魂は廻る



夢か現か、曖昧に思えてしまう夜だった。

それほどに幸せで、現実味が薄いほどに満たされて、何もかも忘れてしまえるほどにお互いを近くに感じた、そんな夜だった。鬼も人間も関係無く、心がしっかりと結ばれたような感覚は、不思議と懐かしい。触れれば触れるほどに感じるのは、やはりお互いにお互いを知っているという確信に似た思いだ。
こうして触れ合ったことが、前にもきっとある。だからこそ、こんなにも安心感を覚えてしまうのだろう。

「・・・あ」
「どしたぁ?」

ぼんやりとしたの声に、妓夫太郎が反応した。
二人して横になったまま、妓夫太郎が腕の中のを覗き込む。彼女は外へと意識を向けた後、妓夫太郎の方へ顔を向けて小さく微笑んで見せた。

「・・・いつの間にか、花火が、終わっていましたね」

言われてみれば、外からの低い音は止んでいる。まさに、いつの間にか、である。
それどころでは無かったと言えばそれまでだが、妙に気恥ずかしい。の当初の希望が花火の音を二人で聞くことだった手前、更に状況は苦しい。妓夫太郎は小さく眉を顰め、思わず視線を逸らす。

「謝ってやらねぇからなぁ」
「勿論・・・良いんです。もっと素晴らしいことが、わかったから」

しかしはまるで不満など感じておらず、小さく笑って自ら妓夫太郎へと擦り寄った。もう拒絶されずに済むことが嬉しくて堪らないといった様子で、その小さな手が彼女より一回り大きな手を探し求めている。求めに応じるように妓夫太郎が手を差し出すと、その指先同士がそっと絡まった。

「私、ずっと夢の中で妓夫太郎くんに助けられてきました。優しくて、温かくて、私を守ってくれて・・・沢山、愛してくれて。だから、こうして現実に傍にいられることが・・・夢の様に、嬉しいんです」

手と手を繋いだ温もりに微笑み、もう片方の腕に抱かれている優しい心地に目を閉じて、は囁くようにそう告げる。幸せだと疑い様の無い声色ではあるが、妓夫太郎は苦笑を浮かべてしまう。彼女はまるで一方的に幸福を与えられている様な話し方をするが、それは妓夫太郎にも同じことが言えるのだから。

「そっくりそのまま、お前に返すからなぁ」
「貴方の夢の中で、私が少しでもお役に立てていたなら・・・こんなに嬉しいことは無いです」

結んだ片手はそのままに、妓夫太郎は片腕に抱いていた彼女の頭をそっと引き寄せた。その柔らかな髪に頬を寄せて、知り尽くした様な感覚に目を伏せる。まさかこんな日が来るだなんて、思っても見なかった。鬼の身には不釣り合いなほどに優しく甘やかな世界にいたを、今こうしてこの腕に抱いている。お互いに同じ夢で繋がりお互いを求めていただなんて、俄には信じ難いほどの奇跡だ。

「その・・・お約束通り、言えないことは、話さなくて良いのですが・・・。夢の話とは別にしても、やはり貴方を知っている気がするのは・・・勘違いでは、無いですよね」

ぽつりとが呟いた内容は、妓夫太郎としても話さなくてはいけないと思っていた事だった。言える範囲で構わないというの気遣いは、妓夫太郎にとっては悪く思うと同時に大変有難い。
夢で繋がっていた奇跡は、きっかけに過ぎない。お互いに旧知の間柄に思えてしまうこの感覚は、恐らくそれとは別の話だ。

「・・・多分なぁ。それこそ、気が遠くなる様な大昔の話かもしれねぇが」

遠い昔に、共に生きていたことがある。それは普通の人間にとっては現実離れした話だろうけれど、ほぼ間違いない。
人間だった頃、と正直に話せないところが苦しい話だが、恐らくもまた妓夫太郎が普通の人間ではないことを察している。察して尚、何者でも構わないと言ってくれているのだ。どこまでも都合の良い存在であろうとしてくれる、健気なを見ていると、妓夫太郎は堪らなく切ない気持ちになってしまう。








『見守る役目を終えた時、再びこの世へと生まれ変わります。輪廻転生、と言われています』








まただ。
いつぞやも背中を押された男の声が、脳裏に木霊する。

「・・・輪廻、転生」
「え・・・?」
「いや・・・そんな話を、誰だったかに聞いた気がするんだよなぁ。人間は一度死んで空に昇って、またどこかに生まれてくるってよぉ」

借り物の言葉に頼ってしまうのは何故だろう。霞んだ記憶の一欠片に過ぎないその言葉を、無意識に信用しているのは何故だろう。そうして言葉を紡ぐ妓夫太郎を見上げ、が目を細めた。

「雨の日に励まして下さった時のお話と同じ方ですね、きっと」
「・・・どうだかなぁ」

妓夫太郎は素直に認めはしないが、きっと話の出所は同じなのだろう。亡くなった人間の魂は天へと昇り、残してきた世界を見守った末、再び新たな命として生まれてくる。話の通り魂が廻ると言うのなら、きっとこの不思議な感覚も納得出来るものだ。この命が生まれるより前から、魂が彼を知っている。は幸せそうに息をついて結んだ手に力を込めた。

「では私は、こうして生まれて来るよりずっと前に、妓夫太郎くんと一緒にいたのですね」
「こんな突拍子も無ぇ話、すんなり信じちまうのはお前くらいなもんだろうなぁ」
「信じます・・・嬉しいです」

絡まった指が優しく解かれ、妓夫太郎の指先がの頬に触れる。滑らかな頬の柔らかさと、人間ならではの脆さが愛おしくて堪らない。くすぐったそうに身を捩りながらも、は更にその感覚を求めるように擦り寄ってくる。

「生まれる前から貴方と繋がっていた縁に、心から感謝したいです」

の目は見えていない筈なのに、こうして向かい合うと見つめ合っているような気がしてしまう。遠慮がちに伸ばされたの手が、少し彷徨った末に妓夫太郎の頬へと辿り着く。優しく顔に触れられる感覚が、酷く懐かしくて仕方がない。お互いにそう思い合える喜びを噛み締める様に、二人はそれぞれに相手の温もりをその手に閉じ込める。

「私は、妓夫太郎くんの夢に出てくる私とは少し違うかもしれませんが・・・いつも助けて下さって、本当にありがとう」

改めてが口にした感謝の言葉を受けて、妓夫太郎は表情を緩めてしまう。当たり前のことだ。を守る、それは遠い昔から約束された自分の役割だと、今なら信じられる。

「例え姿が見えなくても、そっと守って下さる優しさが嬉しくて・・・貴方が夢に出てくる妓夫太郎くんなら良いのにと、いつの頃からか願っていた気がするんです」

当然の行いをしたまでの事。それでもは心底嬉しそうに微笑み、少しでも近付こうとその身を寄せてくれる。

「願いが叶いました、私は幸せ者です」

黒い瞳が僅かに潤んで、甘やかに細められている。
自身の腕の中で生まれたこの美しい光景は、今この瞬間妓夫太郎ただ一人だけのものだ。未だに信じられない様な過ぎた幸福は、この身に受け止めるには大き過ぎる。けれど、もう一瞬たりとも離したくはない。ほんの一欠片でも、この腕から取りこぼしたくない。

「大袈裟なんだよなぁ、ばぁか」

の瞼に悪戯に口付け、妓夫太郎は祈る様に目を伏せる。額同士をそっと合わせ、会話が出来る一番近い距離までお互いを引き寄せた。

「・・・
「はい」

幸せだ。
が幸せ者だと言ってくれるならば、自分は更に幸せ者だ。妓夫太郎にはその確信がある。

「・・・傍にいてくれ」

けれど同時に、途方も無い恐怖も覚えてしまう。

を知っている、彼女と愛し合う幸福も知っている。同時に、例え様も無いような恐ろしさを感じる。失う辛さもまた、知っているのではないだろうか。が人間である限りいずれ訪れる別離は避けようが無い、それは理解している。けれどこの根深い部分に眠る恐怖は、それとは違うものだという確信がある。内から開こうとする記憶の蓋を懸命に押さえ込む様に、妓夫太郎は硬く目を瞑った。

「妓夫太郎くん・・・?」
「頼むから、傍に・・・」

その時だった。
妓夫太郎の脳裏に、敵襲を警告する妹の声が響く。

「・・・っ?!」

記憶ではない、今この瞬間の妹から呼びかけられたものだ。
背筋が凍るような思いに身を硬くした妓夫太郎の異変を感じ取り、が目を開ける。

「・・・妓夫太郎、くん?」
「・・・何でも無ぇ」

瞬間感じた動揺を押し殺し、妓夫太郎は身を起こした。堕姫は未だ戻ってきていない、共を引き連れ店へ戻る道中からの警告だ。まだ時間はある、普段通り冷静に対処すれば良い。温もりを追う様に身体を起こしたの両肩に手を置き、何も映さぬ黒い瞳に妓夫太郎は語りかける。

、俺はもう行く。今夜は何があっても部屋から出るな」
「えっ・・・あの・・・」
「・・・これ以上は、言えねぇ話だ」

何かあったと悟ったのだろう、は途端に心配そうな表情を見せたが、妓夫太郎にそう言われてしまえばそれ以上何も言えなくなってしまう。余計な情報は明かさない、そういう約束だ。

「・・・わかりました。決して部屋から出ません。ただ、ひとつだけ・・・」

の手が彷徨う様に伸ばされるものだから、つい大人しくその身を差し出してしまう。彼女の両手に頬を包まれ、心配一色のその表情に間近の距離で囚われる。

「どうか、危ない目には遭われませんように」

祈るようなの声が、心の中へと刻まれる。
こうして怪我を心配されることすら、はっきりとした覚えがある。

「何か大きなお怪我をされて、妓夫太郎くんと暫く会えなくなるのは・・・きっと、もう耐えられません」
「・・・わかってる」

やはり、魂がを知っている。
今更疑うことも馬鹿らしい、彼女は人間であった頃からの約束された相手だ。

「明日また会える、心配すんなよなぁ」

悲しい顔をさせたくない、いつだって笑顔でいて欲しい。余計な心配などせずとも、大丈夫だ。妓夫太郎は極力優しい口調を心掛け、励ますような言葉を紡ぐ。
それでも尚、が心細そうな顔をするものだから。



その後頭部に手をかけて、そっと引き寄せた。
抵抗無く近付いたその唇同士が触れ合い、深く重なり合う。の腕が首に回されるのを感じ、妓夫太郎は大きな幸福そのものを抱きしめるように、大切に彼女を支えながらその甘美な感覚に酔いしれる。今更引き返せはしない、こんな幸せを手放せる筈が無い。と過ごす今を守る、その為ならば何だって食い殺して見せる。

名残惜しげに離れた唇で、最後に一度軽い音を立てて短く口付けると、が小さく笑う。ようやく笑ってくれたことに安堵するこの気持ちは、今や妓夫太郎の全てと言っても良いだろう。のためなら何でもする、の笑顔のためなら何でも出来る。

「ずっと一緒だ」
「・・・はい」

最後にそう言葉を交わし、妓夫太郎の気配はの部屋から瞬時に掻き消えた。途端に一人きりになった静寂の中、緩んだ着物の合わせ目を整える様に俯いたは、ふと思い至る。自身のことばかりで失念していたけれど、許されるなら妓夫太郎に聞きたいことが残っていたのだった。

「・・・“梅ちゃん”のこと・・・聞きそびれちゃった」

明日が待ち遠しい。
どうか、無事に今宵が終わりますように。



* * *



堕姫の話によると、屋形船の客の中に鬼狩りが三匹紛れているとのことだった。
流石に他の人間は巻き込めないのであろう、大勢の前で手出しこそしてはこなかったが、抑え切れぬ殺気ですぐに位置と人数を把握し、妹は兄へと警告を送った。
鬼狩りは単独では動かないところが厄介ではあるが、一匹一匹は大したことのない雑魚の寄せ集めだ。
三匹程度神経を使うまでも無いが、奥田屋の中での戦闘は極力控えたい。

妓夫太郎は珠姫として店へ戻った妹の体へ戻り、すぐさま夜の闇の中へと飛び出した。遊郭は入り組んだ路地も多ければ、そこから繋がる人気の無い廃材場等も数多い。深夜の今ならば、迎え撃つにこれほど好都合な場所は無いだろう。実際にこの様な場で、兄妹は何人もの鬼狩りを葬ってきた。あちらも律儀に一般人の犠牲を抑えることを掲げている様なのだから、相応しい舞台を仕上げてやったことに感謝して欲しい程だった。

しかし、今宵に限ってはどうも様子がおかしい。

「なかなか出てこないじゃない、癪に障るわね・・・」

鬼狩りが三匹、距離を置いて潜んでいることは妓夫太郎にも捕捉できた。間合いには決して入らず、しかしその気配を殺すことも無くこちらを警戒し続けている。
焦らされているような苛立ちに、堕姫が舌打ちと共に殺気を放った。

「ちょっと、隠れてないでさっさと姿を見せなさいよ。三匹いるのはわかってんのよ、汚い溝鼠共」

妹が痺れを切らすのも無理無いほどに、膠着状態は長く続いていた。
屋形船から追尾してきたであろう三人の鬼狩りはその存在を隠さず、しかし一向に手を出して来る気配が無い。
まるで足止めされているかのような違和感に、一体何が狙いだと妓夫太郎は眉を潜める。
その不明瞭な違和感が、不意に妓夫太郎の中でひとつの形へと変化した。

鬼狩りは、本当にこの三匹だけだろうか。
まさか。

心臓が一度嫌に大きな音を立てた次の瞬間、妓夫太郎は妹の体を操作しその場を飛び退いた。突然のことに妹が動揺しているのはわかっていたが、事は一刻を争う。
思い違いであれば良い、杞憂に終わってさえくれればそれで良い。









「・・・」

妹の体で彼女の部屋の窓へ足をかけ、信じられないような思いで目を見開いた。
部屋の扉が、外から破られている。
―――が、いない。




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