休暇の贈り物



煉獄家の道場は広く、静かな造りになっている。
稽古後は正座で暫し目を閉じ、一人で気持ちを落ち着けることがの常だった。汗を拭い背筋を伸ばし、何もしないということに集中する。今日の成果を頭の中で繰り返し、今時点の自身の出来ること出来ないことと向き合う時間は、槇寿郎からその大切さを最初に教わって以降欠かしたことが無い。

誰に急かされることも無くこうして道場を贅沢に使わせて貰えることは、幸せなことだ。
最後に細い息を吐き出し、は目を開けた。静かに立ち上がり、神棚に向かって深く一礼をする。そうして出入口を振り返ったその時、こちらを見ている人物と目が合った。

いつからそこにいたのだろう。突然のことに瞬くを見て、煉獄は小さく笑う。

「立花少女」

学園では教師と生徒の立場ゆえ、彼はのことを『立花』、兄妹揃っている時は『立花妹』と呼ぶ。
しかしこの家に稽古で訪れる時の呼び方は、昔から『立花少女』だ。
ここに通い始めた頃から変わらぬ、幸太郎とは少し違った兄の様な存在に、もまた微笑み返す。

「煉獄さん」

久しぶりに学園外での呼び方で答え、は小さく頭を下げた。



* * *




道場の重厚な壁を隔てた外の景色は、夕暮れ色に染まっていた。煉獄家の手入れの行き届いた庭は、どの時間帯でも美しい。
二人して横並びに座り、は差し入れられた麦茶に口を付けた。疲れた身体に、優しい夕暮れの風と水分が心地良い。そうしてほっと息をつくを横目に、煉獄は口の端を上げる。

「遅くなってしまったが、天神杯優勝おめでとう!」
「ありがとうございます。瑠火先生と、師範のお蔭です」
「うむ。俺の両親をたててくれるのは嬉しいが、君の実力だろうな!」

そんなことは無いと謙遜の姿勢を譲らぬ彼女が、根からの努力家であることを煉獄はよく知っている。
舞台の上では鬼の面を纏い気迫溢れるパフォーマンスで観客の度肝を抜く様なであるが、こうして隣に掛けて麦茶に顔を綻ばせている姿は年相応の少女に違いない。

学園では授業以外に話せる機会が滅多に無く、が稽古に訪れるタイミングで煉獄が暫く忙しくしていた関係もあり、改めての祝いの言葉すら天神杯決勝から一カ月も経過した今になってしまった。
天神杯決勝の動画は幸太郎から既に貰っており、煉獄も家族で繰り返し見ている。何時にも増して鬼気迫るパフォーマンス、そして仕上がった力強い文字は『不撓不屈』。高校生まで対象のトーナメント戦において中学三年にして王座を勝ち取るに相応しい、見事としか言い様の無い演技に、現地で一度見ていた筈の父が若干目を潤ませていたことを煉獄は知っている。
天神杯での優勝は間違い無く偉業だ、ますます活動的になっていくの存在は煉獄にとっても誇らしい。

「忙しくしている様だが、体調は変わりないか?」
「大丈夫、元気です。忙しいくらいが丁度良いんです、私は」

しかし同時に、その姿は少々心配の種でもある。

「まだまだ、師範からも先生からも教わることが沢山あります。鍛えて克服しなきゃいけない課題も、山積みです」

は基本的に、満足という言葉を知らない。何かを得ればすぐさまその先を目指すし、次へ次へと貪欲に学び、挑戦しようとする。
普段の彼女はともかく、書道のことが絡むとどうしたっては常に前のめりだ。そんな彼女だからこそ今の戦績があるのだろうとは理解出来る。
日々何かに挑戦し続ける姿勢は素晴らしい。しかし、脇目もふらず稽古漬けな生活は正直なところ心配だ。

「王座を手にして尚その姿勢は、流石としか言えないな」
「いえ、まだタイトル一つですから。油断せず、努力あるのみです」
「君がそう言うなら、俺は背中を押すまでだが・・・無理はするんじゃないぞ、身体は資本だからな!」
「ふふ・・・はい、ありがとうございます」

肩を揺らして遠慮がちに微笑む彼女の顔は、煉獄からすれば未だ幼い中学生だ。
この道の勝敗に命を燃やす様な生き方は確かに美しいが、一度しかない青春を謳歌して欲しいという気持ちも抱いてしまうのは、教師としては行き過ぎた考えかもしれず。

しかしは、煉獄が教壇に立ち始めるより以前から知っている、妹の様な存在である。最早第二の家族のような気持ちになってしまうことも、致し方あるまい。

「ときに立花少女。実は、こんな物を持っている」

差し出されたチケットを、は目を丸くして覗き込む。七月に隣町に出来る新しい水族館の招待券だった。大々的に宣伝もされているためも知っている。どうやら開業前日にプレオープンをするらしく、そこで使えるチケットの様だった。
四枚並ぶそれを、煉獄は全ての手に握らせる。

「使える日は少し先だが、立花少年や友人と使うと良い」
「えっ・・・でも、四枚ならご家族で使った方が良いんじゃ・・・千寿郎くんもきっと喜びますよ?」
「実は俺も最初はそう考えた。だが家族会議の結果、我が家の総意としては、君への優勝祝いとして渡すのが一番良いということで決まった!」

煉獄の言葉に嘘は無かった。
他ならぬ千寿郎が、真っ先にの名前を出したのだ。




さんに、優勝のお祝いとしてお渡ししてはいけませんか・・・?その、とても頑張っていらっしゃるので・・・ゆっくりと、お休みの時間を取っていただきたいです』




が稽古に現れる度、邪魔をしない様遠くから伺いながらも心配をしていたのだろう。心優しい弟の一言に、家族の気持ちはひとつに固まった。祝いの品ならもっと良いものを用意しても良いのではないかと父は若干渋い顔をしていた様だったが、母に宥められすぐに収まった。
家族の総意と言われてしまえば、もそれ以上遠慮の言葉は出てこない。

「・・・本当に、良いんですか?」
「勿論だ!たまには羽を伸ばし、存分に楽しんで来ると良い!」
「ありがとうございます・・・ご家族の皆さんに、あとでお礼を言いに行きます」

祝いの品を贈ることも悪くない案だが、今は兄や友人たちと過ごす時間を贈れることが嬉しいのだ。
四枚のチケットを手に小さく微笑むを見下ろし、煉獄は穏やかに笑う。

「君は書道の世界では強く逞しい存在だが、同時に、まだ中学三年生だ」

何かを懸命に追い求めるような意思の強さは、彼女が小学生の頃から知っている。その細腕に信じられない程の力を付けて、日々鍛錬に励んでいることも知っている。
書道家として最も有名な中学生という呼び名も、これまでのの努力を考えれば決して不思議な話ではない。舞台上の彼女は強く凛々しく、誇らしい存在だ。けれど同時に、短い青春を謳歌すべき学生でもあるのだ。
こちらを見上げてくる黒目がちな瞳に柔らかく笑いかけ、煉獄はその細い肩へ励ますように手を置いた。

「日々を楽しめ、立花少女。そしてたまには、周りの存在に甘えてみろ。君の強さは努力の賜物だと、皆が知っている。頑張っている君を応援したいと願っている人間は、立花少女が考えているよりずっと多いぞ」

勿論俺もその内の一人だ、と最後に付け加えて煉獄が笑う。
温かく見守られている感覚と、その優しい声は、昔から変わらない。
まるで太陽の様な頼れる存在の言葉に、は目尻を下げて微笑み返す。

「ありがとうございます、煉獄さん・・・嬉しいです」

チケットは、四枚。
どうしたって考えてしまう二人のことを思い、は切ない気持ちを押し殺した。




* * *



少女は寝返りをうった際、暗い部屋の中灯りを感じて薄く目を開けた。

隣の布団で寝ていた筈の兄が、うつ伏せになりながらも動画を流している。音量を絞っているのはこちらへの気遣いなのだろうけれど、灯りが漏れている時点で無駄なことだ。

「・・・またそれ見てる」

強引に隣の布団へ入り込み、少女は持ち主を押し出すようにスマホの正面に陣取った。
彼がこの動画を繰り返し見ていることは、毎日一緒に生活しているのだからよく知っている。

「・・・お前も見てるだろうがよぉ」
「まぁ・・・そうだけど」

彼は突然割って入られたことに文句も言わず、しかし妹の頭の後ろからしっかりと動画を凝視している。少女もまた、彼と同じく何度もこの映像を見てしまうひとりだった。

二人して黙って動画に見入る。
とある大会の決勝動画だった。

遠目にもわかる、身体の大きさに不釣り合いな巨大な筆と鬼の面を纏う小柄な存在。彼と同い年にも関わらず、大人も顔負けな気迫で舞台中を駆け巡り、不撓不屈の四文字を完成させていく。
書道のパフォーマンスだなんてつい先日まで知ることも無かった世界であるし、これまで欠片も興味の無い話題の筈だった。
この動画で彼女を、偶然目にするまでは。

「・・・何でこんなに、見ちゃうんだろう」

ポツリと呟かれた妹の問いに、兄は答えない。
答えらえない、というのが本音だった。
何度も何度も、二人して繰り返し彼女を見ている。

『今年度の天神杯、優勝はキメツ学園中等部三年、立花さんです』

絞った音量の中から、場内アナウンスが流れてくる。
鬼の面を外した彼女が、安堵した様に息をついた表情が映る。

その度に覚える胸の内の騒めきの正体を、彼はまだ知らない。



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