疲れに沁みて刺さるもの



時計の針は、夜8時半を過ぎようというところだった。
バスに揺られて、隣の席の妹が舟を漕いでいる。ぐらぐらと揺れる頭を支えるように抱え、幸太郎はそっと声をかけた。

、もうすぐ降りますよ」
「・・・うん・・・起きる」

今日は少し遠い会場での場当たりがあった。本番は三日後だが、新設された体育館が次の会場となっているため、主催側から会場見学を兼ねて是非にと誘いを受けたのだ。

今、は天神杯というトーナメントに参加しており、個人の部で準々決勝まで駒を進めている。主催側からの誘いに対し、遠いので本番まで遠慮するなどという選択肢は無いに等しい。
を含めた上位八名は当然の様に全員来ていたし、行けて良かったというのが兄妹に共通する感想ではあったけれど、妹の疲労感は計り知れない。緩く意識を覚醒させようと目を擦るを見遣り、幸太郎が眉を下げた。

「・・・疲れていますね」
「ん、大丈夫、大丈夫・・・」

停留所に着き、カートを引きながら二人してバスを降りた。なかなか長いこと押し込められていたためその場で伸びをするを横目に、幸太郎は暫し思案してしまう。

今日の妹の疲労度はなかなかに深刻だ。しかしこのタイミングで母は催事で遠征しており、今夜は帰って来ない。満足に食事も出来ないまま帰宅し、は間違いなくすぐに眠ってしまうだろう。ああでもないこうでもないと考え、幸太郎はひとつの結論に辿り着く。

、少し待ってくださいね」
「んん?どしたの、お兄ちゃん」

素早くスマホで一件の連絡先を見つけ、祈るような思いで電話をかける。

「・・・もしもし、立花です。夜分にすみません。あの、実は・・・」

からは相手の声はわからなかった。けれど、言葉少なにも意図が通じた様で、兄の表情が安堵したように明るくなる。

「ご迷惑をおかけしてすみません、助かります。では・・・」

行きましょうと兄に優しく手を引かれ、は歩き出した。



* * *



パン工房竈門という店の看板を見上げ、はぼんやりとしてしまう。

知っている。というより、かなりの頻度で買い物をしている、近所で有名なパン屋だ。けれど良く通っているからこそ、この店は夜6時半で営業終了ということも知っている。
時間はもう9時近い、一体何の目的で兄はここへ寄ったのだろうか。そんなことをが考えていたその時、店の裏口から見知った顔の少年が現れた。

「あっ、お待たせしてすみません!こちらからどうぞ!」
「えっ・・・竈門くん?」

竈門炭治郎。このパン屋の息子で、中等部に入学してきたばかりの後輩でもある。穏やかな普段通りの笑みを浮かべ、彼は達を裏口へと手招きした。

「こんばんは、さん。練習お疲れ様です。すぐ準備出来ますから、入って待っていてください」

事情がよくわからぬまま導かれ、は兄と共に裏口から閉店済の店内へと足を踏み入れた。
炭治郎は表のシャッターを閉めたまま手早く店の照明を一部点け、イートインのスペースに二人を誘導し、自分は慌ただしく厨房へと戻っていった。
奥からは既にパンの良い匂いがしている。炭治郎が事前に準備して待ってくれていた様な状況に、は思わず兄を見上げてしまう。

「特別に、入れて貰えるようにお願いしてしまいました」

幸太郎は若干罰が悪そうな顔をして、肩をすくめて笑っていた。先ほどの電話も、こちらを気遣うような言動も、何もかもここに繋がっていたことに、はようやく気付く。

「こういう日は、はここのパンが食べたいのでは、なんて」
「もう、お兄ちゃん・・・ありがと」

無理をしてここまでしなくとも。しかし、その気遣いがとても有難い。は思わず苦笑を浮かべてしまうが、この兄の優しさに救われる。
今日は特別疲れたというのは正直な気持ちだ。このまま帰宅して何も食べずにとにかく寝ようと思っていたが、大好物のパンを食べられるならその方が嬉しいに決まっている。
特別に閉店後の店で働かせてしまっている後輩の少年には、申し訳ない気持ちを覚えてしまうのだけれど。そのタイミングで、奥から炭治郎が出てくる気配がした。

「お待たせしました。春の新作、さくらあんパンです」
「・・・ふわああ・・・何これ可愛い」

思わず変な声が出てしまう、それほどに魅惑的な香りと見た目だった。
度々買い物に来ているとはいえ、人気の新作には焼けたタイミングで巡り会えないことも多い。プラカードで名前しか知らずにいた春の新作の登場に、興奮せずにいろという方が無理がある。
もちもちとした桃色の生地が餡を包み、生地の包み方の工夫で薄らと透ける餡が花のような形状に見える。女子ならば間違いなく手を伸ばしてしまう一品だろう。
目を輝かせて喜ぶの反応に満足そうに笑い、炭治郎は二人の前へとパンの乗った皿を差し出した。

「可愛いだけじゃないですよ、ふんわり甘くて好評なんです」
「えええ・・・最高だよそれ。ここでいただいて良いの?」
「もちろんです、幸太郎さんもどうぞ」
「ありがとうございます、炭治郎殿」

中学に上がったばかりとはとても思えぬ手際の良さで二人分の新作をサーブし、炭治郎は厨房の方を振り返る。よく考えてみれば、ここに焼きたてのパンがあるにも関わらず未だ奥からは良い匂いが漂い続けているではないか。まさかと目を輝かせてしまうに、炭治郎は優しい笑みで答える。

「クロワッサンがもう焼き上がりますから、ゆっくりしていて下さい。さんは紅茶で、幸太郎さんは緑茶ですよね?すぐお持ちします」
「そんな至れり尽くせりな・・・」
「かたじけない・・・」

正直頭が上がらない。しかし、目の前で焼きたてを主張するこの誘惑には抗えない。炭治郎が足取り軽く奥へ消えたタイミングで、兄妹は同時にパンへと手を伸ばした。
わかってはいたことだが、ふわふわな生地でありながら表面は焼きたてならではのパリッとした食感で、それだけでも幸せな心地だと言うのに、中から熱々の甘い餡が登場する。さくら風味の味付けは春ならではの良さがあるし、何より焼きたての熱さはそれだけで正義である。はふはふと幸せな熱気の逃し方をしつつ、と幸太郎は思わず目を細めて暫しその余韻に浸る。

「・・・んん、甘くて美味しい・・・やっぱりここのパンは最高だなぁ。疲れた身体に沁みるよ・・・」
「はぁ。桜の塩漬けが良い感じにアクセントになって良いですねぇ」

幸せな溜息しか出ない。
今にも溶けそうな二人の姿を見て、遅れて現れた炭治郎は思わずクスリと笑ってしまった。

「お二人の感想を聞いてると、作った人間として嬉しいです」

続いて焼き上がったクロワッサンとそれぞれの飲み物が手際良く準備され、今後こそ二人は深々と頭を下げた。
クロワッサンはパン工房竈門の看板メニューであり、このためだけに朝早くから並ぶ客が後を絶たないほどの人気商品だ。二人のためにわざわざ時間外に焼いて貰い、有難いなんて言葉では言い表せない。

「本当にありがとう竈門くん・・・こんな遅い時間なのに、ごめんね」
「とんでもないです、立花家の皆さんはお得意様ですから。丁度明日の仕込みをしてたついでだったので、これくらい全然大丈夫です。むしろ、お疲れのところ立ち寄っていただけて有難いくらいで・・・。あ。熱い内にどうぞ」
「・・・本当にごめん、お言葉に甘えるね」
「私もいただきます、折角なので・・・」

そうして焼きたてクロワッサンにもありつき幸せそうに目を細めている兄妹の姿に、炭治郎は満たされる思いで笑みを浮かべて隣のテーブルに自分も掛けた。

日頃家族で贔屓にしてくれている立花家の幸太郎から連絡を貰った際、炭治郎は言葉の通り翌日の仕込みの真っ最中だった。閉店しているのは承知の上で開けて貰えないだろうかという彼の頼みを、炭治郎は即答で受け入れることにした。兄である幸太郎が無理を押す理由は、大事な妹であるのためであることを、聞かずとも理解出来たためだった。

空腹だったのだろう、あっという間に焼きたてのパン2つを平らげご馳走座でしたと手を合わせている彼女は、確かに酷く疲れた顔をしている。紅茶を飲んでホッと息をついているが、今大事な時だということを炭治郎は知っていた。

「天神杯、順調に勝ってますもんね。稽古大変だと思いますが、頑張ってください。今勝ち残ってる人たちもなかなか強豪ですけど、俺、優勝するのはきっとさんだと思ってます」

それは、炭治郎の心からの気持ちだった。
しかしそれを受け止めた兄妹は、それぞれのお茶に口を付けつつも戸惑ったように固まってしまう。

「えっ・・・嬉しいけど、竈門くんそんな色々知ってたっけ?」
「同じく・・・随分お詳しくなられましたね」
「あれ、そんなに驚きますか?折角さんにあんな素敵なものを贈っていただいたんですから、俺だって勉強くらいしますよ」

額に飾られた一枚の書が、店内に飾ってあった。『竈門』と家名を綴ったシンプルなものだが、が書いた一枚だ。顔馴染みの客になってすぐの頃、店内で店番の炭治郎と兄妹が三人だけになった際、立ち話からが書道パフォーマンスをしている話題になり、是非にと依頼されて出来上がった作品だった。お世話になっているパン屋で、商売繁盛を祈った文字を飾って貰えるだなんて、贈っておきながらの方が気恥ずかしくなってしまう。

しかし炭治郎は本当にそれ以来、の活躍をネットで追い掛けるようになっていた。まさしく、今が挑んでいるトーナメントや、対戦相手のことを調べてしまう程度には。

「でも、勉強というよりかはもう素直にファンですね。お恥ずかしながらお二人と知り合うまでは知らなかった世界ですけど、見てるとどんどん盛り上がって好きになります。力強い躍動感から、こう、明日も頑張ろうって力が貰える気がします」

あの力強い文字と同じく、演技中のは大変にエネルギーに満ちている。今目の前で紅茶を啜る彼女はおっとりとした優しげな先輩だが、舞台上のはさながら華やかな武闘家の様だ。凛々しい、という表現がしっくり来る。
しかし、明日の力を貰えるとは、なかなか直球な褒め言葉である。勿論炭治郎の言葉に嘘は無いが、は思わず感嘆の息を漏らしてしまう。

「はぁー・・・有難いことだね、お兄ちゃん」
「本当に・・・大会のパンフレットに今の言葉載せたいくらいですよ」
「あはは、大袈裟ですね」

有難い。恋雪や狛治もそうだが、ここまで真剣に熱い感想を貰えるのは、幸せなことだ。自分は大変に恵まれている。こうして、時間外に店を開けてまで労ってくれる存在や、それを依頼してくれた兄にも感謝しなくてはいけない。は最後に紅茶を飲み干し、改めて手を合わせた。

「紅茶も美味しかった・・・竈門くん本当にご馳走様でした。何でこんなに美味しいんだろう、最高に幸せだったよ」
「その言葉が何より嬉しいです。食べてくれる人が笑顔になることを願って作っているので」

食べてくれる人が、笑顔になるように。
炭治郎にとっては常日頃感じていることだった。こうして目の前で、美味しい、幸せだと言って貰えることほど、嬉しいことは無い。

「初めてのお客さんでも、俺が焼いたパンで笑顔になって貰えたら嬉しいです。それが知っている人や、さんたちの様に仲良くさせていただいている人だったら、最高です。大切な人には、美味しいものを食べて笑顔になって欲しいですもんね」

それは、当たり前に感じていることだった。

「・・・」

けれど次の瞬間、炭治郎は大いに慌てることとなる。

「・・・私も・・・食べさせて、あげたいなぁ・・・」

ぽつりとそう呟いたの瞳から、涙が一筋零れ落ちたのだ。

「・・・え、さん?え?」
・・・」

それは、無意識の涙だったのだろう。炭治郎の慌てたような様子と兄の労わるような声を耳にして、は我に帰ったようにはっとして強引に目を擦った。

「あっ・・・ご、ごめんねいきなり。疲れてて色々緩んでるところに、竈門くんが良いこと言ってくれたから、つい・・・。嫌だな、もう。びっくりさせて、ごめんなさい」

咄嗟に笑顔を作って疲れていたと言い訳をするが、炭治郎も兄も心配そうな表情を引っ込めてはくれない。
大切な人には、美味しいものを食べて笑顔になって欲しい。その言葉がこんなにも刺さるだなんて、自分でも驚きだ。けれど、本当にそう出来たらどんなに良いだろうと思った瞬間、切なさに押し潰されそうになってしまった。

「・・・今は、遠くにいて会えないんだけど・・・私にも、美味しいものを食べて、笑顔になって欲しい人たちが・・・いるから」

いつだって、の心の中には二人がいる。何をしていても、心の何処かでこう思う。ああ、今傍にいられたら。今も一緒に美味しいパンを食べられたら、どんなに幸せか。

さん・・・」
「ごめんね。この件では泣かないって決めてるのに、駄目だなぁ私。今の忘れてね、竈門くん」

けれど同時に、は前を向いていなければとも思っていた。二人で頑張ると決めている、兄以外の前で涙は見せないと決めている。にも関わらずこうして揺れてしまったのは、疲れから気が緩んだとしか言いようが無い。
情けない、こんなことでは本当に“彼”に笑われてしまうではないか。自身を叱咤するように後ろ手に隠した拳を強く握り、しっかりしろと戒める。炭治郎には突然悪いことをしてしまった。涙はすぐに止まったので、は笑顔で忘れてくれと口する。

「・・・忘れません」

けれど、炭治郎はそれに応じなかった。
真剣な顔をして、それでも優しい声でこう告げる。

「忘れませんから、いつか必ず、その人たちを連れて来てください。腹一杯になるまで、俺が美味しいパンを焼きますから」

瞳が再度潤みそうになる感覚に、は強く唇を噛み締めて耐える。ありがとう、と返した言葉は、ギリギリのところで震えはしなかった。



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