かつて人間だった兄妹



それはもう、四十年も前の夜のことだ。
にも関わらず唐突に、鮮明に思い出す。

『なあ、勘違いしてねぇか?親切で取り立ててやろうって言ってるんだぜ?』

相手を見下すことで悦に浸る耳障りな声を耳が拾ったのは、取り立てるという単語に反応したせいだろうか。妓夫太郎は暗い路地の壁に潜み、その鋭い瞳を妖しく光らせた。

『そこそこ上等な服着て、毎日毎日死にたそうな顔してふらつきやがってよぉ。だったら望み通り死なせてやるって言ってんだよ、俺らは本当に親切だよなぁ?』

丸腰の二人の男を、刃物を持った男達が取り囲む現場だった。一人は気絶し、もう一人は顔の半分を血塗れにして懸命に抗っている。

『っ止めろ・・・!!兄は連れて帰る!近寄るな!!』
『ああそうかい。じゃあお前から先に取り立ててやるとするかなぁ』

鬼にとって人間はどれも等しく食糧だ。
今目の前に存在している加害者も被害者も、区別無く妓夫太郎の腹を満たす贄でしかない。

『あの世で待ってろよ、すーぐに兄貴も後を追わせてやるからさぁ』

にも関わらず、その夜は途方もなくその言葉が癪に触った。気付けば、加害側の人間を全て始末しその肉を喰らっていた。全員でなく丸腰の男二人を残したことに、意味があったのかはわからない。けれど。

『ーーー鬼の、お兄ちゃん?』

震える声でその名を口にした男と目が合う。ほんの気まぐれで生かしたその男の姿が、幼い子供の姿と被る。途端に酷い頭痛と吐気にも似た不調に見舞われ、妓夫太郎は獲物を抱えてその場を飛び退いた。

不可思議な夜だった。
けれど特別記憶にも残らない、まずい食事で腹を満たすありふれた一夜と片付けた。

何故今になって思い出してしまったのか。
浮世絵師の話を天井裏で聞いたあの日から、日毎に自身の中で何かが確実に変わっていく。
妓夫太郎はその子供の存在を、はっきりと思い出した。

「春男・・・」

鬼のお兄ちゃん。妓夫太郎をそう呼び慕ってくれた幼い子供。雑音に塗れた曖昧な記憶の中から、何故か妓夫太郎は春男だけを掬い上げてしまった。それが先日逝去したあの浮世絵師であることも、四十年前に気まぐれで見逃した男であることも、確信がある。

自身が人間であった頃の、曖昧な記憶。
春男というひとつの欠片がはっきりと形になった今、その曖昧さが薄らいでいく。鈍い頭痛がする、何かの信号を脳が発している。

『いつも同じ女性の傍らを歩いていて、常にその方を守ろうとされていた様に思います』

春男は人間の頃の妓夫太郎をそう言い表した。朧げな記憶の蓋が開きかかり、頭痛が余計に増す。こんな苦しい思いをするくらいならば思い出したくない、けれど思い出さなくてはいけない様な気がして仕方がない。

自分の隣には、妹以外の誰かがいた。霞がかった記憶の中で、春男の言葉がまた新たな何かを引き出そうとしている。

『遠い昔、あの方に寄り添っていた女性に、あまりに似ていたもので・・・』

臨終間際の兄に引き合わせようと必死になる程に、幼き日のはその誰かに似ていたと、春男はそう言った。
やめろ。その蓋を開けてはいけない。
しかし、その蓋を閉ざしておくことは許されない。
否応無しに、白昼夢の女を思い描いてしまう。

『妓夫太郎くん』

優しい声でその名を口にする、柔らかい笑顔の似合うひと。という名のその女と、当然の様に触れ合う自分の姿を、幾度となく見てきた。
知らない筈の彼女を、旧知の間柄の様に思わせる白昼夢。甘やかな触れ合いを繰り返す度、狂おしい程の愛おしさが込み上げ、その戸惑いはいつしか現実となって妓夫太郎の前に現れた。彼女の姿を一目見た瞬間の、革命とも呼べる鼓動の高鳴りを忘れない。

近付いてはいけない、触れてはいけない。
そう決めていた筈なのに気になって仕方がない、危なっかしい場面では手を出さずにいられない、その姿を常に見守らずにはいられない。その命が危険に晒されたとき、本能の様に身体が動き禁忌の陽光に身を晒した、それでも尚守りたいと強く願った存在。

『は、初めてお声を・・・っ聞いたのに・・・何故か、胸が痛くてっ・・・急に、涙が・・・止まらなくて・・・』

大事に思うからこそ、遠ざけねばならないと思っていた。それを自身から涙ながらに否定された時の動揺。そして、その涙の美しさに抗うことを諦めた夜。駄目だと思いつつも安らかな気持ちに満たされた矛盾。

『・・・お優しいのですね』

柔らかな微笑みに乗せられた言葉に、何かが引っ掛かる。あの時覚えた既視感は、気のせいではなかった。
彼女の姿に、遠い昔の幼い子供が重なる。

『・・・優しいんだね』

悪意に晒され続けた地獄のような日々の中、臆せず隣に座ってくれた子供がいた。。盲目の彼女に生写しのような少女。ずっと隣にいてくれた存在が、彼女だったことを悟る。

「おい・・・勘弁しろよなぁ・・・」

彼女を知っている。
人間であった頃、隣にいたことがある。
ほぼ確信に近いその答えに、妓夫太郎は気付いてしまった。



* * *




『絶対これよ!』

狐の面を持ち上げ頭に引っ掛け、梅は鬼の面を手に強気な態度で目の前の男に迫る。
男もまたひょっとこの面をずらし穏やかな笑顔を見せていたが、その眉は困ったように下がっている。

『梅殿、お気持ちは大変嬉しいのですが、春男には少し大き過ぎるかと・・・』
『うるさいわね!これだってば!絶対これ!』

梅は決して譲らないとその場で眉を吊り上げている。男の弟、春男への土産について二人は話し合っていた。尤も、梅の勢いが強いため男は劣勢を強いられ、苦笑が絶えない。
梅が選んだ面が、幼い弟に贈るには少々大き過ぎるというのが男の言い分だった。けれど梅は一歩も引く気は無く、既に支払いを済ませようと金まで準備している。

『お兄ちゃんのこと憧れてるのよね?鬼のお兄ちゃんて、そう呼んでるのよね?』
『ええ、それは勿論・・・』
『だったらやっぱりこれよ!』

梅はこの鬼の面を見た瞬間、これだと閃いた。まだ見ぬ男の弟に贈る土産として、これ以上のものは無いと確信を得た。何たって愛する兄を慕ってやまないという、なかなかに見所のある弟なのだ。鬼のお兄ちゃんという呼び方には今ひとつ納得しかねる部分もあるが、この鬼の面を贈って喜ばない筈がない。

『ふん、わかってないわね。大きさが自分に合うか合わないかより、まずは形から相手に近付けることが嬉しいに決まってるんだから。背伸びでも良いのよ、アタシはそう思うわ』

自分の背丈に見合うかはこの際どうでも良い。何でも良い、些細なことでも相手に近付きたいと思う気持ちこそが大事なのだ。
読み書きの基礎からまるで備わっていない身でありながら、自分の名前を書けるようになりたいと大きく踏み込んだ。そこには確かに新しい自分になりたいという希望もあったが、それだけではないことをわかって欲しい。他でもない、目の前の男にだけはわかって貰いたい。
そうして祈るような思いで下唇を噛み締める梅を見下ろし、男の表情が変わった。苦笑から、穏やかな笑みへ。梅の好きな、柔らかな微笑み。どこかに雰囲気の似た、優しい笑顔。

『わかりました。では、私の方で春男の首から掛けられるよう調整をしておきます』
『あら。それ良いわね!』

最初から譲るつもりは微塵も無かったが、正面から理解を得られたことがこんなにも嬉しいだなんて。梅は上機嫌に支払いを済ませ、改めて男へと鬼の面を手渡した。そもそも梅に支払わせることにも男は最初遠慮をしていたが、それでは自分からの土産にならないではないかと梅が憤慨したことでようやく納得させられたのだ。梅の達成感は計り知れない。
鬼の面を受け取った男は、何やら感慨深い顔をして面を眺めていた。

『春男のためにありがとうございます、梅殿。きっと喜びます。私の考えが固かったところを、梅殿が的確な推察をして助けて下さったお陰です』

認めて貰えた。人に何かを教える立場の男が、年下の梅からの指摘を受け入れてくれた。彼の柔軟な考え方と優しさが、梅の中に新たな温かさを灯す。

『背伸びでも良い・・・良い言葉ですね』

穏やかな笑みを向けられて感じるのは、気恥ずかしさと嬉しさが半分ずつだ。貰ったばかりの簪に触れ、梅は思わず目を逸らす。
今夜は良い夜だ。遊郭の祭など灯火祭に比べれば劣ると馬鹿にしていたけれど、間違いなく今宵このひと時は素晴らしい。
梅はこの男との出会いに、心から感謝した。








深夜の自室で、堕姫はびくりと肩を揺らした。
今頭に流れこんできた映像は、普段見ている白昼夢とは明らかに違う。明確な現実味と、頭の奥が揺さぶられるような痛み。
自身の記憶、それも相当昔のものだ。戸惑うように頭を抱え、堕姫はその美しい眉を顰めた。

人間だった頃の記憶は靄がかかった様に曖昧だ。辛く苦しかったことも、温かく幸せだったことも、全て覚えがあるような気もするし、全て無かったような気もしている。兄が傍にいた、それだけは確信があることだけれどそれ以外は朧げだ。
ただ、そこに一石を投じたきっかけがあの白昼夢であり、の存在だった。
あの世界にはまるで人間のような暮らしがあり、堕姫は梅と呼ばれる子供で、度々温かな思いを貰っている。無条件に自身を愛してくれるを現実に見つけ、強引に所有物にし日々を共に過ごすようになることで堕姫は安らぎを得た。これだけ運命的な絆を感じてしまうくらいなので、彼女との間に昔何らかの関わりはあったかもしれず、それでも堕姫は遠い記憶に自信が持てずにいた。
しかし、を飼うことは今や無惨にすら認められたことだ。兄がいて、を傍にも置いていられる、今が幸せならば細かいことは何だって良い、人間だった頃の記憶など必要がない、そう考えていた。

あの日、浮世絵師の昔語りを聞くまでは。

『この鬼の面は、当時その妹君が兄を通して私にと下さった土産物なのです。お会いしたことの無い妹君からの大切な贈り物です、長年大事にしております』

あの鬼の面を見た時に覚えた焦燥感が、記憶の奥底を攫われたことによる動揺だったと今更気付いてしまった。
あの面を知っている。あの祭の夜の出来事を、思い出しかけている。頭が、胸が、痛い。

『兄はお二人と、あの方の妹君を含めた四人の交流をとても大切にしていました。兄自身、お三方のことがとても好きだったのだと思います』

を見つけられたように、同じく白昼夢に度々現れるあの男を見つけられる日は来るだろうか。漠然としたその思いは、決して叶わぬことを悟った。
あの日、鬼の面を贈った相手があの浮世絵師ならば。その兄たるあの男は、既にこの世を去っている。

『裏切れない人がいると、兄は申しておりました』

妻を持たず、子も成さず。一人きりの生涯を送った理由。

『言っとくけど、裏切ったら許さないから』

そう口にしたのは、自分自身だと。
あの簪を贈られたその時、照れてしまって口をついて出た言葉だと。今頃になって、はっきりと思い出してしまった。

『ふふ。善処します』

優しい笑顔を思い出す。
穏やかな声を思い出す。

『頑張る梅殿は、素敵です』

とても、好きだったことを思い出す。






「・・・先生?」






もう一度会いたかったあの人はもう居ない。
一筋の涙が、堕姫の頬を伝った。



 Top