鬼の浮世絵師・下



悪夢の様な事件から年月が流れ、少年は青年へと成長した。家庭を持ち、浮世絵師としての仕事と有墨という号を持ち、いつしか壮年へと年を重ねた。しかし彼の兄は、未だあの日に心を置き去りにした様に年月を過ごしていた。

「兄は何年経っても、十年以上の時が過ぎても、お三方の生存を諦めきれない様子でした。父が亡くなり寺子屋の三代目を継いでからも尚、空いた時間は研究ではなく、捜索に費やしておりました。ただ、その度に望ましい成果は出ず・・・少しずつ、兄の心身は磨り減っていきました」

兄からはとても直接聞けなかったことだが、あの事件のことを有墨は人伝てに耳にしていた。遊郭のとある区画まるごと、一晩の内に長屋の住民が姿を消した。現場には夥しい量の血と白骨の残骸の様なものが散乱し、とても人間に起こせる諸行ではないとのことだった。大型の獣か妖の類の仕業としか言い様の無い惨劇は、歴史に長く刻まれる大事件だ。そこに巻き込まれ忽然と姿を消した三人の安否は絶望的なものだった筈だが、兄はそれでも諦めなかった。どれほど成果が出ずとも、大事な友の生存を諦めきれずにいた。

「事件から二十年の月日が流れた頃のことです。私は妻と子がおり、兄も共に暮らしておりました。兄が度々出かけては怪我を負って帰ってくる日が増えたもので、心配になった私は・・・ある夜、兄の後をついて行くことにしたのです。遊郭の外れの区画の暗い道を、兄は頼りない足取りで彷徨う様に歩いておりました。そこらじゅうから、鋭く悪意に満ちた視線を感じました。ああ、兄はこうして日々物取りや追剥に襲われていたのだろうと、私はその夜ようやく理解したのです」

兄はとうに、地道な聞き込みや情報収集の手を尽くし果てていた。それでも友の姿を求めて遊郭の一角を彷徨い歩かずにはいられず、治安の悪い地で柄の悪い者達に囲まれることを常としてしまっていた様だった。弟として、到底見過ごすことは出来なかった。

「その時点でもう事件から二十年です。兄の辛い気持ちを軽んじる訳ではありませんでしたが、潮時なのではないかと・・・このままでは兄が身を滅ぼしてしまう。私は勿論、妻子も心配していますし、無茶なことはこの夜を最後にさせなければならないと内心決意を固めておりました・・・刃物を持った追剥の集団に兄が囲まれたのは、そんな時でした」

その時の血の気が引いた感覚を、有墨は今でも記憶している。足元の覚束無い兄はあっけなく男たちに取り囲まれ、胸倉を強く掴まれていた。どう考えても自己防衛の本能が欠如したとしか思えぬ兄の姿に、弟は大層動揺した。

「兄は頭を殴打されて気を失ってしまい、身包みを剥がされかけたので思わず割って入り・・・その際、この刀傷を負いました。何とか兄を抱えて逃げようとしたのですが、負傷した身で集団から逃げることは難しく、ここまでなのかと無念の思いで気絶している兄を抱き締めました」

目の際を縦一文字に深く切りつけられ、激痛なんて言葉では言い表せない度を越した感覚に全ての正常さが麻痺した。視界が点滅するような危険信号を脳が発し、しかし気絶した兄を庇いながら逃げることは叶いそうに無い。

絶体絶命の危機に考えたのは、家で帰りを待つ妻子の顔、そして―――遠い昔に憧れた、英雄の姿。
その直後、獣の様な咆哮を、有墨は耳にした。

「突然のことでした・・・追剥たちは瞬く間に殴り倒され、一瞬の内に暗闇へと引きずりこまれたのです」

何が起きたのか、咄嗟には理解できなかった。顔を切りつけられたことで気が動転したのか、幻覚なのか。しかし確かに、一瞬前まで自分たちを取り囲んでいた追剥達の姿が消えている。

目の前の路地から不気味な音がすると気付くまでに、そう時間はかからなかった。何かが裂ける音、咀嚼、そして飲み下しては残骸を放るような、生々しくも恐怖心を煽られる音がした。
有墨は恐る恐る、斬りつけられていない方の目を凝らした。暗い路地の奥に、確かに何者かの姿があった。

「月明かりの少ない夜だったので、はっきりとは姿が見えませんでした。ただ、その方は・・・恐らく、人では無い存在だったのでしょう。それほどに、人の域を超えた力を、あの晩私は感じました」

生理的な恐怖、近付いてはいけないという全身全霊の命令が身体を凍らせる。
けれど有墨の脳は、今しがた追剥達が闇へ連れ去られる瞬間を記憶していて。
追剥たちに殴りかかる、その人ならざる者の背中が、何故か。

「ただ、一瞬見えたその背中が何故か・・・あの日のあの方と、重なって見えたのです」









遠い昔、幼き日の自分を救ってくれた憧れの人。
言葉数は少なく、いつも眉間に皺を寄せているような人。
けれど、小さな自分を傷付けまいと優しくしてくれた人。

『―――鬼の、お兄ちゃん?』

有墨は震える声で、思わずそう口にした。
“彼”は肩を揺らしてこちらを振り返った。
血だらけの顔を歪め、鋭い目を見開き、そして。









「その方と追剥達の死体は、たちまち暗い路地から掻き消えました。ほんの偶然かもしれませんが・・・結果的に、我々兄弟はそのお方に、命を救われたのです。その後は馴染みの平坂屋へ助けを求め、何とか兄を連れて無事に家に戻ることが出来ました」

“彼”は音も無く姿を消した。助かった。その安堵から気を失いそうになる自身を懸命に律し、有墨は兄を抱え平坂屋に飛び込み九死に一生を得たのだった。あの場で彼が全員を食らわず追剥だけを狙ったことは恐らく偶然だ。しかし、それでも二人の命は救われた。有墨は不思議と、あの彼がかつての憧れの人であることに、確信のようなものを感じていた。

「馬鹿げた話かもしれませんが。兄が長年探している、私の憧れの方が・・・人では無くなっている可能性を、私は兄に話しませんでした。例え本物の鬼になろうとも・・・あの方が私の憧れであることは、今も変わりないことなので。この鬼の面は私の傷を隠してくれますし、同時に私に勇気も与えてくれました。鬼の浮世絵師と、あの方と似た名前で呼んでいただけることもまた、私の喜びです」

何故彼があの様な姿になったのか、それは有墨には計り知れない。けれどどんなに姿が変わろうと、やはり彼は憧れの人に変わり無い。顔の傷が一生残ることを悟った日、有墨は大事にしていた鬼の面を被ることを決めた。表向き、この刀傷で客に不快な思いをさせないために。本音では、この面を被ることで勇気を貰えるような気がしたためだった。

会うことの叶わなかった妹君からの大切な贈り物で、憧れの人と同じ“鬼”を装う。兄に告げることは出来ないが、現実味の無い話でも有墨にとってはそれが真実だ。こうして鬼の浮世絵師は誕生した。



* * *



有墨の話が一息つくなり、堕姫は説明のつかない緊迫感に細い息を吐いた。
何故か今、とても息苦しい。心音が早く、頭の奥が鈍く痛む。

「・・・それで、兄上様はその後どうされたの?」

何故有墨が鬼の面を被っているのか、その説明は時間をかけて成された。しかしここまで話を聞いた以上、彼の兄のその後が気になって仕方が無い。
冷や汗の様なものが喉を伝う。堕姫は有墨の回答を、固唾を呑んで待った。

「私の怪我に責任を感じたのか、以来無理な捜索をすることは無くなり、そこからは寺子屋の教育にのみ専念する兄が戻りました。ただ、そこから先の兄は・・・大事なものが抜け落ちてしまった様な、酷く虚ろな目で日々を過ごすようになりました。妻を娶ることも無く、子を成すことも無く、ただ子供たちへの教育だけを淡々と続け・・・そうして兄は、ゆっくりと衰えていきました」

年老いたその兄は、一人きりだったと言う。その事実が不自然なほどに堕姫の内心を揺さぶった。

「・・・ずっと一人きり、だったの?」
「ええ・・・裏切れない人がいると、兄は申しておりました」

有墨の穏やかな声で告げられた言葉に、堕姫は暫し目を見開いた。
裏切れない人。その単語がやけに胸に引っかかる。






『言っとくけど、裏切ったら許さないから』






頭に響くこの声は、誰のものだろうか。
堕姫がそうして動揺していることに有墨は気付かず、その話は続く。

「年月が流れ、兄は自力で歩くことが困難となり、成長した私の長男へ寺子屋を引継ぎ、いよいよもう駄目かというその時でした―――私は、この娘を見つけたのです」

目が見えずとも、有墨の話が自身の方へ向いたことをは察した。
初めて耳にする話に不思議な緊張感を覚え聞き入っていた彼女は、突如出てきた自身の話題に小さく肩を揺らして驚いた。そんなを見遣り、有墨は穏やかな苦笑を浮かべてしまう。

「すまないね、。お前を驚かしてしまうかもしれないが、話を続けても良いかい?」
「どうかお気遣いなく、大旦那様・・・私も、お話を最後まで聞きたいです」

大きな恩のある有墨の話だ、どんな話でも聞いておきたいとは姿勢を正した。
その姿の横に、まさしく初めて目にした頃の幼いの姿が見えるようで、有墨は思わず目を細めてしまう。こんなにも立派に成長した姿を拝めるだなんて、長生きはしてみるものだ。

「本当に偶然の出来事でした。亡き妻の縁があり、平坂屋で絵の仕事をした帰り道のことです。男に連れられたこの娘の顔を見て、私は息を呑みました。遠い昔、あの方に寄り添っていた女性に、あまりに似ていたもので・・・」

何故その瞬間に記憶が蘇ったのかは定かではなかった。男に縄で繋がれた小さな少女と、記憶にある彼女は年の頃も随分違う。しかし似ていると、強烈な思いが有墨の脳裏を駆け抜けた。

「男は見るからに人買いでした。事情を聞いたところ、この娘が目を患っている影響で、即受け入れの出来る店が見つからず困っているとのことでした。私はこの子を引き取りたいと、その男に申し出ました。いくら金を積んでも店に売り払う予定は変えないとのことだったので、せめて引き取り先が決まるまでは、それか引き取り先まで私の方で探して見せるからと、この娘の一時保護を懇願しました」

何故有墨がそうしてまでその少女に執着したのか、食い下がらずにはいられなかったのか。その裏側には、憔悴しきり黄泉へと旅立とうとしている兄への思いがあった。

「そうして私は、何もわからず不安でいっぱいのこの娘を・・・兄と、引き合わせたのです」

友を探すことを諦めた兄は無茶や怪我こそしなくなったものの、空虚な表情で年を重ねる様になってしまった。心ここにあらずな様子で虚空を眺めるばかりの活力の無い生き方は兄を実年齢以上に老け込ませ、このまま逝かせてしまうのはあまりに惨いと感じていた矢先、盲目の少女と出会ったのだ。

有墨は小さな少女を家へ連れ帰るなり、どうか自身の兄と会ってやって欲しいと懇願した。当然訳もわからないであろう少女には、とにかく何も話さなくて構わない、顔を見せてやるそれだけで良いと説いた。哀れな少女を相手に勝手を押し付けている自覚は十分あった。しかし、兄をこのままにはしておけなかった。

「私ですら似ていると、そう感じたくらいです。兄は余計にこの娘を彼女と重ねた様で・・・暫く口も利けなかった状態からは想像もつかないほどに、泣いて喜びました」







少女の手を引き、兄の横たわる和室の引き戸を開く。
春の風が吹き抜けるその一室で、ぼんやりしていた兄の目がこちらを向いて。
その瞳がゆっくりと見開かれ、ここ数十年遠ざかっていた光が戻る瞬間を、有墨ははっきりと見た。

『ああ、殿・・・そこに、おられたのですね』

涙を流す兄の目には、恐らくこの少女を通して在りし日の彼女の姿が映っていたのだろう。
何の事情も知らずここへ来てくれた少女に、有墨は心の底から感謝した。








「今際の際で・・・もう、正気では無かったかもしれません。ただ、兄はこの娘の向こう側に彼女の姿をはっきりと見た様で・・・後悔と、感謝の気持ちを告げて、穏やかな顔をしてこの世を去りました」

それからいくつかの言葉を残し、満ち足りた顔で臨終の時を迎えた兄の姿に、有墨の方が救われた様な思いがしていた。後悔と疑問に長く苦しんだ兄は、最期にようやく安らかな思いを手に入れたのだろう。は言いつけ通り何の言葉も発しはしなかったが、ただ黙って兄の最期に寄り添ってくれた。

というのは、その時に兄がこの娘を呼んだ名前で・・・私はもう記憶に無かったのですが、彼女の名前だったのでしょう。無理にその名を継ぐ必要は無いと言ったのですが、この娘がそれを望んでくれた様だったので、そのままと名乗らせることにしました」

名付けの下りにはが驚いたような顔をしたが、無理も無いことだ。何もかもわからぬ心細い状況の中、小さな少女が無理をしていなかった筈が無い。細かいことが記憶に残っていないことも十分に頷ける。有墨は僅かに眉を潜め、拳を握った。に対しては、もっと何かしてやれたのではないかという後悔ばかりが残る。

「突然連れて来られ、見ず知らずの男の臨終の場に縛られ、には本当に可哀想なことをしてしまったと思いました。出来ることならそのまま私の家で引き取りたかったのですが、仲介の男はどうしても首を縦には振らず・・・せめてと思い、妻の元いた馴染みの平坂屋に、芸者として引き取って貰えるよう手を回しました」

金を積んで養子に出来るならば迷わずそうしただろう。が兄の最期に貢献してくれたことを思えば当然のことだった。それが叶わず何処かの店に遣らねばならぬならせめてと、馴染みの店で亡き妻と同じ芸者になれるよう手を尽くすくらいしか出来なかったが、今思えばもっと良い方法もあったのではないかと後悔が募る。

「目の見えぬこの娘が店に入る前に、ひとつでも多くの生きる術を授けること。それを目標に掲げ、三月の間私の家族はと共に過ごしました。この娘はすぐに心を開いてくれましたし、日々が本当に和やかで・・・私も息子夫婦も、を手放すのが本当に辛くなるほどに、良い時間を貰いました」

生まれる子は男児ばかりの家だったため、幼いの存在は兄を亡くしたばかりの有墨の一家に温かな光を灯してくれた。親から満足に名も与えられず挙句売り払われたこの少女は、奇跡的に屈折したところも無く素直に有墨の教えを受け入れた。目が見えないならば耳や鼻で、時には空気で物を感じることは出来る筈だ。そうしてを導いた三月は慌しかったが、今も有墨の中では温かな思い出だ。
出来ることなら本当に家族として迎え入れたかった。それが有墨の偽り無い本心だったが、結局のところ手放してしまった自分たちをはどう思っているだろう。そうして長年気にかけ続けていたのだけれど。

「・・・?」
「大旦那様・・・良いお時間をいただいたのは・・・私の方でございます」

今彼女は、大粒の涙を零しながら小刻みに肩を震わせている。これには有墨も動揺してしまうが、は涙を懸命に拭いながら頭を下げる。

「このような身の私を、大切にして下さりました・・・目の見えぬ身体でも出来ることは沢山あることを、様々なことを目以外の部分で感じ取ることが出来ると、教えて下さったのは大旦那様です・・・。本当に、心から感謝しております・・・。大旦那様がいらっしゃらなければ、今の私は在りません」

そうだった、と。はこのような娘なのだと改めて痛感し、有墨は自身も涙を誘われそうになるのを堪え彼女の背を優しく撫でた。風が吹けば飛ばされてしまうのではないかと、それほど頼りなく心細そうだった少女の筈が、今やこんなにも立派な芸者として遊郭一の花魁の傍に仕えている。どれ程の苦労があっただろう、有墨はこの華奢な背中を撫でているだけで溜らなくなってしまう。

「・・・この様に、とても良い娘なのです」

その言葉は、の主たる花魁へ向けられていた。
噂通り絶世の美女は、しかし性悪だという噂とは違いを大切に扱ってくれている様に思える。
しかしここまで来たのは、この花魁に改めてを託すためだ。
有墨は真剣な顔をして、深く頭を下げた。

「老いたこの身が望むのは、ただひたすらにこの娘の幸せのみでございます。どうか珠姫花魁・・・のことを、宜しくお願い申し上げます」
「・・・ええ、勿論。アタシが見込んだ芸者だもの。一生アタシが面倒を見るし、大切にするわ」

真摯な言葉に、同じく真摯な返答が返って来る。
顔を上げた際に目が合った美しい花魁は、比較的穏やかに微笑んで有墨と隣で泣いているを見つめていた。
何かを成し遂げたような心地に、有墨は眦を下げて涙を薄く浮かべる。

良かった、これできっとの幸せは約束された。

「そのお言葉が聴けただけで、ここまで生きた甲斐がございました」

そうして再度小さく頭を下げて、深く息を吐き出す。

有墨の動きが、そこで停止した。

異変に先に気付いたのは堕姫だった。

「・・・有墨の旦那さん?」

主の言葉に釣られるように顔を上げたが、涙を拭いながらそっとその肩の辺りを探るように触れる。

「大旦那様・・・?」

その刹那、ゆっくりと老体は畳へと横たわった。
一瞬での血の気が引く。喉が詰まる、頭の中が白くなる。

「っ・・・大旦那様!しっかりして下さいませ、大旦那様!!」
「・・・誰か!!誰か医者を呼ぶんだよ!!早く!!!」

堕姫の悲鳴にも似た叫びに、奥田屋は騒然となった。



* * *




部屋の天井裏で、妓夫太郎はその光景を呆然と見下ろしていた。
医者が駆けつけ意識の無い有墨の処置をしているが、状況は変わらない。
泣いて助けを請うを、妹が懸命に抱き寄せ宥めている。
天井を向いて横たわる男の顔を見ていると、覚えの無い映像が脳裏に入り込んでくる。



『鬼のお兄ちゃん!』



愛らしい子供。



『―――鬼の、お兄ちゃん?』



顔から血を流した男。




「・・・春男?」




覚えの無い筈の男の名を、妓夫太郎は口にした。




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