夢に結ばれたふたり



気が進まない。
すっかり出かける支度を整えて尚、そんなことを考えてしまう。

「珠姫様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

しかし、この様に畏まって送り出す姿勢を示されてしまっては、どうしようも無い。堕姫は若干眉尻を下げてを見下ろした。

今宵は特別な上客の相手をしなくてはならない。遊郭の外で屋形船を出し、豪華で大きな宴に花火まで打ち上げると言う。どれほどの大金が一晩で飛ぶか見物ではあるが、そのために今宵は珠姫として沢山の供を引き連れ出かけなければならない。

「お勤めではありますが・・・折角の機会ですから。是非、楽しんでいらしてください」

その場にを連れて行けたなら、これほど憂鬱でも無かっただろうに。
長い距離の花魁道中から慣れない船上での宴には、粗相があってはいけないと言いこの芸者は参加を辞退した。

「帰っていらしたら、素敵な話をお聞かせくださいね」

姿勢を低くして穏やかに微笑むを見下ろして思う。やはり、彼女は特別だ。人間ではあるが、離れがたい引力の様なものを感じてしまう。
堕姫はの傍に屈み込み、その頬に手を当てて顔を上げさせる。こんなにも特別優しくしたいと思えるのは、兄と彼女くらいしか在りえない。

「温かくして、自分の部屋で大人しくしているのよ。花火の音くらいは、拾えるかもしれないわ」
「それは楽しみですね、そうさせていただきます」

自身が大切にしたいと思う者は、この世に二人しか残されていない。
先日思い出してしまった切ない気持ちを抱え、堕姫は小さく目を伏せる。

「・・・
「はい」

は何も知らない。
堕姫が鬼であることも、夜な夜な人を喰らっていることも、何も知らない。何も知らずにこうして微笑み、堕姫の求めるまま傍にいる。

大事にしなくてはならない。例え寿命の定まった人間であっても。
途方も無い愛おしさが込み上げ、堕姫はの頬に唇を寄せた。突然のことに見えない目を丸くして瞬くの表情が、可笑しくて仕方が無い。

「ふふっ、何でもないわ。それじゃ、行くわね」

その頬に残った紅を親指で拭い、堕姫は立ち上がる。

「・・・行ってらっしゃいませ」

慌てて頭を下げているが、の耳は赤い。満足気な笑みを残して堕姫は自室を後にした。



* * *



妓夫太郎が彼女の部屋の窓枠に手をかけたその時。今晩に限って真正面に座していたと、向かい合うこととなった。
普段は部屋の奥で何かしらの楽器を触っている筈の彼女が、想定外に窓の近くに陣取っていたことで妓夫太郎は若干怯んでしまう。は妓夫太郎の気配を正面に察知し、微笑んでいた。

「・・・いらして下さったのですね」

まるで、その訪れを待っていたかの様に。心待ちにしていた相手の訪れに、心から喜んでいるかの様に。柔らかいの笑顔を正面から受け止めきれず、妓夫太郎は思わず視線を逸らす。

「気が向いただけだがなぁ」
「それでも、嬉しいです」

普段の様に窓際の壁に寄りかかっては、正面にいる彼女と近くなってしまう。妓夫太郎は仕方無しに位置を変え、から少し距離を置いた場所に隣あう様に座った。

いつも以上に初っ端から調子が狂うのは、やはり人間の頃の記憶を取り戻しかけている為か。気持ちが落ち着かない様な、それでもの傍にいることで無条件に安らいでいる様な。戸惑いの大きな夜に早くも小さく溜息を漏らしたその時、がこちらを向く。

「あの、今宵は演奏はお休みしても宜しいでしょうか」

それは別に構わない、そう口にしかけた妓夫太郎が瞬間身を硬くする。が若干こちら側へ身を乗り出していた為だ。妓夫太郎が息を呑んだ気配を察したのだろう、は慌てた様に元の位置へと戻った。一体何だと言うのだろう、距離感を測りかねているような彼女は普段と少し違って見える。

「ご安心ください、これ以上近付きません。ただ、今宵は珠姫様のお客様が、花火を上げてくださるとのことで・・・」

僅かに頬を赤く染めて、正座の上で拳を握っている。そんなの姿から、不思議と目が離せない。

「貴方と一緒に音が聞けたらと・・・そう、思いまして」

妓夫太郎と一緒に、花火の音が聞きたい。
そうして緊張の面持ちで俯くの横顔を見て、何とも思わない筈が無い。気恥ずかしさを押し殺す様に、妓夫太郎は目を硬く瞑る。
勘弁してくれと思う。けれど、酷く嬉しく感じてしまう自分もいる。

「・・・勝手にしろよなぁ」
「はい・・・ありがとうございます」

嬉しそうなその表情を、は隠そうともしない。緩んだ頬のまま小さく口の端を上げ、目尻を下げて笑っている。
彼女からの普段より明確な好意の表れには、どうしたって色々なことを考えてしまう。
それは白昼夢の中の触れ合いであったり、人間の頃が近くにいた現実であったりと、目まぐるしく妓夫太郎の脳裏を埋め尽くす。の嬉しそうな横顔が、それらを集約する引力を持って引きつけて来るのだ。隣同士に座っているのに、正面を向いてはいられない自分自身に渇を入れ、妓夫太郎は無理に悪態をついて見せた。

「金持ちの考えることは、理解が出来ねぇなぁ」
「ふふ・・・冬の花火も、きっと素敵です。音だけでも楽しめるのですから、この目が見えたならどんなに素晴らしい光景か・・・」

の言葉がそこで途切れた。

遠くから、低く身体に響くような音が聞こえてきたためだ。
それはの部屋の窓からも見える位置に煌いていた。きっと素晴らしい光景だろうとは言うが、それほど大した眺めでもないと用意していた答えが返せない。
の隣で花火を見ている、その状況が妓夫太郎に異様な動揺を強いた。

「・・・」

見覚えが、ある。

状況は少し違うかもしれないが、こうしての隣で花火を見上げたことが、間違いなく過去にある。
動揺の波に足を掬われまいと唇を噛み締める、けれど妓夫太郎は既に気付き始めてしまっている。
を知っている。と過ごした遠い日の記憶が、蓋を開けて溢れ出ようとしている。

「あの、可笑しなことを、言う様ですが・・・」

頼むから、今は話しかけないで欲しい。

「・・・前にも、こんなことがありませんでしたか」

妓夫太郎の切なる願いは、呆気なく砕かれた。
恐る恐る、隣へと視線を向ける。
は見えない目でこちらを見ていた。視線は合わない筈が、その黒い瞳に射抜かれたような心地がして妓夫太郎の息が止まる。
の目が物語る動揺は、自身と同じものだと気付くまでに少し時間がかかった。もまた、妓夫太郎と同じ様に今この瞬間の既視感に戸惑っている。戸惑いながらも、懸命にその思いを口にしようとしている。

「私、貴方を知っている気がするんです。そんな筈が無いのに、ずっと昔から知っているような、そんな気がしているんです」

強く頭を殴られた様な感覚に、妓夫太郎は目を見開くことしか出来ない。
の気持ちがわかる、それは妓夫太郎の戸惑いを鏡のように写し取ったそれに違いない為だ。知らない筈の彼女を知っている、説明のつかない大きな戸惑いをも同様に感じているだなんて、俄には信じられない。信じられない、けれど。の声色は確実に、必死なそれへと色を変えている。妓夫太郎に大事なことを伝えようと、盲目の瞳が訴えかけてくる。彼女自身も持て余すような熱情が、その瞳を潤ませる。

「もうずっと前から、同じ人を夢に見ています。この目も見えて、彩り豊かな夢です。そこでいつも、いつも私の傍にいて、大事に守ってくれているのは・・・」

今度こそ、妓夫太郎は追い込まれた。
同じ夢を見ていただなんて、彼女もまた夢の中で自分と触れ合っていただなんて、そんな馬鹿なことがある筈が無い。しかしの言葉からは、嘘偽りの響きが一切感じ取れない。

耳鳴りがする、呼吸が浅くなる、心音が煩い。そんな都合の良い話が、有り得る筈が無い。
の口から決定的な言葉が飛び出すその直前、妓夫太郎はそれを遮るように声を絞り出した。

「何を・・・言ってんだぁ、お前は」

不意に、部屋の中が静まり返った。

遠くの空の花火の音が、やけに大きく響く。
の大きな瞳から、堪え切れなかった涙が一筋零れ落ちる瞬間を、妓夫太郎は途方も無い後悔を抱えて眺めることとなった。

「・・・あっ・・・」

の表情から、熱が抜けていく。

「そう、ですよね。すみません・・・私、どうかしていました」

今自分は、取り返しのつかないことを、言ってしまったのではないか。
溢れ出た涙を拭い、何とか作り笑いを浮かべようとするを前に、妓夫太郎は動揺と強い罪悪感に押し潰されそうになる。

「私からは何も聞かないお約束でしたのに・・・申し訳ございません。どうか、お忘れ下さい」







途端に、鮮明な記憶が流れ込む。

『今の、一旦忘れて?自分でも無茶なこと言ってるってよくわかってるから』

距離を取り、恥ずかしそうな作り笑いを浮かべるの姿。

『二人の人生を勝手に巻き込んじゃ駄目だよね、本当何言ってるんだろ、私』

自己完結をして逃げようとした彼女に対し覚えた、憤りにも似た気持ち。逃してはいけないと思ったのではなかったか。全身全霊で引き留めるべきだと、強く感じた筈ではなかったのか。






 

自分自身に戒めていた枷がひび割れる音が、はっきりと聞こえた。

頭痛が引いていく、代わりに心臓が酷く熱を持つ。今引き止めなければ、間違いなく手遅れになってしまう。気付けば妓夫太郎は、彼女の方へとその腕を伸ばしていた。

「・・・お前の、せいだからなぁ」

その華奢な身体を、極力優しく抱き締める。

は瞬間驚きに身を固くした様だったが、抵抗は一切しなかった。妓夫太郎は目眩にも似た感覚に思わず目を伏せる。この腕に閉じ込めた彼女の温もりは、どう考えても覚えのある懐かしさに満ちていた。
こんなつもりでは無かった筈が、同時に待ち焦がれた一瞬にも思えてしまう。

「お前が妙なことを口走るから・・・俺が、俺じゃなくなる」

ずっとこうしたかった。
あの白昼夢で見た様に、自然にこの腕に閉じ込めて慈しみたかった。自分が自分でないような、それでいて長らく分かたれていた半身を取り戻したような気さえする。
もう隠してはおけない、限界だ。

「・・・俺も何度も、お前の夢を見てる」

腕の中のが、息を呑む気配がした。

「お前を知ってる―――

初めて口にした筈の名前は、酷く馴染んだ響きがする。幾度も口にしたような、口にする度に優しい気持ちを貰ったような、特別な名前だ。
腕の中のが身を捩る。力を緩めた途端、見えてはいない筈の瞳に至近距離で射抜かれてしまった。

「・・・妓夫太郎、くん?」

が自分と同じように夢を見ていたと、そう告白された時から予感めいたものはあった。もまたこの名を知っているのではと、可能性を考えなかった訳ではない。
にも関わらず、こうしての口から直接その名を呼ばれることが堪らなく切ない、苦しい。同時に、酷く幸せだ。そう呼んで欲しかった、他でもないに、ずっとその名を呼んで欲しかった。しかし、その様な都合の良いことが起こる筈は無いと諦めていた。夢のような奇跡だ。

無言が答えになったのだろう。の目が見開かれ、そして次の瞬間に緩く細められる。彼女の瞳は実に有弁だ。それだけの仕草が、祈り焦がれた可能性が現実になった喜びをはっきりと伝えてくれる。
信じられないような心地で見つめ返すことしか出来ずにいる妓夫太郎へ、はそっと問う。

「あの、手を、触っても・・・?」

これまで妓夫太郎が頑なに距離をとり、触れる時は極力爪が掠らぬ様気を遣われていたことに、気付けないではなかった。
それがこうまですんなり抱き寄せられたことに、喜びと共に小さな疑問が湧いたのだろう。妓夫太郎は最早、大人しく白旗を上げることしか出来ない。手探りに力の抜けた腕を辿られ、その手のひらを探られる。指先に触れたその瞬間、の目が丸くなった。

「・・・爪が」

今更何を言っても無駄だろうが、爪を限界まで短くしたのは事故への保険のようなつもりだった。何かあってからでは遅いと、そう自分に言い聞かせてのことだった。けれどもう、言い訳はしない。この瞬間のためだろうと言われてしまえば、否定のしようがない。
はゆっくりとその一本一本の指先を辿り、意味を噛み締めるように柔らかく微笑んでいる。その瞳に再度見上げられ、ほんの間近の距離で照れたような笑みを向けられてしまえば、何の抵抗も出来る筈が無い。

「・・・私のためだと、自惚れても良いでしょうか」






『それは・・・私のために頑張ってくれるって、自惚れても、良い・・・?』






声を交わせば、交わすほど。その身に触れれば、触れるほど。記憶の奥底が揺すぶられ、途方も無い愛おしさが込み上げる。今ならば、願いさえすれば全て叶う距離にがいる。恐らくは、彼女も妓夫太郎を拒みはしないだろう。

「俺は・・・身体の出来も何もかも、お前とは違ぇんだ・・・」

けれど、妓夫太郎は躊躇する。

「お前を知ってる。何度も夢に見てたのも嘘じゃねぇ。ずっとこうしたいと思ってた・・・けど、これ以上はお前を壊しちまいそうで・・・正直、怖ぇんだ」

が大事だ。
大事だからこそ、これまで様々な理由を用意して遠ざけてきた。結果的にこうして不安はひとつひとつ解かれ、彼女をこの腕に抱き寄せてはいるけれど、これ以上は怖いと本心から告げる。

人間の頃なら、白昼夢の中ならば違っただろう。同じ人間同士なら何の問題もないことが、鬼と人間に分かたれた今大きな障壁となって二人の間に立ち塞がる。今も正直、を押し潰さない様懸命に力を制御しているのだ。これ以上は、本当にを壊してしまいそうで怖い。

「・・・怖くないです」

の声は、震えていなかった。
思わず息を呑む妓夫太郎の緊張を緩く溶かすように、その瞳が優しく微笑みかけてくる、その手をそっと握られる。

「私、貴方が何者であっても怖くないです」

妓夫太郎の手は、自身によって彼女の頬へと導かれた。大きな手の温もりに縋るように目を閉じて、は告げる。

「妓夫太郎くんに遠ざけられる方が、怖い」

ひび割れた枷が、粉々に砕け散る。
もう後には引けない、戻れない。

「どうか、お願いです。もう一度、名前を呼んで下さい。私のことを、遠ざけないで」

こんなにも狂おしい思いに、蓋などしてはおけない。
遥か昔から約束されていたこの気持ちに、嘘などつけない。

「・・・

大切にその名を口にすると、が心底嬉しそうに目を細めて笑う。その眦から一筋の涙が溢れると同時に、どちらともなくその唇が重なりあった。




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