鬼の浮世絵師・上



背の高いすすきが草原一帯に生茂り、柔らかく風に揺れている。
夕焼けに染まる美しいその光景の中に目当ての人を見つけ、梅の足が止まった。
一人静かに佇む男の背中は、何とも言えぬ哀愁が漂っている様で。
何かあったのだろうかと、不安になってしまう。
優しい彼に、憂いの表情は似合わない。
普段のように穏やかに、笑いかけて欲しい。
そうして梅が一歩踏み込んだ音に、その背中が反応を見せる。
振り返ったその男と、目が合った。

『・・・梅殿』

梅の良く知る、優しく温かな笑顔で彼は梅の名を呼ぶ。
不安は杞憂に終わる、いつも通りの彼がそこにいる、それが堪らなく嬉しい。
その柔らかな声が、梅はとても好きだった。












「珠姫様、失礼いたします。お連れいたしました」

襖の向こうから聞こえるの声に、ふと意識が引き戻される。堕姫は自室で客人を迎える準備を万全に整えていたところだった。
度々白昼夢に現れるあの男も、の様にこの現実に存在しているのだろうか。漠然とそう考えたその時、襖が静かに開かれた。
の後ろに控えた男の姿が目に入る。その異様な様に、堕姫は瞬間息を呑んだ。

「ご紹介いたします。浮世絵師の、有墨様です」

古びた鬼の面を被った男が、其処に背を正して座していた。



* * *



有墨と名乗ったその浮世絵師は、の紹介を受け丁寧な挨拶を済ませた後早々に作業へ取り掛かった。
鬼の面を被って顔を隠してはいるものの、有墨は大変穏やかで優しげな話し方をする老人だった。
絵を仕上げる間も堕姫に楽な姿勢を提案し、被写体への負担を軽減すべく努めている様に見える。
名の売れた絵師は負担などお構いなしに様々な角度を要求する者もいる中、これは大変気遣いの出来る対応と言えた。見ず知らずの傲慢な絵師ならともかく、の客人ならば多少の無理は譲歩しようと堕姫は心していたが、肩透かしの様な穏やかな空気の中手早くその筆は仕上がりの瞬間を迎えた。
なかなかの腕前という噂は事実だった様で、出来上がりの絵は堕姫本人も悪くないと思える程だ。

「本来ですと完成まで自分の手で仕上げるところですが、年を取りましたもので・・・お恥ずかしい話ですが、ここから先は彫師と摺師に任せます。どちらも良い腕の者が控えておりますので、どうかご安心下さいますようお願い申し上げます」
「・・・悪くない出来だわ、完成が楽しみね」

主のお墨付きを貰えたという事実が、やや緊張気味だったの表情を和らげる。
彼女は明るい笑みを携えて有墨を労った。懐かしさからか、今日のは普段より幼く映る。

「大旦那様、お疲れ様でございました」
・・・元気そうで本当に安心したよ」
「ありがとうございます。珠姫様に良くしていただいておりますので、お陰様で日々健やかに過ごしております」
「そうか・・・良い方に仕えているのだね・・・」

が珠姫という新しい主の元で元気に過ごしていることを、有墨は心から喜んでいる。その声からは実の孫を見るような慈しみを感じる一方、堕姫の目には鬼の面の主張が強めに映ってしまう。

見るからに、かなり古い鬼の面だった。初めて目にした時から妙な胸騒ぎを感じてしまうのは何故なのか、それは堕姫にも理解が追いつかない。

「・・・有墨の旦那さん、その面は、外せないもの?」

その言葉に、和やかな二人の会話が止まった。折角の機会に水を差すことはしたくないが、堕姫としてもが世話になったという有墨をもてなしたい気持ちもある。
それにあたっては、出来る事ならば直接顔を見たいという気持ちが半分。
もう半分は、その鬼の面から逃れたいような不可思議な気持ちだった。

「折角来て下さったんだもの。出来れば、直接お顔を見てお話したいのだけれど、如何かしら?」

は何も言わず、ただ成り行きを緊張の面持ちで静観している様だ。
堕姫の言葉を受けた有墨は暫し間を置いた後に姿勢を正し、堕姫へと頭を下げた。

「・・・それではお言葉に甘えさせていただき、失礼いたします」

その面が外れる瞬間、妙な緊張感が場を包んだ。
それは堕姫にも、天井裏で見守っている妓夫太郎にも、同じことが言えた。古めかしい鬼の面は、不思議な程の存在感を放ち続けていたのである。

その面が外され、有墨が顔を上げる。

優しげな老人の顔が露になった。
しかしその顔は、右目の端を痛々しい刀傷によって見事に縦断されている。古い傷跡は深く刻み込まれており、否が応でも目を引いてしまう。その異様な光景に、堕姫は思わずその目を見開いてしまった。
有墨は想定通りの反応を受け止め、小さな苦笑を浮かべ再度頭を下げる。

「お見苦しいものをお見せしてしまい、申し訳無い」
「・・・痛くは、ないの?」
「ご心配、ありがとう存じます。もう四十年近く経つ古傷ですので、私自身は痛みも無いのですが・・・驚かれてしまう方も多くいらっしゃるので、ご不快な思いをさせないためにこの面を付けて仕事をしております。巷では、鬼の浮世絵師、などと呼んで下さる方もいらっしゃいますが」

本人は痛くないと言っているが、初見ではとても信じられない程の大きな傷跡だった。四十年前からこの様な傷を目立つ箇所に抱えていては、さぞかし苦労した場面も多かったであろうことが窺える。これを隠すための面だったのだと言われれば、それはすんなりと腑に落ちた。
しかし、ひとつ気になることがあるとするならば。

「どうして、鬼の面なのか聞いても?」

何故、鬼の面なのか。
それ故鬼の浮世絵師などと呼ばれていることすら、有墨は欠片も嫌がる素振りが無いどころか、光栄に思っているような響きすら感じてしまう。
堕姫の疑問に対し、有墨は瞬間押し黙った後に優しく表情を緩めた。

「それは・・・少々、老人の昔話をさせていただくことになりますが、宜しいですかな」

何故だろう。
有墨のその表情が、堕姫の中で何かと被る。

「ええ、是非聞いてみたいわ」
「承知いたしました。も、聞いてくれるかな」
「勿論でございます、大旦那様」

二人の女を前にして、有墨が姿勢を正す。
老人は穏やかに微笑み、こう口にした。

「私は昔から、鬼に憧れているのです」



* * *



少年は、茅川町という江戸の町に生を受けた。
穏やかで温かい住民たちに恵まれた、小さいけれど活気に溢れた良い町だった。

「私の町では昔、鬼と呼ばれていた方がいました。実際には人間の男性で町に住まう方ではありませんでしたが、そのお顔の怖さと腕っ節の強さから、何時の頃からかそう呼ばれていました。いつも同じ女性の傍らを歩いていて、常にその方を守ろうとされていた様に思います。そんな誠実な様子が、外見の恐ろしさに反して町の人間の興味を良い意味で引いたのだと思います。そのお方は、すぐに町の有名人になりました。そんな折です。幼かった私が、酔った乱暴者に絡まれてしまいまして・・・そこを鮮やかな手捌きで救って下さったのが、そのお方だったのです。今でもそのお背中を鮮明に思い返せるほど、私にとっては革命的な出来事となりました」

鬼の兄ちゃん。陰ながらそう呼ばれていた彼に、救って貰えた奇跡の日。

見事な拳一撃で酔った大男を沈め、瞬く間に撃退してしまった強い人。隠れることなく喝采を上げる町民たちに眉を顰めながらも、連れの女性の隣に立つその表情はどこか穏やかで、彼はその瞬間をもって少年の憧れの存在となった。

女性にかすり傷を丁寧に処置して貰い、興奮しながらも礼の言葉を述べた。鬼のお兄ちゃん。正面からそう呼ばれたことで彼は何とも言えない顔でこちらを見下ろしたが、文句はひとつも言わなかった。帰り道は、落としてしまった豆腐や突き飛ばされた時の恐怖もすべて忘れ、軽やかな気持ちで飛び跳ねながら少年は家へと戻った。

「私には、年の離れた兄がおりました。寺子屋の跡取り息子でありながら日々学問と研究に勤しみ忙しくしていた兄で、荒事は滅法苦手でしたがとても優しく穏やかで、自慢の兄でした。兄がそのお方と連れの女性を家に連れてきた時の驚きと喜びは、未だに忘れられません。私にとっては英雄の様な方ですから、あちらの迷惑など考えずはしゃぎ回ってしまいました。言葉少なにも、私のような子供を邪険に扱わないその一面に、余計に憧れを強めたものです。度々そうしてお会いする度に優しくしていただける機会が増え、夢のように幸せな気持ちを抱えておりました」

兄が二人に礼をするため方々探し回っていたことは知っていたが、まさか家に二人を連れてくるとは思わず、少年は雷が落ちたような衝撃に襲われた。
大らかで荒事に弱い兄と、気難しい顔で腕っ節の強い憧れの人は、一見並び立つには不自然に思えたものだが、間に立つ女性が上手に二人を繋いでくれたような気がしていた。何にしても少年は喜びを爆発させて気持ちを表現したが、彼は困り顔をしつつも少年を拒絶しなかった。

そうした機会を何度か経る度に彼も少しずつ心を開いてくれるような素振りがあり、少年は叫びだしたいほどの歓喜に見舞われた。既に寺子屋に通う子供たちの多くが彼に憧れを抱いているほどの人気者だったが、そんな彼に救って貰えた事実はいつでも少年の心を強く照らし続けた。

「兄はお二人と、あの方の妹君を含めた四人の交流をとても大切にしていました。兄自身、お三方のことがとても好きだったのだと思います。同じ街に越してくると聞かされた時、私自身も嬉しさを感じたものですが、何より兄がとても嬉しそうに報告してくれたことを記憶しております」

寺子屋の講師の仕事と自身の研究の傍ら、寝る時間を惜しみ一冊の練習帳を作成していた兄の姿を、少年は知っていた。その人の妹は少年より少し年上で、酷く忙しい日々を送りながらも文字の読み書きを希望しており、こちらへ越して寺子屋に通う前より何かを始めようとしているとのことだった。

少年は、彼女と一冊の練習帳のやり取りを丁寧に交わす兄の姿が、妙に嬉しそうだったことを記憶していた。兄は三人のことがとても好きだったのだろう、そして自分も叶うならその輪に入りたい、早く大きくなりたいと、あの日の少年は強く願った。

「お三方が越してこられた暁には、未だお会いしていない妹君を紹介して下さると、あのお方はお約束して下さりました。この鬼の面は、当時その妹君が兄を通して私にと下さった土産物なのです。お会いしたことの無い妹君からの大切な贈り物です、長年大事にしております」

そっと胡坐の上へと抱えられ、優しく頭を撫でられて、憧れの人は約束をくれた。妹はとても綺麗なので心の準備をしておけと、そう告げてくれたその人の目がとても優しくて。その優しい瞳が自分へ向けられていることが、溜らなく嬉しかった。

そして後日、小さな少年へ贈られた大人用の大きな鬼の面は、たちまち宝物となった。まだ見ぬ彼の妹が自分のために選んでくれたと言う鬼の面は、少年の心をしっかり掴んで離さない。六十年経った、今も尚。劣化しては修理を繰り返し、肌身離さず持っている。

「ただ、そのお三方が我々の町へ越してこようという前夜に・・・不幸な事件が起こり、お住まいの区画の住民すべての消息が一夜で絶たれたのだそうです。幼い私は何が起きているのかを理解し切れませんでしたが、兄の憔悴具合は見たこともない程のものでした」

兄の絶望は、どれ程深いものだったか。
当時困惑するばかりだった少年は、今こうして年を重ねて重いを馳せる。
古い鬼の面は、静かに彼らを見守るばかりだった。



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