記憶の扉が開くとき



奥田屋のすぐ裏手には、小さな祠が祀られている。遊郭から出ることの叶わぬ女たちが、店の外でひっそりと神仏に手を合わせたい時に使う場所であった。

は今、一人でその場所に立っている。
珠姫にほんの少しの暇を願い、夕暮れ頃から杖を頼りにやって来た。外とはいえ、慣れてきた店のすぐ裏手なら問題無い。
人気の無い、静かな場所だった。が手を合わせ始めて、どれほど時間が経った頃だろうか。

遠雷の音が低く聞こえたと思えば、その身にぽつりぽつりと降り始めた雨の気配を感じ取り。
そして、その雨粒はすぐに遮られた。

「・・・ばぁか。ずぶ濡れになる気かよぉ」

外套を纏った妓夫太郎が、のすぐ傍に立ち傘を差し出していた。
日はとうに沈み、雨足は降り出しから本格的なものとなった。他の人間に出くわした時に備えての外套だったが、元々人気のない場所にこの悪天候では近寄る人間もいないだろう。不必要だった装備に小さく溜息を吐きながらも、妓夫太郎は傍らにぼんやりと立つを案じてしまう。

「・・・すみません」

覇気の無い謝罪の言葉が、切なく響く。
相変わらず突然現れた妓夫太郎に何の疑問も抱かず、何の警戒心も持たず。
しかし雨音にすら消え入りそうなその声は、彼女が沈み込んでいる何よりの証だった。

「さっさと戻らねぇと、花魁がうるせぇぞ」
「そう、ですね・・・。珠姫様にご心配をかけては、いけませんね・・・」

傘を差してやっているとはいえ、もう随分と長い時間外気に晒されての身体は冷え切っている筈だった。妓夫太郎としても早く屋内へ戻してやりたいところではあるが、肝心のは戻ることを口にしつつも足を動かす気配が無い。
それも当然かと、妓夫太郎は眉を潜めて彼女を見遣る。

「・・・この前の、客のことかぁ」

その言葉に、の肩がびくりと震えた。

号を有墨とした立花春男は、奥田屋で昏睡状態に至った後奇跡的に息を吹き返したが、数日後自宅にて静かに天寿を全うした。
家族から送られて来た文には、の立派な姿を見届けてから逝けたことで春男は救われたと綴られており、それを読み聞かされたは再び咽び泣いた。
辛く苦しい病に侵されることもなく老衰で旅立てることも、その直前まで絵師としての職務を全うし、や珠姫に昔語りが出来たことも、何もかも幸せだったと言い残して彼は逝ったとも綴られていた。
本人の言う様に、まさに幸福な人生だったのだろう。それは理解出来ても、突然送る側になってしまったの胸の内はそう容易く明るくはならない。

「いつかは、誰しも、天命を全うします。それは、わかっている筈なのに・・・淋しく、なってしまって」

の言葉が、ゆっくりと震えていく。
何も映さぬその瞳が、除々に涙に濡れていく。
傘を差して雨からは守れても、彼女をその悲しみから守ってやることは出来ない。妓夫太郎は自身の無力さに、溜息を堪え眉間の皺を深めた。

人間は脆く、儚い生き物だ。どうしたって寿命は定められているし、病気をせずともいつかは衰えて死んでしまう。
今こうして悲しみに暮れているも同様だ。不死の鬼とは違い、いつかは必ずその命を見送ることになる弱い存在。彼女がその命を終えたその時、自分は、妹は、どうなってしまうのだろうか。の存在が消えることを、受け入れられるのだろうか。

決して鬼にはしないという無惨の言葉が頭を過ぎり、妓夫太郎は小さく頭を振り固く目を閉じる。

「・・・泣くなよなぁ」
「はい・・・すみま、せん・・・」
「ったく・・・」

泣かせたくはない、悲しませたくもない。もう抗うことすら馬鹿らしくなったその感情が、妓夫太郎を突き動かす。
その手を伸ばすことは躊躇われたが、これ以外に彼女を宥める方法が思いつかない。空いた片方の手が恐る恐る、爪先が掠らぬよう慎重にの頭へと乗せられた。

「・・・怪我したくなかったら、動くんじゃねぇぞ。こっちも相当気ぃ遣ってやってんだからなぁ」

瞬間驚いたように身を固くしたであったが、妓夫太郎のその言葉に大人しく一度頷いた。彼女のその反応に安堵した様に妓夫太郎は目を伏せ、ぽん、ぽんとその手で何度かその頭を撫でる。
脆い人間を傷ひとつ付けない様気を遣い扱うなど、を見つける前の自分なら考えられないことだ。分類上鬼の食料でしかない筈の彼女は、鼻を啜りながらも大人しくしていて。それを見下ろす気分は、存外悪くは無い。





『人は肉体が亡くなった時、魂が天へ昇ると言われているのです』





「・・・」

何故か、覚えの無い筈のその言葉に背を押されたような気がした。

「今頃は、空の上で寛いでるんじゃねぇのかぁ?」
「え・・・?」

借り物の言葉が口をついて出た。
とにかくの涙を止めようと、何でも良いから励まそうとしたその結果、出た言葉だ。不思議そうにこちらを見上げてくる彼女の視線にたじろぎつつも、妓夫太郎は一度咳払いをする。

「頭を動かすなって言ってんだろうが・・・なんだ、人間は死ぬと・・・あー、空に上るってよぉ、何処かで聞いた気がするんだよなぁ」
「・・・空の、上・・・」

自分は一体何を口にしているのか、それは何処で聞いた言葉なのか。様々な疑問は全て強引に見ぬ振りを決め込み、妓夫太郎は話を続ける。
今はの涙を止めること、彼女に少しでも気力を取り戻させることが最優先事項だ。出まかせでも何でも良い。潤んだ瞳を見下ろし、頼むから泣き止んでくれと祈るような思いで言葉を紡ぐ。

「こっちを見物しながらよぉ、兄弟で一杯引っ掛けてる頃なんじゃねぇのか?それをよぉ、気にかけてるお前がめそめそしてたら・・・まともに乾杯も出来やしねぇんじゃねぇのか」

春男と、その兄。
何故その名を自身が知っているのか、その記憶を揺さぶられる度に鈍い頭痛を感じてしまうのか。
気にかかることは全て二の次にして、がそんな様子では空の上の兄弟が安心できないのではないかと、妓夫太郎はそう告げた。

らしくない事を口にしたことは、誰より自分が一番よく承知している。しかし今はそれより優先すべきことがあるのだからと、気恥ずかしさと必死な気持ちの間で小さく唇を噛む。の涙は見たくない、出来る限りを悲しませたくない、理由も無く強烈にそう感じてしまうのだから、どうしようも無い。
は、見えない瞳を丸くして妓夫太郎を見上げていた。

「・・・」
「ま、別に俺はそいつらのことはどうでも良いんだがなぁ」

淋しくとも、亡くなった存在は天から見守ってくれている。そうして励まされたのだと気付き、は傘を差しかけてくれる存在を呆然と見上げた。
何故か、照れ臭そうに視線を逸らす彼の姿が、目に浮かぶような気がして。
は少しの間を空けて、緩く微笑んだ。

「・・・ありがとう、ございます」

やはり、彼は優しい。
夢に出てくる“彼”ほど、その口調もやり方も真っ直ぐではないけれど。それでもこちらを気遣おうとしてくれる精一杯の優しさを、痛いほどに感じる。

「励まして下さって・・・いつも助けて下さって、本当に、感謝しております」

にこりと微笑んだその目尻から、拭い切れなった涙が一筋零れ落ちる。相変わらず綺麗なその一粒に苦笑を浮かべ、妓夫太郎は安堵した。
この笑顔が見れるなら、何だってしようと思える自分がいる。

「そう思うんなら、さっさと泣き止めよなぁ」
「・・・はい」
「化粧落ちてすげぇ不細工になっても知らねぇからなぁ」
「・・・ふふ」
「んだよ笑えんじゃねぇか、おい・・・」

調子に乗るなよ、と軽口を叩いてその髪を乱してやろうかと口の端を上げた、その時。

「・・・」








妓夫太郎は、不意に息が止まるような感覚に襲われる。
こうして、乱暴にならない程度の力で、の前髪を混ぜるように撫でる。
すると少し乱れた髪を押さえ、照れたように頬を染めて微笑むの顔。
それら全てが、過去に経験したことの様に脳裏に流れ込んできた。
普段見ている白昼夢とは違う、もっと鮮明な記憶としてこの身に刻まれた何か。
覚えは無い、無い筈だ。
けれど、確実に知っている。








雨音と共に意識を取り戻し、ほんの数秒も時間が経っていなかった様子に安堵する。
には悟られぬ様慎重にその手を頭から引き、その華奢な手に傘の柄を握らせた。
必要以上に高鳴る鼓動と酷い動揺の理由は、相変わらず不鮮明だ。

「・・・一人で戻れるな?」
「はい・・・あ、でも傘が無いと貴方が濡れて・・・」
「うるせぇ、余計な気を遣うなよなぁ」

律儀にもこちらが雨に濡れることを心配するを制し、妓夫太郎はその場を飛び退いた。彼が神出鬼没であることを、は何の疑問もなく受け入れている。気配が遠ざかったことを感じ、大人しく店の正面口へ回ろうと歩み始めた彼女の背中を認め、妓夫太郎はひとつ息をついて纏っていた外套を脱ぐ。

「確かに届けたからなぁ。本人ももうじき戻る」
「うん・・・ありがと」

妓夫太郎は堕姫の部屋の窓枠に足をかけていた。
部屋の中からは、傘を持っていくように依頼してきた妹の声が返って来る。堕姫は鏡で化粧を直しており、妓夫太郎の方には目を寄越さない。

この兄妹もまた、春男の来訪した日以来何かが変わった。あの日、あの昔語りを聞いてから、二人して何かが胸に引っかかる。

「ねえ、お兄ちゃん。アタシ、最近・・・」

雨音が瞬間小さくなり、部屋の中を静寂が包む。
その静けさの中、鏡越しに兄妹の目が合う。
暫し無言で見つめあい、そして先に視線を逸らしたのは堕姫の方だった。

「・・・何でもない」
「あぁ?」
「何でもないってば」

強引にそう言い切る妹に、妓夫太郎はそれ以上の追求をやめた。
お互いに、何らかの異変ともどかしさを感じていることは察している。そして、その違和感にお互い答えが出せずにいることも。妹が話すというなら聞くが、本人の中でも困乱が纏まり切らないだろうこともわかる。妓夫太郎とて同じようなものだ、日毎に戸惑いが大きくなるばかりなのだから。
そうして静まり返った空気を換えるかの様に、堕姫がこちらを振り返る。

「それよりお兄ちゃん、気になるなら爪切ってあげるけど?」
「あぁ?」
「アタシもたまに掠ると痛いの、お兄ちゃんの爪。自分の爪の手入れはいつもしてるし、だからついでにね」

己の尖った黒い爪を見る。鬼の妹でも掠ると痛いなら、人間の相手に気安く手を伸ばせたものではない。
の涙を止めるためとはいえ、まったく危ない橋を渡ったものだと、つい先ほどまでの自分を苦々しく振り返る。彼女のためにも極力触れるべきではないという誓いは、何処へ行ってしまったのか。

「短い方が、色々楽なんじゃない?」

妹は意味深に笑っていた。

「・・・考えとく」

が戻ってくる足音を遠くに感じ、妓夫太郎は天井裏へとその身を移した。



* * *



『ああ、殿・・・そこに、おられたのですね』

老いた男は、目の前に現れた少女を前に大粒の涙を流した。
何十年も求め続けたその一人の登場に、何かが決壊したかのように感情が溢れ出る。

『すみません、殿・・・青い彼岸花は、あれからどれだけ探しても見つからず・・・あの時、どれほど殿を落胆させてしまったことか・・・それなのに逆に貴女に気を遣わせて、自分の至らなさを恥ずかしく思っておりました・・・』

男は過去の失態を長年に渡り悔いていた。
彼女が懸命に捜し求める希少な品種を、遠目に発見したその日。そのまま採取に山へ戻れば良かったものを翌日に持ち越し、目撃報告だけを彼女へと届けてしまった。
あの時心底喜んでいた彼女は、翌日現物が消えたという失態に、間違いなく落胆した筈だった。それでも彼女は、焦り悔いる男の憔悴加減を心配し、どうか気にしないで欲しいと優しく微笑んだ。
あの日の失態を恥じる気持ちから、彼女が消えても尚探し続けた青い彼岸花は、とうとう見つからなかった。

殿たちと共に、この町で暮らしたかった・・・妓夫太郎殿と、もっと沢山、お話がしたかったです。梅殿に、色々なことを、教えて差し上げたかった・・・』

彼らの夢は、いつしか男の夢になっていた。
遊郭という狭い環境を抜け、三人で外の世界を自由に生きたい。そうして手を取り合い仲睦まじく寄り添う彼らを、傍で見守りたい。それが男の願いそのものになっていた。
出来るならずっと傍で、彼らと共に年を重ねていきたかった。
知識豊富なと色々な意見を取り交わしながら、植物についての研究を進められたらどんなに良かったか。
子供たちの人気を一身に受け困惑する妓夫太郎を宥めながら、友として色々な会話を楽しみたかった。
今度は練習帳越しではなく、直接梅に様々なことを教えたかった。新しい自分になろうと日々懸命に努力する少女の笑顔が、好きだった。

『叶うなら、妓夫太郎殿と梅殿にも、ひとめお会いしたかったですが・・・最期に、殿だけでも見つけられて・・・本当に、良かった・・・』

少女は何も言葉を発しなかったが、男の目には在りし日の彼女の姿がはっきりと映っていた。穏やかな微笑みに見守られ、男は長年の苦悩を解かれたような心地で目を閉じる。
もしも願いが叶うなら。どれほど時間がかかっても、どれほど時代が移り変わっても。あの日に梅が願ってくれた様に、四人で集えますように。

『次の世で、またお会い出来ることを・・・心待ちにしております』

そうして男は、穏やかな顔で人生の幕を降ろしたのだった。



* * *



朝の訪れに、がその目を薄く開ける。
けれど彼女は、暫く起き上がることが出来ずにいた。幼き日の出来事を、はっきりと思い出したのだ。
何故、今までこんなにも大事なことを忘れていたのだろう。彼は恩人である有墨の兄であり、長いこと生存の望み薄な友人三人を探していたと先日話を聞いたばかりだ。その内のひとりが『』という名の女性で、よく似た顔の自身に重ねたのだろう。問題はその後だ。

「・・・どうして」

妓夫太郎。
梅。
の夢に度々出てくる彼らの名が出て来た意味は、この二人もまた探し人であるからだ。

この様な偶然が果たしてあるだろうか。加えて、はその老人の臨終の際に感じた哀しい喪失感にも戸惑い目を伏せる。見ず知らずの間柄の筈だ。なのに何故か、心に棘が刺さったように最期の言葉が頭に響く。

「・・・大旦那様」

今になって、有墨から聞いた昔の話が様々なことに繋がる可能性に気付く。有墨の憧れの人、その妹と、傍にいた女性、そして有墨の兄。何度も夢に見る幸せな景色に出てくる自分と或る兄妹、登場人物すべての名が実在した存在と一致しているという現実。

度々夢に見るあの優しい光景と、恩人の家族が繋がっている。更には、自分と、夢の中の『』も。そして、『妓夫太郎』という名の彼が、有墨の憧れた人であるならば―――人間ではない存在として、今も生きている可能性が、ある。
夢の中で甘く触れ合う彼は、間違いなく人間だ。けれど、彼と声のよく似た“彼“は、まるで何か人の理を超えたような身のこなしで日頃を助けてくれる。

もしも、彼が―――。

「・・・」

これまで考えもしなかった現実離れした話に、の中に動揺の波が広がる。
“彼“に会いたい。
それはどちらの彼なのか、は答えの出せない自身に大きく戸惑った。




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