」

彼の双子として生まれて来れたことが、の今回の人生最初の幸福だ。
そうして紡がれた感謝の言葉を受け、暫し唖然とした末兄が浮かべたのは、やはり普段通りの穏やかな笑顔だった。

「こんな事でお礼を言っていては、きりが無いですよ?」
「え?」
「私は、お二人と無事再会できるその日まで、決しての隣から離れませんから」

その両手がの肩にそっと置かれ、優しい瞳と見つめ合う。

「何度でも支えます、何度でも励まします。は私の、大切な妹ですから」

ああ、本当に―――この人の妹に生まれて来れて、良かった。

そうして潤んでしまいそうになる目を、は誤魔化す様に擦って笑う。
幸太郎の端末がメッセージの着信を知らせたのは、丁度そんな時だった。発信元は狛治の様だが、短文でひとこと、迷った。と書いてある。

「・・・あ、狛治殿?迷っておられる・・・?」
「あぁ、ここの手前の道、ちょっと入り組んでたかもね」
「確かに。私、お二人を迎えに行っても良いですか?はここを動かないで下さい、この水槽は目立つので」
「わかった、お願いね」

優しく笑う兄の姿が遠ざかるのを見送り、は小さく息をついてフロア全体を見渡し、最後に正面の大きな水槽を見上げた。
江戸の街並みを模したプロジェクションマッピングに、金魚の泳ぐ水槽。その時代を生きた記憶を持つ身としては、気持ちがどうしても入り込んでしまう風景だ。

そこで暮らすことは叶わなかったが、江戸の町で鬼の兄ちゃんと呼ばれ親しまれていた彼を思う。遊郭では考えられないほど周りから頼られ、子供たちに慕われ、そして困惑しながらも拒絶の素振りを見せなかった優しいひと。二度目の人生で見た夢の様に、彼と共にあの町で暮らせたならどんなに良かっただろう。今更悔やんだところでどうにもならないことは承知の上で、それでもは目を細めてしまう。








『世界で一番大好きだ、ばぁか』








言葉を欲する必要など無いほどに、彼の愛は十分理解できていた。けれど悪戯に好きかと問うた時、普段なら使わないであろう台詞を口にしてくれた。あの時の声を、満たされた気持ちを、忘れることなど出来る筈が無い。

夫婦になろうと、一生傍にいて欲しいと、お互いに約束をした。愛を確かめ合ったその翌日に全てを奪われるだなんて、考えもしなかった。叶うならずっと傍にいたかった。彼の隣で年をとり、江戸の町で幸せに暮らしたかった。

そうして遠い記憶に思いを馳せ、ぼんやりと見つめた金魚の泳ぐ巨大な水槽。

「・・・」

フロアの中央、円柱の形をした巨大水槽。
その、向こう側に。人混みの中、忘れる筈もない人の横顔を、突然見つけたような気がして。

丁度そのタイミングでこちらに背を向けて歩き出したその人を、逃してはならない。脳から発せられた抗えぬ命令に、は息を呑む。

「・・・っ・・・!!!」

大きな水槽を回り込むように、全力で駆け出した。



* * *



心臓が痛いほどに高鳴る。
薄暗い視界の中、彼だけが鮮明に見える。
ほんの一瞬の横顔だったが、見間違いではない筈だ。が妓夫太郎を、見間違える筈が無い。何より再会を求めている大切な人を、見間違う筈が無い。人混みの間を縫うように走り、遠ざかるその背を懸命に追いかける。
思うように走れないもどかしさに、いっそパンプスなど脱ぎ捨ててしまいたい衝動に駆られた、その時。

曲がり角の対向者と、見事にぶつかってしまった。

「っあ・・・ごめんなさい・・・」

完全にの不注意だ、相手に怪我は無さそうだが謝罪をして事なきを得る。
しかし慌てて振り返った進路上に、彼の姿が無い。
瞬時に血の気が引いていくような感覚に、は叫び出したい程の焦燥に駆られ取り乱す。

「っ嘘・・・嘘・・・!」

こんな時に見失ってしまうだなんて、あって良い筈が無い。奇跡の様な確率で見つけられたのだ。ここで会えなければ、次はどうなるかわからない。夢中で駆け出し、あらゆる方面へ注意を向けて必死に彼を探す。

見失う訳にはいかない、掴んだ細い糸は決して離す訳にはいかない。
そうして館内を駆け巡り、息を切らし走って、走って。ようやく遠くに見つけたその背中に、は祈る様な思いで手を伸ばした。

「・・・っあの・・・!!」

その背格好は、確かにの記憶の通りだった。

「・・・はい?」

けれど、妓夫太郎ではない。
顔の雰囲気も少し似ている。それは間違いないが、彼ではない。突然のことに不思議そうな顔をしている男性を見上げ、は暫し呆然としてしまう。

「・・・すみま、せん。人違い、でした」

見間違いだった。

ようやく見つけたという興奮から、見失った焦り、そして再度見つけた喜び。全ての感情の波が無意味だったという現実が、の表情を曇らせる。
男性に謝罪し、その場を逃げる様に後にした。身体が重い。気持ちが沈む。何度も着信の振動を知らせてくるスマホにすら、応答も出来ない。
覚束ない足取りで辿り着いたのは人気の無い休憩スペースで、は崩れ落ちる様にソファへ腰を下ろした。何の気力も起きずぼんやりとしていたところ、遠くから駆け足の音が近付いてくるのを耳にする。

「・・・あっ・・・おい、立花!」

狛治はようやく見つけられた友人の姿に安堵したように息をつき、足早に近付いてくる。

「どうしたんだ一体、皆探して・・・」

しかし、そこで強い違和感に気付き口を閉ざす。
何の言葉も無いを見下ろし、手早く同行者たちを集めた。狛治は何も言わずにただを見守り、遅れて駆け付けた幸太郎にその場を譲る。

「・・・?」
「・・・っ・・・お兄、ちゃん・・・」

幸太郎はその場に屈み込み、ソファに沈むの表情を気遣わし気に見上げてくれた。
その優しい視線と声に触れ、の中で何かが決壊する。

「っ・・・やっと、見つけたと思ったのに・・・追いかけたら・・・人違いで・・・」
「え・・・?」

視界が涙で歪む。
何もかもが、音を立てて崩れていく。

最初から途方も無い捜索の旅だと、わかっていた筈だった。あてもなく確証もなく、それでも会いたい気持ちだけを糧に懸命に前へ進もうと兄妹で誓った筈だった。
にも関わらず一瞬覚えてしまった期待が、勘違いであったというだけでこんなにも胸を深く抉る。
兄に心配をかけ、友に迷惑をかけ、そして長年探し求めた筈のひとですら見間違ってしまう。一体何をしているのか、今まで一体何をしていたのか。
握った拳に涙が零れ落ちると共に、の心からの願いが口をつく。

「っう、あ・・・っ会いたい・・・妓夫太郎くんに、会いたいよぉ・・・!!」

狛治と恋雪が近くで困惑していることもわかっていたが、もう止まらなかった。
会いたい。会いたい。会いたい。何度口にしても足りないほどに、会いたくて堪らない。もう一度会いたい。抱きしめて欲しい、その手に触れたい、傍にいたい。二度手にして失った幸福を、取り戻したい。
そうして涙に肩を震わせるを見上げ、幸太郎はそっとその手を握る。

「そう、ですね・・・本当に、会いたいですね・・・」
「会いたいっ・・・う、っ・・・会いたい、早く会いたい・・・!私、まだ頑張り足りないの・・・?何がいけないのっ・・・?」
は何も悪くはありません。大丈夫、大丈夫です・・・」

もうとうに限界を迎えていた妹の涙に、幸太郎は小さく唇を噛んだ。




* * *



同時刻、水族館の正面ゲート前で待ち人を探していた少女が顔を上げる。

「・・・あ、お兄ちゃんやっと来た。何してたの?」
「悪かったなぁ・・・」

気だるげな顔をして、その兄は館内から出た途端外の眩しさに目を細める。
彼はが見間違えた男性と、偶然にも似た服装をしていた。
待たせていた妹に詫びを告げて小さく頭を掻く。
何をしていたのか。そう聞かれれば、何の収穫も得られなかったものだから答えようがない。ただ、金魚の水槽の目立つひとつのエリアが妙に胸に引っかかり、帰る前にもう一度見ようと思ってしまったのだ。

「もう一回見たら、何かわかるかと思ったんだがなぁ・・・」

最近、どうも落ち着かない気分になることが多い。それは自分でも理解の追い付かない現象で、説明は難しい。
胸が騒つく。しかし、それでも目が追ってしまう。江戸の納涼というエリアを見て覚えた気持ちは、例の書道家の動画を見ている時の気持ちに似ていた。

立花という、直接知らない筈の彼女を画面越しに見ている時の不可思議な感情。

何かが、引っかかる。

「なぁに?」
「いや、何でも無ぇ。帰るぞぉ」
「えー、折角時間かけて来たのにもう帰っちゃうの?」
「しょうがねぇだろぉ?遠いんだからよぉ。文句ならこのチケット押し付けてきた奴に言えよなぁ」
「・・・まぁ、そこそこ面白かったから良いわ。お兄ちゃんアタシ帰りにアイス食べたい」
「わかったわかった、駅の近くで買ってやるからなぁ」

帰りの電車の中で、恐らくまた彼女の動画を見てしまうだろう。
彼はイヤホンをポケットの中に探った。



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