再び失う物語



東向きの船着場に、一艘の小船が停められている。
ご丁寧に船番の男二人組は、気絶させられた上縛り上げられていた。陽光が差す時間には一番に明るくなるであろう、視界の開けた場所だ。

小さな波に揺れ続ける船の上に、は立たされていた。布のようなものを噛まされ、不安そうな顔をして佇んでいる。
無理も無い、周囲に立った男たちから、小太刀を突き付けられているのだから。

「・・・思ったより早いお出ましだな」

鬼狩りは、五人いた。
その黒い装束を見るだけで癇に障るというのに、今は体中の血が煮えくり返るような怒りすら覚える。
ひとつの身体に二つの意識を有していた妓夫太郎と堕姫だったが、今この瞬間の気持ちはひとつだ。
―――全員、八つ裂きにしてやる。

「っ・・・!!」
「おっと、それ以上近付いたらどうなるか、わかるな。いくら上弦の鬼とはいえ、この刃を突き入れることくらいは先手を取れる」

鬼狩りの男達は、それぞれに覚悟の決まった目をしていた。例えその命を落とすことになろうとも、その時は必ずを道連れにするだろう。様々な角度から突きつけられた五本の小太刀は、どれもの急所に正確に狙いを定められている。
忌々しい肝の据わり方に、堕姫は思わず大きな舌打ちを漏らした。

「もう一体はどうした?二体いるのはわかっているぞ」

こちら側が一人でないことを看破されている。それ故、堕姫が姿を見せた今も隙間無く様々な方向へ警戒を向けているのだ。
これまでの鬼狩り達とは違う。憎らしさに堕姫がその美しい顔を歪めた、その直後。

「それとも、陽光に灼かれた後遺症で動けないか?」

二人は、一瞬何を言われたのか理解が及ばなかった。
妓夫太郎が陽光に灼かれたことを知っている。つまりこの鬼狩り達は、あの日あの場にいたということだ。

「・・・アンタ達、まさか・・・!!」
「怪しんでいた花魁が、わざわざ盲目の芸者を囲ったって言うじゃあないか。そりゃあ興味のひとつやふたつ、沸いたっておかしくはないだろう―――たとえば、暴れ馬の進路にいるお気に入りを、日の下でも助けに現れるのか、とかなぁ」

妓夫太郎の脳裏に、あの日の出来事が甦る。
突然の騒ぎに、介添えの者も無く不安に目を見開くの姿。彼女を失うかもしれないと焦り、理性とは別のものの導きで陽光の下へ駆け出した時の気持ちを忘れない。あの時妓夫太郎が命を懸けて飛び込まなければ、は馬と荷台に轢かれ死んでいたのだ。
事故だと思っていたあの惨事が、まさか故意に、鬼狩りの手によって引き起こされた事だったとは。

「まさか本当に飛び出してくるとは思わなかったがなぁ。まさに、命懸けの救出劇だ。まぁ・・・そんなに大事な女なら、この状況で下手な手を出せる筈は無いよなぁ?」

怒り、なんて言葉では済まされない。
頭の芯から冷たく冷え切っていくような感覚は、妓夫太郎だけのものではなかった。
堕姫もまた、正義を振りかざし鬼殺を掲げる人間たちに、最大限の憎悪をぶつける。

「どこまで・・・腐ってるの・・・」
「どの口が言うんだぁ?さんざん人を食い殺しておいて、この女の前では良い格好がしたいってか?」

に突きつけられた小太刀の一本が、僅か彼女の肌に食い込まんと刃先を進める。
途端に動揺し下唇を噛み締める堕姫の様子に、鬼狩り達は手応えを得たかの如く表情を引き締めた。

「上弦の鬼め・・・この哀れな女のために、今夜その首を落とさせて貰う」
「ふざけないで・・・アンタ達みたいな屑に、アタシの首が落とせる筈が・・・!」
「如何にも。だが、今柱が二人こちらに向かっていると言ったらどうだ」

柱が二人、こちらへ向かっている。その言葉に、堕姫と妓夫太郎は同時に息を呑んだ。確実に格下の相手でも五人にそれぞれを人質に取られているようなものだ、堕姫の言う様に五体一でも首を斬られはしないだろうが、が向こうの手中にある限り状況はかなり悪い。そこに加えて柱が二人到着してしまっては、こちらが追い詰められるのは明白な事実だ。

「自分達の実力くらいはわかっている、今すべきことは、柱が到着するまで鬼を足止めすること、それだけだ」

成程、随分と前から用意周到に罠を張っていただけあり、実力はともかく頭は回る様だ。忌々しいことこの上無い、それでも同じ人間かと兄妹はそれぞれ歯を食い縛る。

「人食い鬼め。最後の最後で人間に絆されちまった運命を、呪うんだなぁ」

その時妓夫太郎と堕姫は、不思議な感覚に同時に見舞われることとなった。船上で囚われていると、目が合ったような気がしたのだ。
視界も見えず、布を噛まされ口も利けず。訳のわからない状況で男たちに刃物を突きつけられ、不安に駆られて当然のその目が、不意に優しく笑いかけてきたような、そんな気がしたのだ。
鬼狩り達は誰一人警戒を怠っていなかった、しかし、それは外側への警戒に限られる。内側にいる目の見えないなど、手を縛ることすらしない程に誰も気を配らない。

「・・・っ・・・!」

それは堕姫の声だったのか、妓夫太郎の声だったのかはわからない。

けれどその瞬間、は正面にいる男の手を取り、迷い無く小太刀を自身の胸へと突き立てたのだった。



* * *



船着場は、一瞬の内に血と肉隗に満たされた。
帯による両断だったのか、血鎌による惨殺だったのかは曖昧だ。何より大事な存在を奪われた鬼の兄妹の憎悪は凄まじく、五人の鬼狩りはという唯一絶対の人質を失い、一瞬にして絶命した。
まだ夜明けまでは遠いものの、柱が来るとわかっている以上このままこの場にはいられない。妓夫太郎は妹の身体を使い、崩れ落ちたを抱き上げ奥田屋の彼女の部屋へと急いだ。出血が酷い、腕の中の彼女から内臓が傷付いたような決定的な損壊を感じ、呼吸が浅くなる。

何かが音を立てて崩れていく感覚に、妓夫太郎と堕姫は目を見張る。様々な映像が、様々な音声が。雑音混じりだった曖昧な記憶に、鮮明な色と音が戻って来る感覚がした。
目的地へと辿り着くなり兄妹は二つの身体に別れ、横たえたを絶望的な顔で見下ろす。
兄妹はこの状況下になりようやく、曖昧だった全てを思い出した。
今こうして血に塗れているは、幼き日より一番近くで惜しみない愛をくれたひと。
二人の世界を明るく照らしてくれた、誰より大切なひとだ。

「っどうしようお兄ちゃん、どうしよう・・・!!」
「黙ってろ!とにかく血を止めねぇと・・・!!」

今頃思い出せたところで、の命が失われてからでは全てが遅い。鬼にすることでの延命は出来ない、無惨から硬く言い渡されている。
何とか血を止めようと懸命になる妓夫太郎の下で、の目が薄く開いた。

「・・・ごめん、なさい・・・」

掠れたその声が、静まり返った部屋に酷く響く。妓夫太郎と堕姫の視線が、その声の主へと向けられる。
は弱りきった身でありながら、気遣わしげな目で虚空を見上げていた。

「・・・どうしても、二人の足枷になりたくなくて・・・」

視界だけでなく言葉を封じられ、耳しか頼りにならない状況下では自身の運命を悟った。
あの男たちを退けたところで、また新たな人間たちがを盾に二人へ迫るのだろう。妓夫太郎、更には自身の主たる珠姫もまた人ではないことを悟った今、大事な存在のために取れる手段はこれ以外に無かった。

そしてもまた、自身へ刃を押し込んだ瞬間に取り戻した記憶がある。

「また・・・失敗しちゃったのね、私・・・」
・・・お前・・・」

彼女がこれまでと違うことに、兄妹は気付く。
だ。芸者の彼女でありながら、昔から良く知る彼女だ。
堕姫は震えながらその頬へと手を伸ばす。
こんなにも傍にいながら、何故今まで思い出せなかったのか。

「・・・お姉、ちゃん」
「ああ・・・珠姫さまが・・・梅ちゃんだったのね」

その手の感触に、その目を柔らかく細めて笑う。
記憶のままのの笑みが、昔と同じ様に兄妹へと向けられる。

「・・・全部、思い出せた・・・」

吐息のようなその言葉が、妓夫太郎と堕姫の中へと染み込んでいく。
あの日、突然の悲劇に見舞われ散り散りに引き裂かれた三人が、こうして再び向かい合えた。
だと言うのにがこの様に命の危機に瀕しているだなんて、到底受け入れられる筈も無い。

「しっかりしろよなぁ、ふざけんなよ・・・お前、ようやく・・・ようやく会えたってのに・・・」
「そうよお姉ちゃん、しっかりして、アタシ達必ず何とかするから・・・!」

折角、あの時の記憶を取り戻したのだ。話したいことも沢山ある、取り戻したいことも山の様にある。延命に必死になる兄妹の気持ちが流れ込んで来る様で、は多幸感に目を閉じる。
刺してしまった箇所を強く抑える妓夫太郎の手を、彼女はそっと握った。

ああ、遠い昔にも、こうして彼の手首を掴んだことがある。
そして、そこから全てが始まったのだった。

「・・・ごめんね・・・もう、何も痛くないの」

手遅れだということは、自身が一番良く理解出来ている。の決定的な言葉に妓夫太郎は目を見開き、堕姫もまた手を震わせて後悔を募らせた。

終わりを悟ったの表情はとても穏やかだった。
こんな時に、とも思う。折角思い出せたのに、とも思う。
けれど、最期のこの時間を大切にしたい。折角と言うのなら、こうして再び、折角会えたのだから。

「ねえ、梅ちゃんも・・・夢を、見ていてくれたの・・・?」
「・・・っそうよ・・・お姉ちゃんと、お兄ちゃんと、外の町で暮らしてた・・・先生も、傍にいた・・・」

妓夫太郎と二人では出来なかった答え合わせが、今はっきりと出来た様な気がする。
夢の中の出来事は、やはり過去の体験ではなかった。全てを理解できた満足感に、は小さく微笑み二人を見上げる。暗闇の視界の中に、こちらを見下ろす二人の顔が見える気がした。

「・・・私達、あの後の旅を・・・一緒に、してたのね・・・」

在り得た可能性、ほんの少し違っていれば手に入った筈の未来だった。縁側のある小さな家で、妓夫太郎とは夫婦となって、梅と三人で穏やかに暮らす。四季を楽しみ、立花と共に梅の生長を見守り、いつまでも幸せに生きていく筈だった。
もう目前まで迫っていた筈の未来を諦めきれず、それぞれの魂が集ったとしか言い様が無い。後悔はどうしたって残るが、こうしてその夢を引き金にもう一度現実に集えたのだから、感謝しなくてはいけないだろう。

「二人とも・・・私を見つけてくれて、本当に・・・ありがとう」

何の因果か、今世盲目に生まれてしまっただけでは再会は難しかっただろう。二人に見つけて貰えなければ、は今も平坂屋の芸者だった筈だ。彼女は心からの感謝の言葉を口にした。
こんな時だと言うのに、の口調は昔のままだ。優しく、柔らかく、包み込んでくれるような温かさに満ちたその声に、堕姫は―――否、梅は、涙が溢れて止まらない。

「あんな終わり方をしたのに・・・こうして・・・もう一度、二人とお話できるだなんて・・・うれしいの」
「嫌だ・・・お姉ちゃん、嫌・・・もう何処にも行かないで、ずっと傍にいてよぉ!」

再びの別れに納得が出来ず泣き喚く梅の涙声に、の眉が困ったように下がる。
暫く黙っていた妓夫太郎が動きを見せたのは、そんな時だった。

「・・・

その声は、優しく。
その声は、力強く。

「・・・心配するなよなぁ」
「お兄ちゃん・・・?」

思わず声を上げる妹を無言で制し、妓夫太郎はの身体の下へそっと腕を差し入れる。自身の胡座の上に抱き込むようにして、彼女の軽い身体をその腕で包んでしまった。
梅は涙目のまま、呆然とその光景を見つめることしか出来ない。

「大丈夫だ、次も必ず見つけてやるからなぁ」

目の見えないには、わからないだろう。

「何度でも生まれて来い、何度でもお前を見つける」

兄は表情と声を切り離し、懸命に優しく穏やかな声を出している。今にも零れ落ちそうな涙を、時に上を向いて堪えながら、に語りかけている。心配せずとも何度でも見つけてみせるから、大丈夫だと。

「・・・ずっと一緒だ」

に最後まで悲しい顔をさせまいと、その一念だけのために兄は懸命に戦っている。最愛のひとを再び喪おうとするその間際にまで、兄はただひたすらへの愛のために生きている。
妹としてこんなことではいけないと梅は強引に涙を払い、一呼吸置いた末に声を上げた。

「・・・そうよ、お姉ちゃん。次はきっと、先生も見つけるから。だから、次は四人で会えるわ」
「そう・・・そうね・・・立花さんも、それを望んでた・・・」

そうしてが、穏やかに微笑む。
その瞬間、妓夫太郎と梅は異変に目を見張った。
を抱いた腕で震えもしなかった妓夫太郎は、流石としか言い様が無い。
後続の柱が到着した、それを帯が感知したのだ。
梅は迷い無く立ち上がった。

「・・・アタシが行く」
「おい・・・お前」
「お兄ちゃんは、お姉ちゃんの傍にいて・・・お願いだから、ずっと抱き締めていてあげて」

梅はの最期を記憶している。侍から酷い暴行を受け息絶えた彼女の、惨い様を記憶している。は最後まで、兄の名前を呼んでいたのだ。今この時は、一瞬たりとも二人に離れて欲しくはない。兄はこちらを案じるような顔をしているが、決して二人に近付けさせはしない。梅は大きな決意とともに屈み込み、の額へと唇を寄せた。

「またね、お姉ちゃん。世界で一番、大好きよ」


* * *



「・・・なぁ、

穏やかな夜だった。

愛するひとの命が今宵限りで尽きようとしているなど、まるで感じさせないような声で、妓夫太郎はを抱く腕を優しく揺らす。

「覚えてるかぁ?まだ梅が小せぇ頃、お前が親から貰った平手の痕を見て・・・」
「・・・おはな、って・・・言ってくれた・・・」

話しかける度、反応が返って来なくなったらと考えると恐ろしくて堪らなくなる。けれど妓夫太郎は、今全ての負の感情を殺し切ると決めている。
まだ、大丈夫だ。はまだ、ここにいる。

「あいつなぁ・・・今、ちょうど同じ位置に、花の模様があるんだよなぁ」

兄妹が人喰い鬼だという認識が、鬼狩りたちの言葉からどの程度に伝わっているかは正直わからなかった。けれどきっと、大事なことはわかってくれている。長年の信頼関係がそうさせる。
の頬に残った平手の跡も、梅がそれを花と呼んだことも、先ほどまでは記憶の彼方だったことだ。けれど今ならそれも伝えられる。まったく同じ場所に、梅は今花を咲かせているのだから。

「偶然かもしれねぇが・・・俺は、お前の影響じゃねぇかと思う」
「・・・うれしい・・・」

が小さく笑った。
ずっと、こうしていたい。
ずっとこの穏やかな笑顔を見つめていられたら、どんなに良いか。

「・・・妓夫太郎、くん」

の目が、妓夫太郎の方を見上げる。
何度もこうして、盲目の彼女と目が合うような錯覚を体験してきたが、実際に目は合っていたのではとさえ思える。
こんなにも、特別な相手なのだから。

「・・・幸せにするって約束・・・守れなくて・・・ごめんね」

思いもよらぬ言葉に、瞬間妓夫太郎の覚悟が揺らぐ。
今もう一度旅立とうという彼女から、そんなことを言われてしまっては。

「ばぁか・・・知らねぇのかよ、俺はもう、幸せなんだ」

けれど、妓夫太郎は負けなかった。
気を抜けば込み上げそうになる嗚咽も、瞳の表面に膜を張る涙も、全てを堪えて笑って見せる。
実際に妓夫太郎は幸せなのだ。前世のからも、今世のからも、沢山の思いを貰った。今再び彼女を喪おうとしていること以外は、間違いなく妓夫太郎は幸せだと言える。

「それでも気になるってんなら・・・次はもっと、長く生きて傍にいろよなぁ」
「・・・うん」

は約束を違えてなどいない。謝ることなど何もありはしない。そうして妓夫太郎はの髪へと柔く口付ける。
本当ならもっと長く、人間の寿命を全うするを見守りたかった。それが叶わないなら、次の世で見届けるまでのことだ。

「ねえ・・・私を、食べてくれる・・・?」

今度は、流石に動揺を隠し切れなかった。

「・・・それは・・・」
「・・・出来れば・・・そうして、欲しい、なぁ。ごめんなさい・・・食べるって言い方、良くなかった、かなぁ」

の声が小さくなっていくのがわかる。
拍動が少しずつ弱まっていくのがわかる。
今こんな時に、そんな事を言わなくても良いではないかと、彼女を恨めしく思う気持ちもある。けれどが、本心からそう言っていることもわかってしまう。

「・・・ただ、妓夫太郎くんと・・・ひとつになれるなら、それは・・・幸せだなぁって、思ったの・・・」

駄目だ、敵わない。
妓夫太郎はの頭をそっと抱き寄せた。
とっくに限界まで弛み切った涙腺を、懸命に食い止める。

「・・・私、こわくないよ」

は、何が、とは言わなかった。

「今度は・・・妓夫太郎くんが、そばに、いてくれるから」

その柔らかな笑みが好きだ。最後の最後までこうして傍にいてやれる、今度こそ一人で虚しい最期にはさせはしない。

「・・・だいすき」
「あぁ・・・俺もだ」

ようやく絞り出せた声は、何とか震えずに済んだことに安堵する。大好きだ。の全てを愛している。そうして額へとそっと口付けた、その瞬間。



彼女の力が抜けたことを、はっきりと感じた。

「・・・

返事が返ってこない。
穏やかな表情はまるで眠っているかの様だが、違うことを知っている。
堪えていた涙が視界を潤ませる、限界まで耐えた嗚咽が込み上げる。

「・・・っ・・・・・・!」

彼女を再び失った現実に、妓夫太郎は慟哭した。



* * *



涙に際限など無い。
いつまでも、いつまでも、を思う気持ちが尽きることを知らないように、涙も枯れ果てることが無い。
けれど妓夫太郎はひとりではなく、今も柱を食い止めている妹がいる。いつまでもこうして、の亡骸に追い縋ってはいられない。
せめての最後の願いを叶えようと、覚悟を決めてその身を強く抱き寄せた次の瞬間―――ほんの一瞬で自身の中へ溶け込んでしまった彼女を抱き損なった感覚に、妓夫太郎は思わず床へと手を着いた。

の遺体が無い。何の痕跡も無く、妓夫太郎の中へと掻き消えた。

何だ、いまの現象は。
こんなことは、有り得る筈が無い。
けれど妓夫太郎は、唐突に理解した。

これも、経験がある。鬼化する際の激痛にのたうち回ったあの日、無意識にに腕を伸ばしたこと。そして次の瞬間、彼女の姿が掻き消え、痛みと苦しみから解放されたこと。
呆然と自身の身体を見下ろし、妓夫太郎は小さく呟いた。

「・・・なんだよ、お前・・・ずっと、ここにいたんだなぁ」

と妓夫太郎は、ずっと昔からひとつだった。

「俺に“毒”を教えたのは・・・お前だったもんなぁ、

妓夫太郎を苦しみから救い、毒を与えた。今もこうして、二人の彼女が妓夫太郎の背を守っている。不思議な頼もしさに、彼は涙を拭い立ち上がった。



* * *



妹の部屋に柱だった残骸を投げ込み、妓夫太郎は梅の隣へと立った。もう一体の柱の後処理をしていた梅が、こちらを見上げる。

「・・・お姉ちゃんは」
「・・・ここに、いる」
「そう・・・」

正直に話せば烈火の如く怒り狂うことが予想された妹は、しかし一切憤ることなく納得して見せた。梅のお陰での最期に立ち会えたのだ。妓夫太郎は妹の頭を軽く撫でた。兄の顔を切なく見上げ、梅は問う。

「・・・また、必ず見つけられるわよね」
「ああ」
「お姉ちゃんとアタシたちは・・・ずっと一緒よね」
「・・・そうだな」

ずっと一緒だと、約束した。彼女が何度生まれ変わっても、必ず見つけ出すと誓った。違えることは決して無い。

「・・・鬼狩りは、皆殺しにしなくちゃね」
「そうだなぁ・・・俺達には、何が何でも・・・生き残らなきゃならねぇ理由が、あるからなぁ」

何度でも必ず見つけて見せる。
とまた出逢えるならば、何十何百の鬼狩りを食らってでも、生き延びて見せる。そうでなくとも、の仇とも言える組織の人間など、生かしてはおけない。

「柱だろうが何だろうが、鬼狩りは全員殺す。邪魔する輩は容赦しねぇ。それだけだ」




* * *



その夜、奥田屋は燃え盛る炎に飲まれる様に全焼した。
従業員は勿論のこと、遊郭一の美女と名高い花魁も、彼女に仕えた盲目の芸者も、全ての命を飲み込んだとされる炎は遊郭中の人間に恐怖を植え付けた。
火を放った罪人は終ぞ捕縛されることは無かったが、船着場の見張りの証言により、背中に滅の字を入れた黒い隊服の男たちの人相書が出回り、以降その装いの者は厳しく取り締られたと言う。


 Top